今日こそは、と鏡に向かって笑顔を作る。緊張でこわばる頬も、だいぶ緩んだ様に見えた。
静まり返る化粧室。最後にもう一度顔を鏡に近づけ四方八方に傾けた。茶色い肌にパールの入ったブルーのアイシャドウがまぶたの上で煌めく。しかし、目尻に出来たカラスの足跡がやっぱり気になった。まだ子ガラスほどの小さな足跡だとしても、せっかくの目元がこれで台無しだ。視線を上にズラせばアーチ型に整えた細い眉に、一本白くなった毛が生えていた。  
小さく舌打ちする。実はこれで二本目だったけど、一本目の白い眉毛は半年前に抜いた。勢いつけて引っ張って抜いたら、毛穴から血が出て、そこに細菌が入ったのか、腫れ上がって暫く大変だった。だからこの毛は抜かないでおいている。
目尻のシワと一本の白い眉毛。最近、急速に弾ける若さが失われていくのを感じてい
た。
メイクで年齢を埋められないならと、バッグ代わりに活用しているローズファンファンのショップ袋から、ハイビスカスの髪飾りを取り出す。頭上に咲き誇る赤い大輪のハイビスカスが、これで二つになった。華やかさに目を奪われれば、加速する老いはこれで消したも同然だ。
 うんッ、チョベリグ。
取り戻した若さと、明るさ。これでナミエとヒロコも、わたしの青春へいざなえる筈だと自信が漲った。
この短期のサンプリングバイトも、残り一週間で終わりを告げようとしていた。となれば、このままだとナミエとヒロコとは二度と会えなくなるわけで。いつもより早い時間にバイトが終わった今日、特にわたしは意気奮闘していた。バイト終わりに一緒に遊んで、距離を縮めて、連絡先を交換する! 
コギャル界の神、安室奈美恵と安西ひろこ。その二神の名を背負ったナミエとヒロコ。運命としか思えなかった。だからこそ絶対友達になって、わたしの人生に花咲すんだッ、と鏡に映る頭上のハイビスカスに誓った。
「お疲れさまでしたー」
 控え室から出て来たナミエの声が、化粧室まで響いて聞こえる。
「お疲れ様でした」とヒロコの声が後を追う。
 わたしは急いで廊下に飛び出し、二人の前を塞いだ。
「ちょっとちょっと、ねえねえねえ!」
 ナミエもヒロコも勢いに押されのか、体が後ろに反っている。
「ああ美恵(みえ)春(はる)さん、まだ残ってたんだ。お疲れさまでした」
「待って待って、せっかく今日は十五時にバイト終わったんだよ〜? 流石に、みんなでどっか遊びに行くっきゃなくない〜?」
「あー、ごめんなさい。これからウチら、ご飯食べてから帰ろうって話してたんで。じゃ
あ、お疲れさまでしたー」
「美恵春さん、お疲れ様です」ヒロコも小さく会釈して、ナミエの後を追った。
『ウチら』。チクリと胸が痛む。あんなに大好きだった『ウチら』という響き。今では耳にするだけで、チョベリバが胸にせりあがってくる。そのせいで嫌でも思い出す、ちぃ子の裏切り。虚しさと憤り心の中を渦巻いた。
「あゝ、畜生!」
誰もいなくなったフロアに、自分の声が反響する。
ちぃ子へ連絡してから、四日経っていた。音沙汰はない。あと三日で一週間となる。それまでちぃ子から何も連絡がなかったら、裏切り者と見なせばいい。それで会社に赴いて説教してやればいい。とわたしは鼻息荒く、そう決断して、怒りを鎮める。
他の同僚も、ナミエもヒロコも居なくなったフロア。わたし、ひとりだ。怒りが寂しさへと変わり、結局今日も諦めて家路につく事になるのだと、虚しく息を吐いた。


というのも、テレビ画面に映し出されたちぃ子の姿と共に、神田千(かんだち)代子(よこ)と名前が紹介されたのは四日前のことだった。
 その日なかなか寝つけなかったわたしは、部屋でテレビを点けるとビジネス番組がやっていた。椅子とテーブルだけの安っぽいセットのスタジオに、話を広げようと質問する女性司会者。向かい合うようにして座わっている女性ゲストが、司会者の質問に対して喋りだすと、その女性の紹介テロップが表示された。『ザ・ウィメン取締役 神田千代子』。
 その瞬間、わたしの全身に電流が走ったかのような衝撃を受けた。高校三年間、卒業してからだってずっと憧れの存在だった、神田千世子。ちぃ子と同姓同名の人物。全く違う外見なのに、どこか似ているようにも思え、不思議と鼓動が激しくなっていくのを感じた。
透き通るように真っ白くなった肌に、肩にかかる程短く切られた黒い髪。化粧はナチュ
ラルで、着ているものはビジネススーツ。流行りもお洒落も皆無だった。全ては仕事に効率的な作用を及ぼすための外見といったような印象。
 冷静になればなる程、これがちぃ子? と疑惑は薄まる。
 色白でメイクも盛れてなさ過ぎて、ハイビスカスもヒョウ柄も目の前のちぃ子からは見当たらない。全体的にイケてなさ過ぎる。それに、わたしの知っているちぃ子だったら、同じ四十代の筈だ。なのに、この女はウチらより全然年下に見えた。シワもたるみもなくって、瑞々しくピンと張った肌。……羨ましい。
秋の夜は冷え込んでる筈なのに、気付けば汗でパジャマが皮膚に張り付いていた。 
目を瞬かせ、今度はテレビ画面に顔を近づける。ちぃ子でないことに確信得るべく、間近で顔を観察した。
面長の輪郭に、黒目がちにみえる瞳。鼻筋は通っていないけど、子犬のように可愛い小鼻で、若干反った上唇は特にわたしの好きなちぃ子のパーツだった。二十五年経った今でも、当時の面影を残したままの魅力的な顔の造り。
「ちぃ子だ……」
開いた口から、気付けば唾が滴り落ちていた。
ちぃ子は司会者から再び質問を受けると、余裕の笑みを投げかける。そして、凛々しく答え始めた。
「女性の社会進出を当社ではスローガンに掲げております。また女性にとっての働きやすい環境の提供を第一の目標として、女性社員のみの意見交換会の場も設けておりまして。それは、テーマの一つとしてSDGsの──」
ナンタラカンタラ、ナンタラカンタラ。長い喋りの中で、「チョベリバ」も「超」も「マジ」だって、たった一度も口にしなかったちぃ子。
この瞬間、あのカリスマコギャルだったちぃ子から、コギャルの要素は全て消え失せたことを悟った。
つまり、ちぃ子は裏切ったのだ。
やり場のない憤りに、側あったハイビスカスの髪飾りをテレビ画面に向かって投げつける。小さくコツンと音を立てて、ハイビスカスは床に落ちた。
ちぃ子が読モとして載ったGAL Teenは未だに実家で大切に保管している。四ヶ月前も実家に帰った時、見開き一ページに掲載されたちぃ子の写真に向かって、わたしは誓いを交わしてきた。
109を背景に、カメラ目線で大きく口をあけて笑顔を作るちぃ子。頭上に『ハイビスカスとヒョウ柄は超命』『ウチら一生コギャル宣言!』とデカデカと派手な色で主張する文字。
『ウチら』って、わたしも含まれているんだよね? だから、日々その宣言のため
に、ちぃ子へ誓いを交わしてきたのに。一方的に一生コギャル宣言をしたちぃ子は、黙って裏切った。……。 
テレビ画面に映るちぃ子は、まだ何か話していた。小難しくて、内容は理解できなかったけど、チョベリバの代わりのように、やたら「女性」というワードを乱発していた。
 番組は終わった。冷静に考える。あれは別人か幻だったんじゃないかと思い直す。だって、ちぃ子がコギャルを捨てるとは到底考えられなかったから。それに、こんなド深夜に放送する番組なんて、絶対大した番組じゃないわけで。しかも、ローカルチャンネル。
唐突に笑いが漏れる。なーんだ、きっとちぃ子はこんなチープなクソ番組のせいで、無理矢理ヤラセに加担させられただけなんだ。わたしってば、ばっかみたい。ちぃ子を信じないだなんて。
疑念の晴れた笑い声は、六畳一間の部屋によく響いた。
テレビに投げつけたハイビスカスちゃんを拾い、「ごめんね」とホコリを払う。その時、揺れ動くポリウレタンの花片から閃きのような啓示を受け取った。
『ハイビスカスとヒョウ柄は超命』
デカデカと派手な色で主張した紙面の文字が、脳裡に蘇る。それは、ちぃ子が命をかけて誓った証拠だ。しかも、超まで付けて。命と同等のハイビスカスとヒョウ柄を捨てるなんて、よっぽどの事情がなければおかしいわけで。 
わたしは直ぐさま携帯を手に取り、記憶に残るちぃ子の社名を検索した。ちぃ子の会社のホームページにあった問い合わせフォームから、自分の思いの丈を長文にして綴りまくる。気づいた時は送信した後だった。どんな内容で、どんな文章だったかは、殆ど思い出せなかった。


 ナミエとヒロコとは仕事終わりに遊べず、今日も失敗に終わった。諦めて家路につくのも不服だったから、地面を蹴り上げて八つ当たりする。「ウチら、ご飯食べてから帰ろうって話してたんで──」と言っていたけど、今頃、二人でご飯食べているのだろうか。マックなのかな。ファミレスなのかな。わたしもそこに加わりたかったな、と自分もナミエとヒロコと笑い合ってハンバーグステーキを頬張る姿を夢想する。が、時折吹きつける風が冷た過ぎて現実に引き戻される。チッと舌打ちして、今度は道端に唾を吐きかけてやった。草むらから出てきた野良猫が興味深げにわたしをじっと見上げていたけれど、猫に興味ナシッ。シカトして歩き続ける。
夏と違って空はもう暗い。携帯で時間を確認すればまだ一七時半だ。ガキじゃあるまいし。こんな真面目に真っ直ぐ家に帰るコギャルがいるだろうか、と苛立ち募る。
わざわざ109前でのサンプリング配布を狙って、登録制バイトの希望勤務地は渋谷に登録してあった。片道二時間。埼玉の端っこの自然多き田舎より遊ぶ場所も断然ある、渋谷。友達と過ごすのには理想とすべき、コギャルの聖地。なのに単発、短期で出会うバイト仲間は、いつもわたしとの距離を取る。ナミエもヒロコもやはり同じ。大学生だからなのか、時代が令和だからなのか、それともコギャルじゃない故にノリが悪いのか。友達になろうとすると、途端に見えない壁を作られた。分厚い壁。年代なんて変わらないも同然なのに。 
相変わらず、強い木枯らしが吹きつけやがる。頭上のハイビスカスが激しく揺れ動き、両手で押さえた。ショートパンツから露わになる生足は鳥肌が立つ。だけど、若さの象徴というべき脂肪を蓄えたこのたくましき太もも。無敵だしッ。と空中に中指突き立ててやる。
道端でゲームボーイか何かに夢中になっている数人の制服姿の学生のうちの一人と、目が合った。ぎょっと目を開いてこっちを見ている。イキって金髪に染めていやがるけど、顔に幼さが残っている。きっと中学生だろう。ガキに用無しッ。わたしはそのままガキ達の横を素通りする。
「なあ、あのババア見た?」「なにが?」「マジやべぇ奴だった」「どこ?」「あいつだよ。ほら頭にハイビスカス乗っけてんじゃん」「え、ババアじゃなくね」背後から聞こえてくる囁き声。ガキに用無し。どこかへ寄り道しようと考えるも、一人遊びは飽き飽きだった。結局、諦めて真っ直ぐ帰宅することにした。
閉めたはずの鍵が、開いていた。服とか布団とかゴミ袋が乱雑に入り乱れた部屋に、三角座りをしたママがテレビを見ていた。
 思わずため息が出る。手にした警棒をローズファンファンのショップ袋へと戻した。その音でママはわたしの帰宅に気付いらしく、姿勢を崩さず顔だけをこちらに向けた。
「ああ、おかえりなさい」
 そう言うと、またテレビの方向へ顔を戻す。
「来るなら連絡くらい頂戴よ。いきなり人がいる気配したら、びっくりするでしょ」
「だって合鍵貰ってるんだから、いいじゃないの」
「それは、何かあった時のためって言ってるでしょう」
 わたしは茶渋の取れないマグカップに、水道水を注いで、とりあえずママをもてなす。ママはマグカップを受け取ると、眉間に皺を寄せてマグカップの中を暫く覗き込んでいた。結局口をつけず、静かにちゃぶ台の上に置いた。
「今日はその美恵ちゃんが言う、何かあった時のためで来たのよ」
 わたしがいつも座る定位置にママが座わっていたため、衣類やゴミを足で退かし
て、新たに座れる場所をつくって座る。
「どうせ徳活でしょう」
 徳活とは、徳を積む活動のことだ。
「あら、それは、どうかしら〜?」
 ふふっと、ママが嬉しそうに笑う。満杯になったゴミ袋と荷物や衣類に紛れて気付かなかったが、ママの背後に四角いケージが置いてあった。ママはそれを持ち上げて、どすんとちゃぶ台の上に置いた。
鳥籠の中に一匹、小鳥がいた。深海ように暗く、真っ青な色をした鳥。パニックを起こしてチュンチュンチュンチュンと鳴いては、その青い羽をばたばたと広げていた。
「鳥?」
「そう、鳥。美恵ちゃん、悪いんだけど、この鳥貰ってくれない?」 
「はっ?」
「実は二ヶ月前に怪我してるところを拾ってあげたんだけどね、ほら、うちにいるボンボラ様が鳥、御法度なんですって。だから、せっかくこの鳥助けてあげたんだけど、流石にこれ以上飼うことは出来ないのよ」
 ボンボラ様というのは、ママが数ヶ月前に入信した、よくわからない宗教団体が信仰している神様のことだ。パパが亡くなってから宗教に入信し始めたママは、気付けばいくつも信仰対象を掛け持ちしていた。
「だって神様相手に、本格的に徳が積めるのよ?」と、徳を信仰しきっているママは、神まで徳活の餌食にしようとしていた。「しかも一途に一つの神様心酔してるバカ信者より、私の方が数倍もご加護と徳が積めてるんだから」と鼻息荒く、ドヤしていたママの顔を思い出す。今、実家のリビングはそれぞれの宗教団体で購入させられた祠や神棚、祭壇で埋め尽くされている。ママは毎日、沢山の神を相手に酒や果物、野菜をお供えしていた。全ては徳を積む為に。
「一応、私としてはね、怪我が治るまでこの鳥の面倒見てあげたんだから徳は積めたのよ。だから、今度は美恵ちゃんに徳チャンスあげるから、貰ってちょうだいよ。これで、徳が積めるわよぉ〜?」
 ママは徳の話になると、鼻の穴をまん丸く広げる。目が爛々と輝きだし、それが余計癇に障る。
「今更? そのボンボラって奴、鳥ご法度なのに、暫く家で飼ってたんでしょう? だったらその時点で、もうボンボラから徳積めてないじゃん。それに、もし徳積むなら最後まで責任持って飼うことこそが、徳ってものを積めるんじゃないの」
「美恵ちゃん、全っ然、徳についてわかってないじゃない!」
 ママがいきなり声を荒げた。
「ボンボンラ様のことを想いながら、名残惜しくこの鳥を手放すことこそが、更なる徳ポイントに繋がるんじゃないの。徳活してないと、こうまで鈍く落ちぶれちゃうだなんて。ママ悲しいわ。悲し過ぎるわよ」
「徳々々々、いい加減にしてよ。わたしは徳にも鳥にも時間かけてられないの! もうわたしの時間は、わたしだけのものだって何度も言ってるでしょう。だからさっさと鳥連れて帰って!」
ママが黙る。不気味な無言の時間が流れた。意味ありげにママは目を細めた。
「ふーん、そう。美恵ちゃんが好きな、あの、浜ナントカあゆみって歌手は鳥飼ってるんだってさ。だから、美恵ちゃん、てっきり鳥飼うと思ってたのに、残念だわ」
「ええ⁉︎」
 思わぬ情報に、若さを欠いた声が出た。
「それ、ほんと??」
わたしの反応を伺うように、ママの細めた目からジロリと黒目が動いた。
 あゆ情報はウィキべディアとか検索とかで調べていた筈なのに。時間が経てば経つほど増えていく情報量。全然、知り尽くせない。あゝ、悔しい! 畜生! チョベリバ!
 駆られる焦燥感。追い打ちをかけるように小鳥がチュンチュンチュンチュン鳴く。首を傾げて、こっちを見ていた。つぶらな瞳に、小さなくちばし。青色で毛並みのよい、艶のある羽。ちっとも可愛くない。
 結局ママは餌代として千円札一枚置いて、帰った。鳥が明け方までチュンチュン鳴きやがって、ちっとも眠れなかった。

