辺りが暗くなり、外は雨がひどく振りだした。窓に叩きつけられる雨の音が怪物の声に聞こえ、ララは心細さを覚えた。雷も鳴り出し、いよいよ一人だと怖くなってきたララは、兄の部屋に行こうか迷っていた。しかし、最近の兄のララへの態度を考えると、馴れ馴れしく部屋に行かれるのは嫌だろうと思い、毛布にくるまって、ぬいぐるみを抱き締めていた。

 コン、コンというノックの音に、ララはビクッと体を震わせた。
 恐る恐る毛布を被ったままドアの方を見ると、キィ····とゆっくり扉が開いたので、ララは怖くて声が出なかった。
 扉からひょこっと顔を出したのはレックスだった。
「あ········に、兄さん─────」
 ララはほっと胸を撫で下ろすと同時に、布団を被っている自分が恥ずかしくなった。
「ララ·····入ってもいいか?何でベッドに── もしかして、雷が怖いの?」
「あ··········雨の音が···苦手で。」
 ララが雨の音が苦手なのは、昔、両親に納屋に2日間閉じ込められたことがあり、その際、ひどい雨が納屋の天井に叩きつけられる音を一晩中聞いていたからだった。ララは暗闇も苦手だった。
「そっか·······ララ、そっちに行っても?」
 ララは小さく頷くと、レックスはララのいるベッドに腰かけ、小さく震えているララの手を握った。兄の手の温かさに安心し、ララの怖さは和らいできた。
「俺、お前に謝ろうと思って。」
「兄さんが私に謝る?何をですか?」
「···········その、ララに対しての態度がおかしかっただろ?お前は何も悪くないんだ。ただ、·······俺の問題で。」
 ララには良く分からなかった。ララは悪くないと言うが、兄はララに対して何かを思ったからそうしたのだろう。
「················謝らないでください。私は、兄さんの思いに気づけません。どうして私に触れてくれないのか、考えても、私が何かをしたからとしか思えないんです。」
 レックスは天井を見上げ、ふぅと息をついた。呆れられただろうか?
「こんなこと聞きづらかったんだけど、ララは、恋人とか夫婦の男女が、ベッドで何をするか知ってる?」
「··········?何をするか、ですか?えっと、同じベッドで手を繋いで眠ったり········あ!王子様がお姫様にする、キ、キス?」
「あー··········やっぱり、誰からも教えてもらえなかったんだな。なんで俺からこんなこと────」
 貴族が男女間のことを教わるのは、学校などではなく、大抵は家庭教師や両親、年上の乳母からであった。友達間の話や、書物などから情報を得ることもあるが、ララはそのどれからも知識を得る機会がなかった為、男女間のことについてはひどく無知であった。
「───キスしたあとは······男も女も裸になるんだ。」
「は、裸に!?な、何のために?····」
「それはその·········ララは虫の交尾を知ってるだろ!?バッタとか、カブトムシとか········あれと同じだ。」
「バッタは、雄が雌の上に乗って生殖器を·······」
「そう!それだ。人間も虫とほとんど同じことをする。」
 ララは赤面し、両手で顔を覆った。
「────私、何も知らなくて恥ずかしいです。じゃあその·········兄さんもアネッサさんと?」
「ああしたさ。というか、皆やってる。母さんと王様も、ディアンとダリアも。人間は虫と違って、繁殖目的じゃなくても、愛し合ってたらしたくなるものなんだよ。」
「そうですか··············でも、それが兄さんとどんな関係が?」
 レックスは言いづらそうに答えた。
「それは········虫の話を持ちだして悪いけど、例えば、一つのかごのなかに雌と雄を入れてたら、勝手に交尾してるだろ?それと同じで、男女が一つのベッドの中に一緒にいたら、自然とそういうことをしたくなるんだよ。」
 ララは、海に遠出したときのことを思い出していた。ララが兄のベッドに潜り込み、背中にくっついて寝ていた。
「じゃあ·······あの時、兄さんは私に交尾をしたくなっていたということですか?」
「いや、流石にそこまでは·······でも正直落ち着かなかった。ララみたいな可愛い子が同じベッドにいて、耐えられる男はほとんどいない。だから、俺以外の男に間違ってもそんなことしちゃダメだ。ララにその気がなくても、誘ってると思われる。抱き付いたりとか、密室で目を閉じたりとかも同じだ。」
「はい···········」
 誰にでもそうするわけではないが、あれは兄にしていいことではないと分かり、ララは反省した。
「···················でも、」
「········?どうした?」
「でも、それだと·······兄さんは、アネッサさんとやっていたようなことを、私にもやろうと思えばできるってことですか?」
「な、なんでそうなるんだ······?何も知らない妹に兄が手を出すのはいけないことだろ!?」
「そうなんですか?でも、血は繋がってないし近親相姦じゃないです。それに、私は馬鹿だけど、18歳だし成人してます。子どもじゃないです。」
 無知なくせに、近親相姦などという言葉をどこで覚えてきたのか。
「ララ·······とにかく、俺はお前を傷付けたくないんだよ。嫌いになったわけではなくて、距離が近すぎると落ち着かないんだ。分かってくれるか?」
 しばらく沈黙したあと、ララはベッドに目を落としながら言った。
「はい。分かります·········でも、私の気持ちも分かって欲しいです。」
「───?」
「私は、皆と同じように恋愛したり、結婚相手が見つかったり·····そういうことが普通にはできません。きっとこの先一生。子どもじゃないのに、子どもだと思われてます。」
「················ララ。」
「に、兄さんがいいなら··········一度でいいから思い出が欲しいです。他の人じゃなく、兄さんがいいです。お母様には言いません。兄さんの恋人にも、結婚相手の方にも言いません。死ぬまで私の心の中に閉まっておきます。」
 ララは、恥ずかしさで今にも泣き出しそうだった。こんなことを言い出すのには相当な勇気が必要だっただろう。レックスはそんなララを見て、堪らなく愛しく、哀れになった。
 要するに「抱いて欲しい」ということだが、ララは何をどう言えばいいのか分からないのだろう。
『自分が男性に愛されるはずなどない』とララは信じ込んでいる。実際はディアンにも、レックスにも、あの忌々しい赤毛の同級生にも好意を寄せられているのだから、ララ次第でいくらでも恋愛はできるはずだ。
 ララと愛し合いたいと思っているのはレックスの方であり、『兄は憐れみで、自分の思い出作りに付き合ってくれた』と捉えられるのはごめんだった。

