カランコロンと音を立てて扉を開いた。
 そこには、コーヒーの豊かな香りする空間が広がっていた。この空間だけ時間の流れがゆったりしているように感じるほど、落ち着く雰囲気の店内。
 それほど広くない店内だから、彼の顔がはっきりと見える。
 「いらっしゃいませ」
 目が合うと彼は微かに微笑んで、今日も言った。
 私もいつものように、微笑み返した。
 私は〇〇。この春大学生になったばっかり。
 彼との出会いは、桜がきれいに咲き誇っていた今年の4月に遡る…。

 あれは、春の日差しが柔らかく降り注いで、ぽかぽかする日だった。大学生になってから1週間が経とうとしていた。
 今日は授業が早く終わる日だから、今はまだお昼過ぎの時間。このまま真っ直ぐ家に帰るのは、なんだかもったいない気がするな。せっかくだから、どこかに寄り道してから帰ろうっと。
 でもさすがに新生活で疲れちゃったし、どこかゆっくり時間を潰せるところがいいな…。
 でも目に入るのは、カラオケに飲食店のチェーン店の数々ばっかり。
 うーん、やっぱり帰ろうかな。
 そう思った瞬間、少しだけ風が強くなって、桜の花びらがたくさん舞い散っている場所を見つけた。
 なんだか無性に惹きつけられて、その場所まで歩いた。
 桜の木々の隙間から除くと、少し奥まったところに、小さな建物があるみたい。1階建ての木造の建物。
 すごく魅力的な場所に感じて、気づいたら扉を開けていた。
 扉はカランコロンと音を立てて開いた。
 「いらっしゃいませ」
 私が店内に入るなり、彼は穏やかな声でそう言った。__なんて、きれいな人なの。
 男の人を形容するのに使うのはちょっと違う気もするけど、そう表現するのがぴったりな人なの。
 「お好きなお席にお座りください」
 平日の昼だからか、店内にお客さんと思われる人は一人もいなかった。
 「あ、はい…」
 テーブル席ももちろんいくつかあるし、今なら4人がけの席を一人で広々使うこともできるけど…こんな機会めったにないだろうから、カウンター席に腰掛けた。
 目の前には、少しずつ色が違うコーヒー豆が入った瓶がいくつかとコーヒーを入れるセットやよくわからない機械が並んでいる。
 「ご注文が決まりましたら、またお声がけください」
 そういうと彼は、壁に寄りかかって腕を組んだ。そして目線を窓の外の散りゆく桜に向けた。
 なんだろう、それだけでもう絵になるような人。思わず見とれていると、それに気づいた彼と目が合った。
 「え、えと、おすすめとかありますか。私このお店来るの初めてで、何頼もうか迷っちゃって」
 あなたに見とれててメニューを見てなかった、なんて口が裂けても言えないから、言い訳するように咄嗟に言葉を出した。 
 「そうですね…普段珈琲はお飲みになります?」
 心が落ち着く声で彼は聞いてきた。
 「いや、あんまり飲まないです。苦いのは苦手で…」
 喫茶店に入ってきていてなんて客なの、って自分で自分が恥ずかしくなる。明らかに身の丈に合ってないお店に入ってきちゃったな。
 その時、彼はふっと笑った。
 「そんなに申し訳無さそうにしなくていいですよ。安心してください」
 そういうと、彼は動き出した。
 「珈琲って一般的には苦い飲み物ってイメージが強いんですけど、実はそうでもないんですよ」
 「へっ?な、何言ってるんですか」
 そんなわけないじゃん。苦いもんは苦いもん。
 「珈琲豆の種類によって全く違う味がするんです。あと、入れる手順がちょっと違うだけでも味が変わるんですよ」
 「そんなんで苦くなくなるんだったら、とっくに飲めるようになってますよ」
 ちょっぴりふてくされて私は言った。なんだか馬鹿にされてる気がする…。飲める人には分かんないんだよ、きっとね。苦味に慣れすぎちゃってるから感じなくなっちゃったんだよ。
 「百聞は一見に如かずって言うでしょう。まあ、騙されたと思って一杯飲んでいってください」
 何を言われても余裕って雰囲気で彼は言った。少し微笑みながら、慣れた手つきでコーヒー豆を挽いていく。
 彼の白くてしなやかな指先の動きを見てると、確かに美味しいコーヒーが飲めるんじゃないかって予感がしてしまうから不思議。魔法でもかけられちゃったのかな。
 そう思っていると、突然店内に豊かな香りが広がった。嗅ぐだけで心が満たされるような気分になる。
 「いい香りでしょう。豆にお湯を注ぐときに広がるこの香りが僕はたまらなく好きなんです」
 好きって言葉に反応して、反射的に耳が熱くなる。私のバカ。
 「た、たしかに。ほんとに素敵な香りですね」
 嘘ついてるわけじゃないのに、焦って声が上ずる。そう言って顔を上げると、嬉しそうな彼と目が合って、耳だけじゃなくて頬も熱くなっていく。
 「お待たせしました。僕が心を込めて淹れた珈琲、ぜひ飲んでみてください」
 コーヒーを差し出す手は、爪まで美しく整えられている。女の子の私も羨ましく思うくらい、細くて長い指をしてる。
 「ありがとうございます」
 そうは言っても、やっぱり苦そう。せっかく丁寧に淹れてくれたのに、微妙な反応するのも申し訳ないけど、私顔に出ちゃうからなぁ。
 恐る恐るコーヒーカップに口をつけて、コーヒーを口に含んだ。
 「え、苦くない!なんで…」
 まろやかな口当たりで、後味はすっと引く感じがして、苦味はどこにも見当たらない。
 「ほんとに美味しいです。ちょっと悔しいけど」
 びっくりしながら彼の顔を見ると、そんな私の様子をさぞかし嬉しそうに見守っていた。
 「よかった。予想よりもいい反応見せてくれて」
 この日から、私はこの店の常連になるのだった。