「それはまた、おいおいな」
「……だめなの?」
「まずはちゃんと食事をして、睡眠をとれ。昨日から寝てないんだろう」
その言葉に急に眠気を感じて、シェイラは大きな欠伸をした。お腹も空いているけれど、それより先に眠りたい。
「確かにそうですね、万全の態勢で臨まないと。睡眠も食事も大事だって、身に沁みました」
「そこまで気負わなくてもいいけど」
笑いながら、イーヴが横になるようにと促す。頭を撫でてくれた手を、シェイラは離れて行かないように捕まえた。
「眠るまで、そばにいてくれますか?」
「もちろん。どこにも行かないから」
その言葉を示すようにイーヴは指を絡めて手を繋いでくれる。ぬくもりを逃さないようにぎゅうっと握りしめて、シェイラは目を閉じた。一人だとあんなに寂しくて心細くて、凍えてしまうほどに冷たかったのに、イーヴのぬくもりがあるだけで安心できる。
握りしめた手に一度口づけを落として、シェイラはあっという間に眠りに落ちた。
いい匂いが鼻をくすぐって目を覚ますと、まず視界に入ったのはイーヴの姿。手は繋がれたままで、ずっとここにいてくれたのだろうと思うと、胸の奥があたたかくなる。窓の外は暗く、月が見えているのでかなりの時間眠っていたようだ。
「おはよう、シェイラ。よく眠れたか」
「おはようございます。すごくすっきりしました。やっぱりイーヴのぬくもりがないと、眠れない」
「さらりとシェイラはそういう可愛いことを言うから困るな」
困ると言いながらも、イーヴの表情は明るい。繋いだ手に引っ張ってもらって身体を起こすと、テーブルの上には食事の準備が整っていた。いい匂いがしたと思ったのは、これだったようだ。シェイラが好きだと言ったものばかりが並んでいて、きっとアルバンにも心配をかけたのだろうなと申し訳なくなる。
「丸一日何も食べてないだろうからと、アルバンが食べやすいものを用意してくれた」
「美味しそう!」
並べられた料理に目を輝かせるのと同時に、空腹を主張するように胃が大きな音を立てたから、シェイラは真っ赤になってお腹を押さえた。
「食欲が戻ってよかった」
くすくすと笑いながら、イーヴがシェイラを抱き上げるとテーブルへと移動する。そのまま彼は椅子に座ると、膝の上にシェイラを乗せた。
「イーヴ、あの」
「まだ体力が戻り切ってないだろうからな。食べさせてやる」
「で、でも」
これまでとは違う距離感に、シェイラは戸惑いを隠せない。顔はずっと赤くなったままで、恥ずかしくてたまらない。
「シェイラを甘やかしたいんだ。本当はずっと、こうしたかった。だめか?」
「だめじゃないけど……何だか、恥ずかしくて」
「俺は重たい男だと言っただろう。いやというほどシェイラを甘やかしたいし、こうやって色々と世話をしたい。俺なしではいられなくなってほしいとすら思うのに」
イーヴの言葉に、シェイラの身体はどんどん熱くなる。こんなにも態度で気持ちを示してくれる人だったなんてと驚くけれど、シェイラだってそれが嫌なわけではない。
「まだちょっと恥ずかしいけど、頑張って慣れるように……します」
羞恥心を堪えて、食べさせてとねだって口を開ければ、満足そうに笑ったイーヴがスプーンを口に運んでくれた。
食事を終え、一度部屋に戻ると言ったイーヴを見送ったあと、シェイラは身体を清めることにした。寝不足と泣きすぎで腫れた目は、少しましになったもののまだ赤い。涙を拭ったことが刺激になったのか頬もかさついていて、エルフェが念入りに保湿をしてくれた。彼女は何も言わないけれどイーヴから話は聞いているだろうし、きっと心配してくれていたのだろう。シェイラの表情が明るく戻っていることに、安堵の表情を浮かべていた。
