最近のララは、絵を描くことに没頭していた。画材を揃えてもらったこともあり、色や描き方のバリエーションが増え、描きたいものが増えていった。
 その日も、ララは部屋で果物の絵を描いていた。
 レックスは黙ってその様子を見ていた。
「ほんとララって才能あるよなぁ·······でも、いつも家にあるものしか描かないのな。何か描きたいものないか?屋敷にはないものとか、場所とか。」
 ララは手を止め、少し考えて何かを思い付いた。
「あ!一つだけあります!海です。」
「海?」
「はい。生命の始まりは海らしいんです。だから、生物がたくさん生きている海ってどういうものなのか、興味があるんです。」
「海かぁ·······港なら仕事で行くことがあるけど、遠いから1日じゃ行けないな。ララを連れていくって言ったら母さん反対するだろうしな。」
「······いえ!連れていって欲しいなんて言ってな────」
「よし!ちょっと待ってろ。母さんを説得してみる!」
 ララは聞かれたから答えただけなのだが、レックスはすっかりその気になってしまい、ララの話も聞かずに部屋を出ていった。

「母さん。ララに海を見せたいから、今度遠出してもいい?帰るまで3日はかかる。仕事仲間のネイサンも一緒だ。」
「いいわよ。」
「···············え?」
「だから、いいわよ。気を付けて行ってきてね。」
「········何でいいの?そういうの『危ないわ!』って反対するじゃん。」
 アリソンは少し言いにくそうに、事情を話し始めた。
「あー········実はね、王様から旅行に行かないかって誘われてて。それで、その····」
「ララを残して屋敷を出れないから困ってたんだ?」
「お断りするつもりだったのよ!?でも、あなたがララと一緒に出掛けてくれるならちょうどいいかなって······」
 レックスはニヤニヤしながらアリソンの背中をポンポンと叩いた。
「別に後ろめたく感じることないだろ!楽しんできて。それにしても、父上はこの前のパーティーで母さんに会ってから、焼け木杭に火がついたのか!?念のため言っておくけど、母さんぐらいの年齢でも、子どもができる例は過去にあるからくれぐれも気を付けて。俺は年の離れた兄弟はもういらな────」
「レックス黙りなさい!!」
 余計なことを言ってアリソンを怒らせてしまったが、遠出の許可が降りたので、後日レックスはララを連れて、貿易港のある海に行くことになった。

 ◇

 遠出の日は、出掛けるのに最適な快晴であった。
 ララは遠出は始めてだったので、すごくワクワクしていた。移ろいゆく景色が楽しく、目に焼き付けようと窓の外ばかり見ていた。レックスは、目を輝かせるララを見るのが楽しく、長時間の移動も全く苦にならなかった。
 途中、ネイサンというレックスの仕事仲間が合流した。ネイサンは絵画オタクで、絵画の取引がある時はかならずレックスと行動を共にしていた。黒髪の癖毛に丸メガネの小柄な青年だった。
「初めまして!君がララだね。君が描いた絵を見たよ!僕は君のファンなんだ。よろしくね。僕が君の兄さんとどこで出会ったかというと────」
 ネイサンはマシンガンのようにしゃべり始め、ララは勢いに圧倒されてしまった。
 丸1日馬車に揺られ、目的地に着いたのは夕方だった。一刻も早く海を見てみたかったララは、宿に荷物を置いてからすぐに、レックスを連れて海岸まで歩いた。ネイサンは、明日の商取引に備え宿で休みたいとついてこなかった。
 夕暮れの海は穏やかで、海の彼方が夕焼け色に染まり、ララが今まで見たことがないくらい美しい光景だった。
「すごいわ兄さん··········連れてきてくれてありがとう。」
 靴を脱ぎ裸足になったララは、波打ち際で遊びたいという欲求に駆られた。
「兄さん!海に入ってみてもいい!?浅いところだけ!」
 兄の返事を聞く前に、ララは海に入っていき、スカートの裾が濡れるのも気にせずにキャッキャと遊び始めた。
「着替えは宿にあるしいいんじゃないか?ってもう入ってるし·······」
 レックスは苦笑しながらも、ララと一緒に海で遊びたくなり、服が濡れるのも汚れるのも気にせず、2人は辺りが暗くなるまで浜辺で遊んでいた。
 帰りが遅いのを心配したネイサンがやってきた時、レックスとララはびしょ濡れで砂だらけになっていた。
「·········君たち何歳??夕食も食べずに海遊びに興じるなんて、ほんとに仲がいいんだね。」

