意外にもというのはいささか失礼に値するけれど、八城さんの部屋は至ってシンプルだった。

 整理整頓もそれなりに行き届いているように思う。

 強いていえば私なんかの部屋と違って、ぬいぐるみとか女の子物が少ないくらい。

 まぁこの方が八城さんのイメージには合っているなとは思う。


 ゴロゴロー、ドカーン!

 外ではまだ雷が激しい轟音を立てている。

 そういえば、今、何時だろうと壁にかけてあった時計を見ようとした時、ふっと八城さんの机の上の写真がなんとなく目についた。

 それには小学生くらいの女の子と、まだ四、五歳ほどに見える小さな女の子が仲良さそうに写っている。

 海で遊んでる写真だろうか。

 満面の笑顔を浮かべた二人はそろってピースをしている。

 あれ、もしかしてこれって、小さい時の八城さん? 

 じゃあ、そのとなりにいるのは前に陸先輩が言ってた――

 ちょうどその時、部屋の後ろでガチャリとドアが開いた。

 えっ、もう?

「は、早くない?」
「お前がのろいだけじゃね。てかなんで、んなところにぼうっと突っ立ってんの?」
 
 八城さんは訝しげに眉をひそめ、ドアノブに手をかけたまま立っている。

「あっ、えっとこれはその……」

 正直に言っていいものかわからなくて、私は口ごもった。

 すると、ますます怪訝そうにした八城さんの目が、机の上の写真を一瞥する。

「ああ、写真……」
「ご、ごめん! 勝手に盗み見するつもりはなかったんだけど、たまたま目に入ったから気になって」

 平謝りする私を無視して八城さんは机の前に立つと、置かれていた写真を手にとる。

「あ、あのさ、そこに映ってるのってその、八城さん、だよね?」
「そうだけど」
「じゃあ、となりにいるのは」
「ワタシの妹」

 ああ、やっぱり。

「なんだ、お前、優希奈(ゆきな)のこと知ってんの?」
「……実は前にちょっとだけ、陸先輩から聞いて」

 陸先輩の名前を出したとたん、八城さんの表情が一瞬にして不快そうに歪んだ。

「あのお節介メガネのヤツ、余計なこと言いやがって」

 八城さんは写真を持ったまま、後ろのベッドにどっかりと腰を下ろす。

 数秒の沈黙の後、彼女の口から衝撃の一言が飛び出した。
 

「”ワタシが殺したんだ”……忘れもしない中二の夏、そういや、ちょうど今くらいの時季だったな」
「え……」

 殺した?

「なに、言ってるの?」
「だから、そのまんまの意味だっつーの」

 彼女は深く息を吐くと、私から顔を隠すようにうなだれる。

 どこか投げやりな口調だった。

「一緒に海で遊ぼうって優希奈に誘われたんだけどよ」

 ぽつりぽつりと、まるで雨が地面に一滴ずつ落ちるみたいに彼女は話し出した。

「そん時、ワタシは外に行くのがめんどくさくて断っちまった。でも、優希奈が行こうよっておおかしつこいから、だんだんいらついて。ついかっとなって言っちまったんだ。そんなに行きたいなら一人で勝手に行けばいいだろ、こっちはガキのお守りなんてしたくねぇんだよって。そしたら、優希奈、泣きながら家飛び出しちまってさ。その三十分後くらいだったかな。急に天気が悪くなって、テレビつけたら台風警報が流れてた。なんか嫌な予感がしてよ。大慌てで優希奈を探しに行ったんだ」
「……それで、見つけられたの? 優希奈ちゃんは」

 おずおず聞いた私の問いに、八城さんは力なく首を横に振った。

「いいや……手遅れだった。、ワタシが着いた頃にはもう優希奈は、海岸で心停止したまま倒れてた。まだたったの十歳だったってのによ」

 私は言葉を失った。

 陸先輩から事故で亡くなったとは聞いていたけど、まさかそんな出来事があったなんて。

「お姉ちゃんなんて大嫌いだって、それがワタシが聞いた優希奈の、最後の言葉だった」

 胸をぎゅっとつかまれたような気がした。

 きっとそれが、写真を見つめていた時の彼女の苦しそうな表情の理由だったんだろう。

「優希奈はワタシと違って、気が弱っちくてさ。だから、小さい頃はワタシが守ってやらなきゃってずっと思ってた。でも、いつからだろうな。なんか優希奈ばっかりひいきにされてるように思えて、優希奈に冷たく当たるようになった。親も周りもみんな、ワタシのことなんかどうでもいいんだって」

