「はい、オッケーです」
 空間に響き渡る声とともに人々が一斉に慌ただしく動きはじめる。

 「お疲れ様……疲れてない?」
 俺がついた小さな溜息を見逃さず声をかけてくるスーツ姿の女性。
 この人は、俺のすべてを把握している。
  ただ……ひとつを除けば。

 「はい、どうぞ」
 白い湯気があがる珈琲の入った紙コップを差し出す
女性。
 「あ、どうもありがとうございます」
 椅子に座り片手で紙コップを受け取った俺は、
珈琲を口にした。

 「最近、仕事が立て込んでるから、
 社長が心配してるけど……」
 「これくらい、大丈夫ですよ。俺若いし」
 「そう? ちゃんと息抜きとかできてる?」
 「ご心配なく……ちゃんと、息抜きできてます」
 「なら、いいけど……あ、そうそう、最近、あなたがよく車を降りる場所なんだけど……
あの辺で、何か用事でもあるのかしら?」

 「……えっと、別にただの散歩的な感じですよ。何も考えないで歩きたいっていうか。
人気もまばらな歩道だから丁度いいかなって……
 てか、どうしてそんなこと俺に聞くんですか?」
 「それは……目撃情報がSNSであがってて」
 「目撃情報? 俺の? 何で?」
 「あなたに似た人が、夜遅くにあの辺を歩いてたって。
 人気がない歩道だったら、なおさら気をつけないとね」
 「はい……わかりました。気をつけます」
 「そんなに、散歩がしたいのならいいコースを調べておきましょうか?」
 「い、いや、大丈夫ですから……大丈夫」
  「時間だわ……そろそろ移動しないとね。
 次の仕事に遅れちゃうわ」
 女性が俺の鞄を手に取り立ち上がる。

 女性の後ろをついて歩き……
 人に会ったら会釈をして……
 ニコッと微笑みまた会釈……。
 仕方ないよ……。 これが、今俺が一番にやらやきゃ
 いけない仕事……だから……。

 「やぁ~、いつも観ているよ。すごい活躍だね」
 「ありがとうございます」
 「君の今後が楽しみだよ。期待してるよ」
 「ご期待に添えるように頑張ります」
 「もう少し、右です。はい、笑顔で……いいですね~いいですよ。は~い、オッケーです」
 「はい、これ……明日の打ち合わせ資料と、今後のスケジュールね。 明日の朝は、
マンションに八時半にえに行きます。時間がないので、
食事は移動中の車内でお願いします。
リクエストがあれば用意するけど……」
 「別に……何でもいいですよ。おまかせします」
 「そう……わかったわ」

 ハザードランプがマンションの前で点滅した。
 バタン……と後部座席のドアが閉まった。
 
 「お疲れ様でした」
 鞄を下げた俺が運転席の女性に声をかける。
 「お疲れ様。夜更かししないようにね」
 「夜更かしって……今、夜も更けてる時間だし」
 「そうだった。ちゃんとすぐに寝るのよ」
 「はい、わかっています」
 マンションのエントランス入り口の自動ドアが開き、
俺が入っていくのを確認すると車が発進する音が聞こえてくる。

 マンションのオートロックを解除し、自分の部屋に戻ると、手に持った鞄を床に投げ捨て、ベッドに倒れ込む。
 そう……これが、俺の日常……。

 そして……
 無意識に俺の日常になりつつあることがひとつだけ……
 誰にも知られたくない、俺だけの時間。
 それは、今の俺の支え……なのだろうか?
 俺は薄れゆく意識の中でそう呟いた。