つい先日、不可解な事件があった。

 デザイン会社で働く俺は、知り合いがその不可解な自殺をしたと知り驚く。

 警察の調査の結果では自殺。

 だが俺は、おかしいと思う。

 だから自殺ではなく事件…、自身の中ではそう位置付けた



 その知り合いの名前は、亀田。

 四十歳で、デブで気持ち悪いオタク野郎だった。

 うちの仕事を在宅で引き受けているデザイナーだ。

 何を考えているのか分からない無表情な顔。

 こんな奴、生きている価値があるのだろうか……。

 いつも心の底でそう蔑みながら、奴に接していた。



 俺のマンションの近くのアパートに住んでいる。

 いや、言い方が間違った。

 生前は住んでいたか……。



 その亀田が自分の部屋で、ドアノブに紐をかけて首吊り自殺をしたという。



 あのむさい部屋は過去に、仕事で仕方なく行った記憶がある。

 極端に人と接触するのを嫌がる亀田は、打ち合わせ場所にいつも駅前の喫茶店を指定してきた。

 以前そこが定休日だったので、仕方なく亀田の部屋で打ち合わせをしたのだった。



 オナニーしかしていないような部屋の臭い。

 ゴミ箱にはティッシュの山で、満タンになっていた。



 床に元々は白なのに、すっかりと黒ずんだ女性物のパンティがあったらしい。

 まああいつにはお似合いの部屋だ。



 でも、一つ引っ掛かる点がある。

 普通、そんな状態で自殺なんかするのか?