 
 検索してもあゆが鳥を飼っていたなんて情報は一つも出てこなかった。だけど、お陰であゆがBULE BIRD というタイトルの曲を歌っていた事を知る。なので、ママの嘘も許すことにした。 
 朝の通勤電車の中、ついでにあの鳥の種類も調べようと検索する。餌が肉食だった場合お金が掛かりそうだし、なんとなく気持ち悪いから嫌だなと思った。しかし結果として、似たような青い色をした鳥の画像が沢山出てきた。違いはあるんだろうけれど、わたしにはどれも同じに見える。面倒だったから、今朝撮っておいたあの青い鳥の写真を添えて、Yahoo! 知恵袋に丸投げした。
 昼休憩の控え室。一ヶ月の短期バイトの中でなんとなくグループが出来上がっていた。十代が三人纏まったグループと、二十代のナミエとヒロコのグループ。わたしは勿論、ナミエとヒロコのグループにいる。
皆、それぞれが昼をとっている中、わたしはいつもナミエとヒロコの隣に座り、携帯をいじっていた。昼は食べない。お金の節約もあるけれど、隙あらば会話に参加しようと耳をそばだてることが優先だった。
ヒロコが昨日、駅前のジューススタンドで梨ジュースを飲んだ話をする。フルーツに時代も流行りも関係なし。ここがタイミングだと、姿勢を正し、ヒロコとナミエに向かって会話に加わろうとした時だった。
「柴田さん」
 十代グループの三人のうちの一人が、わたしを呼んだ。しかも名字でだ。
「飯塚さんが、サンプリングの配布範囲をもうちょっと広げたいから、柴田さんはビルの出入り口から離れた場所で配布してくれって伝言受けました」
 名前も思い出せないようなこの冴えない女。返事はしない。じっと睨み据えるだけ。すると気まずくなったのか、その女はさっとわたしから視線をずらし、仲間との会話の続きに戻った。
 あれほどバイト初日に「美恵春って呼んでねッ」と距離を縮めてやったのに。柴田さんときた。名前で呼ばない友情がどこにある! 不愉快極まりない。そっちが友情お断りなら、こっちから友情お断りにしてやるつもりだ。ナミエとヒロコも、わたしに『さん付け』だけど、それでも下の名前で読んでくれている。友情の可能性が伺えられるし、ナミエとヒロコだもんッ。きっと年上だってことで気を遣って美恵春『さん』と呼んでくれているのだろう。
そう考えると、尚更あの女に向かって一言も話す気は失せた。
気を取り直して、改めて耳をそばだてる。ナミエとヒロコは、昨夜クラブに行ったことへの話題に移っていた。完全に会話に加わるタイミングを逃した。くそ。
 喋る友達はいない。食べ物も飲み物もない昼休憩。手持ちぶさた過ぎて、携帯をいじるしかない。
致し方なく、Yahoo! 知恵袋に回答がきていないかチェックする。あの青い小鳥の写真を添えて種類は何かと投稿した質問に、一件回答が来ていた。『青いウグイスじゃないですか?』
は? ウグイスはうぐいす色だからウグイスって名なんだろうが。鳥に興味ないわたしですら、青いウグイスなんていない事はわかる。世の中にばかが多くて、ため息が出る。
暇すぎて、投稿した小鳥の写真をまじまじと凝視した。ちっとも可愛くないなと思う。この小さい頭に、きっとカシューナッツ一個分くらいの脳みそしか詰まっていないんだろう。果たして、そんな脳みそサイズを生き物として認定していいのだろうか。
「可愛い! 飼ってるんですか?」
 気付けばヒロコの顔がわたしの顔の側にあって、携帯の画面を覗いていた。
「ねえ、ナミエ見て、可愛いくない? 私鳥好きなんだよねー」
「へー、本当だ。しかも青い鳥じゃん。美恵春さん、動物飼ってるなんて初めて聞いた」
「え、ああ、そ、そそう」
 不意の出来事に思わず狼狽える。コギャルなんだから、余裕かまさないでどうするのよ、美恵春ッ!
「訳あって、昨日から飼い始めたんだよね〜ッ。もう可愛すぎてチョベリンコ」
「私のおじいちゃんがね、鳥飼ってたんだけど、その影響で私も鳥が好きなの。しかも、種類は違うけど青色だったんだよ」
 あれ、ヒロコ、わたしにタメ口になってね? 嬉しさ倍増、チョベリンコ。この勢いこそがビッグ・ウェーブにビッグ・チャンスだと察知する。
「へえ〜! ヒロコ鳥好きなんて、ウチら超気合うね!」
「ちょっとお、私だって鳥好きだよ? 実家で飼ってるの猫だけど、動物は好きだも
ん」
 置いてけぼり感にナミエは焦ったのか、不貞腐れて頬を膨らましていた。クールな印象があったから、珍しく女の子っぽくて可愛い。
「美恵春さん、この子、何ちゃんって言うの?」
 ヒロコが目を輝かせて聞く。
名前? 鳥に名前? 咄嗟に『あゆ』と口元まで出かかるも、急いでのみ込んだ。そういえば、ネットでこの鳥の種類を調べていた時、青い鳥は幸福の象徴だと書いてあった記事を思い出した。間もなく幸福が訪れるだろう、そう目にした。 
「……ミーア」
「ん? ミーアちゃん」
「ううん、マンマ・ミーアちゃん」
 イタリア語で、友達。願いを込めて、そう呼んだ。
「へえ! ちょっと変わってるけど、美恵春さんらしい可愛い名前だね。マンマ・ミーアちゃん」
「ネーミングセンス、最高じゃん」
 ヒロコもナミエも、笑っていた。わたしも笑った。笑い合った。――友達、青春。バイト生活の中で、わたしに初めて春が訪れた瞬間だった。
 帰りの電車の中、わたしは笑みを溢さずにはいれなかった。時折、他の乗客から視線を感じたけれど、わたしは気にしない。   
本当に幸せで、楽しかったな、今日の昼休憩。と何度も思い出を味わった。座った状態で腿の上にのせたローズファンファンのショップ袋から振動が伝った。携帯をチェックする。メールが一件受信されていた。
 ちぃ子からだ……!
 予期せぬ出来事に、バクバクと心臓が慌てふためく。
 てっきり、返事が来たとしても社員とかスタッフとか、AIとかが適当に返事を寄越してくるだけだろうと、正直期待していなかった。しかし文面を見れば、直接ちぃ子が綴った内容だと思われた。わたしを覚えていること。わたしから連絡がきて嬉しかったこと。詳しく話したいから、直接わたしに会いたい旨が述べられていた。…………直接、わたしに会いたい⁉︎
目ん玉が飛び出しそうになって、急いでぎゅっと目を閉じる。こんな所で目ん玉が落っ
こちて、ちぃ子に会えなくなったら最悪だものッ!
 深呼吸して、一旦気持ちを落ち着かせる。それでも冷めぬ興奮は、明日にでも会いたいと文字を打つ。唐突過ぎるかな? と見直す。消して、打ち直し、確認し、消して、また文面を作成し直す。無事、送信出来た頃にはとうに最寄駅を過ぎていた。 
 近所のスーパーに寄って、わざわざ食パンを買った。パン屋でパンの耳を貰ってきても良かったが、奮発して食パンを買わずにはいられなかった。マンマ・ミーアちゃんが家に来て、突如動きだしたわたしの人生、幸福、喜び。青春……! 仮に肉食だったとしても、餌に金払ったんだ。無理矢理にでも小麦を食べて貰おう。
ステップを踏みながらマンマ・ミーアちゃんが待つ家へと帰った。
 

