壱     麦秋至《むぎのときいたる》









 早朝、小国 鷹鞍《たかくら》の城下町は霧が立ち込め雲海に没していた。

 周囲を囲む山並みは、海に浮かぶ小島のようである。

 佐貫《さぬき》 椿《つばき》は、自分の誕生に合わせて建築された別邸椿庵に、昨晩から滞在していた。

 小高い山の頂に建つ椿庵は、質素な武家造りで、屋敷の殆どをくれ縁で囲む。生垣には椿が植えられ、庭には桜や梅、紅葉や松など季節が巡る度に風情を楽しめた。瓦葺には鬼瓦が、鐙瓦《あぶみがわら》には椿の花紋が施されていた。

 その黒瓦が、東雲に染まる。

 季節は、桜の葉が繁り雨の多い頃。

 椿は、雲海を眼下に眺めながら剣を振る。美しい所作は、朝の寂光を浴び、あたかも仙女が舞うようであった。

 ここ鷹鞍の地は、周囲を四つの国に囲まれた小国である。平地が少なく、産業にも農業にも恵まれない土地であったが、険しい山々に阻まれた隣国同士を繋ぐ、交易中継地として栄えていた。そのため周辺国からは、領地を侵される危機にたびたび見舞われたが、今の領主佐貫定常の類稀な采配にて、安寧の日々を得ていた。

 その娘椿は、二十歳になる。美しい娘であったが、色恋疎く幼少より剣に夢中である。

 日が登るにつれ、下界の霧は晴れていった。雲間から伸びる日の光が、濡れた山地を乾かしていく。

 幼い兄弟たちが目を覚ます頃には、街道を行く商人たちの往来が、民草たちの営みが垣間見えた。

 五歳になる弟が、二歳になった妹を連れて椿にまとわりついた。こうなると剣は振れない。椿は、刀を鞘に収めると妹を抱き上げた。娘でもおかしくない歳の差である。可愛くて仕方なかった。

姉様、姉様と、弟が椿の手を取り、まるで世界で初めて発見したかのように、草葉に潜む小さな生き物を姉に紹介する。滅多に地上に顔を出さない螻蛄《けら》を見つけた時には、大歓声を上げ、宝物にすると姉と天に誓った。

「きっと、また会いに来てくれますから、土に戻してあげましょうね」

 幼い弟は、年の離れた姉に諭され渋々螻蛄を放つ。

「ねぇーたま。ちょーちょ」

 椿の首にしがみついている妹の小さな手が、空に旅立つ紋白蝶を指さす。椿は妹を抱きなおし、その額に口づけをした。

「さぁ、ご飯にしましょう」

椿庵の炊事場では、朝食の煙が上がっていた。早朝に世話係の母娘が訪れて、支度をしている。

 そろそろ頃合いであろう。椿は片手で妹を抱き、弟の手を引いて炊事場に向かった。

 世話係らと、お膳の仕度をする母に、侘びながら幼い兄弟たちを預ける。

 汗をかいていた。桶に水を汲むと、奥の座敷で白い小袖と色の袴を脱ぎ汗を拭う。 

 障子越しの朝日に白い肌が照らされ、ぼんやりとした光を放っていた。まるで鱗粉に包まれているような、淡い光である。



 朝食が済むと、幼い兄弟たちは庭で遊び始めた。椿と母は、居間の縁側に並んで座り、たわいもない話を交えながら、幼子を眺め楽しむ。

 世話係の母娘は、昼食の準備を済ませると昼前には自宅に帰っていった。彼女たちが次に訪れるのは、夕食の支度のため夕方になる。

 遊び疲れて甘える幼子達に、簡素な間食を食べさせると、椿は書見台を用意して書を読み始めた。

 時折、庭先の花木に訪れる目白や雀などに目をやっては、微笑して鳴き声を真似た。

 母は、幼い兄弟たちを奥の寝室へ連れて行き、寝かしつけている。

 心地よい陽気は、椿を眠りにいざなう。書見台に向かいながら小さく欠伸をすると、うとうととした。

 遠くで蹄の音がする。だんだん近づいてくるそれは、木戸の前で止まった。

 来客に気づいた椿は、手で口元を整えると門まで出迎えた。

 客は、剣術指南役の三賀義道《さんがよしみち》と連れの男二人である。

 三賀と連れの二人は、上等な直垂姿で城勤めと言われ疑いようのない品位を伺える。しかし、常に獲物を探す獣のような野性味ある眼光は、に立つのような圧倒する威圧感があった。