 膝の上の八城さんのこぶしが小刻みに震えているのに気付く。

 すっかり覇気を失った今の彼女は、ものすごく弱々しく見えた。

「前に言っただろ、お前のことが気に食わなかったって。それはお前と優希奈が似てたからだよ。ちっちゃくて泣き虫で、ほんとそっくりだった。だから、きっと八つ当たりだったんだろうな。あの時、お前のことからかったのも。ワタシはただお前が羨ましかった。何もできないくせして、ワタシよりも大切にされてるお前が」

 八城さんは顔を伏せたまま、気まずそうに語った。

 知らなかった、なにも。

 八城さんが抱えていた埋めようのない寂しさも、あまりにも残酷な悲しみも。

 同時にまた突きつけられたような気がした。波琉に甘えてばっかりだった弱い自分を。

「何度も何度も思うんだ。ワタシなんかみたいな人間が、生きてていいわけないって」
「そんなこと、ないよ」

 否定した私に、八城さんが驚いたように顔を上げる。

「なんでだよ? だって、ワタシは」
「八城さんは悪くない。だってだって、人に愛されたいって気持ちは持ってちゃいけないものなんかじゃないから。だから、私は八城さんのこと許すよ」
「……バカじゃね、お前」

 困惑の色をあらわにする八城さんに構わず、私は彼女を抱きしめた。

 震えるその肩をそっと包みこむように。

「おまっ……何してんだ! 離せよ、暑苦しい」
「離さない。私ね、やっとわかったの。本当の八城さんはすごく優しい人なんだって」
「違う、ワタシはそんなんじゃっ……!」
「ずっと一人で抱えて苦しかったね、辛かったよね。話してくれてありがとう。でも、もうあなたは一人じゃないよ。少なくとも私は、陸先輩は、八城さんのこと大切に思ってる」

 八城さんが抱えてきたものの重さは、私じゃとうてい計り知れない。

 家庭環境にも恵まれて、お母さんやお父さん、波琉にも惜しみない愛情をもらって生きてきた私には。
 
 だけど、今はほんの少しだけでも彼女が背負っている苦しみを和らげてあげたい。

 そう思ったんだ。

「あのお節介メガネが、ね……」

 私の腕の中で八城さんが、ぽつりとつぶやく。気づけば、こわばっていた彼女の体の震えは収まっていた。

「それに私も、自分以外の誰かが羨ましいっていう気持ちはちょっとだけわかるよ」

 私はそっと抱きしめていた彼女の体を離す。

「学校にも行かないでずっと家に閉じこもってた時にね、一回、波琉に八つ当たりしちゃったことがあったの。多分、私のそれも八城さんと一緒で波琉に嫉妬してた」
「……お前でもあるのか、そんなふうに思うこと」
「全然、あるよ。それに今だって、私は波琉が羨ましい。運動神経いいところとか、そんなに勉強しなくてもテストでいい点取っちゃうところとか。なんなら私にも一つわけてほしいよ」

 私が並べた冗談に、八城さんはやや半笑い気味で突っこむ。

「運動神経いいお前も、勉強できるお前もあんまし想像できねぇけどな」
「ちょ、それは酷くない!?」
「アハハハ!」

 八城さんはベッドの上でお腹を抱えた。

 それは彼女が私に見せたごく自然な笑みだった。


「もしも今、優希奈に会えたらさ、愛してるって伝えたいんだ。それからこんなお姉ちゃんでごめんって」

 写真の角を指でなぞる八城さんの横顔には、愛おしさと悲しみの両方が一緒になって混ざっているように見えた。


「ずっと自分が許せなかった。いっそのこともう死んじまおうと、何度、思ったか。でも、なんでだろうなぁ……お前の話聞いてたら、まだ生きてたいって心のどっかで思っちまったんだよ」

 八城さんはまた深いため息をついた。

「だったら、生きよう。いや、どうか生きて、八城さん」

 そんな彼女の手を私は取る。

 今度はちゃんと真正面から彼女と向き合った。

 もう怖いとは思わない。

 だから、私は今、できる限り彼女に歩みよりたいんだ。

「きっと陸先輩だって、それを望んでるよ」

 まだかすかに迷いが見えていた八城さんの表情に、笑みが浮かんだ。

「そりゃまた、余計なお世話だなぁ……」

 けれど、言葉とは裏腹に彼女はまんざらでもなさそうだった。