チェリーがバーナードに対して「あなたが死ななければ良いだけでは?」と手紙を書いたのには、さしたる理由もない。
 一度も会ったことがなく、どんな相手かも知らないので「生きて帰ってきてください。あなたの大好きなラズベリーパイを焼いてお待ちしています」といった一般的な内容すら書けなかったのだ。
 さすがに、嘘はいけない。

「……何が好物か、聞いてみれば良かったのかな」

 三日以上悩んで、一行だけひねり出して手紙に書いて出して、青空の下で洗濯板で下着を洗っている最中に唐突に思いついた。
 話を弾ませれば良かったのではないかと。
 結婚したのだから。

 だが、チェリーは自分を面白みのある人間とは思っていなかったし、相手にそれを期待されているとも思えなかった。
 何しろ、夫となったバーナード・アストンなる人物はチェリーのことを何も知らない。
 なぜ結婚したかも、知らないはずである。
 そして、きっと知らないまま死んでしまう。



「当家の跡継ぎであるバーナードが、このたび最前線に送られることになったようです。おそらく、もはや帰宅は望めないでしょう。そこであなたに提案があるのです。書類上で構いませんので、バーナードと結婚してください」
 
 ある日、人づてにチェリーのことを知ったというアストン家の奥方が家に訪ねてきて、貧乏長屋の玄関先でやぶからぼうにそんなことを言い出したのだ。

「突然そのようなことを言われましても。会ったこともない方です」 
「断らない方が良いでしょう。あなたにもメリットのあるお話です」

 奥方は、チェリーの足にしがみついている三歳のノエルをちらっと見て、気難しい顔で話を続けた。

「未亡人には寡婦年金が入ります。夫が戦死者であれば、遺族年金となり、さらに額が高くなります。……そちらの子はあなたのお姉様の残した子と聞いておりますが、父親が私の甥のライアンであると。ライアンの子であれば、当家の跡継ぎとして問題ありません」

 話の内容が、半分くらいしか理解できなかった。

(つまり、バーナードさんは近いうちに死んでしまう方で、死ぬ前に結婚していれば妻である私に高い年金が入るということ? その高い年金を、奥方の血縁にあたるノエルの養育費に使いたいという意味かな?)

 頭の中で一生懸命噛み砕いて考えてみてから、自分なりに出した結論を確認の意味で尋ねてみた。

「ノエルを引き取りたいというお申し出でしょうか?」

 すると、奥方は銀色の眉をきつくひそめ、青灰色の目を(すが)めてチェリーを見返してきた。

「子どもはあなたが当家にて育てるのです。当家には子どもの世話をする者がおりません。それに、バーナードの妻であるあなたが当家で暮らしていないのは変です。すぐに越して来なさい」

 厳しい物言いだった。
 チェリーに対し、物分りの悪い小娘だと苛立っている様子も見られた。だが、わからないものは、わからない。

(貴族の奥様の言うことは難しいわ)

 チェリーは気持ちがくじけかけていたが、「我が家には子育て担当はいないから、子どもと一緒に来て引き続きあなたが面倒をみなさい」という内容は理解した。
 たしかに、長らく子どもがいなかった家であれば、使用人も年寄りばかりでこんなやんちゃざかりの子どもは持て余すことだろう。

 ノエルはチェリーの実子ではなく、一歳になる前に揃って事故で死んだ姉夫婦の子だったが、引き取って以来自分の子として育ててきた。しかし、ほんの一ヶ月前に頼りにしていた母も病気で亡くなってしまい、父もだいぶ前に戦地で亡くなっていて、自分ひとりで育てるのに無理を感じ始めていた矢先であった。