 出勤早々、絆創膏で埋め尽くした手を見るや否や、ナミエとヒロコは「どうしたの⁉︎」と驚きを露わにした。
 控え室で配布時用のスタッフTシャツに着替える十代の女たちも、その声でわたしに視線を向けた。
「包丁でかぼちゃの皮剥きまくってたら、こんな状態ッ! もう、チョベリバ過ぎるー」
 マンマ・ミーアにやられたとは勿論言えない。
 わざわざ小さく千切った食パンの山を鳥籠の中に入れてやったら、手を思いきりくちばしで突かれた。しかも、全く食べる気配を見せず、食パンの山に糞しやがった。無理矢理くちばしの中に餌を詰め込んでやろうと格闘するも、鳥籠から脱走。やっと捕えた時には、手の甲は血だらけだった。あの、くそ鳥。青色じゃなかったら、食肉用として冷凍保存してやったのに!
「美恵春さん、料理するんだあ。初めて聞いた」
「料理するよ、チョベリンコ」
「あ、そういえばさ、明後日ウチらバイト休みじゃん? ヒロコと一緒にどっか行こうって話になってるんだけど、美恵春さん予定とかあったりする?」
 え、えええ⁉︎ これって、お誘い⁉︎ お誘いだよね⁉︎ ってかてか、ウチらって言ったよね⁉︎ 今、わたしも含めてウチらって言ったよね⁉︎
「あ、あ、ああいてるよ」
 平静を装うつもりが、慣れない誘いに吃ってしまう。
「よかった。じゃあ、詳細決まったら教えるね」
 ナミエとヒロコはわたしに連絡先を聞いてきた。LINEというのがわたしの携帯からじゃ使えないらしいから、メールアドレスを交換する。
いよいよ青春が始まった、そう思った。高校生活がスタートする春、みんなこうやって友達になって連絡先を交換し、三年間を駆け抜けるんだ。二年半を迎えたアルバイト生活にようやく春が訪れた。思ったより遅かった春だけど、期待で胸が膨らんだ。
 十時からスタートするサンプリングの配布に、皆、次々と控え室を出ていく。ナミエとヒロコも先に配布場所となる街頭へ向かった。
わたしは、あゆの『BLUE BIRD』を口ずさむ。ひとり遅れてスタッフ用Tシャツに着替える。携帯が鳴った。すぐさま手に取る。昨夜、ちぃ子にメールを送ってから、まだ返事は来ていなかった。気が気でなく過ごした半時間、生きた心地がしなかった。何度も打ち直して送った「明日は如何でございましょうか?」に、次第に自信を失くし後悔していたから。
恐る恐る受信されたメールを開く。ちぃ子からの返事だ……!
「遅くなってごめんなさい。本日、大丈夫です。夕方頃はどうかな?」……今日⁉︎ いざ今日となると緊張してきて、焦る。だけど、このチャンス逃したくない!
 わたしはすぐさま返事を送る。「今日の十七時以降からだったら、大丈夫だよ〜っ!」と前回の失敗を糧に、弾ける明るさ意識する。
昨日から怒涛に押し寄せる幸せ。全てはマンマ・ミーアが家に来てからだ。
 わたしは『BLUE BIRD』を引き続きを口ずさんだ。
 バレないよう、途中でバイトを抜け出せた。一時間早く待ち合わせのカフェへ向かったわたしは、何度も化粧室へ行っては入念にメイクをチェックした。普段より濃いめに盛る化粧。誤魔化しきれない老いは、華やかさの象徴ハイビスカスで補う。今日は特別だもんッ、と頭上に咲き誇る大輪は三つになった。
うんッ、チョベリンコ。
席に戻る。店員がまた注文を聞きに来たけど、無視した。携帯で時間を確認する。あと二十分。暇だから、Yahoo!知恵袋を確認する。新たに回答が来ていた。『この鳥は青色ですか?』は? どう見たって青色をした鳥の写真だろうが。こいつはバカか?  と思うも一応、回答に返事をする。ひょっすると、色を確認してから種類を教えてくれるパターンかもしれないから。『はい、青い色の鳥です』暇過ぎて、何度か確認したらまた同じ人から返事が来ていた。『素敵な鳥ですね』は? そもそも、わたしの『この鳥は何の種類ですか?』の質問に対して、答えになってねえだろうが。どいつもこいつもバカすぎて、苛立ち募る。店員がまた注文を取りに来たけど、無視した。
待ち合わせ時間の五分前に、ちぃ子はカフェへやって来た。店内の見回している。ウン十年ぶりの再会で、ドキドキする。こうして遠くからでも生で見ると、やっぱりちぃ子だなと思う。けれどテレビで見かけていなかったら、絶対に気づかなかっただろう。
だってオフィスカジュアルの格好で、ハイビスカスもヒョウ柄も探したけれど、全身から一つも見当たらなかった。やっぱり、ちぃ子は一生コギャル宣言を破ったんだと悔しさ募る。いや、ダメダメ。まだ、ちぃ子から直接話を聞くまで裏切り者と決めちゃダメよ、美恵春ッ。と自分を叱る。
ちぃ子が近づいて来る。わたしを二度見するも、視線は違う方向へ流れ、わたしの席を横切った。
もうッ、ちぃ子ったら。わたしはコギャルの明るさで、ちぃ子の肩を弾むリズムで叩いた。
「ちぃ子、こっちだよッ」
 振り向いたちぃ子の黒目が点になった。まるでオセロの黒い石みたいだ。
「久々過ぎて、忘れちゃった〜? 美恵春だよッ」
 ちぃ子の顔は固まったままだ。
「ちょっとぉ、本当にわたしのこと忘れてたんじゃないの? それってチョベリバだよ〜」
 ちぃ子が戸惑ったように、ゆっくり口を動かした。
「え……、あの、本当に、柴田美恵春さん?」
「やだあ、さん付けなんてやめてよ! 美恵春でいいよッ」
 そりゃ、高校生の時と比べたら、いくら頑張ってるわたしだって、弾ける若さは劣化しているかもしれない。けれど、だからといってわたしを別人みたいな扱いするなんて。流石のわたしも、ちょっとちぃ子にムカついた。でも、ここは冷静に。だってウン十年ぶりの再開だもの。誰だか分からなくても無理はない。お互い外見に多少年月を感じずにはいられないのも事実だ。
 ちぃ子はわたしの前に座るも、まだ戸惑った様子だった。
「ちぃ子、大丈夫〜? わたしだって久々にちぃ子の姿をテレビで見かけた時、超戸惑っ
たんだからね」
「いや……学生の時と随分と違うから」
「わたし? そんな違う? もうッ、それってチョベリバだよ? そりゃ、どんなに頑張ったって四十だもん。あの頃の若さを維持するのは難しいよ」
「…………ん、というか。雰囲気が随分変わったなって。柴田さんって、たまに教室で見かけることしかなかったけど、いつもひとりで本読んでる静かなイメージがあったから」
「なんだ、そっち? っていうか、柴田さんじゃなくて、美恵春でいいよッ」
 当時はまともにちぃ子と会話したことがなかったから、覚えていてくれただけでも顔がほころびそうになる。
ちぃ子は引き攣った笑顔をつくる。信じられないとばかりに目が点のまま、わたしに心奪われている様子だった。
「もう、そんなに驚く? ってか驚いたのはこっちなんだから! ちぃ子はコギャル魂捨てたわけ? 正直言って、超裏切られた気分だよ」
 自分がちぃ子と対等に話せていて、何なら口調が強くなっていた。昔だったら、面と向かって、ちぃ子と会話することすら出来なかったのに。コギャルの力って最強だな、と改めて実感した。
「ちぃ子がGAL Teenに載った時、『ウチら一生コギャル宣言』って、言ってくれたじゃん? だから、わたし、ちぃ子のその言葉ずっと信じてたんだよ? 今でも、その雑誌のページ見ながら『わたしも一生コギャルです』ってちぃ子に宣言して、ちぃ子に誓いたててるのに!」
 ちぃ子はちょっと苦笑いを浮かべて、困まっている様だった。なんて言おうか悩んでいるようにも見えたけど、しばらくし考え込んでいた。そして私に説明をするみたいに、ゆっくりと口を開いた。
「美恵春さんがテレビで私を見かけて、わざわざ会社に問い合わせてくれたの、私、嬉しかった。しかも高校の時、私のこと憧れてたなんて言ってくれて、本当に嬉しくて涙が出そうだったの。ありがとう」
ちぃ子にしっかりと目を見つめられて「ありがとう」と言われた。厚めに塗ったファンデの下では、頬が熱くなるのを感じた。嬉しさで顔が緩みそうにになる。だけど、ここはわたしがコギャル代表として説教しなくちゃいけないからと、眉間に強く皺を寄せた。
「大人になって仕事一筋に頑張ってきたんだけどね、気付いたら学生時代の友達も離れち
ゃって。ふと、周りを見回すと誰もいなくて、独りぼっちになっちゃったんだなーって、
思ってたんだ」
 ちぃ子は、力なく微笑んだ。
「だから美恵春さんから連絡もらった時、私、心救われたの。私のことを想っていてくれる人がいたんだって。美恵春さんは今の私の姿に納得してないかもしれないけど、コギャル魂捨てた訳じゃないんだよ。美恵春さんみたいに強くないだけで、私は社会の鎧をかぶらなくちゃ、生き抜くことが出来なかったの」
 テレビに出ていた時のような凛々しさは目の前のちぃ子からはなくなっていて、どこか物憂げで、小動物のように弱々しい一面を見た気がした。そんなにちぃ子が戦う社会は、獣だらけなのだろうか。『さん』付けはやめてとも、コギャルを捨てたことへの裏切の怒りも、途端にどうでもよくなってしまった。
 代わりに胸に痛みが伴った。自分が浅はかだったことへの痛み。ちぃ子を信じず、どこかで裏切り者だって決めつけていたわたし。信じる心なくして、友達は成り立たないっていうのに。
「ちぃ子がそんなに頑張ってて、辛い思いしてたなんて、わたしなんにも知らなかった。それなのに、ちぃ子が裏切ったとばかり思ってた。わたし、最低だよ。本当、最低。ごめんね。本当にごめんなさい」
 わたしは深く頭を下げた。ちぃ子は「そんな、顔上げてよ」と言ってくれた。けど、せめてもの償で唇を強く噛み締める。途端に鉄の味が口内に広がったから、よしとして、顔を上げた。
「わたしね、雑誌でちぃ子が『ウチら』って言ってくれた時、胸が張り裂けるくらい嬉しかったの。だって、ウチらってことは、わたしも含まれてるってことなんだよねッ?」
 ちぃ子は黙ったまま、微笑む表情を崩さない。
「ねッ?」
ちぃ子は黙ったまま、微笑む表情を崩さない。
「わたしがコギャルになった時、ちぃ子と心から本当の友達になれたと思えたの。っていうか、わたしの方がちぃ子に超超超救われてたのに」
 おどけて、舌をペロリと出した。
「美恵春さん、ありがとう」
 ちぃ子もやっと硬い表情を崩して笑ってくれた。お互い笑い合う。感じていた距離
感や見えない壁はなくなった。そして、これがわたしがずっと想い描いていた憧れ。それが今、幻が現実になった……!
「あのお」
苛立ちを当てつける様な、語尾を強調した言い方だった。
「そろそろ注文、してもらっていいっすか」
 傍で、色白の細身の男が立っていた。大学生くらいの店員と見ていいだろう。わたしに何度も注文を取りに来ていたから覚えている。やる気のなさが表れ過ぎていて、店に来た時から癇に障っていた。わたしはとりあえず舌打ちする。ちぃ子は慌てて、適当にコーヒーを注文した。
「あ、ごめんなさい。じゃあ、私はコーヒーで」
 注文何する? を含めたちぃ子の視線がわたしに向けられる。頼む意志はないから、無言でいる。
「え、美恵春さんは?」
 無言を貫く。
「あのお、店のルールで、一人一つ注文してもらう事になってるんすけど」
 無視する。
「美恵春さん、何か頼まないと」
 ちぃ子が気まずそうな表情を浮かべる。仕方ないから、注文する。
「ナタデココ」
「は?」
「ナタデココ」
「あのお、メニューに載ってるもの頼んでもらっていいっすか」
「ナタデココ」
 店員から面倒臭いな、コイツ。のため息が聞こえる。わたしは舌打ちする。
「美恵春さん、ここ、ナタデココないみたいだから、とりあえずコーヒーでいいんじ
ゃないかな?」
 ちぃ子が言うならと、わたしは店員を睨みつけて「コーヒー」と注文した。店員は注文を繰り返してから、もう一度息を吐き出して去って行った。厨房に姿が消えるまでわたしはそいつを睨み続けてやった。
「美恵春さん?」
 ちぃ子が困惑しているように、眉間を寄せている。
「ああ、ごめんねッ。せっかくウチらが話してたのに、あいつが邪魔してきたからチョベリバだなって」
「チョベリバ」
 繰り返された、ちぃ子の言葉。ちぃ子からチョベリバが聞けて、嬉しい。
「美恵春さんって、どうしてコギャルなの?」
「え」
「全くそんなタイプじゃなかったから、どうしても不思議で」
唐突にコギャルになった理由を聞かれ、心が妙に騒ついた。誰かに自分のことを聞かれたことが無かったからかもしれない。慣れていない自分の打ち明け話。どうしていいかわからず躊躇いながらも、自然と話し始めていた。
「わたしは、世のため人のために真面目に生きてたから、青春も友情もお洒落も、楽しさも何もなかったの。けどそんな生き方したって、いいことなんて一つもない! だから、今度は自分のために生きてやるって決めたの」
 わたしの子供時代は、徳を積む人生だった。学業よりもボランティア活動を優先とする教育方針は、平日の殆どを街中や山中のゴミ拾いボランティアに費やした。パパも可能な限り仕事を休み、ママと妹の貴理子、わたしとで徳に繋がる活動をし続けた。当然、たまに行ける学校には居場所なかった。だから、いつだって友達と遊ぶことはなかったし、とにかく家族と必死に徳を積み続けた。
ゴミを拾い集めて、ベルマークがついていれば代わりに切り取り、集めたベルマークは財団へ送る。生活用品は、これ以上地球にゴミが増えないようにと、いつもリサイクルショップで購入した。食生活からだって徳を積んだ。生き物である、肉と魚は口にしない。大人になればプルーンを食べたが、全ては次の献血に繋げるため。募金だってした。子供時代から貰ったお年玉の七割は募金だったが、アルバイトも、給料の七割は募金だった。それが条件で、ママに働くことを許してもらえたから。 
 全ては徳の先にある幸せのため。
だけど今となっては後悔しか残らなかった。子どもの頃からママの徳活を信じて生き続けてきたわたしの約四〇年間は、本当に幸せだったのだろうか。人生という時間を犠牲にしてきたけれど、結果、何にもならなかった。
ママを通して、徳という名の明日への希望を夢見ていた貴理子は、とうの昔に病に勝て
ずに死んでった。パパだって、ママが必死に信じる徳を一緒になって積んであげていたけど、三年前に病死した。ママはパパの徳が足りなかったからだと言った。果たしてそうなのだろうか。わたしはパパから、この人生に後悔しか残らないという事を気付かされた。
「やり直せたらな」病床のパパが最後に呟いた言葉。漠然と魂が抜けていく日々のなかで、その目は空中だけを見つめていて、今ではないどこかを彷徨っているように見えた。きっと、遠い過去の、貴理子の病が発覚する前。全てが平穏で、幸せが当たり前過ぎて、あえて幸せと感じていなかった日々。その時までが、パパにとっても幸せだったんじゃないか、そう思った。
……。
短いのか長いのかわからない未知の人生の時間の中で、徳という名のもとに人生を捨ててきた。良いことしたって、良いことは起こらない。徳もなければ、奇跡も神も存在しないんだと悟った中で、何の為に生きていけばいい? 後悔しかない過去なら、後悔を取り戻すために、自分の為に生きるってわたしは決めたの!
 気付けば、わたしは息を切らしながちぃ子に向かって語りかけていた。ちぃ子はゆっくりと頷きながら、わたしの話を受け止めてくれている。
激昂する感情で、テーブルの上に置かれた自分の手が震えていた。強く拳を握ったけれど、震えが止まるわけではなかった。
「大変だったんだね」
ちぃ子は差し出した手を、そっと、わたしの震える手に重ねた。絆創膏だらけだった手が、キメの細い手の甲に覆われる。
「私こそ美恵春さんのこと、何も知らなかった。教えてくれて、ありがとう。辛かったんだね」
 優しい声音。わたしの心を包み込む、優しい声音。微笑む唇。下げた目尻。聖母のように優しくて温かな微笑み。次第に心は落ち着きを取り戻し、吸い込まれるように見入ってしまう美しきちぃ子。そういえば、下げた目尻にシワも無ければ、ほうれい線も存在していないな。滑らかで、みずみずしくって、ハリある肌。かつて焼いていた人間とは思えない陶器のように白い肌。聖母レベルになると、老化が進むのが遅いのかもしれない。あゝ、美しい。やっぱり美しい。あの頃と同じ、わたしの心を救ってくれる存在。変わり過ぎた外見に疑った自分がばかだった。やっぱりいつまでもいつまでも、ちぃ子の芯は変わらずにちぃ子のままなんだ。カリスマのままなんだ。
 添えられたちぃ子の手を、両手で強く握りしめ返す。
「あゝ、ちぃ子。やっぱりちぃ子は永遠だよ」
 ちぃ子の目が一瞬きょとんとなるも、すぐに笑い声が漏れた。
「急にどうしたの」
「だって、だってさ」
 ガチャンッ。と店員がわたしの前にコーヒーカップを置いた。その勢いでカップからコーヒー漏れ、ソーサーに流れた。ちぃ子の前にも乱雑な音をたてて置く。
「ごゆっくり」気怠そうに、去って行く店員。わたしは舌打ちし、店員を睨んだまま目で追う。「美恵春さん?」と何度かちぃ子の声が聞こえたが、片手で制止し、じっと店員を目で追った。ようやく店員と目が合う。店員の顔がこわばった。わたしの視線から逃れるように、もう一人の店員の陰に隠れ、何かを耳打ちする。コソコソ。コソコソ。もう一人の店員がこちらに視線を向けると、また奴とコソコソし始めた。面倒くせえ。わたしは舌打ちする。
「美恵春さん」
 覗き込むように、ちぃ子がわたしの様子を伺っていた。
「どうしたの、大丈夫?」
「ごめんごめんッ、もうッ、せっかくちぃ子と仲良く話してたのに邪魔しやがって! えっとー、そう! ちぃ子、すっごく綺麗。なんでそんなに綺麗なの????」
 ちぃ子の表情が、途端に大袈裟なくらい華やいだ。まるで、ママの徳活の話に触れた時と同じような勢いに、気圧される。
「ありがとう! 実はね、今、自社でオリジナルの美容化粧品をつくっててね。私もそれを使ってるんだけど、みるみるうちに皺もなくなって、肌にハリも出てきたの。私の顔に皺もたるみもないでしょう? それは、うちの美容製品を使い出してからなの。やっぱり、女性はいくつになっても美しく、若々しくいてほしいからって思いで美容産業に乗り出したんだけど、ようやく世の女性を救える時代を私は創り出したと思うの」
 ちぃ子の力強い眼差し、引き締まった表情。テレビで見た時以上に凛々しくって、今まで、こんなちぃ子は見たことなかった。わたしはちぃ子のパワーに、感動さえしていた。いつだって、ちぃ子はわたしを助けてくれるんだ。
「す、すごい。すごいよ、ちぃ子! まさに、そうなの! わたしも、最近になって特に
老化で悩んでて。この目尻のシワ、それに全体的に顔が下がってきてて。弾ける若さが萎
れてきてるの。毎日、鏡見る度に超悩んでて」 
「うん、そうだよね。そう思った」
 え、そう思ってたの? さらっと言われた事実に、軽いジャブを打たれる。
「だから、さっきからタイミングがあれば教えてあげたいなーって本当は思ってた。よかったらうちの商品使ってみない? 化粧水と美容液と乳液、クリームなんだけど。半年使い続ければ、そのくらいの皺とたるみだったら消えると思うよ」
「ほ、本当に⁉︎ ……ちなみに、眉毛にも一本白髪が生えてるんだけど、それも、その化粧水とか塗りたくれば黒くなるかな?」
 ちぃ子はふふっと嬉しそうに笑って、頷いた。
 来週、またちぃ子とこのカフェで会う約束をした。その時に商品を渡してくれるらしい。先払いだから、帰りに銀行に寄って商品代金を振り込もう。お金のことはちゃんとしなくちゃッ。だって金の切れ目は縁の切れ目って言うから。半年分で三十万円。ちぃ子は本当申し訳なさそうにそう値段を告げた。それでも、知り合いだからだと安くしてくれた。胸躍る。自分が取り戻した弾ける若さで、ちぃ子と一緒に遊ぶ未来。ナミエとヒロコと笑顔でサンプリングを配布する残り数日。短期のバイトが終わっても、時々一緒に遊ぶナミエとヒロコとわたし。「美恵春、最近ウチらと見た目変わんなくね?」「美恵春、可愛過ぎ〜。超いいな〜」楽しい日々、友情。それは青春。
…………。
「あのお」
聞き覚えのある、苛立ちを当てつける様な語尾を強調した言い方。
「そろそろ閉店時間なんで、帰ってもらっていいっすか」
色白で細身の店員が心底迷惑そうに、軽蔑を含めた目でわたしを見下ろしていた。わたしは舌打ちする。コイツは来週もいるのだろうか。わたしこそ迷惑だなともう一度舌打ちした。
閉店時間を迎えたカフェは、暫くして店内の電気が消えた。わたしは自販機の陰から、道路に面したカフェを見張る。ちぃ子と会ったのは夕方なのに、もう十時を過ぎていた。一日は早い。そして暗くて、寒い。ショートパンツから剥き出しの生足はボツボツと鳥肌が立っているけど、気にしない。勢いある若さは季節なんて打ち負かすものッ。
店員が数人、出入り口から出て来た。その中に奴はいた。それぞれ別方行に散っていく。わたしも後を追って歩き出す。店員は暫くして、ショルダーバッグからイヤホンを取り出し、耳に装着した。リズムをつけて首が縦に動く。わたしも真似して、首を縦に動かす。歩き続ける店員。わたしも歩き続ける。角を曲がって、住宅街に入って行く。街灯がポツリポツリと灯っていて、家々の窓はまだ明るい。路地を何度か曲がる。スマホをいじりながら歩き続ける店員。距離を縮めて、背後に忍び寄る。
──バチバチバチッ
 激しく放電した音は、森閑とした辺りに思いのほか響いた。目の前の男は一瞬にして体を硬直させ、膝から崩れ落ちて倒れた。
 やっぱり、軍事用のスタンガンは威力が違うなと実感する。ローズファンファンのショップ袋に戻す。目を瞬く。いつになっても、放電時の光は慣れないなと眉間を揉んだ。踵を返す。住宅街を抜けるまで、窓外を気にかけた住民は見当たらなかった。
しょせん、そんなもん。


