きっと、このままこの楽譜を返して音楽室を立ち去ればいい。

そうして瀬川くんの裏の顔さえ黙っていれば、
私はまたあの変化のない日常に戻れる。


そうするべき。分かってる。


ーーーでも。


でも、本当にあんな不慣れな手つきで、しかも苦しそうに演奏する瀬川くんに伴奏を押し付けていいの?

こんな現場を見たのに、見て見ぬ振りをするの?



…かつて、私がされたみたいに?



「…それ、」

気づいたら、私はそう呟いてピアノを指差していた。


「……どうするの、このままじゃ…」


口を開いたはいいけれど、どうはっきり言葉にしていいか分からず口籠る。
鍵盤から視線を上げた瀬川くんは、深く息をついた。


「どうするって…やるしかないだろ。もう期限は過ぎたし、今さら誰も出るわけない」


顔を歪めて苦く笑って吐き捨てる瀬川くんは、その普段よりぶっきらぼうな口調も相まってどこか新鮮だ。


「…本当に普段と違うね、瀬川くん」

「もう今更だろ、バラしたのに隠す意味ないから」

「……」

「…なに、失望した?」

ちょっと尖った声音。いつもは柔らかい目元も、今は鋭い。

もしかしたらさっきの言葉で、彼の機嫌を損ねてしまったのかもしれない。
決してそんなつもりで言ったんじゃないのだけど。