 宿に帰りシャワーを浴びた後、夕食を食べて部屋でゆっくりしていた。ララはレックスとネイサンとは別の部屋だったが、いつもと違う環境で寝るのに一人なのは寂しくなり、夜遅く、兄とネイサンの部屋をノックした。
「兄さん。眠れなくて。入ってもいい?」
「ああ、いいよ。」
 レックスは、明日の取引に出す絵画と資料を確認していて忙しそうだったので、ララは邪魔をしないようにとベッドに横になり、部屋から持ってきた本を読んでいた。

 シャワーから上がったネイサンは、ベッドに横になっているララを見て慌て始めた。
「えっ······ララなんでいるの!?」
「いえ、寝る前にちょっと遊びに来ただけで·····」
「女の子がいる部屋で僕は寝れない······!ララ部屋を代わって!僕が一人部屋になるよ。兄妹だし別にいいだろ。」
「え?あ、ごめんなさいネイサン·······」
 ララが言い終わらないうちに、ネイサンは手早く荷物をまとめ、隣の部屋に移っていった。
「どうしよう。怒らせちゃったかしら。」
「あいつは女に免疫がないだけだから気にするな。」
 レックスは笑いながら商品を片付け始めた。
「··········寝ようかララ。電気消すぞ。」
 部屋が暗くなり、ララは寝ようと目を閉じたが、なかなか寝付けなかった。兄も同じようで、何度も寝返りを打っていた。
「·······兄さん起きてる?」
「───ああ。」
「······いつもありがとう。私、お母様の娘になって、兄さんが帰ってきてから毎日楽しい。人生が変わったわ。」
「何だよいきなり。恥ずかしいからやめろ。」
 兄はフイっと背を向けてしまったが、ララは話しかけたくて仕方がなかった。
「それに、兄さんってすごくかっこいい。外を出歩くとね、女の人達が兄さんを見てるの。その人達より、私の方が兄さんと仲が良いんだと思うと、何て言うのかなこう言う気持ち────」
「········優越感?」
「そうそれ!とにかく嬉しくなるの。あとね、かっこいいだけじゃなくて優しいわ。私の遊びにも付き合ってくれるし今日だって·······」
「ララ!そんなに褒めたって何も出ないぞ。早く寝ろ。」
「······はぁい·············」
「─────────ララ。俺も、お前がきてから毎日楽しいよ。お前のこと、本当に大切だと思ってる。」
 ララも兄に背を向けていたが、その言葉を聞き嬉しくて涙が流れた。誰かに大切だと言われることは始めてだった。ララが何よりも欲しかった愛情をくれたのは、本当の家族ではないアリソンやレックスだった。
 ララは涙を拭きベッドから起き上がると、背を向けている兄のベッドの中に潜り込んだ。
「··········ララ!!何して───」
「一緒に寝よう。兄さんの匂い、落ち着くの。」
 ララは兄の背中にぴったりとくっつくと、すぐに寝息をたて始めた。
 レックスは恐る恐る後ろを振り向くと、天使のような顔でスヤスヤと寝ているララの寝顔がそこにあった。
「うわ·······かわいい·······」
 レックスにとっては、至福の時間でもあり拷問でもあった。この状況で眠ることなどなかなかできなかったが、日中の疲れもあり、気がついたら寝てしまっていた。

 翌朝、先に起きたネイサンが、なかなか起きてこないレックスとララの様子を見に行くと、2人で同じベッドに寝ていたので仰天した。
「君たち一緒に寝てたの······!?仲が良いにも程があるぞ!?レックス、君が女の子からモテるのは知ってるけど、シスコンも度が過ぎると引かれるぞ··········」
 起きたばかりのララは、目を擦りながらネイサンに弁解した。
「違うんです·····私が寂しくて勝手に潜り込んだの。よくお母様と一緒に寝てるから────」
 ネイサンはこの世で信じられないものを見たような顔をした。
「レックス·······王族で顔が良くて女にモテて、かわいい妹が勝手にベッドに潜り込んでくるという特典まで持っているのか。僕は生まれ変わるなら君と入れ替わりたいよ。不公平だ········」
 レックスは心なしか、気まずそうな顔をしていた。

 翌日、レックスとネイサンが海外の資産家と商談に行っている間、ララは一緒についてきた御者と共に、海でデッサンをしていた。
 本当は海だけの絵にしようかと思っていたが、砂浜で遊んでいた子ども達の笑い声が心地よく、『砂浜で遊ぶ子ども達と、後ろに広がる海』の絵にすることにした。海には今日1日しか滞在できないので、ララはこの光景を忘れないよう目に焼き付けた。