 椿は、男たちの刺さるような眼差しも、今にも切りかかってきそうな雰囲気にも気圧されない。

 すまし顔で来意を訊くと、剣術の稽古試合に椿の参加が急遽認められたため、詳細の説明に参上したとのことであった。

 それを聞いた椿は、歓喜して三人を招き入れる。毎年参加を切望してきたが、五年ぶりに参加を許されたのだ。

 奥で母と幼い兄弟たちが寝ているため、静粛を求める。

 この三賀という男がこの国に勤めてから、城で剣を学ぶことも帯刀も禁じられてしまった。内心快く思ってはいなかったが、歓喜がそれを忘れさせた。

 三人を先ほど読書していた居間に案内すると、三賀に着座を促し正座した。

 椿が話の先を促すと、三賀は居間の入口に留まり、読んでいた書を訊ねる。

 二人の連れは何故か座敷には入らず、次の間に座しているようであった。椿は、遠慮の無いよう二人に声をかけたが、返事はなかった。

 椿は、たいしたものではないと、照れくさそうに微笑し、三賀に背を向け書を膝下に置いた。

 そして、書見台をどけようと手をかけたとき、三賀は音もなく抜刀し背後から椿の首を斬り落としたのである。

 束ねられた髪が、三賀の鼻先をかすめ畳の上に落ちる。

 胴から離れた首から先は、縁側に落ちると庭の中程まで転がった。

 頭部のない胴体は、首から鮮血を噴きながら前のめりに倒れる。

 庭に転がった椿の顔は、虚な眼差しで三賀を見ていた。

 三賀は、刀身の血糊を懐紙で拭うと納刀し、足袋のまま庭に降りた。丁寧に椿の頭部を拾いあげる。

 新しい懐紙で顔に着いた血を拭い土を払うと、瞼を指で押さえて目を瞑らせた。

「姫様、申し訳御座いません」

 三賀は、椿の頭部を縁台に置くと手を合わせた。

 座敷に上がり、うつ伏せに倒れている椿の胴体を抱き起こし、畳の上に寝かせる。両の手を味噌落ちあたりで組ませると、乱れた足元と、着物をなおした。膝で縁側に戻り、神物でも扱うように椿の頭部を取り上げると、胴体の首元に据える。

 深く息を吐き、合掌した。

 隣室に、二人の気配が戻る。

「済ませたか」

 三賀がそう尋ねると、一人が答えた。

「終わりました。ぐっすり眠っていたので、難儀ありませんでした」

「整えてきたのであろうな」

三賀がそう尋ねると、二人はしばらく沈黙した後、一人が奥の座敷へと戻って行った。

「椿姫様、綺麗だったのにな」

 残った一人がそう言って座敷に入ると、椿の足元で腰をかがめた。

「もったいない」

 男が椿の着物の裾をめくりあげると、三賀は刀の鯉口を切った。男は慌てて着物の裾から手を離す。

「冗談ですよ。冗談、怖いな」

男は笑ったが、三賀は男を睨みつけていた。

「鎧と刀を、探してこい」

「奥座敷にありましたよ。今持ってきます」

 男が居間をでると、三賀は庭に降りた。土の黒い染みを見つめながら、大罪を犯したと呟いた。

 ほどなく二人が戻ってきた。一人が刀を、もう一人が甲冑を持っている。朱い鞘の太刀と脇差、それと朱色の甲冑である。

「これ、売ったらいい金になりますよ」

「処分しろとの命令だ」 

 とは言え、持ち出しては人目につく。

 三賀は、庭に目をやる。井戸が目に留まった。

「あの井戸に捨てろ」

 三賀がそう命じると、二人は渋々したがう。

 三賀は庭に降りて、一人が刀を井戸に放るのを見守る。背後で、遠雷を聞いた。三賀は、西の空を眺める。雨が近い。目を井戸に戻すと、甲冑を投げ込むところであった。三賀は、戦慄する。

