本日最後の配達は、母娘二人暮しの長倉《ながくら》さんのお家だった。
 娘さんの長倉小夜《ながくらさよ》さんは若いながら病気に冒されてしまい自宅療養していて、お母さんの奈津子《なつこ》さんは脳梗塞で半身不随になってしまっている。
 お二人はとても仲が良く互いを気遣って補い合って生活をしていた。
 介護ヘルパーさんが来ることもあるけれど、私が配達に行く時間にはあまりヘルパーさんに会ったことはない。
 インターホンを押すと車椅子に乗った奈津子さんが、ドアを開けてくれた。
 玄関は車椅子でも不便が無いようにバリアフリーに改築されている。
 私は、お昼の分の温かいお弁当を二つと夜の分の冷蔵された二つをそれぞれ奈津子さんに手渡しして、それから深々とお辞儀をした。
「配達担当は、来月から藤本からこちらの白鳥に変わります」
「白鳥です。よろしくお願い致します」
「まぁ、そうなの。白鳥さんよろしくね。千代子さんは別の地域の担当になるの?」
「私はですね、実はこの度、転職することになりました」
「あら別の仕事に……、頑張ってね。でも、千代子さんが辞めちゃうなんて。寂しくなるわ。明るいあなたが来てくれて、少しの時間でもお喋りすると、私も小夜もとても楽しかったのよ」
 奈津子さんに担当が変わることを話すと、寂しくなるわと言ってくれてる。私は胸が詰まって涙が溢れそうになった。
「……ありがとうございます。実は私はそんなに明るくはないんです……」
 私は照れもあったが本当のことを告げた。お客様の前ではなるったけ笑顔で接しようと決めていたから、楽しいと思ってもらえていたのはすごく嬉しかった。
「千代子さんはとっても溌剌《はつらつ》としてるわ。あなたからは思いやりを感じてましたよ」
 奈津子さんはぽたりと涙を落とした。
「今日は小夜さんは……?」
「小夜は少し痛みが強いらしくて、さっきお医者様に来てもらってね。今はお薬を飲んで寝てるの」
「……そうですか」
「あの子ね、いまだに別れた相手を忘れられないのよ。病気が分かったら、勝手に離婚届けを置いて家を出てきちゃったの。彼の負担になりたくないって。前に千代子さん、気になるお相手がいるって言っていたでしょう? 何が正解かは分からないけれど、千代子さんには自分の気持ちに素直に、信じる道を進んで欲しいなって、私は思うの。あの子の分も幸せになって」
「ありがとうございます。勇気を出してそうします」
「あぁ、小夜が入院する前に一度、喫茶『MOON』に連れて行ってあげたいわ」
「喫茶『MOON』ですか? 私も大好きなお店なんです」
「小夜もよ。母娘でも行ったけれど、あの子が夫婦でよく通ってたお店なの。小夜は『MOON』のブルーマウンテンと卵サンドがお気に入りで」
 私は奈津子さんから話を聞いていて、私のなかのお節介の虫がムズムズと騒ぎ出していた。
 
「喫茶『MOON』ってそんなに素敵なお店なんですか? 藤本さん、今度私も行ってみたいです」
「うん」
 玄関先ということもあって後ろで控えめにしていた白鳥さんだったが、ウキウキとした調子で話しだす。
「温かいうちにお召し上がり下さい。それではまた明日参ります」
 私は奈津子さんに会釈をして玄関の引き戸を閉める。扉はカラカラと鳴った。
 踵を返して、白鳥さんと駐車場に停めていたワゴン車に戻る。
「藤本さん、どうかしたんですか?」
「……ううん。ただ、私に何か出来ないかな〜って思っただけ」
「優しいですね、藤本さんは。だけど、どこまで深入りしていいのかも悩みどころですね。誰かに知られたら特定のお客様だけにサービスしてるって妬まれそうだし」
 別にサービスってわけじゃないんだけどな。あくまで会社に関係ない、勝手な行い、私の気持ちからだ。
「あぁ、そっか。辞めたあとなら構わないよね。アドバイスありがと、白鳥さん」
 私はなんだか胸のつかえが取れていた。
 名案が浮かんだ気がして、心のどこかが柔らかな風に吹かれたように清々しくもある。
 運転席の私がエンジンを掛けようとしたら、携帯電話の着信音がした。ちょっと前に、私は分かりやすいように相手によって着信音を変えてみた。
 どきんっ。
 この音はマルさんからのメールが来たことを知らせてる。
 仕事中は私用の携帯電話は見ることが出来ない。
 早くマルさんからのメールを読みたい。
 いったいどんな内容だろう?
 私は顔がにやけてきていた。
 休憩時間が待ち遠しい!

 車内のラジオからは、甘い甘いラブソングが流れてきていた。