 商談が無事に終わったレックスとネイサンは、一度部屋に戻り、本日の売り上げを数えていた。
「今日は結構売れたね!海外だと、国内の絵の流行とちょっと違うから、また研究しないと。」
「ああ、そうだな。」
「ところでレックス。今お屋敷に戻ってるんだろ?すぐまた出ると思ったのに、今回長くないか?それにアネッサがよりを戻そうって言ったのに断ったって聞いたよ。」
「········なんだよ。別に俺の勝手だろ?アネッサのやつ、好き勝手良い回ってるな。」
 ネイサンは動かしていた手を止め、レックスをじっと見ながら言った。
「···········ララのせいだろ?」
「は?」
「ララが妹として屋敷に来てから、君は変わったんだよ。必ず屋敷に帰るようになったし、朝まで仲間と飲むこともほとんどなくなったし、美女と付き合うこともなくなった。なんだか君らしくない。」
「··········ララは関係ないだろ。ネイサン、おかしなこというなよ。」
「いいや、友人として言わせてくれ。あんなにかわいい妹が近くにいて、メロメロになるのは仕方ないさ。でも、ララは·······距離感がおかしいだろ?血が繋がってない、最近まで他人として暮らしていた男女が、同じベッドで寝るなんてありえないよ!」
「────お前は何も知らないだろ?ララは、幼い時に家族から愛情をもらわなかったんだ。やっとできた家族に甘えたい時期なんだよ。」
「そうか。だとしても、それはララの話だ。君は?彼女を完全に妹として見れるか?無理だろ。·········彼女は恋人にも結婚相手にもなれるわけじゃない。ララに恋したって、何も報われないし辛いだけだ。間違いが起きる前に、家を出て、君にふさわしい女性を探せよ!それが一番上手くいく。」
 レックスは苛立った様子で鞄の蓋を勢いよく閉めた。
「───黙れネイサン!知ったような口を利くな。お節介もほどほどにしろよ!」
 言い合いをした2人は、それから一言も口をきかなかった。

 帰りの馬車の中、レックスとネイサンはそれぞれ窓の外ばかり見ていた。ララはチラチラと彼らを見ていたが一度も目が合わなかった。行きはあんなに楽しかったのに、帰りの居心地の悪さにララは戸惑っていた。

 ネイサンとは途中で別れ、 ララは馬車の中で、レックスと2人きりになった。
 今日の海での出来事を兄に話したかった。すごく楽しい遠出だったと兄に伝えたかった。しかし、考え事をしているようなレックスの表情を見ると、ララはどう話を切り出せば良いか分からず、ただ黙って兄の隣に移動し、静かに身を寄せた。
 レックスは何も言わなかったが、おもむろにララの指と自分の指を絡ませ、掌が向かい合うようにして手を繋いできた。
 世間では恋人同士がする手の繋ぎ方だが、ララはそんなことを知るはずもなく、兄から自分に触れてきてくれることが嬉しかった。ララが微笑んでいると、じっと見られているように感じ、隣に座っている兄を見上げた。
「···············?兄さん?」
 レックスは、ララの頬にかかった髪を掬い上げ耳にかけた。この雰囲気をララは経験したことがないが、これから何をするのかはなんとなく分かる。王子様が、眠ってしまい目覚めない姫にするアレだ。
 なぜ兄がアレをしようとしているのかララには分からないが、兄が望むことに応えてあげたいというのがララの本心だった。
 ララがゆっくりと目を閉じると、しばらくの間があり、唇に軽く何かが触れた感触があった。兄が突然笑い出した為、ララはパチッと目を開けた。
「···········ララ!そういう時は断らないと。」
「──────え?」
「俺が何をしても受け入れるつもりか?それとも、誰にでもそうなのか?」
 ララには兄がなぜ笑っているのか分からなかった。からかわれたのだろうか?
「笑わないでください兄さん·········」
「────ネイサンのいう通りだ。確かにしんどいな。」
 レックスは繋いでいた手をほどくと、ララの頭を優しく撫でた。
「俺はお前の·········いい兄でいようと思う。この先ずっとだ。」
 ララは、なぜレックスが突然こんなことを言い出すのか理解できなかった。何かを決心したような、どこかで自分と一線を引いたような思いがした。ララは一抹の不安を覚えた。
「············兄さ───」
「ララ、海の絵ができたら、一度俺に預けてくれないか?完成、楽しみにしてるよ。」
 レックスはそういうと、窓際に肘をついて、再び外の景色を眺めはじめた。
 ララはなんとなく、兄に話しかけるなと言われている気がして、到着まで一言も話しかけることができなかった。
 兄の表情を何度も見たが、口元は手で隠れ、目線は窓の外を見ていた。兄が今どんな気持ちでいるのか、ララには全く想像できなかった。