円の外のきぃ子ちゃんが叫んだ! お、見つかったか?
「トイレの花子さん、みーっけ!」
そう叫びながら、三メートル後ろの缶を瞬時に踏んだ。
「もぉー、きぃこちゃんつよすぎぃー」
花子さんは、相変わらず間延びした口調で、アスレチックの下から這い出てきた。
これで三人が捕まってしまった。
さすがの口裂け女さんも警戒しているのか、膠着状態、動けなくなってしまった。
その間にも、どんどんお化けたちは捕まっていく。
きぃ子ちゃんのオニは、他の誰よりも上手で、誰よりも最強なのだ。
試合開始から十五分が経ったころ。もう残るのは僕と、お化けでは口裂け女さんだけだ。
「ふふふ、もうわたしの勝ちはほぼ確定だよー? 早く出てくるんだねー!」
きぃ子ちゃんが早くも勝利の宣言をあげる。
とっても楽しそうだ。
いつになく楽しそうで、いつになく幸せそうだ。
だからさっきからずっと、不安だった。
どうして今日は、そんな風に笑うんだろう。
しかし、そんなきぃ子ちゃんを我らが口裂け女さんは見逃さなかった。
十メートル背後から、きぃ子ちゃんから二メートル離れて置かれた缶目指して、猛烈なスピードで駆け出した。
……速いなあ。あの脚力から僕は逃げていたのかと思うとぞっとする。
「はっはっはー! 缶、けったー!」
「!」
きぃ子ちゃんが気づいたとき、缶までの距離は二人とも互角だった。
こうなると脚力で勝る口裂け女さんの方が優勢だ。
勝負あった!
誰もがそう思った、まさにその瞬間だった。
二メートルの距離を「瞬間移動して」、きぃ子ちゃんが缶に足を乗せた。
「はい、口裂け女さん、みーっけ!」
ずざー。口裂け女さんは力なくずっこけて、公園の砂利の地面に突っ伏した。
「……」
「ふふ、惜しかったねえ、口裂け女さん?」
にんまり。
きぃ子ちゃんはいやーな顔で笑う。
「……もー、なんなのよう、いまのー」
赤いワンピースと、腰までのロングヘアに付いた砂を払いながら、口裂け女さんが不機嫌そうに立ち上がる。
……うん。僕もそう思う。
まるで「お化けみたいに」移動したから。
お化けじゃない僕から見たって、あんなの反則だ。
◇
残るは僕ひとり。さっきのを見る限り、足の速さではどう頑張っても勝てそうにないのは明白だ。
ならば。
極力気配を消しながら茂みから茂みを伝って渡り歩く。
布ずれの音と落ち葉をふむ音はするものの、どうやら、耳の良さは普通の女の子並みらしい。
そおっと、茂みから円の中をのぞく。
あ、お鈴ちゃんと目が合った。
こくこく。黙って首を縦に振ってサインをくれる。
ちょうどきぃ子ちゃんは後ろを向いている。
でも、見つかるわけにはいけない。
あの瞬間移動には絶対に勝てる自信はない。
そろり、そろり。
茂みの端まで来た。
問題はここからだ。
缶までは十五メートル。
僕より足が速いのに捕まった、口裂け女さんより条件が悪い。
はあ……ここまでか。
これはもう、降参するしかないか……そう思ったその時。
「ん?」
こつん。
何かが足に当たった。
──そうか、これがあれば!
僕は、「少し早いけど」それを手に取った。そして夕焼けの公園を全力で走り出した。
「!」
ばれたっ! 今しかない!
「きぃ子ちゃん!」
「あっ! だめ──」
くらえ! ひっさつ、閃光攻撃!
ぱしゃり。インスタントカメラのフラッシュできぃ子ちゃんの目がくらむ。今だっ!