寝衣に着替えてイーヴの部屋を訪ねると、嬉しそうな彼に出迎えられた。眠るにはまだ少し早い時間だからと、蜂蜜入りのホットミルクを淹れてくれる。対するイーヴは何やら変わった香りのお酒を飲んでいて、どんな味がするのだろうと興味はあるものの、苦いコーヒーで懲りているシェイラは黙って見つめるのみだ。
甘いホットミルクを飲みながら、シェイラはちらりとベッドの方に目を向けた。お互いの想いが通じ合ったのだし、今日こそ形だけの花嫁ではなく本当の夫婦になるべきではないだろうか。
念のためいつもよりもしっかりと身体を洗ってきたし、エルフェが準備してくれた寝衣は、露出こそ少ないものの脱ぎ着しやすいものだ。食事も睡眠もとったし、体調は万全だ。
「あのね、イーヴ」
「シェイラ」
勇気を出して呼びかけたら、イーヴの声と重なった。改まった口調に、シェイラは思わず姿勢を正す。
「なぁに?」
「これを、もらってくれるか」
どこか緊張したような面持ちで差し出されたのは、細身のバングル。青く透き通ったその色は、イーヴの鱗によく似ている。
「わぁ、すごく綺麗。もらっていいんですか?」
「できたら、ずっと身に着けていてほしい。これは、俺の鱗から作ったものなんだ」
「やっぱり! そうじゃないかなって思ったの。嬉しい! イーヴの鱗は、本当に綺麗だもん」
「シェイラは、いつも褒めてくれるな」
照れくさそうに笑いながら、イーヴがバングルを左腕にはめてくれる。光にかざしてそれを確認したシェイラは、嬉しさのあまり目の前のイーヴに抱きついた。
「ありがとう、イーヴ。とっても嬉しい。大切にします」
耳元で囁くと、彼も嬉しそうに小さく笑った。
「だけど、私はイーヴにもらってばかりで、何も返せないのが申し訳ないです」
「そんなことない。俺はもう、シェイラからは、たくさんのものをもらってる」
何かあっただろうかと首をかしげるシェイラに、イーヴは笑って指を立てた。
「俺のことも、竜族のことも怖がらずにいてくれて、俺たちを受け入れてくれたこと。何をするにも嬉しそうに笑ってくれること。あぁ、食事を作ってくれたこともあったな」
「それはそうなんだけど、私も何かイーヴにあげたいなって思うの」
イーヴに褒められて嬉しい気持ちはあるけれど、シェイラだって何かもっと特別なものをイーヴにあげたいと思う。
だけど、身一つでドレージアに来たシェイラは、イーヴにあげられるものを持っていない。
何かなかっただろうかと考え込んだシェイラは、思いついた考えに満足して勢いよく顔を上げた。
「いいこと思いつきました!」
「そんなに無理して考えなくてもいいのに……。でも、シェイラが何をくれるのかは気になるな」
くすくすと笑うイーヴに向けて、シェイラは満面の笑みを浮かべた。
「私の身体を好きにしていいですよ、イーヴ」
「そっちか」
額に手をやってため息をつくイーヴ。何だか既視感のあるやり取りだけど、今日こそは引かないつもりだ。
「大丈夫です、食事も睡眠もしっかりとったから体調は万全だし、痛いのだって覚悟はできてます」
「そういうのは、もう少し雰囲気とかあるだろ……」
「いい雰囲気なんて、どうやって作るか分かんないんだもの」
「いや、だからシェイラ、あ、ちょ、待て……っ」
呆れたようにため息をついていたイーヴだけど、シェイラが彼のガウンに手を伸ばした瞬間、慌てたように声をあげた。
「ね、私を抱いて?」
「……っ、シェイラ、だめだ」
伸ばした手を、イーヴが止めるように握りしめる。その手は熱いし、見上げた彼の顔も真っ赤だ。
「どうして止めるの。一応、手順は頭に入ってるので大丈夫ですよ」
「だめだって。本当に自制が効かなくなってしまう。っていうか、手順なんてどこで覚えてきた」
「本で読みました。ラグノリアでは、恋愛小説が流行っていたんですよ。初夜でどんなことをするのかも、しっかり予習済みです!」