携帯画面を目の前まで近づける。凝視すれば、Yahoo! 知恵袋に『質問に回答がつきました』とのお知らせが来ていた。新たについた回答を読もうとするも、車窓から差し込む夕陽が画面を眩しく照らして、文が余計に読みづらい。ちっと舌打ちし、とりあえず知恵袋の回答チェックは後回しにする。携帯をローズファンファンのショップ袋へ戻した。
東京方面に向かう夕方の電車内は、思ったより空いていた。時折、チラチラと視線を感じたけれど、わたしは気にしないッ。
丸一日バイトが休みだからと、ナミエとヒロコと遊ぶ約束をした日は、とうとう今日を迎えた。わたしはてっきり朝から遊ぶものだと思っていたが、夜からだった。昨日、ナミエから来たメールに『明日、銀座の三越の入り口前、十九時に待ち合わせね』と記されていた。わたしは何度も読み返したけど、そこには確かに場所は銀座と書かれていたし、時間は午後からだった。とりあえず、『オッケ〜! 超楽しみ過ぎる。あと、三人でプリクラも撮ろうよ〜!』と返信した。まだナミエから返事はない。
昨日は監視リーダーの飯塚さんから、ナミエの配布中の態度が良くないと注意を受けていた。だから、きっと凹んでメールの返事どころじゃなかったのかもしれない。
となると不安が募った。銀座に何があるか知らないけれど、ゲーセンはあるのか問題。そもそも、クレープ屋だってカラオケだって、ボーリング場、公園だってあるのか? 降り立ったことがないから、わからない。だけど一つ言えることは、コギャルの聖地・銀座
とは聞いたことがなかった。
お初銀座は、人が多いという印象だった。何度か通行人とぶつかって苛立ち募ったから、ローズファンファンのショップ袋をブンブン振り回して、わたしとの距離をあけてもらった。お陰で三越まで向かう道中、いい運動になったのか、いつもより肌寒さを感じなかった。お初銀座に気合い入れて、ショートパンツとキャミソールで来ちゃったけど、どうやら正解のようだ。若き肉体は、代謝がいいってことネッ。
三越の入り口で付近で、待ち合わせしているらしき人たちと混じってナミエとヒロコを待つ。じっとしてると、夜の寒さをもろに感じた。手脚がブルブルと震え出す。悔しいから、口の中で舌を噛み締める。痛いけど、この痛みで体を熱くして、若さという代謝の熱を発生させる。
視界を凝らせばコギャルどころか、年齢層高めの人が多過ぎて銀座の魅力は皆無だった。寒さを紛らわすため三越周辺を歩く。何度か人とぶつかると「すみません」「ごめんなさい、大丈夫ですか」と謝られた。思わず舌打ちをし損ねる。三越周辺だけは、人間に好感を持った。
人混みに紛れて、向かい側からこちらに向かって来るナミエとヒロコの姿を見出した。──ん? ふたり一緒? 薄くモヤっとした霧が心に覆うも、わたしはそんな霧を払い退ける。とにかく、弾ける明るさで大きく両手を振った。
「ナミエ〜ッ、ヒロコ〜ッ」
通行人とぶつかりながら、ナミエとヒロコの元へ駆けて行く。
ナミエとヒロコは、わたしを見るなりぎょっと目を見開いた。
「美恵春さん⁉︎ どうしたの、その目」
「え? ああ、料理してたら沸騰した汁が目に入っちゃって」
「両目に⁉︎」
「え? ああ、そう。両目に汁飛んできちゃってさ。ほんと、チョベリバ〜」
心配そうに眉をハの字に寄せているナミエとヒロコ。眼帯の穴に合わせて開けたガーゼの穴から、その表情は読み取れた。
 勿論、本当はマンマ・ミーアに突かれたけど、言うつもりはない。
今日、鳥好きのヒロコがマンマ・ミーアの話題を求めてくる可能性がある中、こんな恐ろしい凶暴性のあるクソ鳥だなんて明かせられない。ヒロコの夢を壊したくないし、わたしの飼い方が間違っていたら、軽蔑されて絶交される可能性だってある。口が裂けても言
いたくない。
「本当に大丈夫?」
「無理しなくていいよ」
クソ鳥め。ナミエとヒロコに心配かけさせやがって。
昨夜、コップに注いだコーラを飲ませてあげようと、鳥籠のドアを開けたら勢いよく脱走しやがった。部屋中散々飛び回り、フンしまくって、挙げ句にわたしの目まで突ついてきた。右目は咄嗟に瞼を閉じて眼球は守れたけど、左目は遅かった。鋭いクチバシで眼球を突つかれた。お陰で、両目眼帯だ。今日はナミエとヒロコと夢のプリクラを撮るかもしれないってのに、このザマだ。左目は負傷して使えないし、右の瞼も傷が深くて、あまり目を開いていられない。実質、盲目同然だ。
「ははっ、チョベリグ過ぎてチョベリンコ〜」
とにかく弾ける明るさで乗り切る。
絆創膏だらけの両手は、ナミエとヒロコの手を借りる。わたしは導かれるままに夜のお初銀座を導いてもらった。

ゆっくりと、黒目を動かす。眼帯の穴から外界を伺う。わたしの隣にヒロコが座っていて、ヒロコの向かいにテーブルを挟んでナミエが座っていた。テーブルの真ん中には、埋め込まれた七輪がぼやけて見えた。この部屋にわたしたち以外に、客も店員も見当たらない。個室だろう。ガラス張りの壁からは、銀座の夜景が煌めいて、本来なら絶景なはずだ。しかし、小さな穴から見渡せる範囲は限られていて、なにしろ煌めきもぼんやりしている。ライトアップされた東京タワーは、形と色と存在感で理解出来た。状況を察した途端、ここの空間が高級感で漂いはじめる。経験ないこの雰囲気。ドギマギする。どうしていいかわからず、とりあえず背筋を正して平常心を演出した。
ジュージューと焼ける音に、食欲そそられる焦げたタレの匂いが鼻腔を刺激した。ナミエとヒロコが網の上に肉を乗せてく程、音と匂いは倍増する。
「美恵春さん、肉、焼けたよ。食べる?」
「う、うん、食べる〜ッ」
とりあえず、弾ける明るさで返事する。両目負傷のわたしに気を遣って、ヒロコが口元まで焼けた肉を運んでくれた。頬張る。かぼちゃだった。
「ヒロコ、返事来た?」
「うん、来たよ。まだ返してないけど。なんかさ、なくない?」
「え、何が」
「せっかくみんなで、その場のノリだったとしてもキャンプ行こうとかってさ、一応盛り上がって話してた訳じゃん。それなのに、グループラインから個別で私に送って来ないで欲しいんだよね。なんか、私、そうゆうの冷めるんだ」
「ケンジかミヤビでも?」
「それは別」
「ほらあー」
 勝手に進んでいく、会話。
 ナミエとヒロコは、午前中から一緒に遊んでいたらしい。音楽フェスとかいうのに行ったら、隣に居た男性グループと仲良くなったのだ。ここに来るまでの道中、ナ
ミエとヒロコの会話でそう察した。
 店員が何度か個室にやって来て、ナミエとヒロコにビールを届ける。わたしもついでに、水を何度かおかわりした。会話に入らず、とにかく聞くことに集中する。 
時々、ヒロコが「肉、焼けたよ。食べる?」と聞いてきてくれ、口に運んでくれた。全部、野菜だった。
デザートは夕張メロンで締めた。ほんの一口食べるだけで甘味と風味が口に広がる。果肉がとにかくジューシー。人生食べてきたメロンの中で、一番美味しかったと断言出来る。
「はあああ、お腹いっぱい」「明日から頑張れそう」とご満悦のナミエとヒロコ。やっと会話に入れるタイミングを見つける。
「本当、本っ当! 超美味しかったよね〜! 人生食べてきたメロンの中で一番最高のメロンだった」
「ね! そして、最高の誕生日」
「私もー」
「え、待って。ヒロコとナミエ、今日誕生日なの?」
「そうだよ」
「ウチら偶然なんだけど、今日誕生日なんだよね」
「えええー! うそ! 一緒だなんて、すごい、すご過ぎる! 誕生日、超おめでとう〜!」
 ギャル界の神、安室奈美恵と安西ヒロコ。その二神の名を背負ったナミエとヒロコの誕生日が一緒だなんて! 夢のようなこの偶然。尚更興奮、なんて日だ!
「あゝ、もうッ。わたしバカだ。誕生日プレゼント何にも用意出来てないよ。本っ当ごめ
んね、誕生日知らかったなんて最低だよ、わたし」
「いいよ、いいよ! そんなつもりで言ったんじゃないし。それに、誕生日に美恵春さんと一緒に過ごせただけで嬉しいよね、ヒロコ?」
「うん、美恵春さんのお陰で、最高の誕生日になったよ」
 その言葉に感極まり、涙が出そうになる。こんな心優しき友っているのだろうか。一緒に過ごせただけで、嬉しい? わたしのお陰? 青春は笑顔だけじゃなく、その先に涙が待っていることを初めて知った。でも今日の主役は、ナミエとヒロコ。わたしが泣いてどうするの、美恵春ッ! と自分に喝を入れて、涙をのみ込む。 
 ナミエが呼び出しボタンを押して、おあいそをお願いした。店員が再びやって来て、伝票ホルダーをナミエに渡す。
「じゃあ、三人で割るね」
伝票に視線を落とすナミエ。
わたしは、ナミエが計算してくれている僅かな間だけも、眼帯に覆われた右目の瞼を閉じた。一つの目だけを頼りに今日の、この光景を、目に焼き付けておきたくて酷使した。その結果、負傷している瞼に痛みが生じていた。右目の眼球は無傷なはずなのに、眼球にさえ痛みが響いている。正直、やばい。少しの間だけでも、眼力温存しよう。
「──え⁉︎ 美恵春さん、いいの⁉︎ ありがとう!」
 唐突に、ナミエの嬉々とした声が室内に響く。
「うっそお! 美恵春さん、ありがとう!」
嬉びと歓声を含んだヒロコの声。
「え、な、ななに」
 突然呼ばれた自分の名前に、休む間もなく、慌てて目を開く。眼帯の穴から何が起こったのか様子を伺う。ナミエとヒロコの視線が、じっとわたしに注がれていた。
「え、ええ?」
「ありがとう、先輩っ。じゃあ、お言葉に甘えて、ごちそうさまです」
そう言うと、ナミエは上半身を乗り出して、わたしの前に伝票ホルダーを置いた。
「誕生日だからって、嬉し過ぎるサプライズだよ! ごちそうさま、美恵春さん」
 ヒロコは嬉しさの表れか、両手をパチパチ叩いている。
 状況が飲み込めない。
二人とも、今、「ごちそうさま」って言った? え? わたし、ご馳走するなんて言ったっけ? え???
 僅かな穴からでも、ナミエとヒロコが喜色満面なのがわかる。しかし、わたしに向ける視線は、何故だか力強くて気圧される。とりあえず、空気を壊さぬよう微笑み返した。
そもそも誕生日のお祝いも兼ねて、二人にご馳走するってナイスアイデア過ぎて、感動した。わたしとしたことが、全く思いつかなかったから。けど、そんなナイスアイデアを思いつけなかったわたしが、ごちそうするって言ったかな??? それとも、無意識に口にした??? いきなり訪れた状況に困惑は鎮まらない。
二人はかつてない程のニコニコ顔で、わたしの返答を待っている様だった。
「もちろんだよ〜」と困惑を拭い去り、わたしは迷わず返事した。だって、友達を祝えることに悩む必要はないから。
「友が友を祝わなくって、どうするのよッ。ウチら友達なんだからッ」
 わたしは直ちに伝票を手に取った。霞む数字を確認しようと眼帯の穴まで近づける。えっと、合計、六万五〇〇〇円。……六万五〇〇〇円⁉︎ 予想を優に超えた値段に信じられず、何度も見直す。霞んだ数字が明瞭になるだけで、六万五〇〇〇円は変わらない。
「ありがとう、美恵春!」「一生忘れられない日になった〜。美恵春、ありがとう」
 やっと呼んでくれた「美恵春」。だけど今は、嬉しさを噛み締める余裕はなかった。クレジットカードは持っていないし、確か財布の中は五千と数百円。ここは、個室だ。窓を割って逃げることも考えるが、景色が最上階を物語っていた。ここから出入り口まで突っ走って逃げてもいいけど、ナミエとヒロコを置いては行けない。
 とりあえず、微笑みは絶やさない。二人に心配させてはいけないから。
 トイレ行くふりをして、サラ金から借りて来ることも考える。最終手段はそれにしよう。無意味と分かりつつ、一応、財布の中身を確認する。
 お札入れからはみ出した茶封筒が、後光を放っているかの様にわたしの目に飛び込んだ。
ちぃ子に美容商品代を振り込む時、間違えて預金から十万も多く引き出してしまったお金。財布に入れたままだったことを思い出す。
十万。足りる。まるで何者かが、この事態を予期していたかのような、偶然すぎる救い。ふとマンマ・ミーアの姿が脳裏に浮かぶ。深海ように暗く真っ青な色の羽をした鳥。幸運の印。BLUE BIED。
わたしは心の中で強く、マンマ・ミーアちゃんに感謝した。


