おばあちゃん()が好きだった。おばあちゃん家から少し離れたところにある畑でおじいちゃんとおばあちゃんが野菜のお世話をしている間、ぼくは畦道を挟んだ向こう側のひまわり畑で遊んでいた。そのひまわり畑は一面、空を覆うように高く、黄色の花を咲かせて道を作っていた。まるで無限に続いているようで、まだ知らない世界へ通じていそうだった。
 麦わら帽子からぶら下がる伸びきったゴムを揺らしてぼくは駆け出す。
 青かった空はいつのまにか少しずつ曇りはじめて、そのうち太陽を隠した。土埃の匂いがいっそう増して、雨が降ると思った。おばあちゃん家で知ったこの匂いが、なんだか特別な力みたいで、学校では自慢だった。
 そろそろ帰らなきゃ。
 振り向くと、ぼくが走った分だけ真っ直ぐな一本が続いている。迷うことはないのに、なんだか知らない道のように思えた。ひまわりは太陽が見えなくなってぜんぶ一直線に下を向いて頼りない。
 おじいちゃんとおばあちゃんはこのひまわり畑を抜ければ、畦道の向こう側にいるのに。けれどそれがすごく遠い見えた。でも行かなきゃ。おじいちゃんとおばあちゃんもきっとぼくを探してる。
 ただ、足が踏み出せなかった。空がゴロゴロ鳴り出して、ぼくの嫌いな雷だ。
 空が光った。
「わ……」
「くすくす」
 ぼくのじゃない声が聞こえて、ぼくは辺りを見回した。
「誰……?」
 きょろきょろと周りを見渡すけれど、他に人は見当たらない。
「くすくす……」
 また空が光る。大きな音が鳴るんじゃないかって怖くなる。
「どこ……?」
 誰でもいいから、ひとりは嫌だった。
「ここ。後ろ」
 女の子の声だった。振り返る。そこには本当に人が立っていた。麦わら帽子に白いワンピースの女の子。長くて真っ直ぐな黒い髪。夏なのに色が白くて、ぼくより背が高い。隣ん()和子(よりこ)ちゃんと同じくらいに見えた。ひまわりをたくさん抱えて、テレビで見た結婚式みたいだった。
「誰? よりちゃんの、知り合い?」
 ワンピースの女の子が笑った。
「よりちゃん?」
「そう。ぼくの隣のおうちのおねえちゃんなんだけど」
「ふぅん。よりちゃんかぁ」
 女の子は、女の子が自分で抱えている綺麗に咲いたひまわりのひとつを抜き取ると、花の部分だけを折ってぼくの麦わら帽子につけた。
「ここ、おばあちゃんの畑だから、勝手にひまわり取っちゃダメだよ」
 女の子は優しく笑うだけだった。もしかしたら、ここの畑のひまわりじゃないのかもしれない。だって、おばあちゃん家のひまわり畑のひまわりは、女の子の持ってるひまわりよりも元気がなくて、色も薄かった。
「帰るんでしょ。道はあっち。迷ったら、ダメ」
 一本道だから、迷ったりなんかしない。帰る方向なんて知ってる。ぼくは走った。一目散に走った。ひまわり畑の終わりが見えて、畦道に出る。おじいちゃんとおばあちゃんが立っていた。何をしていたのかと叱られて、空もおじいちゃんとおばあちゃんに味方するみたいにゴロゴロ鳴っていた。


 白いワンピースの女の子はそれからたびたび現れた。ぼくがひまわり畑を走る。くすくす笑う声が聞こえて、あの子がいることに気付く。一直線に並ぶひまわりの柵の向こう側に麦わら帽子が見えた。白いワンピースも見えた。黒い髪がカーテンみたいにひらひらしているのも見えた。
「今日は何食べたの?」
 あの子が訊いた。
「そうめん。ツナ缶とトマトと一緒に食べたの。君は?」
「うふふ。わたしはナイショ」
「えー、ずっこいよ。ぼくは教えたのに」
 幼馴染のよりちゃんは日焼けが苦手らしくて家の中にいるし、近所の子たちは学校の子たちと遊んでいるし、ぼくの遊び相手はたまにお父さんだけど、おじいちゃんか、たまにおばあちゃん。お母さんはおうちのことで忙しい。だから少し年上で女の子だけど、話せる友達がいるのは嬉しかった。
 でもあの子は毎回、毎年言う。「君も大きくなったら、わたしとは遊んでくれなくなっちゃうんだろうな」って。