 レックスはそっとララを抱き締めた。
「俺はララが大好きだよ。だから、そういうのは勢いに任せたくないんだ。でも·····キスはしたい。いい?」
「───────うん。」
 ララは濡れた目でレックスを見つめると、ゆっくりと目を閉じた。すぐに唇に温かさを感じ、兄に唇を重ねられているのだと分かった。
 この前の馬車の中のように、唇はすぐ離れず、数秒重なりあっていた。一度顔を離し、お互い見つめ合うと、2人とも照れて笑い出した。
 その時、大きな雷の音と共に、部屋の照明が落ち、真っ暗になった。
「!?!?」
「うわ!停電か!?」
 ララは暗闇が怖かった為、突然のことに怖くなり、レックスの服にしがみついた。
「近くに落ちたな·······母さん、この雨じゃ帰ってこれないかも。ララ怖い?大丈夫だよ。俺がついてる。」
 レックスがララの背中を擦ってくれたので、ララの恐怖は幾分薄れていった。
「ララ、どうせもう遅いし、明かりも朝までつかない。このまま寝よう。俺は部屋に戻った方がいい?」
「········ううん。兄さんここにいて。───今日だけ一緒に寝てもいい?駄目?」
「いいよ。来いよララ。」
 レックスはララをベッドに横たえると、自身の腕の中に収まるように向き合い、抱き締めた。
「兄さん········私嬉しかった。ありがとう。」
 ララはレックスの腕の中で身じろぎをして、自分から兄にそっと唇を重ねた。
 幸せそうに笑うと、すぐに目をつむり、寝息を立てて寝てしまった。
「はぁ······人の気も知らないで寝やがった。ララめ。」
 腕の中ですやすやと眠る無邪気な寝顔を見ながら、レックスは心臓がうるさく鳴ったが、同時に味わったことのない幸福感に包まれた。


