水曜日は午前で授業が終わる日。一般的には、水曜日は憂鬱な曜日とされてるけど、私にとっては一番待ち遠しい曜日になっている。
 なぜなら、彼に会いにあの店に行くから。
 カランコロンと音を立てて扉を開いた。
 「いらっしゃいませ」
 いつもと同じ微笑みを浮かべて、彼は私を迎え入れる。私もいつもと同じ笑顔になって入店する。
 この時間は本当にお客さんがいない。貸し切るつもりなんてないけど、毎回貸し切り。
 大学生の特権を存分に発揮させてもらってるなぁ。幸せをかみしめなきゃ。
 いつものください、っていつから言っていいのだろう。実は常連って思ってるのはこっちだけで、顔覚えられてなかったらめっちゃ恥ずかしいよね、って3回目に訪れたときに悩んだんだけど、そんな心配いらなかった。
 「いつもの、ですね」
 って彼が言ってくれたから。
 私、彼のおかげで成長して、コーヒーが飲めるようになったのかと思って、市販で売ってるコーヒーをこの前買ってみたんだけど、大間違いだった。
 
 「なにこれ、苦いんだけど」
 思わず顔をしかめて舌を出した。
 「当たり前でしょ。何言ってんのよ。コーヒーなんだもの」
 お母さんは驚いた私に驚いてそう言った。
 その時分かったんだ。私はコーヒーが飲めるようになったんじゃない。彼が淹れてくれるコーヒーだから飲めるんだって。
 魔法にでもかけられちゃったのかな。
 でも、とりあえず私は彼が淹れてくれるコーヒーを飲みたい。その一心で、毎週通うようになっていった。もちろん、彼自身に会いたいってのが本心中の本心ではあるんだけど。

 今となっては、いつものですねって確認すらされずに、私が入店するとすぐにコーヒーを淹れ始めてくれる。
 もうすぐ長袖では暑苦しい季節になろうとしている。
 「前から気になっていたんですけど、こんな時間にここに居て大丈夫なんですか。授業とか行かなくていいんですか」
 「はい。今日は午前中で授業が終わる日なので大丈夫です」
 そう答えながら、私は思った。彼こそ、この時間から働いていて大丈夫なんだろうか。見たところ、私と同い年くらいに見えるけど。
 「聞いていいですか。大学は行かないんですか」
 「そうですね。見ての通り、ここで働いてるんで」
 まあ、そうだよね。大学行きながらじゃ、さすがに働けないよね。このお店朝から開いてるし。
 「実は僕、母が他界してて…このお店も父と二人で続けてるんですよ」
 「あ、そうだったんですか…」
 「それで、父が外で働いているときは、こうやって僕一人で回してるんです。本当は、大学行ってみたいですけどねぇ。祖父の代から続くこの店を守っていきたい気持ちには勝てませんでした」
 そんな事情があったなんて。彼も大変なんだ。 なんだか、余計なこと聞いちゃったみたい。
 でも、聞けて良かったって思ってる自分もいる。彼が淹れるコーヒーがなんで美味しいのか分かった気がするから。気持ちがこもってるからなんだよね、きっと。
 「すいません。暗い話させてしまって」
 せっかくの時間なのに…。
 「全然。気になって当然のことですし」
 悲しい話のはずだけど、普段通りの声色で彼は話し続けた。
 「大学ってどんな感じなんですか。僕が行けない代わりに、色んなお話聞かせてくださいよ」
 彼は砕けた口調で笑みを浮かべながら言った。
 「まだ1年生なので、大した話はできないですけど、いいですか」
 「それじゃあ、僕と同い年ですね。ぜひ教えてください」
 そう言いながら、彼はコーヒーを差し出した。
 腕を組んで、私を見つめる姿が様になっている彼に話し始めた。
 敷地が広くて移動が大変なこと、授業が長くて眠たいこと、色んな方言の人と触れ合えること、どんな話も彼の脳裏には新鮮に映ったらしく、真剣な眼差しを向けながら、私の拙い話を一生懸命聞いてくれた。
 一杯のコーヒー分、楽しい時間を過ごした。

 待ちに待った水曜日。
 カーテンを開けたら、眩しい朝日が差し込んできて、私の部屋は希望の光で満たされていく。
 今日もきっと、幸せな一日になるんだろうなぁ。
 そう思ってスマホを手に取る。今日の授業はいつも通りか確認するのが、当たり前の朝の日課になっている。
 「え、嘘でしょ」
 たった今、私は突然の知らせに戸惑っている。
 「今日に限って…そんなことあるの」
 今日の授業は、先生が出張に行くから全部休講にするって、そんな…。
 「あの喫茶店、行きたいのに…」
 学校に近いからいつも寄ってたけど、わざわざ無い日に寄るのは、変だよね。
 いや、でも今日休講になったことは彼は知らないはずだし。行きたいんなら、行けばいいじゃない。そうだよ、私。
 てか、今日は朝から行けるってことじゃん!
 いつもとはちょっと違うお店の顔を見ることができるかも。そう思うと、なんだかわくわくしてきた。
 洋服ダンスを開けて、お気に入りの水色のワンピースを手に取った。うん、爽やかでいい感じ。
 いつもより時間もあるし、ゆっくり丁寧にメイクをして、普段は余裕がなくててきとうに縛ってる髪の毛も巻いておろしてみる。 
 鏡越しの自分と目が合った。
 「うん、いい感じ」
 さあ、今日も彼に会いに行こう。