出勤早々、廊下ですれ違った監視リーダーの飯塚さんが、わたしの姿を見るや否や驚いていた。見えてるの? とか、心配だから帰っていいよとか、休んだら? とか何か言っていたけど、無視した。
この短期のサンプリングバイトも、明日で終わりを迎える。わたしは最後の一秒を迎えるまで働くつもりだ。
金が稼ぎたいのもあるけど、一分、一秒でも多くナミエとヒロコと共に青春を過ごしたいから。それに昨夜は、焼肉を食べ終えた後は直ぐに解散となってしまった。だから三人でプリクラは撮れなかった。
青春、友情、その証はプリクラ……。
バイトが終われば、今度はいつ会えるかわからない。今日か明日中にでも、チャンスあればプリクラを誘ってみようと企む。
昼休憩中、控え室でナミエとヒロコがコンビニ弁当を食べながら会話をしていた。わたしは隣で携帯をいじるフリをしながら、隙あらば会話に加わろうと耳をそばだてる。
「フォローしたら、DM来たよ」
「え、それやだあ。なんか軽くない?」
「ちょっとね。私もそれは思った」
「なんかそういう男の人って冷めるんだよねー」
「でも、繋がり広がりそうじゃない?」
「それは言えてる。利用するって手はアリ〜」
 よくわからない会話は続く。あくびが出そうになったけど、堪える。
 マンマ・ミーアちゃんがうちに来てから、夜中にチュンチュンと鳴きやがるから、睡眠不足だった。お陰で目の下には隈が出来始めていたけど、眼帯で覆い隠せている。何なら、目元の子ガラスの足跡だって隠せていた。そう考えると、眼帯コギャルはアリかもしれない。
来週ちぃ子と会って、例の美容の商品を貰う予定だと思うから、その時までは眼帯でやり過ごそうとも考える。
 気付けばナミエとヒロコの会話は、どうやら音楽の話題へと移っていた。
音楽! 音楽ならわたしの出番だった! 大好きなあゆの『BLUE BIRD』。ナミエとヒロ
コに聞こえるように『BLUE BIRD』を口ずさむ。
特に反応がない。依然、二人で会話をし続ける。
友達になったんだから、ナミエとヒロコからわたしに話題を振ってくれるものだと期待していた。調子乗った自分を叱る。
あゆの『BLUE BIRD』をお勧めソングとして、二人の会話に加わろうとするも、途端に手に持つ携帯が震え出した。期待に胸膨らみ過ぎて、慌てて携帯画面を確認する。ママからの着信だった。落胆する。
ちぃ子に美容商品の代金を振り込んだ後、メールを送っているがまだ返事は来ていなかった。来週のいつ会えるのか具体的な日にちも決めて、確実に会える安心感が欲しかった。それに、わたしの文章がイケてなさ過ぎて絶交されたのではないかと日々不安も増していた。今日もメールを送ったけれど返事はまだ来ない。忙しそうだったからしょうがないけど……寂しい。
携帯画面は未だ『ママ』と表示され、着信し続けている。苛立ち募る。とりあえず、ママからの電話を出ることにする。
「もしもし」
「もしもし、柴田さんの娘さんの番号でお間違いないかしら」
 ママじゃない。もっと年老いた女性の声だった。
「は、はい」
「コスモスと光の会、松下と申します」
 コスモスと光の会? ああ、ママが入信した宗教団体の一つに、似たような名前があったことを思い出す。
「今朝の集会へお母さまが無断で欠席されまして。そんなことは今回初めてですし、ひとりでお暮らしでしょう? だからこちらで預かっている合鍵から様子を伺いに、ご自宅へあがらせていただきました」
淡々と話すさまは、神に感情さえ供えて抑揚を失くしたのかと思うほど、無機質な喋り方だった。
「そしたら、お母さまが倒れておられましたの。今はだいぶ落ち着いて寝ておりますが、救急車を呼ぼうとしても本人がすごく抵抗なさって。一応、人も神の子でございますから、心配でしょう。ですから娘さんにご連絡差し上げた次第でございますの」
「ママが倒れた」
 突然の出来事に、状況が理解できないわたしは独り言のように呟いた。次第に事の重大さを理解していく。ママが倒れた……ママが倒れた……ママが倒れた!
 鬱陶しいと思うほど元気だったあのママが、今、死を目前にしている状態。予期したくない姿が目に浮かび、途端に恐怖に慄いた。
「ママは、ママは大丈夫なんですか」
「ええ、仕方がないかからお医者様をご自宅にお呼びしましてね。無理矢理診察させましたけれども、栄養失調とのことです。とにかくですね、私もここでずっとお母さまの側に付き添うつもりもございません。依然、親族は娘さんしかいないと仰っておりましたから、ご連絡差し上げた次第でございますの」
 栄養失調。大病でない診断結果に次第に落ち着きを取り戻す。
思わず安堵の息を漏らして電話を切った。
気付けばナミエとヒロコは、すでに昼を食べ終えていた。午後からのサンプリングの配布場所へ向かうため、控え室から出て行ったところだった。他の同僚たちも、部屋を出て行く。
結局今日はナミエとヒロコと会話が出来なかった。虚しい。きっと午後からわたしと会話するためにエネルギーを蓄えてくれてたのかもしれない。
ごめんね、ナミエッ、ヒロコッ。
わたしは暫く控え室で待機する。誰とも鉢合わせすることないと思えるほど待機してから、控え室を後にした。
午後のバイトは余裕でサボれた。プリクラは今日は諦めた。ナミエとヒロコには明日誘うことにする。一目散に実家へと帰った。

 
 六日前にマンマ・ミーアちゃんを連れて来たママの面影はどこにもなかった。げっそりと頬の肉は痩せ落ち、頬骨があらわになっている。血色が失われた肌は異様なほど青白く皺々で、寝顔は死相そのものが現れていた。眼帯の穴から見て取れるママの変わり果てた姿に、戦慄が走った。想像以上に深刻な容態なのかもしれない。
慌てて、布団で横になるママに声を掛けた。
「ママ」
 反応はない。揺すり起こそうとママの肩を掴むと、スースーと小さな寝息が聞こえた。
僅かに安堵はするも、ママの骨ばった肩の肉厚なき薄さに動揺は収まらなかった。誰かを失う恐怖は、何度経験したって慣れることはないのだと改めて気付く。たとえ、それがママであっても変わらないのだと。
 寝ているママを挟んで置かれている仏壇が視界に入り、眼帯の穴から目を凝らした。
珍しくお供えや花が生けられてあった。
 その様子に、そろそろ貴理子の命日か。と思い出す。
普段全く仏壇に手を合わせることをしないママは、何かを供えたりもしないため、いつも殺風景でもの寂しい印象だった。だけど、唯一ママが位牌に向かって拝み、供える時、それはどちらかの命日の時だ。
わたしはママを起こさぬよう、ゆっくりと仏壇の前へにじり寄る。
位牌が二つ並び、その前に写真立てが置かれていた。普段、貴理子とパパの写真はママの故意により隠され、生前の姿は目に出来ない様になっていた。命日の時だけしか見ることが出来ない写真。この写真はいつの日に撮ったものかわからないが、笑顔でピースを向けている、まだ病気になる前の幼き貴理子と、多分ママと結婚する前のパパだろうか。随分と若く、静かに微笑むパパの写真が、横に並んでそれぞれ飾られていた。
久々に貴理子とパパの姿を目にする。幸せを取り戻すため、必死で毎日を生きて来たふたりは、確かに幸せだった時もあったのだ。
その証拠に、貴理子が好きだった薔薇の花が生けられ、プチシューが三袋供えてあった。パパが好物だと言っていたママの手料理のおにぎりまでも、ラップに包まれ供えてある。小さな幸せの積み重ねが壊れる前、あの日々のような生活をあの世で送れてたらいいな、と二人に手を合わせて心で伝えた。
 背後で布団が擦れる音が聞こえ、振り返ると、ママの顔の向きが微かに変化していた。閉じているまぶたは落ち窪み、老婆のように急速に老け込んだ寝顔。
 あんなに徳を積む毎日を送っていても、一生健康でいられる訳でもなければ、幸せ
にはなれないと、貴理子とパパが証明してくれているのに。二人の死と向き合わないから、気付けないのだろう。
 ママが仏壇を自分の寝室に置くと言い出した時、貴理子とパパが死んでも、ずっと側にいたいということなのかと解釈していた。だけど、今はその行為でさえも、命日に合わせてお供えをする習慣も、なにもかもが徳活の一環なのではないかと疑ってしまっていた。
だって、貴理子とパパには手を合わせないで、怪しげな神に対しては毎日手を合わせて
るなんておかしいじゃない。それが徳活のためであってもだ。
ママにとって、わたしも含め貴理子とパパは一体何なのだろうか。ただ徳活の餌食にしか過ぎないの?
ママの閉じたまぶたから一ミリに満たないほどの白目が、覗いていた。ママの寝顔の特徴だった。不思議と懐かしさが込み上げる。思い返せば、家を出てからママの寝
顔は見ていなかった。
わかってる、ママ。本当はママだって苦しいんだよね。苦しさ故に、自分のしてきたことが正当化出来るまで、きっとママは徳を積み続ける。そう、ママも徳に囚われ、徳の餌食だった。
……切なさと悔しさが相交る。 
そしてこんな時にでさえ、ママを責めていた自分が醜い人間のようで自己嫌悪が襲ってくるも、なんとか頭で振り払う。
貴理子とパパから、おにぎりとプチシューを貰って、逃げるように寝室を後にした。


 気持ちを落ち着かせるため、プチシューとおにぎりを口にするも、味がしなかった。
 窮屈で圧迫感のあるこのリビングは、非常に居心地が悪い。本来、外に設置するような石造の祠が四つも並び、赤と黒色の不気味な発色に染められた神棚も二つ設置されていた。仏壇に似た形の祭壇らしきものは三つ置かれ、殆どそれらがリビングを占領していた。どれもがちゃんと生けた花や、一升瓶、柿とみかんが供えてある。相変わらずママは、それぞれの神に対し徳を積んでいるのが伺えられた。
中でも中型冷蔵庫のようにどデカく、仏壇を彷彿させる造りの祭壇は、いつも癇に障った。観音開きの戸は開かれ、真ん中に大きな拳ほどの石が祀られている。
──ボンボラだ。
神だか何だか知らないが、石のくせしてそいつが宿っているらしい。大切に崇められているのが、気に入らなかった。
おもしろくないから、唾を吐きかけて
やる。見事命中して、石の真ん中に白く泡立つ唾が乗った。ゆっくり滴り落ちていく唾。
アンタに対して散々徳を積んできたママは、不幸の真っ只中だ。もしアンタが正真正銘
の神であるなら、手を差し伸べるべきだ。そしたらわたしはアンタを、神を崇めだってす
る。と心の中で訴える。
 だけどわかってはいる。どうせ差し伸べない。
 貴理子とパパと同じだ。
 コイツを責め立ててやりたい衝動に駆られるけど、それはしない。ただの石に無意味だから。
強いて言うなら徳は、命を奪うものだということだ。
だとしたらママはとうとう居なくなってしまうのだろうか? 
わたしがかつて積んで来た徳も、時間も奪っただけじゃなく、そのうち命も奪いに来ることになるの? 
不安と恐怖でいっぱいになり、涙が滴る。気付けば眼帯の内側のガーゼが濡れていた。
神はいない。貴理子もパパもいない。ママもいなくなれば、わたしはとうとうひとりになる。
「違う! 違う! 違う!」
頭を思いきり振り払う。気付けば自分の部屋に向かって、廊下の階段を駆けあがっていた。机の引き出しからGAL Teenを取り出して、ちぃ子が掲載されている見開き一ページを開く。胸に強く、強く抱き寄せた。 
あゝ、ちぃ子。助けて、ちぃ子。どんな時だって、ちぃ子がいたからわたしは生き抜けられた。今、狂いそうな程の恐怖と不安苛まれているの。のみ込まれてしまいそうだよ。どうしたらいい、ちぃ子。ウチら、友達だよね? わたしは決して、ひとりじゃないよね。返事ちょうだいよ、ちぃ子。教えてよ、ちぃ子。助けてよ、ちぃ子。
神に助けを乞うように、わたしはより強く、強くちぃ子を胸に抱き締めた。