「缶けったー!」
◇
不規則な音を立てながら転がっていった真っ赤なコーラの缶は、勢い余って公園の入り口を超えて、外の道路へ飛び出した。
ちょうどそこを見覚えのある人が歩いていて、その足に当たって、音を立てて止まった。
「おお、あおか。もう六時半だぞ。……ところで」
お父さんは赤いコーラの缶を拾って、そうしてこう続けた。
「ひとりで缶なんてけって、なにしてる」
「え……?」
僕は、視線を落とした。
口裂け女さんにトイレの花子さん。
お化けたちの写真に交じって。
──きぃ子ちゃんが寂しそうに写る写真が、足元に落ちていた。
『ごめん。ごめんよ、きみ。ごめん──』
涙を浮かべて、写真の中のその子は謝った。
何度も、何度も。
裏切られたと泣く前に。
裏切られたと怒る前に。
裏切られたと傷つく前に。
出来ることって、なんだろう。
どんなことが、できるだろう。
君ならなにが、できるだろう。
◇
二年と九十日目。僕の誕生日。令和六年八月十七日。土曜日。
お昼の十一時半。
エアコンをがんがんかけた部屋は涼しいを通りこして寒い。
お気に入りのカーテンは閉め切っているけれど、東の角部屋にある僕の部屋は、電気を消していても薄明りくらいの明るさ。
それが今の自分の心を映しているかのようで、余計に嫌なんだ。
「あおー、もうお昼よ、いいかげん起きなさい」
部屋の外で、夕べから何も食べない息子を心配するお母さんが呼んでいる。
けれど、僕は布団に包まっている。
起きる気は、ない。
「どうしたのよ、昨日からあんなにしょげちゃって。今日はお誕生日でしょう。ほら、とうもろこし茹でたわよ、一緒にたべましょう」
「ほっといて」
「……あのねえ、ほっとける訳ないでしょ」
「ほっといて!」
お母さんはびっくりする。
まくらを投げたから。
ふすまに当たって、大きな音をたてたから。
はあ。
お母さんはため息を吐くと、階段を下りて行った。
◇
月森あお 様。
明日は誕生日だね。
親愛なるきみへ、プレゼントをあげたいと思います。
……。
「……ふっ。うぐっ。うううう……」
僕は布団に包まったまま、昨日の手紙を読む。
涙が、涙が目の奥から奥から溢れて止まらない。
涙をぼろぼろ零しながら、可愛い黄色の便せんを両手で握った。
「それ」はなんとも軽い音を立てて、なんなくつぶれた。
「ううう、ひっく……ああああ……ひっく」
全部、夢だったらよかったのに。
あの日病院で出会ってから、昨日まで。
全部が夢だったら、どんなに、どんなに。
『きみ』
枕元のゴミ箱から、声がする。
僕は、その声を知っている。
大好きな、大好きなお姉さんの声だ。
昨日まで、毎日一緒に遊んだ女の子の声だ。
もういらないから、「他の」といっしょに全部ゴミ箱に捨てたんだ。
『きみ、ねえ、きみ。お話、しよう』
「いやだ」
一緒に居てあげる。
そう言った。
だから一緒に居てくれると信じていた。
ずっとそばにいてあげる。
そう言った。
だから僕のそばにいてくれると信じていた。
信じていいよ。
そう言った。
だからこの人なら決して僕を裏切らない。
そう、信じていた。
でも、違った。
──大好きだったお姉さんはお化けだった。ヒトじゃなかった。
一緒に遊ぼう、と言った。
でも今は、写真の中に入って出てこられない。
これでもう寂しくないでしょ、と言った。
でも今は、寂しくて寂しくて心臓がよじ切れそうだ。
だからもう泣かないで、と言った。
でも今は、世界でたったひとりになってしまったかのようで、涙が止まらない。
全部嘘だった。
きぃ子ちゃんと過ごした日々が。
遊んだ思い出が。
抱いた恋心が。
全部。
全部裏切られた。
『そのままでいいから、聞いて』
「聞きたくなんかない」
『いいよ、それでも。今から言うことは、わたしの独り言。だからあお君は、そうしてて。……ね?』
ゴミ箱から聞こえる声は、とても穏やかだ。
まるで初めから、こんな日が来るのを知っていたかのよう。
そしてそのまま、柔らかい、包み込むような優しい声で、話を始めた。
◇
『二年と九十三日前。令和四年の五月十七日、火曜日。きみは三年生だった。忘れもしない。風がとても強い日だった。きみは……わたしの弟と、わたしのお父さんと海に釣りに行ったんだ』
「……? 釣り? 釣りなんてしたことない」
お父さんは釣り好きだ。
でも僕には危ないと言って、一度たりとも一緒に釣り場には連れて行ってもらっていない。
はは。きぃ子ちゃんは寂しそうに笑った。
『覚えてないよね。きみにとって、あるいはきみの家族にとっては、とても都合の悪い記憶だから。きみたち家族の魂が、記憶を手放したんだ』
「何を、言っているの」
僕は布団から顔を出した。ゴミ箱の中に捨てた心優しいお姉さんは、静かな声で続けた。
『それで、ふたりして波にさらわれて、海に落ちておぼれたんだ。ライフジャケットも着てなくてね。四十五分後に君が、一時間後に弟が助けられた』
「きぃ子ちゃん、弟がいたの?」
『……うん。たいようっていうの。覚えてないかな』
たいよう? たいよう……。だめだ、聞いたことがない。とても思い出せない。
『それであさぎと、勝負をしたんだ』
「あさぎ……」
まただ、またその名前が出た。誰なんだ、あさぎって。
「ねえ、きぃ子ちゃん、あさぎって、だれ?」
『ふふ。やっと名前を呼んでくれたね』
「いいから。あさぎって、だれ」
僕の中で胸の鼓動が大きくなる。
いつの間にか、部屋の音が静かになっている。
『きみの。──お姉さんだ』
「──は?」
あまりに突飛なことを言うきぃ子ちゃんに、僕は言葉も出ない。
なんでって?