 甲冑の草摺に椿の髪が絡み、頭部がぶら下がっていたのである。

 待てと制すも間に合わず、椿の頭部は甲冑諸共井戸に投げ込まれた。

 三賀は激昂して、甲冑を投げ入れた男を殴りつけた。椿を辱めようとした男である。斬り捨ててもよかった。

 井戸を覗き込むも何も見えなかった。高台の井戸は深い。

「貴様、姫様の御頭も投げ入れたのだぞ」

 三賀の怒りはおさまらない。殴られた男は、額を地面につけて詫び続けた。

 雨が降ってきた。

 時間が無かった。じきに世話係が戻ってくる。鉢合わせて騒がれたら斬らねばならない。 



 世話係の母娘は、足速に椿庵に続く坂を登っていた。

「お母さん。急いで、濡れてしまう」

 娘が先を行き、続く母を急かした。

 坂の上から、馬に乗った侍が三人駆け降りてきた。すれ違った時に、先頭の三賀に気づいた。

「三賀様だ。何か御用かね」

 母親は、怪訝に思い娘に訊ねた。聞こえなかったのか返事はない。

 雨は、段々と強くなる。

母娘が椿庵にたどり着いた時、雨は本降りとなった。二人は慌てて木戸をくぐる。

「やや、危なかった」

 母親は、息を切らせながら安堵の声を漏らした。

 椿庵は、ひっそりと静まり返っている。

「静かだね。まだお昼寝しているのかしら、こんな時間まで寝ていたら、夜眠れなくなっちまうよ」

 濡れた着物の露を払いながら、母親がそう言うと、娘が声を掛けてくると奥の座敷に向かった。

 母親は、薪をくべようと竈門にむかう。

 突然、今まで聞いたことのない娘の叫び声が響いた。

 母親は、何かあったと察する。先程すれ違った侍達が脳裏によぎった。

 恐る恐る座敷に向かうと、入り口で震えながら泣きじゃくる娘を見た。何か言おうとしているが、言葉にならない。

 母親は、固唾を飲んで寝室に入った。

 そこには、頭部を切断された親子三人の胴体が川の字に並べられ、枕元に頭部が三つ置かれていた。

「な、なんて酷い事を」

 母親は、その場に座り込み嗚咽を漏らした。

「こんな、小さな子まで」

 母親は、椿を思い出す。

「ひ、姫様は」

 廊下を這いながら、母親は居間に向かう。娘もその後を追おうとするが、うまく進めない。

 そして、娘は母の断末魔のような悲鳴を聞いて絶望する。

 号泣しながら母を追う。なんとか座敷の前に辿り着き、廊下で母を呼ぶ。座敷には入れなかった。

 母親が座敷から這い出てくると、娘に懇願した。

「はやく、下に行って、お父《とう》を、呼んできて」

 切れ切れに、そう言葉にするのがやっとだった。

 娘は頷き、草履を履こうとしたが、履けないため裸足のまま椿庵をでた。何度も転んで、転がりながら坂を降りた。

 土砂降りの雨の中。



 二人の男が、椿庵に向かう坂を重い足取りで登っていた。世話係の亭主と息子である。急がねばと気は急くのに、見たくもない現実がこの先にある。何かに背を引かれるようだった。事情は、ずぶ濡れで帰宅した娘から聞かされている。悲しんでいる場合ではなかった。自分達の身の安全も考えなければならない。

 雨は、ますます勢いを増し容赦なく降り続ける。椿庵にたどり着くと、屋敷の木戸の前にずぶ濡れの妻が座り込んでいた。亭主と息子の姿を認めると、幼い娘のように泣きじゃくった。

