出逢い

今日は初出勤。今田雅治22歳は慣れないネクタイを立ち食いそば屋で揃えて会社の玄関のドアを開けた。目の前に立っていたのは屋代美保19歳。限りなく透明に近い瞳を持つ彼女は、静かにこちらを見つめていた。初対面であるはずなのに、どこかで会ったことがあるような感覚が雅治を包み込んだ。彼女の瞳は、不思議なほど純粋で、吸い込まれそうな透明感を持っていた。
「おはようございます。屋代美保です。今日からお世話になります。」
彼女の声は柔らかく、雅治の緊張を少し和らげた。新しい環境での初日、何もかもが未知の世界だったが、彼女の存在が一瞬、彼の心を軽くした。
「今田雅治です。よろしくお願いします。」
短い自己紹介の後、二人は一緒にエレベーターに乗り込んだ。密閉された空間に漂う微かな緊張感。エレベーターが静かに動き出し、彼らを上層階へと運んでいく中、雅治は彼女に尋ねた。
「初めての仕事、緊張してる?」
美保は少し考えた後、うっすらと微笑んだ。
「少し。でも、楽しみの方が強いかもしれません。今田さんはどうですか?」
その瞬間、雅治は彼女の瞳にもう一度引き込まれた。透き通るような瞳の中に映し出された自分の姿が、不思議と小さく見えた。
「僕も、同じかな。期待と不安が半分ずつ。」
そんな会話の中で、雅治はふと感じた。この透明な瞳を持つ彼女は、ただの同僚ではなく、これから自分の人生に何か大きな影響を与える存在になるかもしれない、と。お昼休みは朝会った縁で同じテーブルに座りランチを頼んだ。雅治は思い切って、週末の誘いをかけた。「映画でも見に行きましょう」
雅治は思い切って口にしたが、言い終わった瞬間、少し緊張が走った。まだほとんど話したことのない彼女にいきなり誘ってしまったことが、唐突すぎたのではないかと不安がよぎる。屋代美保は、少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑んで答えた。
「いいですね、行きましょう。どんな映画を観たいですか?」
予想外にすぐ肯定の返事が返ってきて、雅治は一瞬戸惑った。あまり具体的なことは考えていなかったが、彼女が乗り気な様子であることに安堵しつつも、頭を巡らせた。
「そうですね、何か最近話題の映画とか、アクションとかもいいかなと思ってるんですけど、美保さんはどんなジャンルが好きですか?」
美保は少し考えるように目を細めながら、ゆっくりと答えた。
「私は…そうですね、ミステリーとか心理的なものが好きです。先が読めない展開や、人の内面が描かれている作品が面白いと思うんです。」
その言葉に、雅治は彼女がどんな人なのか、ますます興味を引かれた。ミステリーや心理劇を好む彼女は、表面的には穏やかで静かな印象を与えるが、内には深い思考や感情が潜んでいるように感じられる。
「それなら、ミステリー系の映画を選びましょうか。僕もそんな作品には興味があります。」
そうして二人は週末の予定を軽く決め、ランチを続けた。雅治は、初出勤の日にこんな風に誰かと親しくなるとは思ってもいなかった。特に、屋代美保という謎めいた透明な瞳の持ち主と一緒に映画を観に行くことになるなんて、まったく予想外だった。午後の仕事に戻る時間が近づき、ランチを終えた二人は食器を片付け、静かにオフィスへと戻った。だが雅治の心は、彼女との週末が少し楽しみになっていた。雅治はアイドルオタクである。本当はAKB48のライブが脳裏をよぎっていた。週末はもともとライブに行くつもりで、チケットも既に手に入れていた。だが、美保を映画に誘ってしまった今、その計画をどうするか悩んでいた。
「映画は楽しみだけど、推しのライブも…」と心の中でつぶやき、雅治は少しだけ後悔していた。ライブでのコールや推しメンバーとの一体感は、彼の人生の大きな楽しみのひとつだ。それを他の日に回すことができるのか、葛藤が続く。しかし、そんな思いを顔には出さず、仕事に集中しようとする。美保との週末の予定が頭にあるため、ふとした瞬間に彼女の透明な瞳を思い出してしまう。美保と映画を観るのは、ライブとは違う楽しさがあるかもしれない。だが、やはり推しの存在が強く雅治を引き留めていた。
