ディアン・オルレインは、国王と正妃との間の第1子として誕生した。

 産まれながらにして、この国で最も身分の高い赤子であった。両親から遊んでもらったり可愛がってもらった記憶はなく、面倒を見てくれたのは乳母であったが、その女性もディアンが5歳になる頃には王宮を去ってしまった。その頃から、第一王子としての知識、教養、武道を叩き込まれ、ディアンの周囲には常に、両親の息のかかった臣下達が、ディアンがおかしな行動を取らないか、王子としてふさわしい能力があるかを監視していた。

 そんな日々を送っていたディアンは、自分に近付いてくる人間が、どんな目的を持って自分に近付いてきているのか見極めることができるようになっていった。何かの目的を持って近付いてくる者がほとんどであったが、ディアンはそれを承知の上で、利用価値があると判断すれば表面上仲良く接したし、そうでなければ相手にもしなかった。

 ディアンとの婚約者候補に名乗り出る令嬢は星の数ほどいた。ディアンは王妃と共に度々、有力な貴族令嬢の屋敷へ訪れては、婚約候補にふさわしい相手かどうかを品定めした。ディアンがどう思うかは関係がなく、要は王妃が相手の令嬢、引いては相手の家門に利用価値があるかどうかを決めるのだ。ディアンはこの無駄な時間が大嫌いで、どちらにしろ自分の意思が介在しないのならば、いっそのこと王妃だけで婚約者候補を決めてくれていいのにと心底思っていた。

 ファーレン家に訪れたのは、その日で2回目であった。家門そのものも財力があり、王妃が気に入ったということはあるが、何より娘のダリアという令嬢が幼いながらに非常に賢く、未来の妃として人格的にふさわしいのではないかと、候補の本命に上がっていた。

 ディアンはダリアに会い、雑談程度だが話をした。受け答えがしっかりとしており、落ち着きもあり、相手に配慮する心の余裕があった。容姿も所作も美しく、正に絵に描いたような「正妃」の理想像のような令嬢であった。

 だが、ディアンはまるで彼女に興味が湧かなかった。ダリアもまた、両親からの言い付け通りにディアンに会い、愛想を振り撒いている印象であったし、彼女はあくまでも、「第一王子のディアン・オルレイン」と接することに徹底していた。
 きっと僕の婚約者はこのダリア・ファーレンで決まりだな、などと考えていたディアンは、途端にその場に自分がいる意味が分からなくなり、気分転換に庭園を見させていただきますと周囲に伝え、一人で屋敷をフラフラと歩いていた。

 すると、庭園の隅で小柄な女の子がしゃがみこんで虫を捕まえていた。この屋敷にいることが場違いなほど、所々汚れた簡易なワンピースを着ていた。
 なんとなく興味が湧いたディアンは、その子に声をかけてみることにした。
「何を見てるの?」
 パッとディアンを振り向いた女の子は、綿菓子のようなふわふわとした栗毛に、真ん丸の目が印象的で、頬に薄いそばかすがあった。
「芋虫だよ!葉っぱを食べてたみたい。君も見る!?」
 キラキラと目を輝かせ、ディアンに芋虫を見せようと、手を差し出してきた。
 虫を触ったことがないディアンは少し後退り、「いや、遠慮しとくよ。」と言った。
 女の子は残念そうに、「そう····」と呟き、芋虫を葉っぱに戻していた。
 その子は再びディアンの方を見ると、
「ねぇ、君私と遊ばない?屋敷を案内してあげる!」と誘ってきた。
「君」と呼ばれたことも、遊びに誘われたこともなかったディアンは一瞬戸惑ったが、つまらない毎日に少しの変化が欲しいような気持ちになり、この不思議な女の子の誘いに乗ることにした。
『ララ』と名乗る少女は、ディアンよりも2つ年下で、ダリアの妹とのことだった。姉のダリアとはあまりにも違う待遇に、おそらく両親から、存在を隠された訳ありの子なのだろうと予想したディアンだったが、少しの時間ララと一緒にいて、その理由が分かった気がした。ララは年齢の割に幼かった。
 本を一緒に読もうと言われ、王子様やお姫様が出てくる4、5歳向けの童話を一緒に読んだ。彼女は小さな子どものように笑ったり、驚いたりして表情がコロコロと変わった。童話の内容はあまり頭に入らなかったが、ララの反応を見るのが楽しくて、ララばかりを見ていた。

 そうして少しの時間遊んでいたが、ディアンの戻りが遅いと探しに来た侍従の声が聞こえた為、ディアンはララに別れを告げ、何事もなかったかのように王妃やダリア達の元へ戻った。戻った後も何故だか気分がフワフワとして、周囲からは「王子、今日は上機嫌ですね。」と言われる程だった。

