海への遠出から帰った3日後、レックスは屋敷を出ていった。

 いつまで屋敷にいるつもりだと文句を言っていたアリソンだったが、いざ息子が出ていくとなるとやはり寂しいようで、何度も
「何故突然出ていくの?私と王様とのことが原因?」などと、見当違いのことを心配していた。
 レックスは、屋敷から離れた場所で今後仕事をすることが多くなる為、一人暮らしした方が通勤に都合がいい為だと説明した。
 ララは、馬車の中での自分の行動が、兄が屋敷を出ていくことの引き金になったような気がしてならなかった。
 しかし、屋敷に戻ってからの兄のララへの態度は、特段おかしいものではなかったし、「屋敷を出ることの原因が自分か?」等と、大それたことを聞く程、ララは肝が据わっていなかった。

 レックスは別れを惜しむわけでもなく、出発する日の朝もあっさりとしていて、悲しそうな顔をしているアリソンとララを笑っていた。
「なんだよ母さんもララもそんな顔して。別に2度と戻らない訳じゃない。またすぐ顔見せに来るよ!母娘で仲良くやりなよ。」
「約束よ?破ったら承知しない。···········体には気を付けてね、レックス。」
 アリソンとレックスはしっかりと抱き合い、別れの挨拶をしていた。
 ララは油断したら泣きそうな状態だったので、兄にかける言葉が見つからなかった。レックスはララの様子を察したのか、困ったように微笑むと、
「じゃあまたな、ララ。」
 と軽く手を上げ馬車に乗り込んだ。
 握手も、抱き締めることもしてくれなかった。アリソンへの態度とララへの態度にはっきりとした差を感じ、ララは自分自信に激しく失望してしまった。
 この屋敷に来てからというもの、アリソンもレックスも使用人達も、皆優しく、ララに対して不出来な奴だ、恥さらしだと罵しられたことはなかった。
 だからこの感覚を忘れていた。

 きっと、私はまた気づかないうちに兄に対して何かをやらかしたのだ。

 そんな思いが捨てきれなかった。兄は優しいから、ララが何かをしたことに気付かせないよう、何も言わず、態度にも出さずに出ていったのだろう。
 (出ていった方がいいのは私なのに。)
 ファーレン家でも、学校でも、馴染めず浮いていた自分の存在を思い出した。
 アリソンの屋敷が今までと違うのは、周囲が皆優しいということだ。
 ララが歪だということは、今までと変わりはないのだと思い知らされた。

 元気がなくなってしまったララを心配したアリソンは、ララの部屋に来ては元気付けてくれた。
「レックスと仲が良かったものね。あの子はね、昔からこういうところがあるのよ。一度思い立ったら、物事に執着しないっていうのかしら?ララのせいじゃない。本当に仕事のことだと思うわよ。あの子、商売が大好きだから、今は家族より一人で色んなことに挑戦したい時期なのよ。分かってあげて。」
 ララは、アリソンに心配をかけるのはもうやめようと心に誓った。

 兄は2ヶ月後、一度屋敷に戻ってきた。ララは久しぶりに兄と会うのが嬉しく、抱き付いてお帰りと言いたかったし、頭を撫でて欲しかった。
 しかし、レックスは以前と変わらず優しい目でララを見て、話しかけてくれはしたが、一切ララに触れてくることはなかった。結局その日は屋敷に泊まらず、夕食を食べた後帰っていった。
「何をそんなに慌てて帰るんだか······彼女でもできたのかしらね?息子っていくつになっても難しいわ。」
 アリソンはぶつぶつ文句を言っていた。
 兄に彼女ができることを想像すると、ララは胸が張り裂けそうになった。ララを抱き締めてくれたあの大きな手で、恋人の髪や顔、体を触るのだろうか。
 ララはひどく寂しいような、切ないような気持ちになるので、気を紛らわす為に、時々屋敷の外を出歩くようになった。
 出歩くといっても、歩いて帰れないような離れた場所はアリソンから禁止されていたので、屋敷のすぐ側にある橋の下で、ゆっくり絵を描いたり、行き交う人々を眺めたり、ぼーっとすることが多くなった。

 橋の下で過ごすようになって、良かったことが一つだけある。
 それは、ララに初めての『女の子の友達』ができたことだった。

 ある日、ララがいつものように橋の下で絵を描いていると、一人の黒髪の少女がやってきて、ララとは少し離れたところに座り、ぼーっと水面を眺めていた。
 黒い髪は背中くらいまであり、切り揃えられた前髪は、はっきりとした目元をさらに際立たせている。ほっそりとした冷たい感じのするその子は、ララから見ても『美少女』という言葉がしっくりきた。
 少女は連日そこにやってきては、一言も声を発っさずにぼーっとし、少ししたら帰っていくのだった。

