静香は公園の赤いベンチに腰掛け、首をうなだれている。



 僕は足音をできる限りたてないようにして忍び歩く。

 額から汗が噴き出す。

 気温のせいばかりではない。

 極度の緊張からくる汗でもあった。



 一歩近づくごとに、心臓の鼓動は大きくなっていく。





「……」



 声を掛けようとして、すぐに躊躇する。



 落ち着けって……。



 目の前に行ってからだ。

 もう二、三メートル先のところまで静香との距離は狭まっていた。



 これだけ近くに来ても、彼女は僕に気づく様子はない。



 音を立てずに唾を飲み込む。

 更に慎重に近づいていく。









「こ、こんな夜中にど、どうしたんですか、静香さん……」



 静寂に包まれた公園に僕のか細い声が小さく響く。

 静香は一瞬だけ体をビクッとさせ、ゆっくりと顔を上げた。



 目は真っ赤になっている。

 ここに来てから、ずっと泣いていたのだろう。

 そんな彼女の表情も、また違った魅力をかもし出していた。



 彼女は声を掛けたのが僕だと、認識できていない様子だ。

 焦点が定まらず、視線は何処を見ているのか分からない。



「どうかしましたか?」



 二度目の声を掛けて、ようやく静香の視線がハッキリと僕を捕らえた。





「か、亀田さん……」



 何故、目の前に僕が立っているのだろうとでも思っているのだろうか。

 不思議そうに僕を見つめている。





「か、買い物行こうかと、公園を通りかかったら、静香さんらしき人影が見えたものでして…。こ、こんな夜中にどうしたのかなと思って……」







「ごめんなさい……」



「え……?」

 何で僕に彼女が謝るのだろう。

 さっぱり理解できない。



「変なとこ、見せちゃって……」





「何かあったんですか?」



 僕が尋ねると、彼女は視線を地面に向けた。

 憂いのある表情とはこのような事を言うのではないだろうか。

 街灯だけの薄暗い中、とても美しく神秘的に映った。

 天使が悲しむ姿は、こんな感じなんじゃないだろうか。







「いえ、大した事じゃないんです」

 そう言って寂しそうに微笑む静香。



 このままじゃ駄目だ。

 彼女に腹の底をぶちまけさせないと……。





「こ、こんな夜…、いや夜中ですよ…。大した事じゃないって訳ぐらい僕には分かります」





「ほんとに全然……」

 精一杯虚勢を張っていたが、限界が来たのだろう。

 静香はその場で泣き崩れた。



 僕は歩み寄りそっと肩に手を置く。





「口に出して言うだけでも少しは楽になりますよ……」



 面白いように円滑に口が回る。

 今までの自分では考えられない現象だ。

 馬鹿、今はそんな事を考えている場合か。

 もっと話し掛けろ。

 一気に畳み込め。



「いつもお隣通し、仲良くさせてもらってますし…、それに静香さんには手料理などご馳走になったり…。と、とにかく色々恩義を僕は感じてるんですよ。それを今、あれだけ明るい静香さんがこんな夜中に一人寂しく公園で泣いている。何でもない訳ないじゃないですか。僕で良かったら話してみて下さい」