 そうして、ディアンはファーレン家の屋敷に来る度に、何かと理由をつけては屋敷の敷地内を歩き、ララを探すようになった。ララは神出鬼没だったが、大体いつも一人でいて、ディアンを見るとぱぁっと笑顔になるのだった。
 ララは自分の容姿を気にしているようだったが、くるくるの巻き毛もそばかすも、ディアンからすればとても可愛らしかった。そして、何よりララの声が言いようもなくディアンはお気に入りだった。笑い声や、他愛ない話をぺちゃくちゃと話す弾んだ声を聞いているだけで、ディアンは今までに感じたことがない程、幸せな気持ちになった。

 そして、ディアンは婚約者をダリアにしたいと王妃に伝えた。ディアン自らそういったことを言ってくることが珍しかった為、ダリアのことを余程気に入ったのだろうと王妃は喜んだ。
 本音としては、ただララに会う口実が欲しかっただけであった。万が一にでも、ダリアとの婚約の話がなかったことになれば、ファーレン家を訪ねる正当な理由もなくなってしまう。ララは家からも隠されたような存在であり、王族が表だって付き合うことを許される種類の人間でないことは分かっていた。

 しかし、ある日、いつものようにララと絵を書きながら遊んでいたディアンは、その現場をファーレン婦人に見られてしまった。いつも婦人は王妃との話に夢中だから油断していた。ララとディアンの光景を見た婦人はみるみるうちに真っ青になり、ララの腕を乱暴に掴み、屋敷の中へ入っていった。
 すぐに、ララの両親が揃ってやってきて、不出来な娘が迷惑をかけてしまい大変申し訳ない、今後はララに姿を見せないよう、きつく言い聞かせると謝り始めた。
 この様子だと、ララは両親に手を上げられたり、軟禁でもされるのではないかと心配になった。ディアンは、自分から遊ぼうと誘った、彼女をきつく叱るのは辞めて欲しいと何度も念を押したのだが、それ以降、ファーレン家を訪れた際、ララを屋敷内で見かけることはなくなってしまった。
 偶然鉢合わせたララが、踵を返し逃げようとした時は、ディアンは心底焦り、不注意だった自分の甘さに腹が立った。
 幸いララはディアンの話を聞いてくれ、再び会うことができるようになった。秘密基地まで教えてくれ、閉ざされた空間の中でララと過ごす時間は、ディアンにとって甘美で、何事にも代えがたい特別な時間となった。



 思春期に差し掛かったディアンにとって、息もかかる程の距離でララと過ごすことは、自分の心臓の音が聞こえそうな程、ドキドキして落ち着かない時間でもあった。
ララは12歳であったが、段々と幼さが抜け始め、伏せた睫や心地の良い声を発する唇、膨らみかけの胸や真っ白な首筋が妙に艶かしく感じることがあり、ディアンは彼女に見惚れてしまい、ララの話をまともに聞けていないことがよくあった。

 早い段階から、ディアンにとってララは、友達ではなく性の対象であったが、そのことをララに気付かれるわけにはいかなかった。幼く純粋な女の子に不埒な気持ちを抱くことは罪だし、そもそもディアンは、ララの姉ダリアの婚約者だ。ダリアに特別な感情はないが、一国の王子としての責任感と使命はある。自分の不用意な行いで、周囲を振り回したり、心配させたりすることは自分のやるべきことではないという思いが常にあった。ララはあくまでも、ディアンにとって心の中だけの想い人でなければならない。
 そう思っていたディアンだったが、ララの自分への態度が、明らかに異性に対するものになったことで、さらに気持ちを揺さぶられることになった。ずっと友達だと見てくれていた方が良かったのにと思う残念な気持ちと、男として見られて嬉しいという自分の素直な欲望が混ざり合い、収拾がつかなくなっていた。

 ある日、ララが着ていたワンピースから出た膝小僧がひどく擦りむけているのが見えた。珍しいことだったので理由を聞くと、学園で転んだと言うのだ。よくよく詳細を聞いていくと、中等部にいつもララにイタズラをする男子生徒がおり、その生徒に足を引っ掛けられてこかされたと聞いた。こかされたのも痛かったが、こけた時にスカートが捲れ上がり、周囲に下着を見られ笑われたことがひどく恥ずかしかったと涙目になりながら話していた。
 その話を聞いたディアンは、足を引っ掛けた男子生徒や周りで笑って見ていた奴らをひどい目に合わせてやりたくなった。良くないことだと思いつつも、生徒の名前をララに尋ねてしまった。しかし、ララは生徒の名前は分からないと答えた為、それ以上追及することを止めた。
 その男子生徒もララの気を引きたくて嫌がることをやっているだろうに、名前も覚えられていないとは気の毒なものだと内心笑ってしまった。