いつも妹のマリエルが持ってきてくれる本を、楽しみにしていたのだと話すと、イーヴは顔を覆ってため息をついた。
「随分と過激な本が流行ってるんだな。信じられん」
「ね、だから私に任せて。きっと気持ちよくなれるように頑張るから」
「ちょ、待て待て待て、だから服を脱がそうとするな……って!」
再びイーヴの方に手を伸ばしたら、血相を変えて止められてしまった。
「どうして? もう我慢なんてしなくていいでしょう。本当の夫婦になりたいって言ったのはそういうことじゃないの?」
「いや、ゆくゆくはそうなれたら……とは思うけど、こういうのは段階を踏んでだな」
「段階?」
首をかしげたシェイラを見て、イーヴは深いため息をついた。
「シェイラは初めてだろう。前にも言ったが初めての場合、女性は特に痛みや苦痛を感じることが多い。これでも、理性を失ってシェイラを襲わないように必死で耐えてるんだ。触られると、その……、我慢にも限界がある」
「私は別に、構わないのに」
「シェイラは小さいし華奢だから、乱暴に触れたら壊してしまいそうで怖い。傷つけたくないんだ」
首を振って、イーヴは身体に篭る熱を吹き飛ばすかのように息を吐いた。そして、シェイラの身体をひょいと抱き上げるとベッドへと連れて行った。
ぽすりとシーツの上に下ろされて、シェイラは戸惑って瞬きを繰り返す。まさかこのままもう寝ろということだろうか。
不満が顔に出たのか、イーヴが小さく笑ってシェイラの唇を突く。どうやら無意識のうちに尖らせていたらしい。
「可愛いシェイラを、大切にしたいんだ。もっともっと大事にして、甘やかしたい」
「もう、充分甘やかしてもらってるのに」
「まだまだ足りない」
そう言って、イーヴが触れるだけの口づけを落とした。それだけで、シェイラは何も言えなくなる。この甘いキスをもらうと、身体から力が抜けてしまうから。
「シェイラ」
身体の上にのしかかるような体勢で、イーヴが囁く。
「俺がどれほどシェイラを愛しているか、伝えさせて」
にこりと笑ったイーヴは、いつもの優しい表情をしているのにどこか怖い。本能的に危険を察知したシェイラがずり上がって逃げようとするものの、イーヴの手と大きな枕に阻まれた。
「ま、待ってイーヴ、何……っひゃっ」
何をする気なのかと問おうとした声は、イーヴが首筋に顔を埋めたせいで裏返った悲鳴に変わってしまう。おそらく彼の唇だろう、首に熱く柔らかなものが触れるせいで、シェイラの口からは何度も悲鳴がこぼれ落ちる。
「シェイラのそんな声を聞ける日が来るなんて」
「や、恥ずかし……」
「もっと聞かせて」
笑みを含んだ声で囁いたイーヴが、口を塞ごうとしたシェイラの手を取ると、今度は指先に唇を落とした。爪の先に何度もキスをしながら、彼はじっとシェイラを見つめる。
金色の瞳は、今まで見たことがないほどに蕩けていて、背筋がぞくりとした。
「……っ」
握られた手のぬくもりも、見つめる瞳の強さも、どう受け取ればいいのか分からない。
決して嫌ではないけれど、身体が熱くなって頭がぼうっとして何も考えられなくなる。
唇から飛び出しそうな声を堪えて、シェイラは唇を噛みしめた。
全ての指に口づけを終えると、イーヴの唇はまた首筋に戻ってくる。
「イーヴ……もぅ、無理」
息も絶え絶えに訴えると、身体を起こした彼が小さく笑った。
「うん、今日はここまで。少しずつ慣れていけばいい」
ぽんぽんと頭を撫でられ、途端に彼の纏う空気が一変する。先程までの艶めいた雰囲気はなくなり、イーヴはいつもの穏やかな表情に戻っていた。
そのことにホッとする気持ちと、少しだけ残念に思う気持ちが混じりあう。
この程度の触れ合いで、こんなにも鼓動を乱してしまうことになるとは思わなかった。
確かに段階を踏んでいくことは大事だなと、シェイラはため息をついた。