「なに、ここ……」

 そこにはまたしても異様な光景が広がっていた。

 真っ白な砂浜に咲く一面の花。

 現実じゃこんなのはまずありえない。

「まだ何も思い出さない?」

 気付けば、彼女は岩場のそばにしゃがみこみ、一輪の紫の花をなでている。

 その時だった。

 突然、殴られたような強烈な痛みが頭に走ったのと同時に、とてつもない量の記憶が一斉になだれこんできた。


* * * * *


 そうだ、こんな大事なことをどうして今まで忘れていたんだろう。

 私はかつて一度、ここに来たことがある。
 

「お嬢ちゃん」

 その人は、顎の下にちょこっと黒いヒゲを生やして年齢は三十代くらいに見えた。

 晴れ渡った日の海のような柔らかな瞳が、そこはかとなく優しそうな男の人。

 それが最初、私が勝手に抱いた第一印象だった。

「あ、あの……」
 
 とはいえ、突然、わけもわからない場所に来てしまったあげく、見ず知らずの大人相手に、当時は私はただ困惑するばかりで、怯えて声も出なかった。

「おっと、ソーリー、ソーリー、すまないねぇ。お嬢ちゃんを怖がらせるつもりはないんだ」

 すると、それを察した男性がくだけた口調で私に笑いかける。

 そのまま男性は私と目線を合わせるようにその場にかがんだ。

「大丈夫、安心して、おじさんがお嬢ちゃんをちゃんとお家に帰すから」
「……」

 思わず黙りこんでしまった私に、男性は神妙そうに首を傾げる。

「どうかしたのかい?」
「……帰りたく、ないです」

 絞り出したような私の言葉に、男性が目を丸くする。

「どうして?」
「帰ってもいいことなんかないし、友達にも酷いこと言っちゃったから……帰るのが、怖い」

 ぼそぼそと小さな声でぼやく私にも、男性は真剣に耳を傾けてくれた。

「そっか、それは確かに、なかなか顔を合わせづらいよね。――そうだ! それならせっかくだから、おじさんとちょっと寄り道していかないかい?」
「寄り道?」

 辺りは一面、同じような砂浜がずっと続いているように見える。

「ほんのすぐ近くだよ。どうかな?」

 少し悩んだものの、男性に言われるがまま私はついていくことにした。

 片時も絶対に男性から離れまいと必死だった。

「お嬢ちゃん、名前は?」
「えっと……美海です」
「どう書くの?」
「美しいって漢字に海で……」
「とってもいい名前じゃないか! 美海ちゃんのママとパパ、センスあるねー」
 
 私をリラックスさせようとしてくれているのか、二人で歩いている時も男性は気さくに話しかけてきてくれた。

 なんだか大人なのに子どもみたいな陽気な人だった。


「ここだ」

 男性が足を止める。

 見ると、その足元付近にはたくさんの花が咲いていた。

「綺麗……」
「でしょでしょ!? それからこれは桔梗(ききょう)といってね、おじさんの一番好きな花なんだ」

 岩場に咲く一輪の桔梗の前にひざまずき、男性がそっとそれに触れる。

「ねぇ、美海ちゃん」

 朗らかなまなざしを花に向けたまま、男性は私に優しく言い諭す。

「ここはすごく綺麗でいい場所だけど、美海ちゃんはまだ来るべきところじゃないんだ。それに美海ちゃんのことを心配して待ってくれている人達だって、きっとたくさんいる」
「でも……」

 波琉やお母さん、お父さんの顔が思い浮かんだ。

 それだけで胸がいっぱいになって言葉に詰まってしまった私の肩に、おじさんが立ち上がって手を置く。

「大丈夫。きっと美海ちゃんのママやパパは、お友達は、美海ちゃんのこと嫌いになんてなったりしないよ」

 ああ、そうだ、全部、思い出した。

 熱で階段から落ちたあの日、私は一度、ここへ迷いこんだ。

「だから、帰ろう。美海ちゃんのことを待ってくれてる、大切な人達がいる場所に」

 男性はそう言って、私の手を優しく引く。

 シャン、シャン、シャン!

 その時に聞いた鈴の音こそがきっと、あの巫女が奏でたものだったのだろう。

「じゃあね、美海ちゃん。最後まで、おじさんがここで見守ってるから安心して」

 そうして名前も知らない、見ず知らずの優しい男性に見送られながら、幼い私は鳥居をくぐった。


「――おばさん! 美海が目を覚ました!」

 次に意識が戻った時には、私は病院のベッドの上にいた。

「波琉……? って、わぁ!?」

 真っ先に波琉に飛びつかれて、私は自分の身に何が起こったのかわけもわからないまま抱きしめられる。

「は、波琉っ……う、動けない」 

 少し遅れて看護師さんもやってきて、恥ずかしくなった私は離してよと少し強めに波琉を引き剥がそうとした。

 けれど、男の子の波琉の方がよっぽど力が強くて、

「みんなして心配しすぎだよ……」

 私がやけになって言うと、

「そんなの、当たり前だろっ! 美海のバカ!」

 その時やっと波琉が泣いているのに、私は気が付いた。

「美海、波琉くんはね、あなたが意識を失っている間、ずっと美海のそばに付きそってくれたのよ」

 そんな私達のやりとりを見ていたお母さんが言う。

 でも、どうしてかその時、私はごめんねとありがとうが素直に波琉に言えなかった。


* * * * *


「やっと全部、思い出したみたいな顔してるね」

 胸の奥底で、激しい濁流のような感情が渦を巻く。

 とたんに目頭がじんと熱くなった。

「まさか、二回も来るなんて流石にわたしも思ってなかったけどね」
「……あなたは知ってるんですか? あの男の人のこと」
「さぁ? どうだろうね」

 すると、巫女はゆったりとした動作で私の前に歩み出ると、持っていた鈴を振りかざす。

 シャン! シャン! シャン!

 次の瞬間、強烈な光とともに青い鳥居が海の上に出現する。

「ほら、早く早く!」」
「ちょ、ちょっと……! わかりましたから、あんまり押さないでくださいってば!」

 いや、そんなに急に言われてもとは思いつつ、文字通り彼女に背中を押されるがまま私は鳥居の前に立つ。

 海に浸かって足元が思いっきり濡れたけれど、この際、もはやどうでもいい。

 そもそもここは現実の世界じゃないんだし。

「なんだかんだあなたと話す時間は楽しかった」

 鳥居を潜る前に私は一度、彼女の方を顧みた」

「それから自分の気持ちに嘘をついてはダメ。ちゃんと彼に伝えて。あなたの本当の気持ちを」

 最後、光の中に見た彼女の顔は穏やかに笑っていたように思う。