 俺は中学生になっていた。背が伸びて、周りのこともいろいろな意味で見えてくる。俺の背丈はあの人を越えて、ひまわり畑で遊ぶような歳でもなくなった。性別というものを意識して、自分と他人、強い弱いも見えはじめる。部活は忙しく、おばあちゃん家で1ヶ月以上過ごしていた夏休みも、気付けば1週間、3日間だけになった。
 俺はあのひまわり畑に行かなくなったのか? いいや、行った。今年もひまわりが咲き乱れ、列を作っている。駆け抜け、毎年恒例。あの人のくすくす笑う声。
「今年も来られたんだね」
 一列隔てたひまわりの奥に麦わら帽子が見える。
「久しぶり」
「声がちょっと低くなったね」
 まだ俺は自分の成長に戸惑っているのに。
「うん……」
「どれくらいいるの?」
「今年も3日間くらい。部活があるから……」
 毎年会う、不思議な関係。ひまわりを挟んで並んで歩く。姿が見えないのも、魅力的に思えたのかもしれない。白いワンピース。色の白い肌。長く黒い髪。麦茶のなかで揺れて響く氷みたいな声の感じからは華奢な体型が想像できた。俺は惹かれていた。多分夏の思い出と一緒に。

 高校では部活には入らなかった。夏休みが恋しいのは長い休みがあるからか。
 俺は2度3度あった告白を断った。あの人とは夏のほんの少しの時間しか話せないのに。
 秋も冬も春も虚しくはなかった。姿は見えず声も聞こえはしないけれど、あの人を感じていたし、夢で逢うこともあったから。



 気付けば、大学生になっていた。大掛かりな試験を終えて、2ヶ月近い夏休み。無為に過ごすのも気が引ける。アルバイトでもできたらいいものだ。短期で、祖母の家のある方面で何かないものだろうか。
 結局何も決まらないまま祖母の家へ。
 ひまわり畑を通りがかって躊躇った。夏は年々暑くなる。汗が落ちていく。今までは自分のことに夢中だった。あの人の白い肌と華奢な身体はその炎天下に耐えられるのだろうか。
 畦道から集合体と化したひまわりを見た。あの人もそろそろいい歳だ。俺は確信的なことは何ひとつ言っていない。夢のなかでは言っていたかもしれないけれど。言ってみたらどうだろう? けれど、夏の数日しか会わない相手だ。
 俺は別にそれで構わないけれど……

 視界が急に翳る。わずかな光を帯びた。薄い手が俺の汗ばんだ肌を冷やしていく。
 背後からくすくす、と聞こえる。
「誰でしょう?」
 (はた)と気付く。俺はこの人の名前を知らない。
「帰ってきてたんだね」
 けれどそんなものは要らなかった。名前なんかどうでもいい。
 俺は振り返った。辿ってきた畦道にあの人が立っている。白いワンピースに麦わら帽子。日焼けしていない白い肌。汗をかいた様子もない黒い髪。
「あなたに会いたくて……」
「今度、花火大会があるんだって。一緒に観ようよ」
 あの人は俺の手を引いた。ひまわり畑へ入っていこうとする。
「暑くないか。日陰もないし……」
「大丈夫。大丈夫でしょ?」
 あの人の冷たい手が俺の腕に添えられる。体温を吸い取られていくようだ。汗が引いていく。

 ひまわりが囲いのようになって、ひまわり畑に入った途端、あの人は俺に抱きついた。麦わら帽子が飛ぶ。
 俺は泣きたくなった。同じ気持ちだった。
「わたしも会いたかった」
 あの人が言った。然りげなくこぼした俺の一言を覚えていた。俺の身体に絡みつくあの人の背中に俺も背を回す。彼女は冷たかった。俺にはない細い体躯。柔らかな皮膚感。力加減を間違えば簡単に()し折ってしまいそうな骨格。初めて触れた異性。
「嬉しい」
 素直に口にした。
「来年も再来年も会いに来てくれる?」

 俺は大学を辞めようと思った。祖母の家に住みたいと思った。だがそんな意見が通るはずはない。あの人といたい。ただそれだけだ。具体的なビジョンは何もない。何も手につかなかった。嬉しさと焦りと。
 その年の冬、祖父が没した。悲しさはある。だがそれよりも。それよりも、ひまわり畑のことが頭を過った。
 ひまわり畑のことをまず訊ねてしまった。来年の夏にはもうひまわり畑はなくなる。

 俺は安堵した。焦るべきところだった。年に数日間しか会わない人。互いに進歩も将来もない。
 俺はその1週間後に告白してきた女性と付き合うことにした。自分でも何をやっているのか時々分からなくなる。時間を作って、身ひとつでも、あのひまわり畑に行くべきではないのか。けれど……
 夢で満足できていた。一直線でありながら迷路のようなひまわり畑をひたすら進むと、あの人が、ひまわりの向こう側で笑い声をたてる。何気ない、中身のない会話。俺はあの人の声に酔い()れて。