「どうしようかな…」雅治は心の中で自問する。
午後の仕事が一段落ついた頃、雅治はふとスマホを取り出し、AKB48のライブ情報を確認した。どうにかして、映画とライブの両方を楽しむ方法はないか、と考え始めた。時間の調整が可能なら、映画を観た後にライブに駆けつけることも不可能ではないかもしれない。
「まあ、なんとかなるだろう…」自分にそう言い聞かせ、雅治は再びパソコンの画面に目を戻した。次の日、雅治は悩んだ末に美保に正直に打ち明けることにした。ランチの時間、二人は昨日と同じテーブルに座ったが、雅治の心は少しざわついていた。彼女がどう思うか分からないが、嘘をつくのは嫌だった。
「美保さん、実は…週末の話なんだけど…」
彼は少し言葉を選びながら話し始めた。
「僕、実はアイドルオタクなんだ。AKB48のライブがあって、前からチケットを取っててさ。映画の約束をしたけど、ライブも行きたいなって思ってて…」
言い終わった瞬間、雅治は美保の反応を慎重に見つめた。彼女がどう思うか、少し不安だった。美保は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに冷静さを取り戻し、雅治の話に耳を傾けた。彼女の脳裏には「アイドルオタク」という言葉が鮮明に浮かんでいた。彼女の中で、アイドル文化やそれに熱中する人たちに対しての特別な偏見があるわけではなかったが、自分とは少し異なる世界だと感じていた。美保は物理学部出身で、上智大学で高度な研究をしてきた。彼女の人生は数字や理論、実験に満ちていて、感覚的に雅治のような趣味を持つ人たちとは交わることが少なかった。だが、そのギャップを面白く感じる部分もあった。
「へえ、アイドルオタクなんですね。実は、そういう世界のことあまり知らなくて…でも、好きなことに夢中になれるって、すごく素敵だと思います。」
美保は柔らかい微笑みを浮かべてそう言った。彼女は雅治を否定するつもりは全くなかった。むしろ、自分の知らない分野に詳しい彼に対して、興味を抱いていた。
「それなら、ライブを楽しんできてください。映画は別の日でもいいですし。」
雅治は彼女の予想外に理解のある反応に驚き、そしてホッとした。自分の趣味を受け入れてくれたことが、彼にとって大きな救いだった。
「ありがとう、美保さん。別の日に映画行こうね。なんか、話して良かった。」
美保は軽く頷きながら、雅治の趣味に対する好奇心がさらに湧いてきた。物理学の世界とは違うけれど、人が何かに情熱を注ぐ姿は美しいと感じていた。こうして、二人の間にはまた一歩、理解と親近感が深まった瞬間が訪れた。三島紀香、19歳。美保と同じくアルバイトで働いている彼女は、少し生意気なところがあった。休憩室で顔を合わせたとき、美保が雅治とのことを何気なく話すと、紀香はすぐに眉をひそめて忠告してきた。
「アイドルオタクはやめとき。それって、どうせ推しに夢中なだけでしょ?そんな男と付き合ったら、あなたも二の次にされるわよ。それより、あの今田さんって、どこの大学出身なの?仕事はできるの?」
紀香の言葉は、鋭い矢のように突き刺さる。美保は一瞬、言葉に詰まったが、すぐに冷静さを取り戻した。
「今田さんは、普通に仕事をこなしてるし、そんなに悪い人じゃないと思うけど…。」
しかし、紀香は鼻を鳴らして続けた。
「仕事ができるかどうかが一番大事よ。学歴も。東亜電設でバイトしてるなら、将来のこともよく考えなきゃ。ここはそんな甘い世界じゃないわよ、美保ちゃん。」
東亜電設は、規模の大きい会社で、社員やアルバイトも多種多様だった。美保は大学1年生で、将来のことをまだ明確に考えているわけではなかった。ただ、このアルバイトは社会経験の一つとして、成長の場と捉えていた。