 ある時を境に、ララのディアンへの好意が手に取るように分かるようになった。気の毒な程顔を赤くし、目を合わせられないような様子であった。ディアンからすればララからの好意は嬉しかったが、以前のように普通の会話ができなくなり、寂しいような感覚を覚えた。

 そして、とうとう秘密基地にララは来なくなり、ディアンと顔を合わせても、話しかけてくることもなくなった。ひどく歯痒かったが、これ以上ララと距離が近付くことは、ディアン自身も危険なことである気がしていた。ディアンがダリアを差し置いてララを選んであげることはできないし、下手に手を出して、傷付けることなどもってのほかだ。そもそも、王宮は裏で陰謀が渦巻き、人が蹴落とし合い、一瞬の油断が命取りになるような血生臭い場所だ。ララのような純粋無垢な人間がいられるような場所ではない。そのことが分かっていたディアンは、ララに対して友人以上の関係になるつもりはなかった。

 婚約が決まったことで、ファーレン家に足を運ぶ回数は少しずつ減っていった。ダリアの方が王宮を訪れることが多くなったが、ディアンは変わらずララの様子が気になっていた。話すことも姿を見ることもできず、恋しいというのもあったが、ララがあの屋敷でひどい扱いを受けているのではないかという心配もあった。ディアンは今は他人であるし、ララの待遇について口を出したところで、むしろララの立場がさらに悪くなることも考えられた。
 ダリアとの結婚が決まれば、ファーレン家は王族と繋がりのある家系ということになり、ララは義理の妹ということになる。何か理由をつけて、あの屋敷からララを出し、ディアンの目の届くところにいて欲しいというのが本音だった。

 そして、好機は意外な所から舞い込んできた。
 国王の側室であるアリソンという女性が、以前ファーレン家を訪れた際、栗色の髪の少女を見かけた。アリソンは元々平民で、夫と子どもがいる普通の女性だったが、偶然国王に見初められたことで、側室となった変わった経歴を持つ人物だった。アリソンには夫に託した子どもがおり、その子どもと、ファーレン家で見かけた少女があまりにもそっくりだった為驚いたという。
 その少女というのがララであったのだが、アリソンがいくらファーレン婦人に少女のことを聞いても、使用人の子どもが遊びに来ていたのだろう、全く知らない子だと言い張り、娘だと認めなかったらしい。

 ディアンは幼い頃より、側室であるアリソンに可愛がってもらっていた。母である王妃よりも、アリソンに対しての親愛の情が強い。普通、正妃との子どもなど可愛がりたくもないだろうが、アリソンは権力争いとは真逆にいる人物で、この王宮にはふさわしくない程温かい人だった。
 ディアンが、ファーレン家のダリアと正式に婚約しているという話をすると、アリソンは目を輝かせてディアンの手を取った。
「ファーレン家に行ったことがあるの!?では、王子は栗色の巻き毛の女の子を知っていますか?誰も教えてくれないんだけど·····私、どうしてもその子に会いたいのよ。」
「········その子なら知っています。ララといって、ファーレン家の次女です。少し変わっているので、家族は存在を隠したがっているのでしょう。社交界デビューもしておらず、家に匿われているような状況です。」
「そうなの··········一度会ってみたいわ。あなたから話をしてみてくれない?」
 アリソンの切実な目をみると、彼女の境遇にディアンは同情してしまった。実の娘に会いたくても、今後二度と会わないという約束の元、側室に入ったのだろう。赤の他人であるララの姿と、幼い日の自分の娘を重ね合わせ、会いたいと懇願するアリソンの姿が痛々しかった。

 このことが、ララが王宮を訪れるきっかけになればいいのにと考えていたディアンだったが、現実はそう甘くなかった。
 屋敷の外にほとんど出たことがなく、自尊心が低いララは、人前に出ることを極端に恐れているようだった。アリソンの願いは断られ、それ以降、ディアンはララと全く会えないまま、結婚式を迎えることとなった。

 流石に式にはララも親族として参加するのではないかと小さな希望を抱いていたのだが、希望は打ち砕かれ、ララの姿はなかった。結婚前、ダリアにそれとなくララについて訪ねたことがある。