 いつものようにララと黒髪の少女は、同じ空間にいるが、言葉を交わすこともなく時間を過ごしていた。
 ララが画用紙に目を落として絵を描いていると、一瞬目の前が暗くなった気がしてララは顔を上げた。
 少女が、ララの目の前に立っており、中腰で絵を覗き込んできた。
「··········いつも何描いてるの?」
 ララは驚いたが、話しかけてくれたことが嬉しかった。
「あ·········鳥を·······鳥を描いてます。」
「へぇ。鳥は動くのに、あなたはその光景を頭の中で覚えていて描けるってことなのかな?·······すごいね。」
 そんなことを褒められたのは初めてだったので、ララは途端に恥ずかしくなり絵を胸に抱いて隠した。
 少女はふふっと笑うと、ララの隣に腰を降ろした。
「私はライラ。あなたの名前は?」
「················ララ。」
「ララ?おとぎ話の主人公みたいにかわいい名前だね!私とも一文字違い。」
 少女は黙っている時は冷たい印象だったが、話してみると快活で知的な感じがした。可愛らしい見た目とはアンバランスに、少女にしては低音の話し声が心地よかった。
 ライラは13歳、ララよりも5歳年下だったが、まるでララの姉のようにしっかり者だった。ララよりもたくさんの物語を知っていて、ララはライラから色んな話をしてもらうのが大好きだった。
「ねぇ、ライラ、この前の続きを話して。雲に乗れる、尻尾の生えた男の子の話·····」
「あれね!いいよ。その国にはね、代々伝わる不思議な玉を7つ集めると、3つだけどんな願いも叶うんだって··········」
 ララは目をつむり、物語を空想した。
 ララがもし3つだけ願いが叶うなら、何を願うだろうか。

 姉ダリアのように、賢い頭があったならどうだろう。両親から愛されるかもしれないが、アリソンに見つけてもらうことはできなかったかもしれない。
 ディアンに愛され、妻になっていたらどうだろうか。レックスから妹として可愛がられることもなかっただろう。
 レックスが今も屋敷にいてくれたら?ララはライラと友達になることはできなかったはずである。

 考えれば考えるほど、ララにとっての願いは一つも思い浮かばなかった。
「願いか········願いを考えるのが難しいわ。ライラは?叶えたい願いはある?」
「ララは欲がないんだね。私はあるよ。時を戻したい。ただそれだけ。」
 ライラの表情が一瞬暗くなった為、ララはそれ以上聞くことができなかった。



「ララ!今日も橋に行くの?」
「うん!お友達がくる時間なの。約束してる。行ってきまーす!!」
 ララはそう言うと、元気良く屋敷を飛び出していった。
 アリソンはレックスが出ていってから、元気のないララを心配していたが、ここ最近、「ライラ」という年下で女の子の友達ができてからは、毎日笑顔で遊びに出掛けていた。
 ララの話によれば、ライラは物知りで、ララが知らないことを何でも知っている、すごく可愛くて賢い子だという。
 アリソンも、一度ララの様子を橋まで見に行ったときに、ライラという少女を遠目に見たことがある。
 手入れのされた長い黒髪に、質の良い、首や膝が隠れるようなモノトーンのワンピースを着ていた。明らかに平民の装いではないが、貴族令嬢のように着飾っているわけでもない。そしてララ曰く、『物知り』だというのだから、アリソンからすれば謎に包まれた少女だった。この近くに住んでいるということは、王宮の関係者の娘か何かだろうと思っていた。

 その日は、久しぶりにレックスが屋敷に戻っていた。いつもは、アリソンとララが出迎えてくれるところだが、今日はララの姿はない。レックスは気になってアリソンに尋ねた。
「母さん、ララは?部屋にいるの?」
「いいえ。ララは出掛けてるわよ。ここのところ毎日。女の子のお友達で、『ライラ』って子と橋の下で遊んでる。」
「ララに女の子の友達·······?初めて聞いた。それってどんな子か調べなくて大丈夫なの?」
 レックスの疑り深さにアリソンは呆れた声を出した。
「ララにだってお友達の一人や二人できるでしょう!それに、あなたが出ていったせいでしばらく元気がなかったのよ?最近ライラと遊ぶようになってからは、なんだか笑顔が増えたわ。もう屋敷を出たなら、ララに干渉するのはやめなさい。」
 アリソンにピシャリと言われ、レックスは押し黙った。
 レックスが屋敷に帰ってきた理由は、以前、ララが完成させた『海』の絵が、とある資産家の目に止まり、高額で売れたということを報告しに来たのだった。ララには事前に取引の場に持っていくことを伝えていたが、「私の絵が売れるはずないのに。」とまるで本気にしていなかった。
 今日は売上をララに報告し、初めてララ専用の銀行口座を作りに行こうと誘うつもりだった。

