「あれ、お前」

 放課後、休んでいた日の分のプリントを受け取りに職員室によったりしていたら、少し帰りが遅れた。

 すっかり人気(ひとけ)のなくなった廊下と、閉め切られた教室。

 だから、その声が私のことを言っているのだということはすぐにわかった。

「や、八城(やしろ)さん……」

 反射的に振り向くと、そこには見覚えのある女子生徒が立っていた。

 肩の下くらいまである金髪に、腰に巻いた茶色のカーディガン。

 彼女の冷ややかで鋭い目つきが、私はずっと怖かった。


* * * * *


 小学五年生の時、私は一度、”不登校”になったことがある。

 彼女――八城さんが原因で。

「それ、ちょっと貸してよ」
 
 先生の見ていない休み時間。

 突然、八城さんが私の席にやってきたと思ったら、前の時間に返ってきた算数のテストを乱暴にひったくっていった。
 
「か、返して!」

 私は必死で取り返そうとしたけれど、できなかった。

 チビの私じゃ、当時、私よりもずっと背の高かった八城さんの手にはとうてい届かなくて。

 そんな私を見て、彼女はバカにしたように笑った。

「てか、こんな簡単な問題でたったの二十点? バカじゃん、お前」

 散々、私をからかった後、八城さんはそれですっかり興味が失せたのか、私の答案用紙を床に投げ捨てた。

「あっ……」

 そのせいで、近くにいた男子数人にも点数が見えて、

「なんだこれ? オレより低いじゃん」

「頭悪ー」

「逆にどうやったら、こんな点数取れるんだよ、ぎゃははは!」

 それが最後のトドメだった。

 悔しくて悔しくて、目が涙でいっぱいになった。

 ランドセルも、教科書も、全部、置いたまま私は逃げるように教室を飛び出した。

 そして次の日。

 私は学校に行かなかった。いや、行けなかった。

 八城さんのことが怖くて。ただ自分が情けなくて。


* * * * *


「なんだ、遠くに引っ越したんじゃなかったのかよ?」

 八城さんと話すのは小学生の時以来になる。

「……帰ってきたの、少し前に」

 今でもこの人を前にすると、足が震える。

 激しい動悸がして、喉がきゅっときつく締め付けられるような感じがした。

「ふーん、あっそ」

 びくりと肩を震わせた私の横を、八城さんが真顔で素通りしていく。

 よ、よかった。変に絡まれなくて。

 ほっと安心したのも束の間、急に彼女の足音が止まった。

「ビクビクしやがって。ワタシのこと、そんなに怖いかよ」
 
 こっちを振り返ることはせず、平坦な声で八城さんは吐き捨てるようにそう言った。

「そ、それは……」
 
 冷や汗が首筋を伝う。

 彼女の怒りを買わぬよう私は慎重になった。

「そこにいるのは八城か?」

 その時だった。思いもよらない方向から私にとって救世主が現れたのは。

「り、陸先輩!?」

 一瞬、その人物と目が合って驚く。

 図書室によった後なのか、陸先輩は何冊かそれも分厚そうな本を小脇に抱えて立っていた。

「ちっ……」

 陸先輩の姿を見たとたん、八城さんは舌打ちするとバツが悪そうにそっぽを向く。

「八城、お前まさか美海ちゃんに何かしたのか?」

 陸先輩が八城さんに問いただす。

 普段の穏やかな雰囲気の陸先輩とは違って、厳しい口調だった。

「なにもしてねぇよ。ていうか、いつもいつも突っかかってきていい加減、うっとうしいんだけど?」

 会話からして、どうやら二人はお互い面識があるらしい。

 それになんだか陸先輩が来てから、八城さんの態度が余計高圧的になったような気がする。

「うっとうしいもなにも、僕はお前のために言っているんだよ、八城」
「はっ、なにそれ笑える」

 ほんの刹那、心なしか八城さんの表情がかすかに曇ったように見えた。

「あーあ、なんか白けちまった。いいよ、いいよ、そんなに邪魔ならワタシはさっさと消えるからさ」
「だから、どうしていつもそう卑屈になるんだ……って、おい、待て、八城!」

 下がりかけていた肩掛けタイプのかばんを抱え直すと、八城さんは行ってしまう。

 陸先輩の止める声も、完全に耳に入っていないみたいだった。

「参ったなぁ」
 
 陸先輩は肩を落として、すっかり疲れきったようなため息をつく。

「あ、あの、陸先輩?」
「ああ、美海ちゃん。なんていうか、さっきは八城がごめんね」
「いえ、それは大丈夫です。陸先輩が助けてくれたので」
  
 困ったような微笑を浮かべる陸先輩に、私はお礼を伝える。

 あのまま陸先輩が来てくれなかったら今頃、どうなっていたことやら。

「そんなそんな、助けたってほどじゃ。僕はたまたま通りかかっただけだから」

 そう言って陸先輩はスマートに微笑む。

 その笑顔が、なんだかちょっとだけまぶしかった。