「ねえ、イーヴ。こっちを向いて」
「注文の多いお嬢さんだな」
そう言いつつも、イーヴはゆっくりとこちらに向き直ってくれる。なんだかんだいって、彼はシェイラに甘い。だから、少しだけ期待してしまうのだ。子供扱いせずに、ひとりの女性として彼がシェイラを見てくれる日を。
イーヴの金の瞳に映る自分がなるべく大人っぽく見えるようにと心の中で願いながら、シェイラは小さく首をかしげてイーヴを見つめた。
「あのね、夫婦は寝る前におやすみのキスをするんですよ」
「……そうきたか」
眉間に皺を寄せたイーヴは、困惑の表情だ。夕方に半ば強引にイーヴの頬に口づけをしたけれど、やっぱり嫌だったのだろうか。自分の気持ちばかり先走って一気に距離を詰めすぎたかもしれないと反省して前言撤回しようとした時、ふわりと頭が撫でられた。
顔を上げると、苦笑まじりに見下ろすイーヴと目が合った。
「本当に、俺の花嫁は積極的だな」
「……っ」
自分からイーヴの花嫁であると散々アピールしてきたけれど、彼の口からあらためて言われると胸がしめつけられるほどに嬉しい。思わず言葉を失ったシェイラにイーヴがそっと顔を近づけ、額に柔らかなものが一瞬触れて離れていく。
「これでいいか?」
「う、うん……」
自分から言い出したことなのに、まさか本当にキスをもらえるなんて思っていなかったから、シェイラは動揺を隠すことができない。嬉しいのだけど、どんな顔をしたらいいのか分からなくてうろうろと視線をさまよわせるシェイラを見て、イーヴが小さく笑った。
「おやすみ、シェイラ」
耳元で囁かれた低い声は、これまで聞いたものよりずっと甘く響く。身体の芯にまでしみ込んでいくようなその声に、全身から力が抜けていくような気がした。
「おやすみ、なさい」
結局シェイラは、逃げるようにブランケットの中に潜り込むことしかできなかった。
真っ赤になった頬を持て余すように押さえているうちに、シェイラはいつの間にか眠っていた。夢の中でもイーヴは優しく頭を撫でてくれ、そのぬくもりが嬉しくて思わずその手を捕まえてしまう。大きくてあたたかなその手に触れるだけで、どれほど安心できるか彼は知らないだろう。いつか頭を撫でるだけでなく、もっと色々な場所にその手が触れる日が来たらいいなと思いながら、シェイラは更に深い夢の中へと潜っていった。
翌朝目覚めたシェイラは、隣で眠るイーヴに視線を向けた。
寝る前に宣言した通り、彼は少しシェイラと離れた場所で眠っている。手を伸ばせば届くはずなのに、触れることのできないその距離が、今の二人の関係をあらわしているようだ。
だけどほんのりとイーヴの体温を感じられるような気がして、シェイラはこみ上げる幸せに小さく笑う。誰かと一緒に眠るのなんて初めてだけど、隣に自分のもの以外のぬくもりがあるというのは、とてもいい。
気配を感じ取ったのか、イーヴが低く呻いて目を開けた。丸い月のような金の瞳に、寝起きのシェイラが映っている。
「おはようございます、イーヴ」
「あぁ、おはよう、シェイラ。よく眠れたか?」
「はい、とっても! 隣に誰かのぬくもりがあるのって、幸せですね。すごくよく眠れました」
与えられた自室のベッドも寝心地はいいものの、広すぎて時々心細くなるのだ。ラグノリアでの生活はいつもひとりだったのに、ここに来てからは誰かと過ごすことに慣れすぎてしまった。
「……そんなことを言われたら、もう一人で眠らせたくなくなる」
少しだけ困ったように、だけど笑ってイーヴはシェイラの頭を撫でてくれた。
「それって」
「うん。シェイラが望むなら、ここで寝ても構わない。ひとりで寝たい時もあるだろうから、寝室をこちらに移すことはしないけど」
ただし、と言ってイーヴは真剣な表情を浮かべる。
「昨夜と同じ、何もしないことが条件だ。ただ一緒に眠るだけ。それと、シェイラは寝衣をちゃんと着ること」
「分かりました!」
間髪入れずうなずくと、優しい笑みが降ってきた。夜の営みへの道は遠そうだけど、毎日一緒に寝られるだけでも大きな前進だ。ついでとばかりに、シェイラは小さく首をかしげてイーヴを見上げた。
「あのね、おやすみのキスは……してくれますか?」
「そ、れは……うん、まぁ、それくらいなら」
驚いたのを誤魔化すように咳払いをして、イーヴは視線を逸らしたままうなずく。一晩で彼との距離が随分と縮まったような気がして、シェイラは嬉しさを嚙みしめるようにブランケットをぎゅうっと抱きしめた。
本当はイーヴに抱きつきたかったことは、秘密だ。
