土曜日は朝から雲一つない快晴だった。
夏は身支度を済ませると、矢上から指定された
時間に間に合うように家を出て行った。

 午後一時、約束の時間に、
 夏は、矢上と初めて会った美術館の展示された
絵画の前にやって来た。

 そこには、絵画をじっと見つめる矢上の姿……
夏の姿に気がつくと優しく微笑んだ。

 二人は、無言で絵画を観て回る……。
 美術館の中にあるカフェスペースを指差した
矢上がそこで休憩したいと夏を誘った。

 美術館の中に併設してあるカフェの中は
優雅なクラッシック音楽が流れ、
その空間だけ時間がゆっくりと
流れているようであった。

 二人は、カフェラテと珈琲が注がれた
カップを手に取り無言で飲み始める。

 「なんか、いつもと感じが違うね」
 矢上が夏に話しかけた。
 「そうかな……そっちだっていつもと
ちがうじゃん。全然しゃべらないし……」

 「そうかな? じゃあ、そうだな~
俺のことでも話そうかな……」

 「俺のこと……?」
 「そう、俺の今までのことね」
 矢上が呟いた。
 握っていたカップをテーブルに置いた夏は
矢上の話に耳を傾けた。
 「さっき、待ち合わせの場所で観ていた絵画、
あれ、俺の師匠が描いたものなんだ。
 超有名な画家ね……。俺、彼の家に下宿しててさ
そこには、師匠の奥さんも住んでて……
 師匠は時々、デッサン旅行で家を留守に
してたんだ。師匠は、僕にワイフが寂しく
ないように、彼女と沢山話をしてくれって
言われて……俺は、沢山彼女と話をした。
 でも、俺はいつしかその彼女のことを
好きになってた。一回り以上も年上の
師匠の奥さんを……」

 「それって、前に言ってた
下宿先のマ……ダム?」
 「そうだよ。俺はマダムに恋をしたんだ。
俺は、マダムにどんどん自分の気持ちを
持っていかれることに怖さを覚えた。
 人を好きになると、こんな感情が芽生えるんだ、
そして、俺はどんどん自分の気持ちが抑えられなく
なっていった」
 
 「で……どうしたの?」
 「師匠は俺のマダムへの感情に
気づいてたみたいで……
 胸倉をつかまれて言われたよ……
 慎也、人のワイフに手を出してはいけなよ。
 人のものを取ってはいけない……
 横恋慕は許さないって……
 温厚な師匠の顔が、見たこともないような
氷のような冷たい表情になってて……
 俺は、自分のことを悔いた……。
 すぐに師匠の家を出ようとしたんだけど、
師匠は、『一時の迷い』と言って
許してくれたんだ」

 「マダムは?」

 「マダムは、俺が彼女のことを好きだってことは
気づいていないよ。僕のことは年の離れた弟と
思っているみたいだからね……」

 「そう……なんだ。矢上ッちはマダムに
自分の気持ちは伝えないの?」

 「伝えないよ……俺の初恋は、
秘密の恋で終らせたの」
 矢上が呟いた。

 「矢上っちの初恋だったんだ……でも、遅くない?」
 「あ~、それね。色々と事情があってさ、俺、
今までに数人とつき合ってるよ……でも、初恋って
いうか……本当に好きになったのはマダムが初めて
だから……『初恋』」

 「はぁ~、面倒くさい説明……でもありがとう。
教えてくれて……でもなんでこんなこと
私に話すの?」

 「それは、夏には純粋で爽やかな恋をして
ほしいな~って思ってさ。
 夏の周りには夏のことを大切にしてたり、
大切に思ってる男がいるってことだよ。
 彼等の純粋な気持ち、気づいてるだろ?」

 「う……ん。
でも、私が初めて好きになったのは……」
 「し~、それ以上は言うな……」
 矢上が人差し指を立てると夏の唇に押し当てた。

 「俺は、明日、夏の前からいなくなるん
だからさ。
辛くなるくらいなら、今のままでいいじゃん」
 矢上が微笑んだ。

 「……」
 黙り込む夏に矢上が、鞄からある物を
取り出した。
 「夏~、これどういうこと?」
 夏の前に置かれたのは、寄せ書きが
書かれた色紙。

 「これは……その……」
 口ごもる夏。
 「何?」
 「時間がなくて……書き忘れたのかな?」
 「うそつけ! わざとだろ?」
 「ちがうよ……」
 「じゃあ、明日、空港で見送るまで預かって!
 ちゃんと、記入して! はい、どうぞ」
 矢上が夏に色紙を手渡した。

 「夏……俺、腹減った~。なんか食べていい?」
 「あ~、わかった。
今日は私がおごる日だもんね」
 「サンキュ~」
 と言うと矢上はニコニコしながらメニュー表を
見始めた。

 「も~、矢上のくせに、最後まで……」
 夏が微笑んだ。

 「なんか言ったか?」
 「ううん、何でもない~」
 
 矢上と夏の二人だけの時間が終ろうとしていた。