 ママは寝たきり同然だった。それでも無理して起き上がる時は、徳活の為だった。
 といっても、今の体力ではわたしの支え無しで歩くことは殆ど出来ないため、家に鎮座する神々に対してのみに徳活は制限された。ママは朝晩お供えし、どこかの教団オリジナルの祈りを唱え、石ころのボンボラも磨いた。これで徳が積めるんだと、ママは喜しそうに目を細めて呟く。
 多分、徳は積めていない。
 コスモスと光の会という教団が、ボンボラを信仰していたのだとわたしが知ったのは、
ママが倒れた翌日だった。
「同時に複数の宗教に入信することは、一番の規則違反であり、ボンボラ様を侮辱する行為でもありますのよ!」
ママの代わりに電話を取ったわたしは、前日の電話のときと打って変わって感情的な松下さんに、そう除名宣告を突きつけられた。ママはリビングで倒れていたらしいから、当然この家の中の有様は見ているはずで。だから除名されて当然だった。
 そのことを知らないママは、日々、必死に徳を積みつづける。もはやこの執着だけが、栄養失調と診断されたママの貴重な養分となっている気さえしていた。だから除名の事実は伝えずにいた。生きる源である一つの養分を失ってしまうことは、死に一歩近づくことかもしれないと思うと、それは阻止したかったから。
 ママが日頃、柿と銀杏しか食べていなかったと知ったのは、わたしが運ぶ食事を断固として口にしない理由を聞いた時だった。 
十一月の公園でイチョウの木が地面に落とした銀杏と、何処かの家の庭から道路に転げ落ちた柿だけしか食べないことにしているのだと言う。
「それにスーパーで買った食材はだめよ。同意なしに根っこから抜いた野菜と、もぎ取った実じゃ、徳が積めないって昔教えたじゃない……」
弱々しくなった声で責められると、イラッとする自分に罪悪感が湧く。今度は自分で自分を責め始め、生き苦しくなるだけだった。
だから結局、ママの意思を尊重する。
道端に落ちている食べれそうな柿を探しまわり、公園のイチョウ並木の下で銀杏を拾い集める。潰れた実から異臭が放たれる中、息を止め、まだ踏まれていなさそうな実を探す。食べれそうな柿と銀杏含めて、多くても数個。割が合わない。それでも一心不乱に拾い集める作業は、唯一現実逃避が出来た。
家に帰れば、夜の部の徳活が待っている。ママは枯れ枝みたいな足で、わたしの支えを頼りに、ふらふらとよろめきながら祭壇へ向かう。そんな日々。そしてその度転倒しかかるママを抱き支えるも、ママの体は明らかに軽くなっていた。屍のように骨と皮しかなくなり、そのうち、わたしの支えがあっても歩行は困難となった。
 ある日、喋ることさえしんどそうなママが細々とした、力なき声を絞り出す。
「これじゃ、徳が足りないわ。徳が、足りなきゃ、酷くなる一方よ……」と涙ながらに訴えられる。
 いつかこんな日が来るんじゃないかと、薄々感じていたけど、流石に拒否は出来なかった。それは、きっと弱っていくママに少しでも希望を持ってもらいたかったからだろう。結局ママが出来ない徳活は、わたしが引き受けてることとなった。
 近所のゴミ拾いに野良猫数十匹へのエサ遣り、募金に献血、家の中にある不要な物を恵まれない子どもたちへと送り、ベルマークも財団へ送る。インターネット上の悩める人々から相談を受ける『いのちの向き合い掲示板』でボランティア相談員として、相談者と一緒に解決策を考える。柿か銀杏が余る日があれば、公園のホームレスに分け与える。そして、家に鎮座する神々にお供えし、祈りを唱えた。
 それでも僅か三分、わたしはママと違って毎日仏壇に向き合う時間をつくった。だがお供えはしない。お線香もあげない。鈴も鳴らさない。手も合わせない。掃除もしないから、埃がかぶっていく仏壇に日々向かい合うだけの時間。わたしの精神がイカれ始めているのか、わからない。だけどパパと貴理子と繋がれる唯一のこの場所だけは、徳に穢したくなかったからだった。
ママの介抱と徳活で一日は終わる。もう、以前のようにバイトする時間すらなかった。勿論収入源もない。ママのお財布から必要最低限に使っていたお金は無くなり、わたしが貯めていた僅かなお金も限界を迎えた。パパが残してくれたお金があったことを思い出し、ママの預金を確認する。底をつくにはあっという間の額に減っていた。
使い所は想像つく。言い訳を聞く前から、収まらぬ怒りが噴出し、烈火の如く怒り狂ってママを責め立てた。
案の定だった。教団で購入した幾つもの祠や神棚、祭壇。その他諸々のお布施に、恵まれない子どもたちへの募金。それらの出費で殆ど消えたと、蚊の鳴くような声でママは呟いた。挙げ句の果てには、加入していた生命保険も解約したと打ち明けられた。「生活を繋ぐために、払い戻されたお金で生活を繋いでたのよ」。
パパがわたし達のために必死に働いて残してくれたお金。「徳ではどうにもならない時にね」と病床のパパが言い残した言葉。パパはわかっていた。徳ではどうにもならないのだと。
それがこんな使われ方をするだなんて、悔しくて涙が出そうになった。
その日以降ママは罪の意識からなのか、一切口を閉ざした。自分の殻に籠り、ただひっそりと息をして、虚無の瞳で天井を見続けるだけになった。呼びかけても、決して会話はしてくれない。生きた屍みたいだった。
ううん、違う。きっとママは遅く訪れた
反抗期を今迎えてるだけなんだ、と希望が持てる理由を無理矢理こじつける。ママの回復を信じて、日々介抱した。本当に栄養失調によって、ここまで容態がひどくなるのかは疑わしかっが、それでも、決してママを病院へは連れて行かないと決めていた。インフルエンザに掛かろうが、骨折しようが、貴理子とパパを思い出すからと、断固として病院へ行かなかったママ。その気持ちを汲み取れば、当然の選択だった。
時折、青春が遠のいた毎日にコギャル精神も崩壊しそうになる。だけど、ハイビスカスだけは忘れず頭につけ続けた。
弾ける明るさ失くしてどうするの、美恵春ッ。
……わたしは負けないんだからねッ。
両手で頬を叩き、今日もママの介抱と徳活に勤むのだった。


机上に置いた手鏡に顔を近づけた。
もはや使えなくなった左目を閉じて、ブルーのアイシャドウを煌めかせた。まぶた
に傷痕残った右目も同様、水色に染めあげた。
 ──チュン、チュン。
鏡越しから見えるマンマ・ミーアが、鳥籠から首を傾げてじっとわたしを見つめていた。
実家に戻ってきた際、マンマ・ミーアも連れて、わたしの部屋で飼っていた。この部屋が不服だったのか、最初の頃は随分と鳥籠内で粗暴に飛び回っていたが、最近は静かに過ごす時間が多くなった。だけどわたしは知っている。こういう時こそ要注意なのだと。
とにかくマンマ・ミーアに構っている暇はない。わたしは引き続き鏡に映る自分の顔に視線を戻して、マスカラを塗る。
 ママが目覚めるまで、十時間だった。それまでに帰宅しなくてはならない。
一ヶ月前から、奇声をあげ始めたママ。
原因は不明。猛獣の呻き声のような時もあれば、猿のような甲高い声で「キ、キ、キーー」と発狂することもある。寝たまま手足をバタンバタンと激しく動かすので、家の何処に居ようとその音と声が聞こえた。
近所迷惑が気掛かりだったし、時間を確保しなければ金を稼げない。新たに始めたバイトは大して時間を要しなかったが、その間にママの身に何かあっては心配だった。致し方
なく、この数週間は副作用の弱い睡眠薬を飲ませている。 
だが今日はコギャルの聖地、渋谷での仕事だ。渋谷には別の用事もあったし、そもそも往復で四時間かかる。
ママには申し訳ないが、朝食のバナナと一緒に強めの睡眠薬を服用してもらった。罪悪感はあるけど、気にしてはいられない。生きていくには、こうするしかないから。 
ペンシルで眉を描く。一本生えていた白い眉毛は、この三ヶ月で数本に増えてい
た。舌打ちし、ペンシルを強く皮膚に押し当て、アーチ状に線を引いた。
 ちぃ子から買った美容商品はまだ、貰えていない。
ママが倒れてからちぃ子と会うと約束していた週、わたしはカフェへ赴けなかった。
もちろん、ちぃ子には全ての事情をメールで綴った。しかし返事はおろか、連絡先が変わっていたらしくエラーが返ってくるだけだった。
連絡が取れないならと、ちぃ子の会社のホームページを覗いてみるも、既に閉鎖されていた。
連絡先はおろか、ちぃ子の居住地も知らなかったわたし。結局、無断でちぃ子の約束をすっぽかしたことになってしまった……。
それでもちぃ子との縁は切りたくないから、ネットで神田千代子と検索し情報を探る。何故だか知らないが、ちぃ子は罵詈雑言の的となっていた。「詐欺師!」「死ね」「百万も騙し取られた」とか被害の会のスレまで立ち上がっていて、いくつかのネットニュースの記事にまで神田千代子の名前が載っていた。
胸糞悪くなって、舌打ちを連発する。ちぃ子の事情も知らないで、一方的に罵る奴らをぶっ殺してやりたくなった。ちぃ子が詐欺師? はあ? ばからしい。連絡が取れなくなったのには、絶対何か事情があるはずで。きっとちぃ子はひとりで大きな問題を抱えていて、相談できる相手がいなかったんじゃないかと思った。
それなのに、わたしはちぃ子の心の悲鳴に気づいてあげられなかった。もし、あの時、少しでも察してあげる事が出来たなら、ちぃ子を助けられただろう。
胸が締め付けられるほど悔しくなり、無意識に「あゝ!」と喚いていた。その拍子にアイラインを引く手元が狂い、まるで悪魔のように目尻の線が跳ね上がる。ワセリンをつけた綿棒で黒いライン消し、アイラインを引き直した。
髪には大輪のハイビスカスを三つ付け、首から上の支度は済んだ。あとは首元にあてたガーゼを取り替える。
血が染みたガーゼに、怒りが蘇る。鏡越しからマンマ・ミーアを睨んでやる。純粋そう
な粒らな瞳で、じっとわたしを見つめ続けている。
 あの瞳で何かを訴えかけてくる時は決して触れても、鳥籠を開けてもならない。昨日、学んだ。つい撫でて欲しいのかと思い、鳥籠内に手袋した手を入れ、マンマ・ミーアを触れようと試みた。が暴れだし、拒絶しやがった。仕舞いに、扉を閉めようとした一瞬の隙をみて鳥籠から脱走した。
飛びまわった挙句部屋中を糞だらけにし、捕えようとすれば、今度はわたしの頸動脈を確実に狙って突いてきやがった。怪我は一箇所だけで済んだけど、一撃で仕留めようとしたのだろう。鋭く尖がったくちばしの先は、皮膚のだいぶ深くまで突き刺していた。それでも、たかが鳥のくちばし。致命傷にまで至らず、血が流れ出るくらいの傷で済んだ。
首筋に何層にも重ねたガーゼをあて、テープで留める。鏡に映る自分の姿がイケなさすぎて舌打ちした。これじゃ弾ける若さと明るさも、このガーゼによって半減だ。急遽ヒョウ柄のマフラーで覆い隠す。
思いの外、チョベリグ過ぎてチョベリンコでテンション上がった。