 明け方、雨も止み、外は晴れ間が差していた。ララよりも少し早めに目覚めたレックスは、ララの寝顔をゆっくりと堪能していた。閉じた睫を触ったり、薄く開いた唇を触っていると、年頃の男性には抑えがたい生理的反応が起こってしまった為、慌てて自室に戻りシャワーを浴びた。
 ちょうどアリソンが屋敷に戻った為、タイミングが悪くなくて良かったとレックスは胸を撫で下ろした。
「ごめんねレックス。昨日ひどい雨で帰れなくて。停電してるみたいね。ララ大丈夫だった?あの子、雨の音も暗いのも怖がるから········」
「ああしばらく一緒にいたら大丈夫だったよ。それより朝食にしようぜ。お腹すいた。」
 レックスはアリソンの顔を見るのが気まずくなった。ララに手を出したと母が知れば、きっと烈火のごとく激怒するか、なんて節操のないことをするんだと嘆くだろう。

 少しするとララも起きてきて、3人で食堂に座った。ララはいつも通りの雰囲気で、特にレックスやアリソンに対しておかしな言動をすることはなかった。
 いつもと違うのはむしろレックスの方で、ブドウの皮を真剣に剥くララをじっと見ては、顔を綻ばせていた。
「レックス。フォークでスープを飲むつもりなの?」
「え?あ···········」
 レックスはあからさまに浮わついていた。態度に出さないようにとは思うものの、気がつくといつもララを目で追ってしまっていた。時折ララと目が合うと、ララはアリソンに気がつかれないようにニコッと微笑むのだ。
 レックスはまるで初恋のように、その日1日、他のことに手がつかないくらい、ララのことばかり考えていた。

 ララの絵が売れたことを報告すると、アリソンはみるみるうちに機嫌が悪くなり、レックスを叱責した。
「ララの絵を売ったの!?あなたって本当にお金のことしか考えてないのね!ララは絵を描くことが好きなだけよ······。商売の道具にしないで!」
「なんでだめなんだ?ララの絵は、人が高い金を払ってでも欲しいと思われるほど価値があるんだ。ララが、得意なことで稼いだらそれは悪いことなのか?」
 2人が険悪な雰囲気に包まれた為、ララは焦って間に入った。
「あの·········正直言うと、私の絵を誰かに買ってもらって嬉しいです。お金をたくさん稼ぎたいとかではないんですけど───養われているだけの人間よりは、人の役に立つ方がいいです。」
 アリソンはララの本心を聞くと、それ以上は何も言わなくなった。

 まとまった金が入ったので、ララ専用の口座を作ろうということになり、ララはレックスと街の銀行へ行くことになった。

 街へ向かう馬車に乗り込み、2人きりになると、ララは向かい合って座らず、レックスの隣に座り手を繋いできた。
「兄さんと手を繋ぎたかったんです。到着するまで·······いいですか?」
 照れながら話しかけてくるララが可愛すぎて、レックスは身悶えしそうになった。
 ララと繋いだ手を、大事そうにもう片方の手で包み込んだ。
 用事が済むと、レックスは名残惜しそうに屋敷から帰っていった。元々長居するつもりではなかったので、色々と仕事を残してきてしまったとのことだった。すぐにまた来るとララに約束してくれたので、ララは次に兄に会うのを心待にするようになった。