 カランコロンと音を立てて扉を開いた。
 いらっしゃいませ、っていつもなら聞こえるはずなのに、店内はしんと静まり返っている。
 もしかして、まだ営業時間じゃないのかも。
 「あのー、店員さんいませんかー」
 「あ、すいません。いらっしゃいませ」
 カウンター席の向こう側に座っていたらしい彼が立ち上がって、顔をのぞかせた。
 「小説を夢中で読んでたら、つい…」
 彼の右手には、文庫本が握られている。
 海外の小説家の推理小説らしい。
 「なんか邪魔しちゃったみたいで、すいません」
 せっかくの彼の時間だっただろうに。申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、入口にずっと突っ立ってるのも邪魔だろうから、とりあえずいつもの席に向かう。
 「いいえ。お客さん、今日は早いですね」
 「今日は大学がお休みになったので、早く来ちゃいました」
 「なるほど。じゃあ今日はいい日ですねぇ」
 そう言って彼は微笑む。その笑顔を見ると、自然と頰が熱くなる。
 「そうですね。嬉しいです」
 照れちゃうしどきどきしちゃうけど、そのくせ私もつられて笑顔になってしまう。
 私が席につくと、今日は彼もカウンター越しの椅子に座った。頬杖をつきながら、彼は私をまじまじと見つめている。恥ずかしくて顔から火が出そう。彼の目に吸い込まれて、このまま時が止まってしまいそう。上手く息が吸えない。
 「だからかな。今日かわいいですね。いつもと雰囲気が違って」
 え、今か、かわいいって言った?
 どうしよう。やばい、嬉しすぎるけどもう限界。思わず目を逸らした。
 「あ、いや違いますよ!いつもかわいいんですけど、今日はよりかわいいっていうか、なんていうか」
 私が機嫌悪くなったと思ったのか、どんどん言葉を付け足していく。逆効果すぎる。
 「あ、わかりました。髪型を変えたんですね。結んでるのももちろん似合ってます。でも、下ろしてるのもかわいいんですよね」
 「もう、やめてください…」
 耐えきれなくて、自分の顔を両手で覆った。恥ずかしすぎる。今顔真っ赤に違いないもん。
 心臓が飛び出してしまいそうなほどうるさく暴れている。
 「もしかして、馴れ馴れしすぎですか。気を悪くしてしまったならごめんなさい」
 「怒ってるとかじゃないんです。ちょっともう、嬉しすぎて。店員さんがかわいいとか言ってくれると思ってなくて、心臓が限界です…」
 一気に店内がしんとして、私の心臓の音だけが私の鼓膜を揺らしている。
 彼を見るようにちらっと指の隙間から様子を伺うと、今までに見たことのない表情を浮かべていた。思わずどきっとした。
 「なんだ、そういうことですか」
 ふうん、と彼は呟いた。
 不敵な笑みを浮かべたまま、腕を組んだ。
 「お客さん照れちゃったんですね。かわいい」
 どうしよう、彼のペースに乗せられたまま抜け出せないんだけど。私はどうすればいいのだろうか。
 そうだ。作業を始めてくれたらそっちに集中してくれるんじゃないかな。
 「もうっ、早くいつものコーヒー淹れちゃってください」
 「はいはい、分かりました」
 まだ私を振り回しまくった後で楽しそうな声で彼は返事をした。
 「うーん、でも淹れちゃったらいつものように飲んでお客さん帰っちゃうでしょ」
 「はい、そのつもりですけど」
 帰っちゃう、って表現してくれるってことは、帰ってほしくないって思ってくれてるってことだよね…?
 「せっかく早く来てくれたのに、すぐ帰っちゃうのは残念ですね…」
 所詮は店員さんとお客さんの関係の私たちだから、私は一杯のコーヒーの分だけ、彼に会いに来る。逆に彼は一杯のコーヒーの分だけ、私に会って話をしてくれる。たったそれだけの関係。
 来てくれるお客さんに感謝するのは、店員さんという立場としては当然のことだと思うの。
 だけど、帰ってほしくないって思ってくれるのは、きっと店員さんとしてだけじゃなくて、人として私と過ごす時間を少しは楽しんでくれてるって証なんじゃない。 
 そう思っちゃうのは舞い上がりすぎなのかなぁ。
 「あ、そうだ。こういうのはどうです」
 「なんでしょ」
 良いことを思いついたのか、悩んでいた彼の表情はもうなく、今は喜びをにじませている。
 「せっかくなので、少し早めのお昼ご飯も食べてきませんか。食べ終わったら、珈琲を飲むっていうのはどうでしょう」
 「いいですね!食べたいです」
 これで今日は長く一緒に居られるんだ。
 彼の素敵な提案に心が踊る。
 「何食べたいですか。メニューどうぞ」 
 渡されたメニューを受け取ろうとすると、彼の手に少しだけ触れてしまって慌てて手を引っ込めた。私より少しだけ温かかった。
 メニューを開くと、オムライスにナポリタンにサンドイッチに…どれも美味しそうで迷っちゃう。
 「じゃあ、オムライスお願いします」
 「はい、心を込めて作りますね」
 彼は優しく微笑みながら言った。
 その表情は、いつもより眩しく見えた。
 その後私は、一杯のコーヒー分よりも長く楽しい一日を過ごした。