 静香は口を開きかけ何かを喋ろうとしているが、躊躇して口を閉じた。

 それを何度も繰り返している。



 あと一息だ。

 僕は彼女の両肩を掴み、力強く握った。





「じ……」



「……」





 僕は自分の鼻から噴出す息が荒くなっているのに気付く。

 慌てて息を止めて静香の目を見た。

 何かを訴えたいと思いながらも、懸命に堪えている目だった。





「言っちゃいましょう。言えば、あなたは楽になれます……」





「じ、実は……」

 長い沈黙を経て、ようやく言葉が彼女の口からあふれ出してきた。



「はい、何でしょう?」





「何て言ったらいいんでしょうか…。家庭が…、家庭が実はうまくいっていないんです」



「え、どうしてまた……」

 僕は今、初めて知ったような驚いた表情を作り出した。

 心の中ではガッツポーズをとりたい気持ちでいっぱいだ。





「私の気のせいなんでしょうけど…。ううん…、私の専業主婦としてのストレスが溜まってしまっただけの事なんです」



 マズい…、話の方向がズレる。

 彼女は精神的に、本来の落ち着きを取り戻してきたみたいだ。

 こんなお茶を濁したような言い方でせっかくのチャンスをふいにしたら、僕の今までの苦労は一体どうなるんだ。





「ストレスですか……」





「すみません、亀田さん…。こんな夜中になっているのに気を使わせてしまって……」



 僕が聞きたいのはそんな事じゃないんだ。

 焦りが僕の中で広がる。

 馬鹿野郎…、重箱の隅を突付くように静香を尋問しろ。

 もう一人の自分が僕に命令してくる。



 あんな黒ずんだこの女のパンティ一枚だけで、満足して人生を送りたいのか?

 違うだろ?

 もうこの女は崩壊寸前なんだ。

 情けをかけるな。

 崩してから優しく接しろ。

 そして一気に抱いてしまえ。





「静香さん……」





「は、はい……」



「本当に言いたいのはそんな事じゃないでしょう? そんな人がこんな時間に一人で公園にいるなんておかしい…。たまたま買い物に行こうとした僕が、そんな静香さんの気配に気付いた。今、この場に僕がいるのも、何かの縁なんです。言って楽になりましょう。先ほど家庭がって言ってたじゃないですか。昼間のお子さんの件でお悩みですか? それは違いますよね?」



「いえ…。あ、あの…、その……」

 静香の表情がまた曇りだす。

 挙動不審になっている。



 もう一息だ。

 僕は一気にまくし立てた。





 辺りの住民がすっかり寝静まり、物音一つ聞こえない静寂の空間。

 今、僕は静香とその世界に、たった二人きりでいる。

 生暖かい風が吹き、奥のブランコが少しだけ揺れた。



「家庭と言うよりも、ズバリ旦那さんと何かあったんじゃないですか?」





「……」

 すっかり汗ばんだ静香の白いTシャツ。

 ブラジャーの線が透けて見えた。

 彼女は恥じらいを感じたのか、下を向いてうつむいたまま、沈黙している。



「どうしました、静香さん?」





「こ、こんな事、言うのも変なんですけど……」





「はい」



「確かにうちの主人との件も確かにあります。ただ…、息子の隆志の件で……」



 まったく予想外の答えが返ってきた。

 息子、何だそれは……。



 僕は極めて冷静に対応した。





「お子さんですか?」



「隆志と言うよりは…。あ、あのー、亀田さん」

「は、はい」





「本当にこんな事を聞いたら失礼になるのを承知で、聞いてもいいですか?」

 申し訳なさそうに話す静香。

 心臓がひっくり返りそうだった。

 何の件だろうか。



 ひょっとしたら、僕がパンティ拾ったのを本当は知っていて……。





 緊張の種類が百八十度変わった。







「な、何でしょう……」





「亀田さんによく作っていただいているDVD…。その件なんですけど……」



 構えていた分、どっと安堵感が押し寄せる。

「はい、それが何か?」







「隆志の後ろに変なものが映っていたんです……」



 笑いそうになるのを懸命に堪えた。



 静香にプレゼントした息子の成長記録用DVD。

 その八枚目に渡した事を言っているのだろう。



 僕のすぐ目の前に見えるブランコの場所を元に作った自作の合成動画。

 本物の首吊り死体を息子の隆志の背後に見えるようさりげなく加工したDVD。



 聞き耳を済ませて隣の様子を伺っていたが、何もなかったので気付かなかったのだと今まで勝手に思い込んでいた。

 あの時、静香はちゃんと、その首吊り男の存在にしっかり気付いていたのだ。





「へ、変なもの?」

 声をわざと高めに出して驚いてみせた。

 僕の演技力もなかなかのものである。





「え、ええ…。いつもお世話になっているのに、気を悪くしたらすみません……」



「いえ、別に構わないですよ。でも、その変なものって一体……」





「ゆ、幽霊らしきものが、隆志の後ろに…、す、透けて映っていたんです……」







「幽霊?」





「亀田さんは、全然お気付きにならなかったんですか?」



「ええ、私の場合は静香さんの撮った映像をパソコンに繋げて、それをDVDで見れる形式にって作業を命令させるだけなんです。だから最初の簡単な設定だけすれば、あとは時間が勝手に作成してくれるんですよ。その間、だいたいいつも私は自分のデザインの仕事をしてますので、それに関しては何も気付きませんでした」