 俺には自殺願望などまったくないので、自殺者の心理状態など理解はできない。

 それにしても、妙な何かが頭の中で引っ掛かっていた。







「おい、早乙女」



「は、はい」



「仕事中、ボーっとしてんじゃねえよ」



「すいません」

 まったく口うるさい上司だ。

 俺は知ってんだぜ。

 この間、事務の佳代子にふられたの。

 善戦空しく口説いていたけどな。

 俺は心の中で笑ってやった。



 それにしても、亀田の自殺は不可解だ。

 最後に会ったのって、一ヶ月前ぐらいだったのにな……。





 これはひょっとすると、霊的現象が絡んでいるのかもしれない。

 俺はつい、そこへ物事をこじつけたくなってくるんだ。



 もう俺も二十三歳。

 それなのに、まだ一度も霊体験などした事がない。

 あれだけ色々と肝試しに行っているのにな。



 金縛り一つでも、ひと目見るだけでも何でもいい。



 俺は霊体験がしたいのに……。







 仕事を終えビルを出ると、入り口のところに人影が立っていた。

 その人影は俺を見ると、足早に近づいてくる。



 ニコニコ笑いながら近づく影は女だった。

 もちろん俺の彼女の美和だ。



「仕事お疲れ様、雷蔵」

「ああ」



「ご飯でも食べに行く? それとも、何か作ってあげよっか?」



「どっちでもいいよ」

 素っ気なく答える。



 行きつけの喫茶店で偶然相席になったのが、出会いの始まりだった。

 こいつと付き合いだして、まだ一週間。

 毎日のように美和は、会社まで迎えに来てくれる。



 料理が趣味で、食べ物の事になると目の色が変わる。

 俺にどこの店はグラタンがおいしいだの、あっちの店はサラダのドレッシングが絶妙だの、そんな台詞しか言わない。



「だいたい、雷蔵は食に関して、栄養のバランスが悪過ぎるのよ」

 そうやって、いつも俺の食生活に口を挟んでくる。



 もともと腹に入れば何でも同じといった感覚できているから、今さらそんな事を言われたってどうしょうもない。



「気はそれなりに使ってるって」

「それなりじゃ……」



 美和の言葉を遮って、俺は歩き出した。





「あなたに何かあったら、私は悲しいから…。だから、いつも口うるさくなるのよ」



「ああ、分かってるよ」



 確かに心配はしてくれているのだ。

 悪い感じには捉えていない。

 でも元々関心のない事なので、正直ウザかった。



 綺麗な黒髪を人差し指でクルリと絡ませながら、美和は俺のあとをついてくる。

 素っ気ない俺なのに、よくもまあ文句も言わず黙ってついてくるもんだ。



「美和……」

 立ち止まり、振り返って話し掛ける。



 付き合いだしてまだ一週間だが、そろそろ潮時かもしれない。





「何、どうしたの?」



「一体、俺なんかのどこがいいんだ?」

「全部」



「嘘こけ」

「ほんとだよ」



「まだ、知り合って一週間だぞ。一週間。何が分かるんだよ?」



「それはそうだけど、分かりたいって思ってる」





 彼女からもの凄いアプローチで折れた形になり付き合ったが、最近はどうかと感じていた。

 いまいち話も性格も噛み合っていないような気がする。



「何が分かるんだよ?」

 このままいけば、別れ話に展開しそうだ。



「食べてるものに関してね、あまり関心がないのは分かってる。でも、心配だから言っちゃうの。それは分かってほしいの」



「そんな事を聞いてるじゃない」



「あとは、怖いものが、すごい好きなのも理解してる」



「でも、おまえは嫌がるじゃないかよ」



「だって……」



 週に三回は色々なレンタルビデオに行き、ホラー系の作品を借りてきている。

 とにかく俺は怖いものが大好きなのだ。



 しかし、美和は絶対に見ようともしない。

 臆病なのは分かる。

 でも俺が見ているのは作り物だ。

 できれば本当の体験を自分でもしたい。





「怖いものが俺は好きなんだよ。実際にそんな体験ないしよ。だからとことこ追求したいんだよ。でも、おまえは俺がDVD借りてきても、一緒に見る事すらしないじゃん」





「……」



「黙ってちゃ、何を考えているのか理解できないよ。自分だけ分かりたいって思ってれば、それでいいのか?」



「そ、そんなんじゃない……」



 美和の顔は、今にも泣き出しそうな勢いだった。



「別に悲しませるつもりはない。でもうまくやっていけるのか?  おまえ自信あるか? 趣味だって全然違う。確かに俺はおまえを抱いたよ。顔だって好みだ。でも性格が、噛み合わな過ぎる……」



 道端だというのに、美和は泣き出した。



 少し心が痛むが、仕方がない。

 このまま適当に付き合っていても、お互いが不幸になるだけなんだと自分に言い聞かせた。



「とりあえず、今日は帰るよ。食事に行く気分でもない」



 泣いている美和を置き去りにして、俺はマンションへ向かった。



 部屋に帰っても、気分はスッキリしなかった。

 久しぶりの一人の時間だというのに……。



 ここ一週間は、いつも隣に美和がいた。

 付き合いだしてからの一週間は、同棲のようなものだった。



 いつもいて、当たり前の存在になっていたのかな。

 先ほどの状況を思い出すと、少し言い過ぎたような気がしてきた。



 特にする事もない。

 暇をボーっと、ただ悪戯に持て余すのは嫌だった。





 俺って落ち着きがない証拠なのかな?