美保は少し戸惑いながらも、紀香の言葉を無視しようとした。だが、紀香の冷ややかな視線が、気にかかる。
「私は上智大学の物理学部に通ってる。今はバイトだけど、将来のために勉強もちゃんとしてるつもりよ。」
美保は自分の学歴をさらりと話したが、紀香の反応は冷たかった。
「へえ、上智ね。それなら、もっとまともな人を選びなさいよ。アイドルオタクに時間を割くなんて、無駄よ。あなたは賢いんだから、もっと先を見て行動しなきゃ。」
その言葉に、美保は少し胸が詰まる思いをした。紀香が言うことも、一理あるかもしれないと感じたが、同時に彼女の考え方が狭いようにも思えた。
「でも、私、今田さんと話してると楽しいし、それだけで十分なんじゃないかな…」
美保の言葉は静かだったが、内に秘めた信念が感じられた。紀香は少し呆れた表情を見せたが、それ以上何も言わずに立ち上がり、休憩室を出て行った。美保はひとり残され、自分の心の中で対話を続けた。紀香の忠告は耳に残っていたが、雅治の人柄を思い出すと、彼女はそう簡単に切り捨てる気にはなれなかった。アイドルオタクという側面はあるが、それだけで人を判断することは間違っているように思えたのだ。
「自分の目でちゃんと見極めるしかないよね。」
美保はそう自分に言い聞かせ、週末に控えた雅治との再会を心の中で楽しみにする気持ちを大切にしようと決めた。雅治はお昼からAKB48のライブを満喫し、推しメンバーのパフォーマンスに大興奮だった。会場を後にして外に出ると、空はすっかり薄暗くなり、少し冷たい風が吹いていた。彼はその足で美保との待ち合わせ場所へと向かった。夜の部の映画は、ディズニー映画だった。物語が進むにつれて、雅治は美保の横顔に時折目を向けた。彼女は集中して映画を観ていて、まるで子供の頃に戻ったかのような無垢な表情を浮かべていた。そんな彼女の姿に、雅治は改めて彼女の魅力を感じていた。映画が終わり、劇場を出ると、外はすっかり夜だった。街のライトが柔らかく二人を照らす中、美保がふと雅治に尋ねた。
「ところで、雅治さんって、どこの大学出身なんですか?」
これまであまり深く話していなかったこともあり、美保は彼のバックグラウンドについて興味を持っていた。彼がライブに夢中になっていたことから、正直、あまり学歴にはこだわりがないのではと思っていたのだ。雅治は少し照れくさそうに、肩をすくめて答えた。
「九工大です。九州工業大学。」
その返答に、美保は意外な驚きを感じた。九州工業大学は、理系の名門大学として知られている。特に工学系では全国的に評価が高く、理系分野において実力を発揮する学生が集まる大学だ。
「えっ、九工大なんですか?すごいですね…工学系の大学って、理系のエリートじゃないですか。」
美保は純粋に感心した。彼女自身も物理学を専攻しているので、理系の大学がどれほどの努力を要するか理解していた。そんな大学出身の雅治が、アイドルオタクである一面を持ちながらも、しっかりとした学歴を持っていることに驚き、彼に対する見方が少し変わった。
「いやいや、そんなエリートなんて言えるほどじゃないよ。僕はただ、好きなことを学びたかっただけで。まあ、今の仕事に活かせてるかは微妙だけどね。」
雅治は照れ隠しのように笑った。彼の素朴で飾らない態度が、美保にとっては好感が持てた。彼がアイドルオタクであることも、ただの趣味であって、彼の人柄や学歴と関係ないことがよく分かった。
「でも、なんか意外で、ちょっと尊敬しちゃいました。雅治さんって、色々な面を持ってるんですね。」
美保は微笑みながらそう言った。彼女の透明な瞳が夜の街灯に照らされ、まるで星のように輝いていた。その瞳に見つめられて、雅治は少し照れくさくなりながらも、心の中でふとした安心感を覚えた。
二人はその後、街をゆっくり歩きながら、仕事のことやお互いの学生時代の話を続けた。美保の物理学の専門的な話も出てきて、雅治はその知識の豊富さに驚きつつも、話を聞くのが楽しかった。彼女との時間は、ライブの余韻とはまた違う心地よさがあった。