「何だその目は? お前との婚約などいつでも破棄できるんだぞ、身のほどを知るんだな!」



 強い口調で脅すように言われて、パンッと頬を叩かれた。

「きゃっ、やだー。アルフォートさまあ、女の子を殴っちゃ可哀想ですよお。一応、婚約者なんでしょー?」

 美しい金髪青目の婚約者の子爵令息の横には、平民と思しき可愛らしい女性が寄り添っている。

 ここは街中のカフェのテラス席だ。
 パラディオ伯爵家の嫡子エステイアは、馬車で通りかかったこの店で、人前で堂々とイチャついて浮気していた婚約者を見つけた。

 慌てて馬車を降り、彼に駆け寄ってたしなめたら「婚約破棄するぞ」と脅されて手を上げられたわけだ。



『淑女は紳士の後ろに下がって控えめに』

 そんなマナーも今では昔のこと。
 理不尽でも耐えて忍べ、は時代遅れだ。
 学園の淑女教室では、立場や力の弱い令嬢が男性から虐げられた場合の対処法も学ばされている。

 決して泣き寝入りすることだけは、してはならない。
 まず身の安全の確保を。
 その上で貴族令嬢として、淑女としての自分の地位を固めよと、様々なケースを授業で学んできている。

 例えばかつての卒業生のケースだ。
 実母が亡くなった後、父親やその後妻と異母妹たちに冷遇されたある令嬢は、厄介払いのため父親より年上の男の第二夫人として嫁がされることになった。
 だが抵抗すると父親に殴られ、食事を抜かれるなどの虐待を受けたらしい。

(何とか貴重品だけ持って亡母の祖父母の家まで助けを求めて保護されたのだっけ。……逃げる場所があるなら私だって……)

 エステイアはパラディオ伯爵家の唯一の娘だ。女伯爵だった母親は子供の頃に亡くなっている。
 この国では女性でも家や爵位を継げるため、エステイアが次期女伯爵。
 婿養子の父親はあくまでエステイアが成人するまでの代理でしかない。

 逃げ場所なんかどこにもないのだ。



「アルフォート様。それは私との婚約を破棄したいと思ってらっしゃる。その意思がお有りということですね?」

 打たれてじんじんと痛む頬を我慢して、慎重に尋ねた。
 エステイアの性格ならここは堂々と殴り返すところだが、周囲には人の目がある。次期女伯爵は暴力女だなどと噂が広まっては堪らない。

「ふん。前言撤回するようだが結婚だけはしてやる。女のお前に伯爵は荷が重いだろうからオレが伯爵位を継いでやる。だがオレに愛されるなどと期待は持つなよ? お前みたいな地味な女にそんな価値はないのだから!」
「………………」

 昼間のカフェのテラス席には満員に近い客がいた。
 地元の有名店で庶民もいるが、貴族の若い人たちやマダムたちでほぼ満席。
 声を抑えていたエステイアに対して、女連れの婚約者はよく通る声で朗々と自領の領主家の婚約者事情を語ったわけだ。


「え、どういうこと? エステイア様が次期女伯爵よね……?」

「あちらの彼は婿養子で入られるはず……」

「確かお父上のご親戚の子爵家の子息だったか……」

「婚前から堂々と浮気とは、嘆かわしい……」

「しかもあの男、エステイア様を叩いたぞ……?」


 客たちの声が耳に入って恥じ入るぐらいならまだ可愛げがあった。
 婚約者は連れの女性と再び、親しげな会話に興じて、テーブルの傍に立つエステイアをいないものと扱った。

「……失礼しますわ」

 後ろに控えていた侍女が腕に軽く触れてきて、我に返ったエステイアはそれだけ言ってカフェを出た。

 頭を下げたりカーテシーなどの礼はもちろんしない。
 この男に礼を尽くす価値などないと判明してしまったから。



 今日は街を視察する予定だったが、屋敷へ戻ることにした。

「お嬢様。ショコラのお店にまだ寄っておりません」
「もうそんな気分じゃなくなっちゃった」

 馬車に乗って溜息をついた。

「お顔は大丈夫ですか。あの男、子爵令息の分際で次期女伯爵のお嬢様に何たる無体を!」
「いいのよ。女性に手を上げる男だって結婚前にわかってよかった」

 年配の侍女マリナが心配そうに顔を確かめてくる。
 馬車の中で立つと危ないので、彼女に座るよう促した。

 張られた音は大きかったが、痛かったのはそのときだけで、今は少し熱を持っているぐらい。
 帰ってすぐ冷やせば明日まで響くこともないだろう。

「人の目がたくさんあるところで、よかった。これなら彼の有責でこちらから婚約破棄できるもの」

 あれでは次期女伯爵の〝婿〟には相応しくない。
 三ヶ月後の結婚式を控え、領地入りして伯爵家の別宅で生活してもらっていたが、領内の視察をするわけでもない。
 別宅の使用人からは、伯爵家からの支度金で好き勝手に遊び呆けていると報告を受けていた。

 だが、エステイアの婚約に関しては、憂鬱の種が屋敷にもうひとつあった。