あの日から、シェイラは毎晩イーヴの部屋で眠っている。ベッドの上での距離は一向に縮まらないけれど、おやすみのキスだけは毎晩もらっている。額に彼の唇が触れるたび、シェイラはとても満たされた心地になる。
「おやすみ、シェイラ」
だけど優しく触れた唇は、微かな熱を残してあっという間に離れて行ってしまった。もっとしてほしいし、何なら唇にしてくれても構わないのだけど、イーヴにその気はなさそうだ。
こうしてイーヴにおやすみのキスをしてもらうことは嬉しいけれど、彼の対応はどこか義務的なもの。喜んでいるのは自分だけだということを突きつけられて、少しだけ胸が苦しくなる。イーヴにとってシェイラは、いつまでたっても形だけの花嫁のままだ。
「あのね、イーヴ」
できる限り身体を離して横になろうとするイーヴを見つめて唇を噛んだあと、シェイラは身体を起こしてイーヴを見上げた。
「どうした?」
「私もイーヴにおやすみのキスをしてもいいですか?」
「……それは、前に断っただろう。俺は、シェイラに何かをしてもらうつもりはない」
頑なな様子で首を振るイーヴを見て、シェイラは唇を尖らせた。おやすみのキスはイーヴからだけ。いつだって彼は、シェイラとの関係を変えないようにと分かりやすく線引きをする。どう頑張っても飛び越えさせてくれないその一線が、もどかしくてたまらない。
「イーヴは、私に触れられるのが嫌?」
「そんなことは、ないけど」
「じゃあ、どうしてだめなの? もっと触れたいって思ってるのは、私だけなの?」
「どうしてって……それは」
ため息をついてイーヴが髪をかきむしるように頭を抱えた。その横顔がうんざりしているように見えて、シェイラの胸がチクリと痛む。こうして一緒に寝てもらっているのもシェイラの我儘なのに、それ以上を求めてしまうことが嫌になる。自分がこんなにも、欲深かったなんて。
しゅんと落ち込んでもう寝ようと小さく謝罪の言葉を口にしかけた時、イーヴが低い声で名前を呼んだ。
「シェイラ、こっちにおいで」
「え……」
戸惑っていると手を引かれ、シェイラの身体はイーヴの腕の中に包まれた。思いがけないぬくもりに驚いたものの、シェイラはそのまま彼の胸に頬をすり寄せた。イーヴの手はゆっくりとシェイラの頭を撫でていて、この行動の理由は分からないけれど、幸せな気持ちがこみ上げてくる。
「こうするのが好きか」
「うん。あたたかくて、すごく幸せな気持ちになれます」
「そうだな」
小さくうなずいたイーヴは、再び慈しむように髪を撫でながら口を開いた。
「シェイラはきっと、人のぬくもりに飢えてる」
「人のぬくもり?」
「そう。ラグノリアでは、誰とも会うことなく部屋の中でひとりきりで過ごしていたんだろう」
イーヴの言葉に、かつての生活が頭の中によみがえる。狭い部屋でずっと、誰にも会うことなく過ごした日々。どうせ生贄になって別れる日が来るのだからと、顔も見てくれなかった両親。自分の存在をまるで忘れられているかのように感じて、孤独感を覚えたこともある。
ラグノリアにいる時はそれが当たり前だと思っていたけれど、こうして誰かと過ごすことに慣れた今は、思い出すだけで胸が苦しくなる。誰とも会わず、会話もしない日々が、どうして平気だったのだろう。
「……っ」
「悪い、辛いことを思い出させた」
急にこみ上げた涙を堪えるように小さく丸めた身体を、イーヴが優しく抱きしめてくれる。あやすように背中を撫でられて、それだけでこわばっていた身体が少しずつ緩んでいく。
「シェイラが求めているのは、そういうことだ。親からもらうはずだった愛情を、俺に求めている。そこにあるのは恋愛感情ではないんだ、シェイラ」
「恋愛感情じゃない……」
シェイラはぼんやりとその言葉を繰り返す。イーヴのことは好きなのに、それは恋愛感情ではないのだろうか。恋愛小説はたくさん読んできたけれど、恋をしたことのないシェイラには分からない。
「よく分からないけど、イーヴのことを好きな気持ちは本当なの。それじゃだめですか?」
「シェイラが、俺のことを好きだといってくれるのは嬉しく思ってる。だけどシェイラの言う『好き』は、親や家族に対する愛情と同じだ」
断言されて、シェイラはうつむいた。確かに、かつて親から与えられなかった愛情をイーヴに求めているのだと言われたら否定できない。もっと触れたい、触れてほしいと思うこの気持ちも、マリエルみたいに愛されたかったという気持ちのあらわれなのだろうか。