 まあいい、レンタルビデオにでも行って、ホラーでも借りてくるか。

 簡単にシャワーを浴び、手早く身支度を済ませる。



 部屋を出ようとした時、携帯が鳴り出した。美和からの着信だった。



「はい……」





「雷蔵さん……」



「何だ?」



「今からそっちに行っちゃ駄目?」



「これからレンタルに行こうと思ってたんだよ」



「私も一緒に見るようにするから……」



「無理だよ。おまえ、いつもつまんなそうにしてるじゃん」

「努力する! 努力するから、お願い……」





「分かったよ……」



「ほんと?」





「ああ、部屋で待ってるよ」

「すぐに行くね」



 俺はソファーに腰掛け、美和を待つ事にした。

 ちょっと口うるさいけど、性格はかなりいい女である。



 少し…、俺の配慮が足りなかったかな……。







 俺の部屋に美和が来た。

 先ほど俺が冷たい言葉を浴びせたせいで、美和の目は赤くなっている。

 しばらく泣いていたのだろう。



「さっきは悪かったな」





「ううん、いいの…。私がもう少し気をつけていれば……」

 下をうつむきながら、美和はボソッと話す。



 俺には冷たい行動をとられるのが、何よりもこたえるといった感じだ。

 自分が言い出した事とは言え、少し哀れになってきた。



「お腹は…、飯は食ったのか?」



 そんな簡単な台詞一つで、美和は顔を上げる。

 表情が一気に明るくなっていた。



 恋愛とは、惚れたほうの負けである。

 損をするのは、いつだって惚れたほうだ。



「まだ…。何か食べに行く?」



「何だよ、急に明るくなりやがって」



「だって嬉しいじゃん。好きな人と一緒にご飯食べるなんて、一番幸せな事だもん」



「けっ、単純な思考でいいね」



「うん、だから幸せなんじゃない」

 美和はそう言って嬉しそうに微笑んだ。



 元々身支度は整えていたので、すぐに部屋をあとにする。



 近所のラーメン屋に入り、テーブルにつく。

 味噌ラーメンと餃子を注文し、美和はチャーハンを頼む。



 美味くも不味くもないこのラーメン屋は、そこそこの客入りだった。

 十分もしない内に料理が運ばれてくる。



 まだまだ食い盛りの俺は、あっという間に麺を平らげる。

 まだ腹は半分ぐらいしか満たされていない。



 マーボ豆腐定食も頼んでおけばよかった。

 餃子も食べ終わり、ラーメンのスープを飲もうとすると、美和が声を掛けてきた。



「待って、雷蔵」



「何よ?」



「スープはね、できれば飲むの、やめたほうがいいと思うの。カロリーが……」

「うるさいよ、いちいち……」



 また、始まった。俺は言葉を途中で遮る。





「……」



「俺は、おまえのそういうところが嫌なんだよ」





「ご、ごめんなさい……」



「俺がな、何を腹に入れようが、俺の自由だろ? スープを飲むと、癌にでもなるのか?」



「ううん、そんなんじゃないけど……」



「カロリーが何だとかさー、いつも言うけどー。そんなにカロリーカロリー言うなら、もっと健康オタクでも彼氏にしたほうがいいよ」



「わ、私は、そんなつもりで……」



「そんなつもりでも何でも、俺にはそういうのウザいんだよ!」



 美和はチャーハンを食べる動作をやめ、俺をジッと見ている。

 まだ三分の二以上残っていた。



「なあ…、こういう状況に何度なってる? まだ、俺たちが付き合いだして一週間だぞ。一週間…。おかしいだろ? 付き合い始めのカップルが、こんな喧嘩みたいな形ばかりなんてよ」





「……」

 店内はシーンと静まり返っていた。

 数人の客の視線が、背中に刺さるのを感じる。



 確かに美和はいい女だ。

 男ならみんな可愛いというだろう。



 この状況ではどう見ても、俺が悪者に映っているんだろうな。





 突然、肩をつかまれる。

 振り向くと、チンピラ風の男二人が俺の背後に立っていた。



 挑戦的な目つきで俺を睨んでいる。

 二人とも、どう見ても俺より年上だった。





「な、何だよ……」

 喧嘩が得意でない俺は、いまいち強く言い出せない。



「おう、兄ちゃん。店の中でデカい声を出してんじゃねえよ」





「す、すみません……」



 俺が謝ると、下品な声で笑いだした。



 いかにも喧嘩慣れしたような目つき。

 体つきはそんなでもないが、拳がゴツゴツしている。



 もう片方の黙っているほうは、サングラスを掛けていて、体もデカい。



 二人共パンチパーマみたいなヘアースタイルで、どう見ても一般人ではないようだ。



 内心、怖くて仕方がなかった。

 いくら怖いのが好きだといっても、こういう別の怖さのはごめんである。



「おい、姉ちゃん。こんな馬鹿と一緒にいないで、俺らと一緒に飲もうや」



 美和はこういった側面に接するのは初めてなのだろう。

 無言で震えていた。



 ここは俺が怖くても、何とかしなと駄目だ。



 最低限の男の条件ぐらいは、まっとうしないといけない。

 自分で必死に言い聞かせる。



「姉ちゃん、べっぴんさんだなあ。ほら、こっち来てビールぐらいつげよ」





「や、やめて下さい……」



 何で誰も、この二人をとめようとしないんだ?

 店の親父は何をしてるんだ?



 俺は周りの出方を伺っていたが、誰も動く様子は一切なかった。

 これだから今の日本は腐っているって言われんだ……。





「や、やめろ……」

 懸命に声を振り絞り言った。

 声が小さく震えているのが自分でも分かる。



 サングラスを掛けたデカい男が、俺に凄んできた。

 心臓が萎縮するような感覚。



「あん?」

 大男の顔が、どんどん近づいてくる。



 心臓まで悲鳴を上げそうだった。

 男の臭い息が俺の鼻の穴を通り、胸まで漂ってくるような気がする。

 気分が悪い。



「もう、おまえはあっち行けや、ボケ」

「兄ちゃん、すっこんでろ」



 言い返さないと……。

 喉まで出掛かっているのに、声が出ない……。



 俺は身体が震えていた。

 でも美和を置いて、この場から逃げたりはできない。



「何か、文句あんのか、おう?」



 もう一人の男まで詰め寄ってくる。

 恐怖が体を包み込む。

 怖くて顔をそらしたいが、そうも言ってられない。



 軽く呼吸をしてから俺は睨みつけた。

 男の表情が一辺する。



「す、すみません……。お、俺の女に…、て、手を出さないで下さい……」

 声が震えているが、自分の意見をはっきり伝えた。



 俺は殴られてもいいや。

 美和さえ、無事なら……。



「あん、何て言ったんだ?」

 大きい男が胸ぐらをつかんでくる。



「や、やめろって言ったんだ……」

「あ?」



 自分より弱い人間をいじめて、そんなに楽しいのか?