「ダリア、妹さんは屋敷から出さないの?貴族の令嬢は結婚してもおかしくない年齢だけど。」
 ララが結婚するなど、ディアンからすれば考えたくもないことだったが、姉としてどういう考えを持っているのか聞いてみたくなった。
「殿下、あの子の話はお止めください。人様の前に出すような子ではないんです。どなたかの家に嫁ぐなんて、恥さらしもいいところだわ。あの子はいなかったと思ってください。」

 その発言から、ダリアはララを極端に嫌っていることがひしひしと伝わってきた。ララは幼くて不器用な所があるが、可愛らしく純粋無垢だ。頭が良くなくても、純粋な女性は男性に好まれるだろうし、ララは探そうと思えばきっといくらでも貰い手はいるだろうとディアンは思った。しかし、ララが誰かの元に嫁ぐなど、許せるはずもなかった。これは自分勝手なエゴだと分かっているが、ララと男女関係にはなれなかったとしても、自分の側にいて欲しかったし、ララの中でディアンは特別な存在あり続けたかった。
「─────そうか。嫁がせる予定はないんだね。分かった、もう妹さんの話はしないよ。」
 ララは生涯独身だろうという一種の安堵と、屋敷に閉じ込めようとしている劣悪な家庭環境への不安を覚えたディアンだった。

 結婚式当日、白い花嫁衣装に包まれたダリアは美しかったが、ディアンには何の感慨も湧かなかった。ダリアは普段、感情を表に出すタイプではないが、ディアンとの結婚は強く望んでいたことだったのだろう。目を潤ませながら、遠くで祝福の声をあげている民衆を見ながらディアンに語りかけた。
「殿下·······将来、国王に相応しいのは殿下しかおりません。私は、この国の民の母になりたいです。その為に命を捧げる覚悟があります。」
 決意に満ちたダリアの表情とは裏腹に、ディアンは自分の心が冷えていくのが分かった。

 ディアンは、この国の王になることを望んだことはない。ただ、生まれたときから両親を含めた周囲に期待され、祭り上げられ、それ以外の道は全て断たれていた。継承権争いで人が死ぬのを見たことがある。王子としての覚悟と気概は持ち合わせているつもりだが、他の道を選ぶ余地があるならば、ディアンは迷わずそちらを選ぶだろう。
 ララと愛し合い、普通の家庭を持つ夢を何度も見たことがある。夢の中では幸せなのに、夢から覚めた時のあの空虚感は、何度経験しても慣れることはなかった。愛する妻と、可愛い子ども達。裕福ではないが、この上なく幸せなあの夢が現実で、この愛のない、形ばかり派手な結婚式が夢であったならばどんなにいいだろうか。
 この隣にいるダリアも、普段余計なことを言わず、良妻賢母のような顔で微笑んでいるが、実のところ狙っていたのは未来の王妃の立場なのだろう。ディアンの母である現王妃とそっくりな女だ。ダリアには隠しきれない野心の強さがある。立場を手に入れれば、慎ましさも忘れて権力争いに明け暮れる未来が見えたような気がして、ディアンは暗い気持ちになった。
 いつもの張り付いたような笑顔を振り撒きながら、馬車で民衆の中を回った。まるで道化師にでもなったような気持ちでいると、騒がしい周囲の雑音の中で、一際ディアンの耳に残る祝福の言葉が聞こえた。

「お幸せに!!」

 聞き間違えるはずはない、ディアンが大好きな、喧騒とは似つかわしくない、涼やかで儚げな美しい声だ。
 民衆の中から、ララの姿を見つけた。一瞬目が合い、ララは満面の笑みでこちらに向かって手を振っていた。
 おそらく、親族として参列することを許されなかったのだろう。愛する女性に想いを告げることも、家族から酷い扱いを受けている彼女を守ることもできず、挙げ句の果てには他の女との結婚を祝福されるなど、ディアンは自分自身の不甲斐なさに打ちのめされた。

 ダリアとの初夜は、滞りなく行われた。扉の前には監視人がおり、ディアンからしてみれば、責任感と義務が入り交じった複雑な心境の儀式だったが、だからといって初めてを自分に捧げてくれる女性を軽んじていいわけではない。ダリアに対しては優しく、まるでお姫様のように丁寧に扱った。

 そして、夫婦としての生活が始まった。ファーレン家を招いての食事会が幾度も開かれたが、ララが姿を現すことはなく、まるでいない者のように扱われた。

 もう忘れた方がいいことは分かっているのに、彼女の無邪気に笑った顔や、透き通るような声、屈託なくディアンの名を呼ぶ光景が頭に浮かび、忙殺される日々の中で、ディアンは毎晩どうしようもなくララに会いたくなった。