やっぱり渋谷に降り立つと、エネルギーがみなぎった。みなぎり過ぎて、全身に鳥肌が立つ。空気すらイケているから何度も深呼吸をして、埼玉の空気で満たされた体内を渋谷の空気に入れ替える。
うん、これで正真正銘、芯からコギャルに蘇ったといえるだろう。
渋谷の街全体は三ヶ月前と変わった様子はなく、懐かしさが込み上がる。平日の昼間だから、休日よりはこれでも空いていることは知っている。晴れだし、平日だし、人も多過ぎない。今日は色んなことに適した日だ。
仕事内容は荷物の受け渡しだけだからなんてことはないが、何故だかいつも、あまり人目がつかない路地裏に指定されることが多い。それに、今日はちぃ子(ナミエとヒロコも渋谷に居ればラッキーだ)を探しにも来たのだった。だから人が少なければ少ないほど見逃しにくく、見つけ出しや
すくなるだろう。
今回も指定された路地裏で謎の包みを受け取り、別の路地裏に移動して男性に荷物を渡した。そしてその荷物と引き換えに、封筒を渡される。中には十万円入っていた。これで仕事は終わった。
時間にして三十分ほどで十万円。非常に割がよかった。その分、青春は訪れそうになかったが。……。
次に、ちぃ子探しのために109へと向かう。
わたしには自信があった。再会した時に「──コギャル魂を捨てた訳じゃない」と言っていたちぃ子。あれは、あの時既にちぃ子は連絡が取れなくなる状況を想定していたのかもしれない。きっと、わたしにだけわかるメッセージを残したんじゃないかと思っている。聖地である渋谷で待っていると。 
つまりは、やむを得ない事情故に消息をくらましているだけで、コギャル魂も友情も裏切った訳ではないと伝えてくれていたのだ。
丹念に109内を見て回る。各ブランドのショップ店員も客も、一月の寒さにコギャル魂を売ったようで、ズボンとかタイツを履いてやがる。呆れて過ぎて、通路に唾を吐かけずにはいられなかった。それにもう此処に、わたしの知っているブランドは少なくなりつつあった。令和がセシルマクビ―を殺して以来、109自体がコギャル魂を売っていたのは内心気付いていた。だから当然、此処で探してもちぃ子は見つからない訳だった。
それでも僅かに109にはコギャルの余韻が残っているらしく、ヒョウ柄のバッグが目に入った。思わず欲しくなるも、頭を振り払い我慢した。こんな時に物欲が刺激される自分が愚かすぎて腹立つし、ローズファンファンのショップ袋さえあればバッグなんていらないし、そもそも買うつもりもないッ。
この十万円は、もしも、もしもママが天国へ逝っちゃった時に送り出すためのお金か、又はわたしがママを治してあげることが出来ないと判断し、病院か施設へ送り出す時の為の資金として貯めていた。だから絶対買わないッ。
だけどこんな時にでさえ、ヒョウ柄に刺激される自分はやっぱり芯からコギャルなんだとちょっと嬉しくなる。勿論、だからといって、ちぃ子を忘れた訳じゃない。どんな時でも親友が一番だからねッ、と心の中でちぃ子に言い訳し、109を後にした。
渋谷の街を歩きまわり、行き交う人々の顔をチェックする。ラブホテル街は妙にソワソワして早足になった。それでも道行く人の顔は見逃さない。
ラブホテルから、一組のカップルが出てきた。一瞬、子犬のように可愛い小鼻がちぃ子と似ていて、女の方を慌てて目で捉える。しかし全然顔の作りが違い、舌打ちする。
女がチラとわたしを見て、男の方に肩身を寄せた。自意識過剰過ぎる女に苛立ちつのる、すれ違う際、女に聞こえるようもう一度舌打ちして、ホテル街を通り抜けた。
お腹が空いたから、公園のベンチでひと休憩する。寒さで体が震えるけれど、わたしは気にしないッ。小刻みに動く膝の上で、家から持ってきたみかんの皮を剥く。鳩が寄ってきたから、皮を放り投げたら、どっかに飛んで行った。ちっ。やっぱり可愛くないなと思う。携帯から時間を確認すれば、十五時を過ぎていた。そりゃお腹も空く訳だ。忘れぬうちに、ナミエとヒロコにメールを送った。
 ママが倒れた日から、二人とは会えていない。バイト最終日に、休む旨のメールを送ったが未だに返事はない。それから何度か「元気〜? 今度プリクラ撮ろうね」とメールを送ったけれど、こちらに対しても未だに返事は来ていなかった。そのうち、わたしもママの介抱で忙しく、なかなか連絡出来ずにいた。だけど最近は睡眠薬で眠ってくれている隙に、再びナミエとヒロコにメールを送り始めていた。
 受信ボックスを開くも、当然まだ返事は来ていない。待ち遠しさが絶望へ変わるのを防ぐため、携帯を閉じる。ローズファンファンのショップ袋へしまう。みかんを頬張る。みかんの味へ集中し、やかましい思考を意識から締め出そうと試みるも無駄だった。
バイト最終日、ナミエとヒロコは卒業式の後のような涙を流したのだろうか。そしてみんなでワイワイ、ガヤガヤと卒業記念の写真やプリクラを撮ったのだろうか。わたしも本当は参加したかった。卒業式のような青春を迎えてこそ、青春のゴールだったのではないか。不安と後悔が、当時のようにまたママを責め立てたくなった。
だけどサンプリングのバイトに、そこまでの感動的フィナーレは待っていないことくらい知っていた。あゝ、ナミエとヒロコに思いを馳せれば、馳せるほど、思考がまた人生を後悔しようとする。
気を取りなおすため、公園の水道水を飲みに行く。チョロチョロと流れ出てくる水を、両手で杯の代わりにして口へと運ぶ。
ともかく、絶対にちぃ子はこの渋谷のどこかに居るだろう。だって、ウチらは一生コギャルだもん。渋谷にいなきゃ、どこにいるっていうのよッ。ママが目覚めるまであと五時間だから、片道二時間と計算すれば残り三時間しかなかった。
みかん一個で埋まらなかった空腹を水道水で満たす。三時間分のエネルギーをここで補っておくのだ。
すると後方から会話が聞こえてきた。男と女の声だった。距離は次第に近くになって聞こえてくる。
シカトして水を飲み続けるわたしの耳に「──千代子」と飛び込んできた。
 それは至近距離にいる相手に呼びかけるような言い方だった。しかも、男が喋っていた。となると、一緒に話していた女に向けて「千代子」と呼んだことになる。
わたしは咄嗟に声がした方へと振り向く。生垣に隔てられたこの場所からでは姿が確認出来ない。くそっ。この生垣のすぐ向こう側にいるであろう男女は、まもなく過ぎ去ってしまうだろう。
わたしは慌てて、自分の背丈より高い生垣に向かって突っ走る。強引に通り抜けようとするも、枝先がわたしの肌を引っ掻き、行く手を阻む。それでも力の限り強引に突き進む。枝がバキバキと音をたてて折れていく。頭にのせたハイビスカスも枝先に引っかかり、幾つか落ちたのがわかった。
木々を抜けきれた時には、男女の背中が見え、距離があった。思ったより大分時間ロスしたようだ。くそ。ハイビスカスちゃんたちを再び頭につけ、小走りで男女を追いかける。バレぬ距離から垣間見れた二人の横顔は、帽子を目深に被り、女の方はマスクをしていた。これだけでは、ちぃ子かどうかは判断がつきかねないが、多分、ちぃ子だろう。男が会話の中で「千代子」と呼んでいたのだから。それに、ここは渋谷だ。それこそが、一番納得いく理由だった。だから目と鼻の先にいる女、あれはちぃ子なのだ。
手を繋いで、歩き続けるちぃ子と男の姿。背は高いが、色白でヒョロヒョロと細く、しかも黒髪の短髪だ。この男の姿を見入れば見入るほど、不愉快になっていく。
そもそも、ちぃ子がこんな男を選ぶか? と途端に疑念が湧き始める。高校の時に付き合っていたちぃ子の彼氏は、制服のズボンを腰まで深く下ろし、歩く度に派手な柄のトランクスを覗かせる。ちょっとだらしない感じがイケていて、校内の人気者だった。ロン毛の茶髪にメッシュが入っていて、日に焼けた肌が尚更イケてた。あれこそが、男の中の男だった。
なのに、この色白ヒョロ男がちぃ子の彼氏?? 思わず鼻で笑ってしまう。流石にちぃ子のセンスを疑う。…………いや、ひょっとすると、ちぃ子はこの男に洗脳されているのかもしれない。もしくは、この男になにか弱みを握られていて、別れることが出来ないのかもしれない。
途端にわたしの中で憎しみと怒りが燃えたぎり、全身が熱くなる。
となると一刻も早く、この男の元からちぃ子を離さなくてはいけない。これは、親友としての使命だ。コイツさえいなきゃ、ちぃ子は犯罪に手を染めることもなかったのに。本当は今ごろ、わたしとメールだって送り合いっこしていた筈なのに。あのカフェでたくさん会って、たくさん話して、たくさん遊んで、お互い弾ける若さと明るさで、青春を送れていたのに。あゝ、くそ! 
ちぃ子と男の足が止まる。信号待ちだ。すると男の手がちぃ子の腰に回して引き寄せる。余計に二人の体が密着する。青信号になり、歩き出す。
可哀想に。ちぃ子はこの男の思うままにされて。
ただ有難いことが一つあった。それはこの男を見たところただのヒョロ男で、筋肉はなさそうだった。今ここでちぃ子を助け出すことも考える。しかし安易に助け出して男に変な刺激を与えた場合、余計にちぃ子の身に危険が及ぶかもしれない。ストーカーなんて一番面倒臭いパターンだ。
どう助け出そうか、と思案する。
ちぃ子と男は住宅街へと進んで行く。わたしも後になって進んで行く。数軒の家が並んだ先のマンションにちぃ子と男は入って行った。エレベーターに乗る。扉が閉まった。階数表示のランプは一階から移動していく。七階のところでランプが止まる。
七階。何号室かまではわからない。が、まあいい。住処はわかった。
踵を返す。やっぱり、ちぃ子は渋谷にいた。わたしと会えると計算して、街に出歩いていたのだろう。あゝ、ちぃ子。やっぱり、ウチらは一生コギャルなのだ。今すぐにも、ちぃ子の縛られている苦しみから、開放させてあげなくちゃならない。待ってて、ちぃ子。
わたしは、足早にその場をあとにした。


予定よりも早めに最寄り駅へ戻れたので、少し遠回りをする。久しぶりに河川敷へと寄る。まだ十九時前なのに夜のように暗い。冷気も鋭く寒いので身に染みた。
河川敷ではウォーキングしている人や、犬の散歩をしている人とちらほらすれ違った。犬に吠えられたけど、前のめりで吠え返してやったら、飼い主が強引に犬を引っ張り足早にどっか行った。
川のせせらぎが耳に心地よくって、思わず足を止める。夜に染まる水面は、何だか今のわたしを落ち着かせてくれた。思い返せば、こんなゆったりな時間を過ごせたのは久々だった。特にママが倒れてから、常にママの側に居て、ママの日常をわたしが代わりとなって過ごしていた。慌しい日々から、ほんの束の間でもこうして開放されたくて、無意識にこの河川敷へと足が赴いたのかもしれない。自然の音や風、景色を感じるだなんて、なん
だかコギャルらしくなくて、チョベリバじゃないのにチョベリバだなと思った。
気付けば、吐く息が大分白くなっている。足の寒さも、震えが止まらず自制が効かなくなってきた。だいぶ夜が深まったのかもしれない。早く帰ろう。ママが目覚めちゃう。
足早に歩きはじめる。河川敷に設置されている街灯の灯りの下で、制服姿の男子学生たちが数人固まっているのが視界に入る。小さな輪になって、手元にあるゲームボーイかなにかを夢中でいじっていた。集団の横を通り過ぎる。
向かいから、制服姿の男子学生が歩いて来るのが見えた。さっきの集団の仲間のひとりだろうか。すれ違う。その時、どこかの自動車のヘッドライトがここまで射し、ちょうど男子学生の顔を照らした。幼さ残る顔は、多分中学生くらいだろう。イキって金髪に染めていた。目と目が合う。僅かにその男子学生の口元が緩んだのを見逃さなかった。が、わたしは気にしないッ。長い河川敷の一本道を歩き続けた。
その間、様々なことに考えを巡らせる。ちぃ子はわたしを信じ続けてくれてコギャル魂も裏切らず、友情も裏切らなかった。もし、わたしがちぃ子の様な状況下に置かれていたら、直ぐに逃げ出してしまっていたかもしれない。
ちぃ子と再会した時、「美恵春さんみたいに強くないだけで、私は社会の鎧をかぶらなくちゃ、生き抜くことが出来なかったの」と言っていた。今ならわかる。それは違う、と。わたしは強くなかった。ママが弱っていく中で、介抱を言い訳にして本当は逃げていた。ママからも、世の中からも、ナミエとヒロコ、ちぃ子からも。現実に向き合うのが怖くて、ママのせいにして、気付かぬふりをしてた。つまり、わたしは卑怯者だった。
カフェでちぃ子と共に過ごした時の、聖母のような優しく温かな微笑みが脳裡に蘇った。いつだって、わたしの心を救ってくれていた存在。
あゝ、ちぃ子。強いのはちぃ子だったよ。わたしを受け入れ、信じ続けてくれていた。
わたし、もう逃げない。
向き合うよ。
今度は、わたしがちぃ子を救い出すから。
はたと足を止め、夜の空を見上げた。
 星が一つも存在しないこの空は、ただ無限に黒が広がっていて、それは宇宙の彼方まで続いていた。宇宙の行き着く先まで夜が続き、その執着点に一つの星が見えた。きらりと光を放つと、星は瞬く間に闇に染まって消えていった。
──夜空の星、一瞬煌めき、神のお告げ。
神はいない。信じ続ける友が神──
気付けば見上げる頬に、一筋の涙が流れていた。
あゝ、つい感傷的になってしまっていた。これからちぃ子の危機的状況から助け出しに行くというのに、涙なんか流してる場合じゃないでしょ、美恵春ッ。と強く自分を叱る。
闘魂注入するため、腹一発に胸一発、頬二発、グーで殴る。痛みが栄養となって、わたしを強くするのだ。
「よしッ、待っててね。ちぃ子」
今度は平手で胸をたたき、渋谷にいるちぃ子に向かって伝えた。
「ちょっ、いいですか〜」
 あきらかに成人に満たないようなガキ臭い声が背後からした。振り返る間もなく、素早く正面にその相手は回り込んできた。手にする何かをわたしの顔に向け、そこから放出されるライトがわたしの顔を照らした。咄嗟に眩しさから顔をしかめる。
「今、なにしてたんですかあ〜? ひとりでなんか体叩いてましたよね〜?」
 蔑んだようなヘラヘラとした笑いが混じっている。
「しかも、独り言とかヤバ過ぎでしょ」
 唯一見える片目を頼りに、ライトの奥に視点を絞る。手のひらサイズの長方形をした物体の形が見え、ライトの付近にレンズが搭載されているようだった。そしてその物体の反対側からも、淡い光が漏れていた。僅かにその光から、金髪で幼さ残るガキの顔が浮かび上がる。ああ、あのアイツか。と認識した。
 なんだかよくわからないが、嬉しそうにヘラヘラとガキは笑い続けている。
「どうなんですかあ〜? 質問に答えてください。ヤバめ人間は逮捕しますよ〜?」
突然訪れた状況に、イマイチ理解が追いつけないので、舌打ちする。
「あ、なに。キレてんすか〜? おばさん、こわあ〜。ヤバめ人間認定じゃん」
 怖がってるようには見えない。むしろ愉しんでいるように見える。
「おばさん何か言ってよー。これじゃ、全然面白くないじゃーん。じゃんじゃじゃーん」
面白くないノリに舌打ちする。
「でた、舌打ち。こえー。ヤバめ人間で逮捕確定〜。じゃ、最後に一言どーぞ」
 マイクを握り締めているていなのか、ガキがわたしの顔の前に拳を突き出す。
とりあえず、ガキのこの拳から肩までの距離を大まかに目測する。まあ、悪くない距離だろう。
「お〜い、聞こえてんのお」
 ガキのイラつきが含んだ声音。
さっきからわたしに向けてくるこの長方形の物体が、ありがたく反対側からも淡い光で漏れているので、ガキの顔の位置関係も確認できた。こめかみに視点を定める。
「こんなんじゃ、取り直しだよー」
 ローズファンファンのショップ袋に片腕を突っ込み、まさぐる。袋の中でグリップを確認し、強く握った。
「ちぇ、聞いてんのかよ。おばさん個性強めなのに、面白味皆無じゃん」
グリップからT字に続く長い棒の方を腕の外側に装備する。勢いをつけて袋から腕を振り上げた。グリップは握ったままで腕の力を解き放し、長い棒をビンタのように回して、瞬発的にガキのこめかみに一撃を与えた。
思ったより鈍い音だった。硬い感触が手元に伝わる。と次の瞬間には、地面にどさっと倒れる音がした。
ガキは横になっている。近づいて顔を覗き見るも、暗くてイマイチよくわからない。倒れた拍子にガキが落とした長方形の物体を地面から、物体を拾い上げる。放出され続けるライトをガキの顔に照らした。
うーん、こめかみを外したか。
頭部に打撃を与えたようで、目は見開かれ、開いた口からちょっと血が流れ出ていた。
まあ、大丈夫だろう。
握るトンファーをローズファンファンのショップ袋へしまう。
手にした長方形の物体は、河川敷の川へ投げ捨てた。遠くでぽちゃんと音がした。
あゝ、まずい。随分時間を無駄にした。ママが目覚めちゃう。わたしは走って家路に向かった。