 住むところを保証し、養育費の算段もしてくれる、しかも引き離さずに引き続き育てさせてくれると言われれば、断る理由は特になかった。

「わかりました。私はお屋敷で使用人として使っていただけますと嬉しいです」
「無論、そのつもりです」

 即座に返事をしてから、奥方は難しい顔のまま「あなたを使用人としてあてにしているという意味ではなく、人手が無いのです」と続けた。
 奥方の深緑色のドレスも揃いのボンネットも、チェリーの目からしても古ぼけて見えた。戦時下ということを差し引いても、財政状況が苦しいのが伝わってくる。使用人もだいぶ解雇してしまったのかもしれない。

 チェリーとしては、降って湧いたこんな話で「貴族の奥様だー!」と喜ぶ気もなかったので、現実を粛々と受け入れた。

「たいした荷物もありませんので、すぐにでも行けます」

 そう答えると、奥方は明らかにほっとした様子で二、三度頷いてから言った。 

「誰かに聞かれたら、その子は、バーナードとあなたの子だと答えなさい。いいですね」

 ん? とチェリーは首を傾げた。
 いま謎の既成事実を作られた気がする、と。

「……もしかして、バーナードさんは戦場に行く前にすでに私と関係があり、本人の知らぬ間に私が産み育てていた子を奥様が私ごと引き取って、その際に内縁関係から正式な妻として迎える、ということでしょうか?」

 かなり頑張って考えて尋ねると、奥方はようやくほんの少しだけ笑みらしきものを浮かべて「ええ、上出来です」と答えた。
 チェリーは姉の子が実子になり、しかもその父親が見知らぬ男性になるという事実についてどういうことか考えてみたが、途中で面倒になって打ち切った。

 付き合っている男性も好きな相手もなく、ノエルの養育費は死活問題であり、夫となる相手は会わずに死ぬらしいので実質いないも同然である。
 何も問題はない。
 よろしくお願いしますと奥方に告げて、アストン家の嫁となったのである。



 引っ越してわかったことと言えば、アストン家は没落しきって大変な貧乏であること。
 バーナードの十歳下で、チェリーにとっては五歳下の病弱なご令嬢キャロライナがいること。
 使用人は台所周りを担当しているメイドがひとりで、奥方もキャロライナも家事能力はまったくなし。屋敷には人の手が入らないまま魔境になった部屋がいくつもあり、食堂にすら蜘蛛の巣が張っていて、どこもかしこも薄暗かった。

 現在は、バーナードからの仕送りが頼りであるらしい。

(バーナードさんが死んだらどうするつもりだったのよ!?)

 さすがに、あまりの無策ぶりに驚いた。
 そして、嫁いだその日から猛烈に掃除を始めた。燭台や陶器の小物などの掘り出し物があると「埋もれさせるくらいなら」と奥方に直談判して質屋に持っていき、受け取ったわずかなお金で種芋を買って庭で育てた。
 食べられるハーブや木の実を探してきて食事に料理を一品増やし、キャロライナの寝具や下着をこまめに洗濯した。

「チェリーさんがいなければ、どうなっていたかわからないわ。兄と結婚してくれてありがとう」

 深窓のお嬢様育ちのキャロライナは、ひびわれたチェリーの手を取ってはらはらと涙をこぼしてお礼を言った。
 いつも気難しい顔をしている奥方も、掃除が不得意なメイドもチェリーに感謝を示してくれた。
 ノエルは広い家の中で楽しく走り回り、チェリーに邪魔にされるとキャロライナの部屋に行って本を読んでもらって過ごしていた。
 三ヶ月経つ頃にはすっかり家の空気が様変わりしていたが、そこに戦地の夫から手紙が届いたのである。

【一度も会わないうちに、人妻から未亡人へのジョブチェンジはどうかと思うが?】

 金銭的な問題を言えば。
 バーナードの仕送りよりも、遺族年金のほうが高くつくらしいとは知っていた。
 しかし、もし敗戦国となれば年金制度がいつまで保証されることか。
 まったくあてが外れることを思えば、バーナードが生きている方がまだお金になるのかもしれない。
 チェリーは、まったく会ったこともない夫にそのことをどうにか伝えようとして悩みに悩んで返事を書いたのである。

【あなたが死ななければ良いだけでは?】


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