 亭主は、持参した蓑を妻に被せる。

「後は俺たちがやる。お前は、家に戻って仕度をしろ。しばらく俺たちも姿を隠さなければならない」

 妻は頷き、殿様には知らせたのかと答う。

 亭主は、かぶりを振った。

「領主は変わったのだ、五日条信政《いつかじょうのぶまさ》様に」

 妻は、溜息のような声を漏らし項垂れる。

 亭主は、意を決して屋敷に入ろうとしたが、妻がその袖を引いた。

「姫様のお顔が見つからないんだ。どこを探しても」

亭主は頷いて了承すると、妻を帰宅させた。深く息を吸い込み、覚悟を決め屋敷に入る。

 あまりにも凄惨な屋敷内の光景に、血の気が引いた。息子は声を上げて泣き、今は裏庭に遺体を埋葬する穴を掘らせている。

 亭主は、屋敷の隅々まで椿の頭部を捜したが、見つからなかった。三賀達が持ち去ったとしか考えられない。侍とはいっても、三賀以外の男は山賊上がりのならず者だ。美しい椿の顔を、愛でるか慰みの為に持ち帰ったのであろう。

 幼い子供の切り取られた頭部を、見るのも触れるのも、耐えがたい苦痛であった。歯を噛みしめて、込み上げる感情を噛み殺した。 

 穴を掘る作業は、大雨のため難儀しているようであった。それでも、椿と母と子供二人の亡骸を運び出した頃には終わっていた。

 屋敷を背に左から椿、母の順に埋葬した。二人の子は、母親に抱かせるようにしてやった。椿とその母親の体型はよく似ている。あとで掘り起こす事を考慮して、椿を埋葬した盛土の上に、手近にあった木の枝を刺した。

 雷鳴響く激しい雨であった。



 鷹鞍の主城城の一室である。

 豪華な装飾などはない質素な座敷であるが、手入れは行き届き、厳かな雰囲気が漂う。

 この座敷は、城の要職が集まり懇談や議事をしたり、来客との対面などに使われる広間である。その広間の上段の間に、萌黄色の直垂に烏帽子姿の男が坐している。

新たにこの国の領主となった五日条信政いつかじょうのぶまさは、三賀らの報告を受けていた。

「大儀であった。大義ついでにもう一つやってほしい事がある」

 五日条が目配せをすると、大きな桶が運び込まれた。三賀は立ち上がると、覗きこむ。中には、領主であった佐貫定常の亡骸が無造作に詰め込まれていた。

「これを、どこか人目のつかぬ所に捨ててきて欲しい」

 五日条が、桶の縁を扇子で叩きながら言う。

 三賀は躊躇したが、御意とだけ答えた。

 部屋を出ると、三賀のもとに五日条の息子、光が血相を変えて駆け寄ってきた。

「三賀、椿様の事は本当か」

 三賀が黙って頷くと、光はその場で泣き崩れた。

 光の泣き声を聞いて座敷から出てきた五日条信政は、激しく息子を叱責する。

 その様子を背で聴きながら、三賀達は去った。



 夜が進むと、雨は小降りになった。椿庵に人の気配なく、雨が屋根瓦を叩く音が響く。

 世話係の亭主と息子が、去り際に戸締りをしたので、すべての窓や戸は閉められていた。雨は、作られて間もない墓の盛り土を濡らしている。

 月光が、雲の隙間から漏れた。

 雨が止む。

 虫たちの声もない。

 風もなく、木々のざわめきも消えた。

 井戸が、三日月の薄明かりに照らされた。

 井戸の底、奥深くから微かな音がする。

 井戸の壁を、乾いた物で叩くような音。

 音は、徐々に井戸を登ってくる。大きく、はっきりと聞こえてきた。

 無数の黒い糸のような物が、井戸から噴出し、井戸の縁を掴んだ。続いて、鎧の手甲が現れ縁を掴む。うめき声とともに朱色の甲冑が、井戸から這い出す。覚束ない足取りで立ち上がると、震え掠れた声を絞り出した。

「ゆるさん」

 月に照らされ、朱色の兜が鈍い光を放つ。

 鎧の隙間からは、黒い糸が覆い尽くしているのが見える。

 朱色の甲冑は、天を仰ぎ咆哮した。 

「ゆるさんぞ、三賀ぁぁぁぁぁ」



 再び雨が激しく降りだし、いくつもの稲妻が空を走った。

 その轟音が、輻輳して鳴り響き、山が揺れる。

 雲間から見えていた三日月も、今はもうない。