だって僕は一人っ子で、家族は僕の他はお父さんとお母さんしかいないのだから。
そうに決まっているんだ。
僕が生まれた時から。
『連想ゲームをしよう、あお君』
僕は枕元のゴミ箱からきぃ子ちゃんと、他のみんなの写真を取り出した。
『九十日前が、事故からちょうど二年後だった。その五日後にきみはわたしと出会った。その時のことを覚えてる?』
「うん。確か……かくれんぼしたんだよね」
『せーかい! そーだねー、つきもりくん!』
みんなの中でいちばん小さなトイレの花子さんが僕を見てとっておきの笑顔で笑う。
『その時、きみは泣いていたんだ。どうしてだか、覚えているかな?』
そうだ、泣いていた。
なんで泣いていたんだ?
なんで……。
『どこにいたか、ボクは覚えてる?』
みんなの中でいちばんお姉さんの口裂け女の瞳さんが、可愛い声で聞いてきた。
「なんで口裂け女さんが知ってる風に言うの?」
『ボクが寝てる隙にね。いろいろ聞いたんだから、あたしたちってば』
そうなのか。
知らないのは僕だけなんだ。
けどやっぱり。
「……どこだろう。全然思いだせないや」
『れんそうゲームだよ、あおくん』
みんなの中でいちばん頭の切れる座敷童くんが、助け舟を出してくれた。
『トイレのはなこさんは、どこにいたおばけだった?』
「そうだ……下町総合病院だ」
『そう、正解』
大好きなきぃ子ちゃんが教えてくれた。そして続ける。
『どうして病院にいたか、わかるかい?』
「どうしてって……」
相変わらず思い出すこともままならない僕は、またしても壁にぶち当たった。
『隣のお部屋に行けばわかるんじゃないかしら』
一つ目小僧のお鈴ちゃんが、控えめな声で恥ずかしそうに言った。
「隣の部屋?」
お鈴ちゃんは何を言っているんだろう。
僕の隣の部屋は、生まれた時から倉庫代わりの物置で……。
『実際に見てみるといいよ』
きぃ子ちゃんが優しい、とてもやさしい声で促す。
僕はきぃ子ちゃんの写真を手に取ると、今日初めて布団から立ち上がって、ふすままで歩いた。
そしてそれを、ゆっくりと開けた。
思ったよりそれは軽くて、思ったよりそれは簡単だった。
◇
隣の物置までは四歩でつく。重たい色をした木の引き戸は、見たまま重たくて、固くて。
「んー!」
どんなに力いっぱい引いても、びくともしない。
「だめだ、開かないよ。この扉はずっと前から建付けが悪くて、大人でもなかなか開かなくて」
『本当に開かない? 本当に重たい扉かな?』
「? 何を言って──」
僕がポケットに仕舞ったきぃ子ちゃんの写真からもう一度扉を見ると。
あさぎの部屋。
「え?」
さっきまで重たい木の扉だったそれは、僕の部屋と同じ柄のただのふすまで、可愛い文字が書かれたネームプレートまでかけてある。
「なんで? え? これって……」
「開けてごらん」
きぃ子ちゃんは静かに言った。
信じられない。
ここは生まれてから今日まで十一年間ずっと物置だった。
それが見知らぬ誰かの部屋で、しかもその誰かは自分のお姉ちゃんだという。
そして今、目の前にはそのお姉ちゃんの部屋がある。
僕は、恐る恐るふすまを開けた。
おかしい。
ここは物置のはずだ。
ほこりっぽくてかび臭くて。
でも、違った。
目の前にはきれいに片づけがされた部屋がある。
オーソドックスな見た目の学習机に、白くてかわいいタンス。
カーペットはピンクで、おしゃれな姿見が立っている。
ベッドは整えられていて、しわひとつない。
『おめでとう、きみ。連想ゲームはきみの勝ちだ』
机にはさっきまで誰かがここで勉強していたみたいに開かれた参考書。
……と、女の子二人が写っている写真立てがある。
茶髪のポニーテールのお姉さんと……長い腰までの黒髪のお姉さんが写っている。
『初めまして、あお君。わたしの名前は安西きり子。そして』
インスタント写真のきぃ子ちゃんが告げた。
『隣に写っているのが、わたしの最高の親友で、きみのお姉さん。月森あさぎだよ』
そういうと、きぃ子ちゃんは、話を始めた。
僕の知らない、お姉ちゃんの話を。
◇
裏切られたと泣く前に。
裏切られたと怒る前に。
裏切られたと傷つく前に。
出来ることって、なんだろう。
どんなことが、できるだろう。
どうしてそうなったのか。
どんな事情があってそうしたのか。
その時にどんな思いをしていたのか。
裏切った、その相手のお話を、聞いてあげることはできるかな。
そしたら気づくことが出来るかもしれない。
自分が本当は、どれほど愛されていたのかを、ね。