 我ながら、非の打ち所のない完璧な言い方だと思った。

 まさかあれが、僕の作った合成動画だとは、微塵も感じないだろう。





「変な事を言ってすみませんでした」



「静香さん、別に僕のほうはいいんですけどね。ただ、それが本当に映っているとしたらですよ。しかも、お子さんの背後にという状況で…。親なら、絶対に心配になりますよ。それに気味がいいもんじゃないですからね。できればどんな具合で、どんな風に映っているか詳しく聞かせてもらえませんか?」



 偽善者…、今の僕はこの表現がピッタリとマッチしている。



「ええ、最後のほうのシーンなんですけど……」







 静香は後ろを振り返り、ブランコを指差した。

「あそこにブランコがありますよね」





「ええ」





「隆志が滑り台から降りて、あそこへ駆け寄って行く時に映ったんです」





「その幽霊がですか?」







「いえ、何と言ったらいいのでしょうか。あのブランコを支える上の鉄の棒がありますよね」



「はい」





「そこで首を吊ったような感じの男の人が薄っすらと映っていたんです」



「えっ…」





「うちの主人にはその事を話そうとしたんですけど、全然取り合ってくれなくて……」



 僕は幽霊とか神様だとかそういった科学的に証明できないものは、一切信用していなかった。

 だが、ここは静香が越してくる前に、あのブランコで首吊り自殺が合った事をうまい具合に説明したほうがいい展開になりそうだ。

 今日の僕は非常に頭が冴えている。





「そうですか…。あの静香さん……」





「はい……」



「これから僕が言う事をちゃんと聞いてもらえますか?」



「は、はい」

 深刻そうな表情で僕を見つめる静香。

 小動物が助けを求めるような目をしている。

 心がくすぐられた。

 この女、不思議とどんな表情も絵になる。

 じっくり時間を掛けてでも絶対に僕のものにしてやる。



 僕が静香を追いかけて公園に来て、三十分ほど経過しただろうか。

 辺りは人一人通らず、シーンと静まり返っていた。



 頭の中を整理させる。

 これから話すのに重要な点は二つだ。



 まずあのブランコで本当に首吊り自殺があったという事実。

 そして何故、それを彼女に早く言わなかったのかという点だ。





「か、亀田さん。ど、どうかしたのですか?」

 救いを求めるかのように静香は心細そうに口を開いた。

 きっと不安で仕方がないのだ。





「何がですか?」



「いえ、聞いてもらえますかと言ってから、無言になってしまったので……」







「分かりました。落ち着いて聞いて下さいね。これから話す事は、あなたにとって非常にショッキングな内容です。パニックを起こさずに落ち着いていて下さい」



「……」





「準備はいいですか?」







「そんな言い方されたら私……」



「でも、今、これを聞かないと、ずっとそうやって一人寂しく悩むようですよ。それでもいいんですか?」





 二人の間にしばし沈黙が走る。

 彼女はうまい具合に混乱している。



 これから話す事実。

 そんなものは大した件じゃない。

 その後に話す内容が本来の目的だ。

 その時に平常心でいられるか……。



 今の様子を見ている限り、間違いなく崩れるだろう。

 目の前にいる僕以外、すがる人間は誰もいないのだ。





「ちょっと深呼吸させて下さい。私、かなり今、動揺してます」



「ええ、ゆっくりどうぞ」





「すみません。こんな夜中に……」



「いえ、前にも言ったじゃないですか。僕の場合、在宅で仕事が済むので時間は自由だって。だから気にしないで下さい。さあ」



 静香はゆっくりと上を向いて大きく息を吸い込んだ。

 Tシャツの首元から見える鎖骨一つとっても、彼女は美しかった。

 ほどよく突き出た胸。

 キュッと締まったウエスト。

 紺色の短パンからは、むっちりとしたおいしそうな太ももが露出している。



