「おい、ガキ」

 ちょうど正面の角を曲がろうとしたところだった。

 だ、誰かいるっ……?

 なんだか嫌な予感がした私は、とっさに近くにあった自動販売機の陰に身を隠す。

 そっと息を潜め、路地の方を覗きこんだ。

 すると、そこにはガラの悪そうな大柄な男と小学生くらいの小さな男の子がいた。

「な、なに?」
「お兄さんさぁ、今ちょっと困っててよぉ。金、貸してくんねぇ?」

 表情をこわばらせた男の子に、男が詰めよる。

「……イヤだよ」
「ああ? 今、なんつった?」
「だから、イヤだよ。それにそもそも持ってないし、最初から返すつもりもないんでしょ?」

 高圧的な態度で脅しつける男にも、男の子は怯まなかった。

「子どものくせに舐めた口、利きやがって。ちっとは痛い目見ねぇと、わからねぇみたいだなあ!」

 逆上した男が、男の子の胸ぐらをつかむ。

 ま、まずいっ……ど、ど、ど、どうしよう!

 その時ふと、足元に転がっていたジュースの空き缶が目に入った。
 
 これで、男の気をそらせないかな?

 そんな考えが一瞬、頭をよぎる。
 
 でも、私にできるの? いつも波琉に助けられてばっかりだった弱虫の私が。

 ——美海だって、きっとできるよ。

 その時、記憶の中の波琉の言葉が聞こえたような気がした。

 波琉……。

 そうだよね、私もずっと助けてもらってばっかりじゃダメだよね。
 
 私は覚悟を決めた。

 お願い、当たって!

 私は空き缶を拾い上げると、男に向かってめいいっぱいの力をこめて投げつけた。

「あ? なんだ、これ?」

 空き缶はほぼ一直線上に飛んでいって、見事、男の肩に命中する。

 男の反応からして、正直、あんまり威力はなかったと思う。けれど、おかげでほんの少し男に隙ができた。

「逃げてっ!!」

 ぐっと恐怖を飲みこみ、私は男の子に向かって叫ぶ。自分でもこんなに大きな声が出せたことに内心、驚いてる。

「なっ……おい、待ちやがれ!」

 男の子が一目散に走り出す。

 男は慌てて後を追いかけようとしたけれど、その時、向かいの角から突然、姿を現した髪の長いシルエットが男の行く手を阻んだ。

「だっせぇ大人」
「なんだと?」
「いや、だってダサいじゃん。たかが子ども相手にカツアゲしようとか。やってることくだらなさすぎ」

 いったい、いつからそこにいたんだろう。

 彼女、八城さんは憤る男を前に勇敢にも仁王立ちしていた。

「そんなに暇ならさぁ、ワタシが相手してあげよっか?」

 挑発するような笑みを浮かべた八城さんに、男が激しい剣幕で迫る。

「どいつもこいつも調子に乗りやがって! 言っとくけど、女だからって手加減はし——」
「ごちゃごちゃうっせぇな!」

 男が言い終わる前に、思いっきり振り上げられた八城の│脚《あし》が男の脇腹をとらえる。

 そして次の瞬間、八城さんの強烈なキックが炸裂した。

「ぐおっ!」
 
 短いうめき声を漏らしながら男が倒れる。

「う、うぅ……」

 よっぽど痛いのか、蹴られた部分を抑え、地面に這いつくばって背中を丸めていた。

 すごい痛そう……。

 正直、キックを食らった男の方が見ていて気の毒に思えてくるくらいだ。

「あんな大口叩いといてこんなもん? 全然、大したことないじゃん」
「くそっ……」

 八城さんはすっかり白けた様子でその場にしゃがみこむと、男の胸ぐらをつかんでぐっと引き寄せた。

「んで、どうするよ? そっちがまだやる気だってんなら、受けて立つけど?」

 ぶるぶると震え上がる男に対して、八城さんは余裕の笑みを浮かべている。

「すっ、すみませんでしたぁ!」

 男が立ち上がる。

 その巨体にそぐわぬ間抜けな声を上げながら男は去っていった。

「しょーもな」

 ため息混じりにつぶやいて、八城さんはさっき私が投げた空き缶を拾うとゴミ箱に入れる。

 意外と几帳面……。

「ていうか、お前もよくあんなデカブツにちょっかい出そうと思ったよなぁ。ビビリのくせに」
「ビ、ビビリ……」
「ったく、危なかっしくて見てらんねぇな。それに今は……お前を守ってくれる王子様もいないんだろ」
「王子様って、波琉が事故にあったこと知ってるの?」
「あのお節介メガネから聞いた」
「お節介メガネ……」

 多分、陸先輩のことなんだろう。

「人の名前覚えるの苦手なんだよ。それにいいだろ、伝われば」
「そ、そういう問題……」

 本人の前でもそう呼んでるのかな。

 だとしたら、普段の二人の会話がどんななのかちょっとだけ見てみたい気がしなくもない。

「って、ちょっと待ってよ! 八城さん」
「んだよ?」

 とっさに引き止めた私に、八城さんはあからさまに面倒くさそうな顔をした。

 でも、これだけはどうしても聞いておきたかった。

「あ、いや、その、なんで助けてくれたのかなって」
「ただの気まぐれ」
「えっ、それだけ? 本当に?」
「あーもう、しつこいな!」
「だって……八城さんは、嫌いなんじゃないの? 私のことが」
「別に。ワタシはお前のこと、嫌いだったわけじゃねぇよ。ただ」
「ただ?」
「……気に食わなかった」

 そこで一度、八城さんは口をつぐむと、どこか思い詰めたような顔を浮かべた。

「本当はさ、ずっと謝ろうって思ってたんだ、小学生の時のこと」
「えっ?」

 小学生の時と言われて、思い当たる記憶は一つしかない。

 テストを取られて、床に投げ捨てられた、たった一日で私の心をずたぼろにした出来事。

「別に許してほしいとかそういうんじゃねぇけどさ、あの時は悪かったよ」

 面食らった。まさかこのタイミングで、彼女に謝れるとは思いもしなかったから。

「なんて、今さらって感じだよな」

 吐き捨てるようにつぶやいた八城さんのセリフには、自嘲が混じっていた。

 私が呆然としている内に、彼女はそそくさと角の向こうへ行ってしまった。

 なんだか様子が変だったな、さっきの八城さん……。