喫茶「MOON」のレトロチックな店内には珈琲の芳醇ほうじゅんで香ばしい豆の香りがずっと漂っている。

 鼻の奥をくすぐる。

 とってもいい匂いだ。

 それからチーズや野菜が焼ける匂いかな?

 美味しい料理の出来上がりが近いのだろう。



 マスターの貴教さんが忙せわしなく一人で働いている。

 店員には大学生のアルバイトくんともう一人いたはずだが、今日は休みなのかな?

 

 この珈琲の香りを感じ、居心地の良い雰囲気のなかで席に座っているだけでも、充分喫茶「MOON」に来て良かったと思う。



 静かにジャズが流れて、その後にビートルズの曲が控えめにかかっている。

 店内のBGMは先代の店主の趣味だという。

 落ち着いたお店の雰囲気によく似合ってゆったりとした時間が流れる。

 普段の忙しさや仕事で落ち込んでいても、ここでは忘れて心地よさにホッと出来る。穏やかな、のんびり気分に包まれていた。



 あっ――。

 マルさんが立ち上がった。

 もう帰っちゃうのかな……?

 ううん、《《もう》》でもないか。

 マルさんは私が来た時には先に来ていつもの席に座っていたから。



 私はマルさんが帰ってしまうのが少しだけ、……寂しかった。

 今日はさよならの時間かと、きゅうっと胸が痛む。



 ちょっぴり切ない気持ちの私の目の前で、瑠衣とトキさんはキャッキャッとまるで女子大生のように盛り上がっている。



 マルさんは机の上に広げたノートや筆記用具を手早く鞄に詰め込んで、ゆっくりとマスターの貴教さんの方へ歩いて行く。

 途中でトキさんと視線が合ったのか、二人は常連さん同士からか軽く微笑み会釈し合った。

 レジ横でマルさんは料金を払いながらマスターの貴教さんと一言二言会話を交わして「ごちそうさま」と言って悠然とドアを開き帰って行った。



 カランカランとドアベルが鳴る。



 あ〜あ。帰っちゃったかあ。



 私ががっかりしていると、トキさんと瑠衣が意味深な笑みを浮かべてこちらを見ている。



「千代子さあ、あの人のことが好きなんだ?」

「えっ?! 違うよ、瑠衣。……ちょっと渋くて素敵な雰囲気な人だなあって見てただけ」

「あんた、昔っから年上好としうえずきだもんね〜。うふふっ」



 瑠衣にからかうなって言いたい。だけど実際にそうかも知れないからそれについては反論できない。



「瑠衣だってどうなのよ? マスターに一目惚れなんかしちゃって」

「え〜っ! バレてた?」

「はい。バレバレですよ」



 トキさんも話に参戦して、恋の話でまたもや盛り上がりだしていた。



 私はふとマルさんが座っていた席を見ると、床に高そうなブラウンの光沢があるボールペンが一本落ちていた。

 

 あれ? マルさんのかな?



 私はとんでもない宝物を発見した気がしてウズウズしてきた。