 レックスは、ララと近い距離で『兄』でいることが辛く、自ら距離を取ってしまっていた。ララがレックスに距離を取られたことで、時折悲しそうな、寂しそうな顔をしていた。レックスはすぐにララを抱き締めたい衝動に駆られたが、一度家を出た以上、近すぎる距離を一度離さなければ何の意味もないと思い、ここ数ヵ月はララに触れることも、部屋を訪れることもなくなっていた。

 自分から始めたことであるのに、いざ屋敷に戻っても、ララの顔も見れないとなると、このまましばらく会わず、他人のような距離に戻ってしまうのではないかと心配になった。
 何か言いたげなレックスの顔を見ると、アリソンは溜め息をついた。
「レックス、ララが懐いてくれていたから忘れたんでしょうけど、あの子は元々人一倍繊細なのよ。愛されることに慣れてないし、自分に自信がないし、常に不安に思ってる。突然あなたに距離を取られたら、ララはきっと嫌われたんだろうなとか、自分がなにかしたんだろうなって思うわよ。今までがそういう扱いをされてたんだからしょうがないわ。」
「················ララを嫌うなんてあるわけない。兄妹の距離を間違えたくなかったんだ。」
 レックスが落ち込んだような顔をしていると、アリソンは息子の背中をバンッと叩いた。
「じゃあ、迎えに行ってあげたら?そろそろ帰る頃だと思うし。お友達に失礼な態度は取らないようにね。」

 レックスが橋の近くまで歩いていくと、遠目にララと、黒髪の少女の姿が見えた。お互いに何かを耳打ちしてクスクス笑ったり、腕を組んで楽しそうに何かを離している。
 馬鹿げた話だが、レックスはその少女に一種の嫉妬心を覚えた。『友達』という近い距離で、ララと笑い合うことはレックスには無理なことだったからだ。その少女が羨ましく思えた。
 なんとなく面白くなく、レックスはララの気を引きたくて、遠くから橋の方へ叫んだ。
「おーい!ララー!!」
 レックスの声が聞こえたララは、はっと辺りを見回し、兄の姿が見えると焦って立ち上がった。
「に、兄さん!?」

 イリオがララとふざけて笑い合っていると、遠くからララを呼ぶ男の声が聞こえた。見ると、イリオも覚えのある顔が手を振りながら近付いてきた。側室の息子、レックスだ。
 レックスとは何度かしか話したことがないが、王子らしからぬ、単純で直情的な性格で、イリオの苦手なタイプだった。あんなに大声でララを呼ぶのも、慎ましさの欠片もなくて嫌いだ。
 せっかくのララとの2人きりの時間を邪魔されたことは悔しいが、このままレックスと対面してしまえば面倒なことになる。イリオは、ララがレックスに気を取られているすきにその場を去った。

「兄さん!どうしてここに?」
「いや、母さんからララがここに居るって聞いて·········あれ?友達は?」
「え??あれ······つい今までここにいたんですけど。帰ってしまったみたいです。」

 屋敷までの帰り道、ララは少し兄とは距離を取って歩いた。何を話せばいいのか分からず、地面ばかりを見ていた。
「ララ·········元気だったか?」
「え?·········あ、はい。お友達もできたし、毎日楽しいです。」
 本当に他人のような距離感に、レックスは自身の浅はかな行動をひどく後悔した。ララと他人に戻りたかったわけではないのに、ララはレックスに対して、もう二度と傷つけられないように壁を作っている、そんな気がした。
「友達は········名前なんだっけ?」
「ライラです。13歳の女の子で、物知りで面白いです。私にも優しくしてくれます。」
「そっか··········それは良かったな。ライラか······ライラ?何か聞いたことあるな。」
「················?」
 レックスは何かが気に掛かっているような様子であったが、結局それが何か分からないまま屋敷についた。

「ララおかえり!·········レックス、今日は帰るの?」
「────今日は·····泊まってもいい?」
「そう言うと思ったわ。私今から王宮に用事があるから、少し屋敷を開けるわね。夜には戻るわ。ララをお願いね。」
 アリソンは外出とのことで、突然兄と屋敷に残ることになり、気まずさを覚えたララだった。