 恋人とは上手くいかなかった。1人目、破局。2人目、自然消滅。3人目、死別。4人目に付き合った女性とは、年齢もあるのだろう。相性に難も見つからなかった。結婚を考えるようになっていた。
 同棲をはじめ、3週間。彼女の様子は段々とおかしくなっていた。ストーカーに追われているのだという。俺はそれを、仕事上の客として彼女に惚れた男なり、元交際相手の仕業だと思っていた。だが違った。白いワンピースの女だという。麦わら帽子をかぶった、色の白い痩せぎすの女。ひまわりの花束を抱えている。
 あの人だと思った。あの人だと思った途端に、会いたくなった。ひまわり畑はもうない。畑は埋め立てられて、今やソーラーパネル畑だ。
 俺はあの人を探した。カノジョの訴えを手掛かりにしても、あの人は俺の前に姿を現さなかった。そのうちカノジョは庭先にも現れるのだと言った。そしてあの人は家のなかに入ってきているのだという。病は気からとでも言うのか、カノジョは身体の健康まで損ねて実家へ帰ってしまった。
 また、破局だ。
 
 ちょうど、夏。俺は祖母の家を訪ね、そこで初めて、ひまわりの畑のことを訊くことにした。白いワンピースの麦わら帽子の女性について話すと、祖母と、たまたま近所から来ていた大叔父が目を見合わせた。言葉は交わしていなかった。けれど雰囲気と、強張った表情で分かる。無言のうちに、2人の間で大きな意味を持つやり取りがあった。
 俺は夕方には帰るつもりでいたが、祖母と大叔父の強いすすめで泊まることになった。明日、俺に、家にいてほしいという。

 翌日、俺は祖母に、庭にある蔵へと案内された。埃臭かったが、大慌てで片付けたという感じが、埃を拭きとり、局所的に掃除された跡から分かる。俺はそこに出入り口とは反対の壁を向いて座らされた。
「いいかい、ここに誰か入ってきても、絶対に振り返っちゃいけない。顔を見ようとしてはいけないし、話しかけてもいけない」
 優しかった祖母は俺に対して媚びたように甘いところがあったけれど、このときばかりは厳しい口調で、まるで叱れたときのようだ。
 理由を問う。けれど教えてはくれなかった。しまいには、俺は正座したまま手足を縛られてしまった。縄のせいで尻や膝が落ち着かなかった。手拭いによって目隠しと猿轡までされる始末だった。けれど俺が祖母と大叔父、この老人2人に抵抗する意思もなく、またそれを実行しなかったのは、今まで祖母と大叔父に良くしてもらったからなのだろう。刷り込まれた胡乱な信頼というものもある。
 いいかい、絶対に喋るな。見るな。知ろうとするな。いいかい、絶対に。
 大人には都合がある。建前がある。事情が……否、俺も十分に大人か。

 俺は目と手足の自由を奪われたまま蔵の中に放置される。そのうち、誰かが入ってくる。足音は小さい。これという根拠はないが、女の足取りのように思えた。
 その人は俺の後ろに座った。気配の重みというのか、空気の流れというのか、やはり女のように思われる。微かな甘い匂いも男のものとは思えない。
 背後の人物は俺の身体に巻き付いた。背中に体温が当たる。その肉感からやはり女だと思った。ひまわり畑のあの人と、気持ちが同じだと知れた日のことを思い出す。後ろにいるのはあの人ではないか。肉感、空気感、体温。俺はそう思った。あの人だったら? 
 頭の中にひまわり畑が浮び上がる。今はもうない。今はもうソーラーパネルで黒光りしている。項垂れたひまわりたちが閉じ込められた一直線の迷路。俺は幼き日のようにそこに忍び込む。
 くすくす、と笑い声が聞こえて、あの子が自分の居場所を告げる。告白しよう。他の人ではダメだった、長続きしなかった。あなたしかいないと……
 けれど初めて出会った日のように空は暗くなり、遠雷が聞こえはじめる。
「ねぇ、いこうよ」
 ひまわりを隔ててあの人が言う。俺は茎や葉の間から覗ける白い肌と、細井肩で(たわ)む黒い髪に釘付けになる。
 俺は返事をしそうになった。けれど俺たちのいたひまわり畑は消え失せた。手拭いで塞がれた暗い視界があるだけだ。埃臭さと微かな女の匂い……そして俺を現実に引き戻す、細い腕のわりに力強い抱擁。長いこと続いた。

 鈴の音が鳴って、抱擁が解かれる。俺は一言も発さなかった。何も見やしなかった。知ろうとも思わなかった。小さな物音ともに、背後にいた人間が蔵を出ていくのが分かった。それからまもなくして祖母と大叔父が俺を解放する。

 物々しい空気で夕食を摂っていると、祖母と大叔父はあと数日、泊まるように強いた。どんな事情も許さないという有り様で。けれど理由も分からずに同意することはできなかった。
 俺が固辞すると、祖母と大叔父はやっと重い口を開いた。
 近いうちに、幼馴染の和子(よりこ)さんが亡くなるということ。俺はあの人に魅入られたのだということ……引き離すには、俺と和子さんが結ばれていることにしなければならなかったこと。和子さんの家と俺の家。どちらかの家の男子があの女に魅入られたときは女子を差し出してきたこと。
 葬式までここにいろと祖母は言った。

 そして実際、俺は和子さんの葬式に参列した。ひまわり畑のあの人が遺影になって和子さんの祖父の隣に飾られていた。

【完】