ララが連れ出されたのは街の繁華街だった。今までほとんど来たことがなく、人の活気や店の多さに圧倒された。
 いつもなら、兄に甘えて腕を組むところだが、今日はとてもそんな気にはなれず、ララは固い表情でレックスと一定の距離を保っていた。
「··········ほら!はぐれるから、行くぞ!」
 レックスはララの手を強引に繋ぎ、目的の店に直行した。

 連れてこられたのは画材店だった。
「ララは絵を描くのが好きだろ?せっかく上手いんだし、本格的に描いてみたらどうかと思ってさ。材料一式あるから、色々買ってみよう!」
 ララは、たくさんの種類のキャンバスや絵の具、筆を見ると心が踊った。
 一通り買ったので、休憩しようと言われ、繁華街の中にあるカフェに入った。

 ララは、実は「外食」は始めてであった。メニューを見せられたが、名前を見てもそれがどんなものなのか見当もつかず、注文できずにいた。オロオロしていると、見かねたレックスがララの分も適当に注文してくれた。
「あ·······兄さ、殿········ありがとうございます。」
 兄とも殿下とも呼べず、レックスをこれから何と呼べばいいのか迷ってしまった。
「·········なぁ。ララは、なんで俺が王子だと分かるとそんなに固くなっちゃうんだ?身分が高い人は怖いと思ってるのか?」
「───怖いというか········私なんかが近くにいるのが申し訳ないです。」
「はぁ······『私なんか』はやめろ!卑屈なのは見ててイライラする。」
 ララは、兄を怒らせてしまったと思い下を向いた。自分でも分かってはいるが、幼い頃に染み付いた考え方をすぐに変えるのは、ララには難しいことであった。
「············なぁ。ごめんってララ。こっち向いて。」
 ララが恐る恐る顔を上げると、レックスはララの手を握りしめてきた。
「もしかして、貴族の奴らに何かされたことがあるのか?」
 言って良いものなのか迷ったが、聞かれているのにはぐらかすのは失礼だと思い、ララは正直に答えた。
「私が通っていた学校では······えっと、私が失礼なことをすると、例えば······頭を叩かれたりとか、足を出されてこかされたりとか、倉庫に閉じ込められたりとか······水をかけられて、服を脱げと言われたこともあります。」
 レックスはそういったこととは無縁の生活を送ってきたので、まさかララがそのような理不尽な目に遭っていたとは夢にも思わなかった。
「──あぁ!?何だと?生徒の名前は?今からでも遅くない。やり返してやる。」
「い、いいです!もう昔のことだし、名前は覚えてないんです!」
 貴族が通う学園は一見華やかだが、一度ターゲットにされたものは苛烈ないじめを受けることがあった。ララは貧乏貴族と周知され、性格が幼く、おまけにか弱く可愛らしい見た目をしていたので、女子にも男子にも目をつけられやすかった。守ってくれる人は誰もいなかった。
「教師は!?さすがに気づいてただろ?何もしてくれなかったのか?」
「あ·········先生は、一度は助けてくれようとしたのですが、私が断ってしまったんです。」
「断ったって何で?」
「·········その········放課後呼ばれて、か、体を······叩かれたアザを見たいから、制服を脱いで体を見せるように言われたんです。そしたら守ってあげるって。でもその時アザはなかったし、それを断ってしまって·········」
「·················」
 レックスは何も言わずにその話を聞いていた。きっとこんな話は不快だったのだろうと思い、ララはすごく申し訳なくなった。ちょうど注文した料理がきたので、ララは話を変えようと明るい声を出した。
「兄さん!料理がきました。すごく美味しそうです。いただきましょう!」
 レックスは微笑んだが、内心は腸が煮えくり返っていた。ララを苛めた生徒は、名前を覚えてないというのだからもうどうしようもないが、教師は調べれば分かることだ。
 (教師という立場を利用して苦しんでるララに不埒なことをしようとするなんて、ただで済むと思うなよ······本当は痛めつけたいところだが、社会的に抹殺してやる。)
 レックスは、自分がララと同い年で、同じクラスにいなかったことを悔やんだ。当時ララの近くにいれば彼女を守ってやれたし、こんなに自尊心が低くならなくて済んだかもしれない。
「ララ、今度からは、誰かに何かされたり、嫌なことを言われたりしたら全部俺に言うんだぞ。約束できるか?」
「········はい。約束します兄さん。」
 ララには、レックスの吹き荒れる心の内までは理解できていなかった。