反論することもできなくて、ただ唇を噛むことしかできないシェイラの頭を、イーヴがそっと撫でた。優しいそのぬくもりは、やっぱりシェイラの心を安心させてくれる。
「無理に夫婦ならこうすべきだと、決めつけなくていいんじゃないか」
「……それって、夜の営みをしないっていうこと?」
「そうだな、今の俺たちの関係には、必要ないと思ってる。それがなくても俺はシェイラのことを大切に思ってるし、これから先も変わらない」
「でも」
「大体、シェイラは経験したこともないだろう。性行為というのは、特に最初は女性の側に酷く苦痛を与える行為でもあるんだ。夫婦というところにこだわって、わざわざそんな痛みを経験する必要はないと思う」
「でも、愛があれば乗り越えられるって、本には書いてあったもん」
不満を込めてつぶやくと、イーヴのため息が降ってきた。
「俺は、シェイラに痛い思いはさせたくない。俺の花嫁には、いつだって幸せに笑っていてほしいからな」
頬を膨らませながらも、シェイラは黙ってうなずいた。
こんな時に花嫁だなんて言われてしまったら、もう反論なんてできなくなる。行為をしなくても、イーヴがシェイラのことを花嫁として大切にしてくれているのは、よく分かっているから。
「ほら、笑って」
そう言って優しく頭を撫でられたら、シェイラは嬉しくてすぐに笑顔になってしまう。
心の中で弾けたあたたかいものが全身に巡っていき、じんわりと体温が上がっていくようだ。
嬉しくて幸せでたまらないこの感覚が、恋愛感情なのか親を恋しく思う気持ちからくるものなのか、やっぱりシェイラには分からない。
だけどこのあたたかな手のぬくもりを、シェイラがひとりじめしていることだけは確かだ。
「じゃあ、眠る時に手を繋ぐのは?」
「それなら構わない」
ほらと言って差し出された大きな手を握りしめて、シェイラは笑った。
「うん。あたたかくて幸せ。よく眠れそう」
「それは良かった。おやすみ、シェイラ」
握っていない方の手が、柔らかく頭を撫でてくれる。幸せなぬくもりに包まれて、シェイラは眠りに落ちた。
結局、イーヴとの距離は縮まらないまま日々は過ぎていく。だけど手を握りながら眠る夜は幸せで、いつもあっという間に寝落ちてしまう。イーヴのぬくもりは、何よりもシェイラを安心させてくれるものだ。
自室でひとりのんびりと過ごしていたシェイラは、ふぁと小さく欠伸をすると部屋を出た。今日はルベリアが遊びに来る予定だけど、それまでは少し時間を持て余している。調理場には朝一番に顔を出したし、エルフェは買い物に行くと言って外出している。レジスもイーヴも仕事があるから忙しそうなので、構ってほしいなんて我儘を言えるはずがない。
広い屋敷の中を自由に歩き回ることも楽しいけれど、やっぱりシェイラは誰かと過ごしたいと思ってしまうのだ。
ルベリアが来るまでの辛抱だなと言い聞かせて、シェイラは書庫へと向かった。壁一面に本が並んだその部屋は、シェイラのお気に入りの場所のひとつだ。難しくて読めない本も多いけれど、イーヴが綺麗な画集や流行りの本をいくつか買ってくれたので、窓辺にある本棚の一角はシェイラのための場所。
以前にレジスが用意してくれた一人掛けの椅子に座って、シェイラは膝の上に置いた本を開く。しばらく読み進めてみたものの、どうも集中できない。文字が頭の中に入っていかないのを感じて、シェイラは首を振ると立ち上がった。
窓の外は少し曇っていて、今にも雨が降り出しそうだ。竜の姿で空を飛んでくるはずのルベリアが濡れないといいのだけどと思いながら、庭を散策しながらルベリアの到着を待つのはどうだろうかと考える。まだ彼女の竜の姿は見たことがないので、シェイラは自分の思いつきに満足する。きっとルベリアは、妖艶で美しい黒竜なのだろう。
このところ祖父である長の手伝いが増えて忙しいというルベリアとは、久しぶりに会う。雨に降られるかもしれない彼女のために、タオルを用意しておこうと決めて、シェイラはレジスのもとに行くことにした。ついでにイーヴの顔も見られたら、嬉しい。
本棚に本を戻し、急いで部屋を出ようとしたところで、シェイラは絨毯に足を取られてつまづいた。慌ててそばの本棚に掴まったことで転倒は免れたものの、その衝撃で棚から本が何冊か床に落ちてしまう。
「わ、大変!」
散らばる本を慌てて拾い集めていたシェイラは、一冊の本の前でぴたりと手を止めた。分厚いその本は、イーヴがいつも読んでいるものとよく似た装丁をしている。だけど、シェイラの視線は本ではなく、本の隙間から飛び出した古い写真に注がれた。