 はっきりそう言ってやりたかった。



「お、俺の女に手を出すな……」



 そう言うのが、精一杯だった。

 できればこれ以上逆鱗に触れたくない。



「上等だよ、このガキ」

「兄ちゃん、表、出ようか?」



 胸ぐらをつかまれた状態で、俺は外に連れ出される。

 誰も喧嘩をとめようとする者はいなかった。



 そばで美和が心配そうに見つめている。



「美和、早く行け。俺はいいから、早く……」





「雷蔵……」

「早く!」



 目でも必死に訴えた。

 何の為に俺がこうやって突っ張っているんだ。



「行けっ!」



 泣きそうな顔をしながら、美和は何度も後ろを振り向きながら去っていく。

 こんな状況なのに、少しはホッとできた。





「いっちょ前にナイト気取りかい、兄ちゃん。格好いいな」

「おまえは逃がさねえぞ、おい」



 隙を見て逃げ出そうと思っていたのを読まれたのか、手首を強くつかまれる。



「……」



 俺は二人に近くの公園へ連れて行かれた。







 目の前には、ブランコが見える。



 体のあちこちが痛い。

 あいつら、無抵抗の俺を散々殴りやがって……。





「いてて……」

 起き上がるのも一苦労である。



 すぐ近くの赤いベンチに腰掛けた。

 座っただけで痛みが走る。



 そういえば美和はあれからどうしているのだろう?



 俺は携帯電話を取り出し、美和に掛けてみた。

 一回目のコールが鳴り終わらない内に、美和は携帯に出る。



「雷蔵、大丈夫?」



「うーん、どうだろ? まあ、こうして話していられるぐらいだから問題はないだろ」



 明日の会社で何か言われないかな……。

 少し心配になってきた。





「今、どこにいるの?」





 俺は周りの様子を見渡してみた。



 マンションのすぐ近くの公園だ。

 まあ普段公園には来ないが、近所なのである程度場所ぐらいは把握している。



 俺の座っている赤いベンチのすぐそばに、ブランコが一台。

 普通の一人乗りのブランコではなく、二人が向かい合って腰掛けるタイプのブランコである。



 その横にはすべり台つきのジャングルジムがあった。

 あと目につくものといったら、砂場ぐらいなものである。



 まったく何の取り柄もない小さな公園だ。



 あの二人組、この辺に住んでいやがるのか?



 だとしたらまた顔を合わせる確立もあるかもしれない。

 嫌だなあ……。





「ねえ、雷蔵。もしもし?」



 美和と話しているのをすっかり忘れていた。

「あ、もしもし」



「大丈夫なの?」



「ああ、問題ない。それよりおまえはどこにいるんだ?」



「雷蔵の部屋よ」



「そうか、良かった。無事だったんだな……」

 ちゃんと美和を守れる事ができて安心した。



「ごめんね……」



「何が?」



「雷蔵を置いて逃げちゃって……」



「馬鹿だな、俺がそれを望んだんだろ?」





「……」

 携帯の向こう口で、美和のすすり泣く声が聞こえる。



「まあいい…。これから部屋に戻るよ」



 返事はなかった。

 泣き声だけが、かすかに聞こえる。



 そんなに怖かったのか…、それとも俺の事を心配しての涙かは分からない。

 でも、心が安らいでいた。



 ベンチから立ち上がり歩き出す。

 まだ痛みで歩くのも容易ではない。





「くせっ……」





 ブランコの前を通る時、何ともいえない嫌な臭いが鼻をつく。



 公園には俺一人しかいないのに、思わず声を出してしまったぐらいだった。



 一体、何の臭いだ?

 うんちか…、ゲロか……。



 いや、そういった臭さの元がすべて合体したような凄まじい臭いだ。

 口の中にある唾液を吐き捨てる。



 辺りを見渡すが誰もいない。

 人の気配すらない。



 さっきまでは喧嘩に夢中で気がつかなかっただけなのだろう。

 とにかくここにいても臭いだけだ。



 俺は公園を出て、マンションへ向かった。





 その日は部屋に戻ると口数も少ないまま、お互いを激しく求め合った。