* * * * *


「美海」

 その日、私は一人で砂浜にいた。

 熱も完全に下がって、病院から退院した翌日のことだった。

「は、波琉!?」

 そこには黒のランドセルを背負った波琉がいた。

 驚く私に、波琉はにっと笑って近くにあった石の階段を飛ぶように降りてくる。

「な、なんでいるの? 学校は!?」
「サボってきた! たまにはこういうのも悪くないだろー」
「ダ、ダメに決まってるじゃん! 波琉は私と違うんだから、ちゃんと学校行かなきゃ……!」
「学校よりも美海のことの方が何百倍も大事だから」

 あわてふためく私に、彼は平然とした顔でさらりと言った。

 それに一瞬、胸がときめく。

 一定のリズムで波打つ海の音だけが、やけに大きく海岸に響いて聞こえた。
 
「あのさ、美海、この前はほんとごめん。なんか、俺、ムキになっちゃったみたいで」

 やがて先に口を開いたのは波琉だった。

「波琉……私の方こそ、その、ごめんなさい」

 一向に目を合わせられないでいる私に、波琉がううんと首を横に振る。

「俺が悪いんだ。無理やり美海に聞き出そうとして。いくら幼なじみって言ったって、話したくないことくらいはあるよな」

 ぐっとなにかをこらえるように波琉は顔をうつむける。

 固く握られた両手のこぶしが小刻みに震えていた。

「ち、違うの、波琉……! あれはただの、私の八つ当たりだから」
「八つ当たり?」
「あ、えっと、それはその、なんていうか……私、本当はずっと波琉のことが羨ましいって、ちょっとだけ思ってて」

 もごもごと言い淀む私に波琉は、

「なんだそんなことかぁ」

 そう吹っ切れたように笑った。

「一時は本当に、もう俺なんかとは話したくないのかなーって、ずっと不安だったんだ。夜も眠れないくらい」
「ご、ごめん……」

 すべてはあの時の私の言葉が原因だった。とたん、彼に対する申し訳ない気持ちが一斉に波となって押し寄せる。

「あ、あのさ、波琉!」

 だから、私は今度こそ波琉の目を見てちゃんと伝えた。

「ん?」
「い、いつもありがとう」

 言ってからちょっと照れくさくなった。

 顔が赤くなっているのを波琉にあんまり見られたくなくて、私は結局、また顔をうつむけてしまう。

「俺の方こそ、いつもありがとう、美海」

 ふわりと包みこむような声と共に、波琉に頭をなでられた。

「美海、俺と一つ約束しよう」
「約束?」
「うん。この先なにがあっても、ずっと二人一緒だって。たとえケンカしちゃっても、しわくちゃのおじいちゃんとおばあちゃんになってもさ」

 今思えば、あれは幼い彼から私へのプロポーズみたいなものだったのかもしれない。

「うん、いいよ、約束」

 私はそっと彼の前に自分の小指を差し出す。

「絶対、約束だぞ!」

 彼の小指が絡まる。その時、久々に触れた彼の手がやけに大きく感じたのを今でも覚えてる。


 そして、その次の日、心を入れかえた私は波琉と一緒に学校に行った。

「美海、おはよ! 今日は自分で起きられたんだってな、偉いじゃん!」
「も、もう小学五年生なんだから一人でも起きられるよ……」

 もちろん、最初の頃は不安だらけだった。

「大丈夫だよ、美海。何かあったら、俺が美海のこと絶対、守るから!」
 
 けれど、行きも帰りもいつも私を教室の前まで送り迎えしてくれる波琉のことを思ったら、自然と頑張れたんだ。


* * * * *


 聞き慣れた生活音に混じって、目覚ましの音が聞こえる。

 ベッドの上のデジタル時計の画面に表示された時刻を見ると、朝の九時だった。

 起き上がると同時に、ドタバタと階段の方から忙しない足音が近付いてくる。

「美海! 今、波琉くんの意識が戻ったって夏月から電話が!」

 バタンと部屋のドアが勢いよく開けられて、慌てた様子のお母さんが駆けこんでくる。

 波琉が、目を覚ました……?

 その瞬間、胸に重たくのしかかっていた鉛のようなものがすとんと落ちたような感じがした。

 まるで長い長い呪いから解き放たれたような、そんな気分。
  
 彼女の言っていたことは本当だったんだ。

 同時に未だかつてないほどの安堵に包まれ、私はもうちょっと既に泣きそうだった。


 それから夏月さんに一度、連絡を取った後、私は急いで病院に向かった。

「波琉!」

 大声で名前を叫んだ私に、波琉が振り返る。

 彼は病室のベットの上で窓の外の景色をじっと見つめていた。
 
「ん、おはよ、美海——って、おっと!」

 くしゃりと屈託のない笑みを浮かべた波琉に、私は思わず抱きつく。

「ハハハハ、どうしたどうしたー」
「どうしたじゃないよ! 一ヶ月もずっと……本当に心配したんだからっ!」

 私は波琉の胸に顔を押し付けるようにして泣きじゃくった。

「そっか……ごめん、美海」
「ううん、波琉は謝らないで」
 
 背中越しに波琉の手の体温を感じる。

 小さい時からずっと、いつも私を安心させてくれた温かい手。

 私達はきっと今までで一番、長い長いハグをした。

「あの時、守ってくれてありがとう」

 そっと指先で涙を拭い、波琉を見る。

 かすかに彼の目尻が濡れていた。

「美海は本当に泣き虫だなぁー」
「そういう波琉だって……!」

 奇跡とも言えるこの再会を、私達はお互いに泣いて喜び合った。