 もうじきこの体を僕は自由にまさぐれるのだ。

 今すぐに襲い掛かりたい衝動に駆られる。

 これは僕じゃなくても、男ならみんなそうなるだろう。





「お待たせしました。どうぞ」

 少しだけ落ち着きを取り戻した感のある静香。

 真剣な眼差しを僕に向けた。





「実はですね……」





「はい……」





「あのブランコなんですが……」

「え、あのブランコが何か?」





「静香さんが越してくる一週間前に、あそこで首吊り自殺があったんです」





「……」

 静香はショックで声も出ない様子だ。

 無理もない。

 子供映ったDVDにあのブランコの後ろで、首吊りした男が見えたのだから……。



 自分よりある意味大切な我が子に、何かあるんじゃないかと不安にならない奴はいないだろう。





「大丈夫ですか、静香さん」







「は、はい……」

 顔色がみるみる内に青ざめてきていた。



「静香さん、本当にすみません……」



「えっ?」

 いきなり謝る僕に拍子を抜かれたのか、静香は高い声を出す。

 大きな瞳を必死に瞬きしていた。



「何で亀田さんが謝るんですか?」

「いえ、本当は静香さんにもっと早く言いたかったんです。でも、なかなか話すきっかけをつかめずに、ここまでズルズルきてしまったので……」



「そんな…、亀田さんが謝るような事じゃないですよ。反対に良かれと思って私にビデオカメラを貸していただいたりしているのに……」

「僕は折りを見て、もっと早く言えていれば…。そうすれば、静香さんがここまで深刻に悩む事もなかった……」



「何、言ってんですか。亀田さんにはほんといつも感謝してるんです、私。いつも手作りの料理ぐらいしかお返しできないし、引越ししてきてから何かと気に掛けていただいて」



 うまい具合に僕の事は話を反らせた。

 本当にこの女はお人好しだ。



「そんな風に思っていただいて光栄です。でも、話を戻しますけど、静香さんがビデオカメラでお子さんを撮っている時には、何も気がつかなかったのですか?」





「はい。もし、変なものが映っていたら、すぐに気付いていると思います」





「そうですか…。もちろん僕もそんなものが写っていたなんて、全然気付きませんでした。お子さんはそれから何か異常とかありましたか?」



「いえ…。ただ、もし、変なって言ったら……」

「もし?」





「大変恐縮なんですが、亀田さんにすごい失礼な事をうちの隆志が言ったじゃないですか。今日…、もう昨日になりますけど…。前はあんな失礼な事を言う子じゃなかったんです」



 確かにあのクソガキは、僕に対して悪い人とか抜かしやがった。

 静香の子供じゃなかったら、叩き殺したいぐらいだ。





「いえいえ、それは僕がこんな醜いからだと思うんです」



「そんな醜いって……」

 静香は同情するように悲しげな視線を送ってくる。



「いえ、これでも自分の事は、ある程度自覚してますよ。学生時代から、女とは縁のない生活でしたから……」

「亀田さんは、すごい優しいじゃないですか」

 静香は必死に僕を諭そうとしている。

 それはそうだ。

 彼女の置かれた立場では、そう言うしか方法はないだろう。

 だが、ここは同情を引く場面ではない。



「ありがとうございます。静香さんみたいに綺麗な方に言われると、お世辞でも嬉しいですよ」





「そんなお世辞だなんて……」



「でも、今はそんな事より、静香さんの悩みを解決させるのが先です」



「あ、ありがとうございます……」

 静香は深々とお辞儀をした。

 これで僕に対する信用度は確実にアップしただろう。



 お辞儀をする際に、彼女の豊満な胸元が垣間見えた。

 僕はこんな状況だって、決定的チャンスは見逃さないのである。





 ゆっくりを後ろを振り返り、ブランコを眺める静香。

 僕はとりあえず彼女を赤いベンチに座らせ、ちゃっかり横に腰掛けた。

 その状態でも彼女は後ろに設置されたブランコが気になるのか、何度も振り返っている。