 ◇

 翌日、1日ぶりに橋の下に行くと、既にライラが川の近くで足をブラブラさせながら待っていた。
「ライラ!」
 ララが駆け寄ると、ライラは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「お兄さんは?帰ったの?」
「うん!今は家を出てるから。ライラに会えなくて、残念だったって。」
 ライラはララを見て、なんとなく雰囲気が変わったと感じた。2日前までは、無垢な少女のような雰囲気だったのに、今は魅力的な「女性」に見えた。ララは嘘をつくことが苦手なので探ってみることにした。
「ねぇ。ララは、好きな人いるの?」
「え、え!?好きな人!?」
 ララは分かりやすく顔を赤くし、慌て出した。
「フフッいるんだね。それって誰?」
「··········私が勝手に好きなだけ。本当は、私なんかが想ってはいけない人。」
「そんなことない。向こうもララのこといいと思ってるかもよ?好きだって伝えないの?」
「好きだって·······言ったことになるのかな?その人に、虫で言う交尾を───出来るものなら私にして欲しいって伝えたわ。」
「············はぁ!?ララ、何でそんなこと言うの!?結婚までそういうのは大事に守らないと!!それで·······相手はまさか手を出してきたの?」
 ライラは明らかに動揺し怒っていた。ララは、自分が男を誘うような子だと思われ失望されたのではないかと不安になった。
「ううん、断られた。でもキスだけは······してくれた。私の一方的な思いだけど、応えてくれてすごく嬉しかった。」
 恥ずかしそうに笑うララを見て、ライラは溜め息をついた。
「ララ·········それは、『気持ちに応えた』とは言わないんだよ。真剣に考えてたら婚約するよね?結婚する気がないならキスもしちゃダメなんだよ。」
 ララは足元を向いて気まずそうに笑った。
「そうだよね。でも───私とライラは違う。ライラは美人だし賢いし、きっと大きくなったら、たくさんの男性から結婚を申し込まれるでしょうけど·····私のことを『妻にしたい』と思う男性はいない。優しい人は、『そんなことない!』って言ってくれるけど、本当にそうなの。だから───好きになった人が触れてくれるだけでも私にとっては奇跡なの。その先を望んだりしない。」
 ライラは川の方を見つめたまま、無表情でララの話を聞いていた。明らかに怒っているようで、気まずい沈黙が流れた。
「·······ごめんね、ライラ。私こんなで────」
「それってあいつ?ララの兄。」
 ララの言葉を遮り、突然ライラに相手を言い当てられ、ララはひどく動揺した。いつもおしとやかな話し方をするライラが、仮にも王子のレックスに対し、『あいつ』という言葉を使ったことにも驚いてしまった。
「えっ?い、いえ·······何で········」
「レックスのどこがいいんだ?女にはもてて調子いいこと言うかもしれないけど、浅はかで馬鹿だ。真剣なララのこと面白がって遊んでるんだよ。君には似合わない。」
 ライラの突然の豹変ぶりに、ララは面食らってしまった。ライラは2つの人格でもあるんだろうか?
「どうしたのライラ?なんだかいつもと違うね·········それに、兄さんはそんなに·····私のこと面白がってるわけじゃないと思う。優しくしてくれるし、心細いときは側にいてくれるわ。誤解よ。」
 レックスを庇うララにさらに苛立ったライラだったが、ララに怒りをぶつけるのは違うと思い、深呼吸をした。
「分かった。要するに、ララは自分が『役に立たない』『誰からも愛されない』『一生結婚できない』と思ってるんだ。だからちょっと優しくされると好きになっちゃうんだ。違う?」
 ライラからそのように言われ、ララは過去の自分を振り返ってみた。

 初恋だったディアンは、屋敷で居場所がなく、学校でも苛められていたララに初めて優しくしてくれた人だ。
 レックスは、ララを馬鹿にせず一人の人間として見てくれるし、何より一緒にいて楽しい。確かに2人とも、男性でララに優しくしてくれた、珍しい人達かもしれない。
「··········確かにそうかも!でも、意地悪する人より優しい人が好きだし、格好良かったらなおさらドキドキしない?ライラは優しい人好きじゃないの?」
「··········さぁ。優しいか優しくないかで考えたことないな。」
 イリオにとって特別な存在なのは、「双子の片割れライラ」と「橋の下の少々ララ」この2人だけであった。

イリオは何かを決心したような目をしてララに向き直った。
「ララ。」
「なぁに?」
「3ヶ月·······いや、1ヶ月待ってくれる?ララが言ってたことは本当じゃないって証明してみせる。」
「証明??一体何を··············」
「いいから!しばらくはここには来ない。次に会うのは1ヶ月後だ。あと、君の兄に迫られても体を許しちゃダメだ。じゃあララ、またね。」
イリオはそう言うと、足早にその場を去ってしまった。