 食事を終え、2人で店を出たちょうどその時、追いかけるように一人の赤毛の若い男が外に出てきた。小走りでこちらに近付いてくると、「ララ?久しぶり!」と声をかけてきた。
 レックスがララを見ると、親しみの表情というよりも怯えた様子で、レックスの袖を掴んでいた。
「────どちら様で?」
 レックスがにこやかに問うと、男は値踏みしたような視線でレックスを上からしたまで見た。
「········初めまして。ララの学生時代の同級生です。ジャイル・ハンソンといいます。ララ!昔仲良かっただろ?俺のこと覚えてるか?」
 ララの反応からして、顔は覚えているが名前にはピンときていないようだった。仲が良かったはずもなく、おそらく先程の話からすると、ララに意地悪をしていた生徒の一人なのだろう。仲も良くないのにわざわざ声をかけてきたところを見ると、ララに対して執着があるとしか思えなかった。
 事実、ジャイルはララにちょっかいをかける生徒の筆頭だった。足をかけてこかされたり、水をかけてきたのもこの男だ。レックスは色んな人間を見てきたが、ジャイルがろくでもない男だというのは直感的に分かった。ララの反応を合わせて考えると、おそらくいじめの中心人物だろう。レックスはふつふつと怒りが湧いてきた。
「あー······ところで、あなたは?ララとはどういう関係ですか?」
「ララの兄です。」
 レックスがそう答えると、ジャイルは腑に落ちないような顔をした。ララは貧乏貴族だと聞いていたのに、レックスがとても貧乏貴族の身なりや容姿に見えなかったからだった。
「·········そうなんですね。お兄様ですか。突然なんですが、ララさんは、その······婚約の話はありますか?僕もそろそろだと両親から言われ、令嬢から何人もお話をいただいているのですが─────」
「へぇ。ララはまだそんな話はないよ。·····なぜ?」
「いえ、ララさんはその·····そういった話をまとめるのは難しいのかと思いまして。ただ、僕はララさんのことをよく理解してるし、偏見もありません。僕の家門は貿易をやっていて、僕も将来跡を継ぐつもりです。もし良ければ、僕と婚約の話をすすめるのはどうでしょうか?そちらにとっては悪い話じゃないと思います。」
「─────だってさ、ララ。どう思う?」
 レックスが問うと、ララは激しく首を降った。
「い、いえ!私にはもったいないお話です!結構です!!」
 その答えを聞いたジャイルが一瞬苛立った表情になったのを、レックスは見逃さなかった。
「じゃあさ、とりあえず俺と君とで場所を変えて少し話さないか?ララ、あそこのベンチで座って待っててくれる?すぐ戻るから、動いたら駄目だよ。」
「はい、兄さん。」
 レックスはララの頭を撫でると、ジャイルを連れて路地裏に入っていった。

 10分ほどすると、レックスが一人でララの元に戻ってきた。
「兄さん!あれ?あの人は·······」
「あぁ、用事があるってさ。待たせてごめんララ、帰ろうか。」
「·············!?に、兄さん、手の甲から血が出てます!大変、手当てしないと───」
「大したことない。気にするな。」
 気にするなと言われても、レックスの服にも所々泥がついていたので、派手に転びでもしたんじゃないかと心配になったララだった。

 屋敷に戻ると、レックスの有り様を見てアリソンは驚いた。しかし、レックスから事情を聞いた後は、「私がやりたいくらいだった。よくやった」と自分の息子を褒め称えた。