耳をつんざくような甲高い声が、外の玄関まで漏れていた。慌てて家にあがり、寝室へ向かう。警察を呼ばれたら面倒なことになるだろう。ママの容態が知られたら、病院送りになるかもしれない。それだけは阻止したかった。
急いでママの体に上乗りになり、暴れる手足を四肢で押さえつける。それでも抗うママの手足には計り知れない力が漲り、このままでは、わたしが吹っ飛ばされる勢いだった。
頭突きし、ママを気絶させた。
安堵のため息と共に、流れる汗を拭う。
干からびた皮膚から、骨が浮き出たママの体はもはやミイラ同然だ。その容態でどうしてあの力が湧いてくるのか、わたしは理解が追いつけずにいた。
だけどそのママの体に強力なエネルギーが秘められていることは確かだ。回復するには十分過ぎるほどのエネルギー。健康だった頃のママに戻れる可能性がまだ残されている証拠でもあった。
仏壇から小瓶を手に取り、中から六錠手のひらに乗せた。小瓶を仏壇に戻す。二つ並んだ位牌が目に入ったけど、手は合わせない。拝むことを一切やめた仏壇は、今じゃちょっとした物を置く棚として活用していた。ママの代わりに行っていた徳活ももうしていない。祠とか神棚、祭壇も、今では未洗濯の服で覆い被さっていた。
三ヶ月前、わたしはあのボンボラにチャンスをやった。わたしに神だと認めさせるチャンスをだ。そしたら徳活の一環としてでなく心から敬い、崇めるつもりだった。だけど、決してママを助けることはしなかった。容態は酷くなっていく一方だった。
当然だ、ただの石なんだから。
お陰で見えるものだけが全てなのだと改めて確信が得られた。石はただの石で、位牌もただの位牌で魂なんて宿っていないと。仏壇も神棚類も蹴飛ばそうが、中指立てようが貴理子とパパは悲しまないし、神からバチも当たらない。そういう結論に達した。
ママの口に、六錠放り込む。
規定より服薬量が多いが、今回ばかしは致し方ないことだった。これで明日の夜まで静かに眠ってくれているはずだ。
冷蔵庫から魚肉ソーセージを取り出し、腹ごしらえする。バナナも頬張る。水も飲む。長丁場でも、明日の夜までには決着つけるつもりだ。その分のエネルギーを今蓄えておく。
鏡に向かう。メイク直しは入念に。大輪のハイビスカスを三つ髪につけ直す。背後でチュン。と鳴き声がした。そうだった、ちぃ子との縁を繋いでくれたのはマンマ・ミーアちゃんのお陰だった。その繋いでくれた縁を大切にしに行くつもりだよ、マンマ・ミーアちゃん。と、柵の間から指を入れる。撫でるつもりでマンマ・ミーアちゃんの体に触れようとする。すると、鋭いくちばしの先でわたしの指を思いきり突こうとしやがった。危ない、間一髪だった。反射的に指を引っこ抜いたから怪我せずに済んだ。こんな鳥に、心の距離を縮めようと試みたのがばかだった。鳥に時間をかけてやるほどわたしは優しくない。
リビングへ戻り、祭壇に覆い被さる服をどかす。観音開きの扉から、拳ほどの石が覗いていた。持ち上げると意外と重量があった。ローズファンファンのショップ袋に入れ、家を後にした。
渋谷に着く。覚えている道を辿るだけだった。夜は寒いはずなのに、今のわたしには不思議と寒さを感じなかった。そんなことより、意外と緊張している自分に驚く。あんな細っちぃ男だったら、もしちぃ子を助け出す際に襲ってこられても、わたしの腕一振りで吹き飛ばされて即死だというのに。いや、相手が凶器を携えていたら、わたしどころかちぃ子まで殺されかねない。助け出す際は、出来たら鉢合わせしない方法にしよう、と考えを巡らせる。
マンションが見えた。一階の集団ポストで七階を目で追う。「神田千代子」の名前はない。外に出る。出入り口の木陰で身を潜めた。
マンションから出てきた住民に手当たり次第、七階に住んでいる神田千代子を知らないと聞き出すつもりだった。
ショートパンツから剥き出しの生足は震えているけど、わたしは気にしない。勢いある若さは寒さなんて打ち負かすものッ。そのうち足踏みし、代謝を上げる。若き肉体だから、すぐに温まるのだと証明できた。
夜も深いからか、住民は出てこない。眠けが襲う。身を縮めるように地面にしゃがみ込んでは、立ち上がり、しゃがみ込んでは立ち上がりを繰り返す。また若き肉体はすぐに温まる。とにかく、絶対にちぃ子を助け出すまで、わたしはここで待機するのよッ、と鼓舞する。どのくらい時間が経ったかはわからない。深閑とした夜に、歩く音が耳に入ってきたのは、随分と経ってからだった。黒い帽子を深く被り、マスクをした姿のちぃ子が、出入り口から出てきた。
「ちぃ子」
 急いでちぃ子を呼び止めるも、反応はない。
「ちぃ子! 助けに来たよ。わたし、わたしだよ。美恵春」
 側まで歩み寄ると、ちぃ子はようやくわたしに気付き、顔を上げた。その表情は目深に被った帽子とマスクからでは読み取れない。でもわたしに対して怒っている気配は感じなかった。心で安堵する。
「遅くなってごめんね。本当にごめんね。それでも、親友だから。親友だから、助けに来た。男は? 男は家に居るの?」
「え」
 マスクからくぐもった、ちぃ子の声が聞こえた。
「行こう。今なら大丈夫だから。そいつが追っかけてきたら、わたしがやっつけるから安心して。わたしがちぃ子を守るから」
 ちぃ子は一歩後退りし、視線を逸らし、足早に歩き出した。
わたしもちぃ子の後を追いかける。
「ちぃ子、あの男は頭がおかしいんだけなんだよ。ちぃ子を洗脳させて、脅して、悪の手に染めやがって。ぶっ殺してやる。だから、安心して。ちぃ子は何にも悪くないんだから」
 ちぃ子の腕を強く掴み引き留めるも、ちぃ子が強く腕を振り払った。
「は? さっきから、あんた誰? こんなおばさん知らないんですけど。誰だよ、ちぃ子って。勘弁してよ」
 背中を向けて再びどっかへ歩き出すちぃ子。親友であることを忘れたフリをしなくてはならない程、男はちぃ子に恐怖を植え付けてやがるのか。悔しさで拳を握りしめる。
「待って、待ってってば。もう大丈夫だから。あの色白野郎は、もうちぃ子に近づけないようにするから。だから、わたしと一緒にここから逃げよう。逃げて、ちょっと経ったら、また渋谷にこよう。で、ふたりで一緒に暮らそうよ! ね」
 ちぃ子と暮らす。口から出た言葉に自分でも驚く。だけど悪くない。なんならチョベリンコ過ぎる。そんな天国な日々が待っているなら、わたしはなんだってする。
「は?」
 抑揚のない、冷めた声だった。
「いや、だからさっきから誰だし。そもそもキモいんだけど、おばさん」
「ちぃ子、もういいんだよ。演技なんかしなくても」
「は? きも。警察呼ぶけど」
「だめだよ! 警察なんて呼んだら、ちぃ子まで捕まっちゃうよ。ちぃ子は悪くないんだから。警察の手には渡さないよ」
「は? きも」
 足早に歩きだすちぃ子の後をついていく。
「ねぇ、ちぃ子。目覚めてよ。わたしだけは信用して。ウチら親友なんだからさ。ね、そうでしょう」
 もう一度ちぃ子の腕を掴み、引き留める。ちぃ子は汚いものが纏わりついたと言わんば
かりに、素早くわたしの腕を振り払った。
「本っ当、いい加減にして。おばさん頭おかしいんじゃないの。マジで警察呼ぶから」
 ちぃ子がダウンジャケットのポケットから、何やら長方形のものを取り出し、いじりだす。それはガキが持っていたものと似ていた。
「ねえ、ちぃ子。もう演技なんてしなくて大丈夫だよ。くそ男もウチらの友情にはビビっちゃうよ。ね、そうでしょう。ね、ウチらって親友だもんね?」
 ちぃ子が長方形の物体を耳に当て、何やらぶつぶつと喋り出す。「まじで怖いんだけど」「記者じゃない。とにかく、まだ入り口付近にいるから迎えに来て」とかなんか言っている。あゝ、その物体はひょっとして現代の携帯電話か、と気付く。そういえば、ナミエとヒロコも似たようなものを持っていた。そっか、ちぃ子も現代の携帯電話を持つようになったのかと漠然とした思いを抱いた。
ちぃ子が電話を切った拍子に、もう一度確認してみる。
「……ウチらって親友だよね?」
一歩退いたちぃ子の足元。
そっか。ちぃ子の全身からはハイビスカスもヒョウ柄も見当たらないし、もう「ウチら」はちぃ子とわたしとの「ウチら」ではなくなってしまったのか。ちぃ子にとっての「ウチら」は、洗脳させた男との「ウチら」になってしまったのか。
帽子の陰から、僅かに覗いたちぃ子の目元。目尻に皺もない。永遠に弾ける若さのままのちぃ子。それなのに、永遠はないんだと悟った。
ちぃ子は警戒するように、その目元を震わせながら何かを言いかける。その言葉には、きっと、もう価値はない。わたしは勢いよくボンボラが入ったローズファンファンのショップ袋を振り上げた。
ちぃ子から一瞬、悲鳴のような叫びが聞こえたが、よろめくように倒れていった。
ほの暗くうごめく体に、もう一度ローズファンファンのショップ袋を頭部に殴る。鈍い感触がした。
ちぃ子は動かない。袋からボンボラを取り出し、その辺の道端に投げ捨てた。空になったローズファンファンのショップ袋。せっかくだから、ちぃ子の手に握らせようとしたがやめる。誰かが来たら面倒だから踵を返すも、やっぱり戻る。頭部に飾った大輪のハイビスカスを髪から外し、ちぃ子の髪に着けた。
ウチだけで、一生コギャル宣言を継承していくよ。横たわるちぃ子の肉体に向かって、
そう呟いた。


 朝日が昇ったらしく、部屋の窓から陽が差し込む。遠くで鳥のさえずりが聞こえてくる。マンマ・ミーアちゃんの仲間ではないだろう。たかが鳥でも鳴き方が違う。リズムも音調の違いも今のわたしには嫌でもわかるようになった。マンマ・ミーアちゃんは鳥籠の横木にとまって、目を瞑っている。鳥のくせして寝ていることが癇に障るが、今日は許そう。
 思いの外、想定よりだいぶあっけなく色々な事が済んだ。ママの睡眠薬の効力はまだ持続しており、今日の深夜までは夢の中だろう。仕事も数日は回ってこないはずだ。つまり、暫く何もすることがない。
眠くないから、横になる気も起きない。部屋の隅で壁にもたれ、足を投げ出し座
っている。ただそれだけ。唯一していることと言えば、漠然と差し込む陽を眺めていた。
 手持無沙汰な時間。床に放り投げたローズファンファンのショップ袋からおもむろに携帯を取り出す。
 受信ボックスをチェックする。ナミエとヒロコから返事は来ていない。「早くプリクラ撮りたいよ~! いつにする~?」とメールを送った。
 たぶん、もう一生返事は来ないだろう。本当はわかっている。けど、それでも信じる続ける心が、唯一の希望となるのだから、わたしは一生メールを送り続けるつもりだ。
──チュン。
 マンマ・ミーアちゃんがつぶらな瞳をぱちくりさせ、わたしに「おはよう」と挨拶してくれた。
「チュン(おはよう)」と挨拶し返す。
 マンマ・ミーア。イタリア語で友達。願いを込めてそう名付けた。その後たまたまテレビで見かけたイタリア語講座の番組で「なんてこった」「OH MY GOD」という意味だと解説されていた。つまりは、OH MY GODちゃんと呼んでいたようなものだった。
今にして思う。OH MY GODちゃんは、青い鳥だけに本当にOH MY GODを運んできてくれていたなと。
 結局、この鳥はなんの種類かわからず仕舞いだった。Yahoo! 知恵袋に質問したまま、すっかり忘れていたことを思い出す。
数か月ぶりに知恵袋を開く。未読の回答が一つついていた。

『お写真拝見したところ、全体的に青い色をしておりますが、腹部に小さな黒い点が一箇所みられます。アマゾン熱帯雨林に生息していた、ドゥンゴニという鳥に非常に似ていると思いました。どういう経緯で質問者様の元へ来たのかわかりませんが、現在では絶滅危惧種に指定されており、幻に近いくらいなかなかお目に掛かることの出来ない鳥です。
 絶滅危惧に至った理由ついては諸説ありますが、かつて一部の部族の間では、呪いを掛ける際の道具として(生き血や羽、心臓を)使用しておりました。それが減滅してしまった原因の一つらしいです。
青い鳥は幸運のシンボルでもありますが、ドゥンゴニは真逆です。不幸を運んでくると言い伝えられています。なので贈り物として使用し、受け取った人物へ呪いを掛けていたという話も聞いたことがあります。
ドゥンゴニという名前の由来は未だ不明ですが、ある部族の言語では「悪魔の化身」という意味ではないかとまことしやかに囁
かれております。

 情報としてはこのくらいしか知りませんが、お写真の様子を拝見しますと、現在飼われているのでしょうか? 
個人的な意見を申しますと、直ぐにでも手放した方がいいかと思います。理由は前述した通りです。
 
 以上となりますが、質問者様のお役にたてれば幸いです。』

 立ち上がり、鳥籠に歩み寄る。深海ように暗く、真っ青な色の羽で覆われたマンマ・ミーアちゃんの体。青に馴染んでいて気が付かなかったが、よく見ると腹部に小さな黒い点が見られた。どんなに上手く幸運の鳥に化身しても、悪魔のしっぽは隠しきれなかったのだろう。
 マンマ・ミーアちゃんを覗き見る。小さな黒目が小刻みに左右に動いている。見つかってしまったことへ動揺しているようだった。そのうち、鳥籠の中でバタバタと羽ばたきだした。
──人を呪わば穴二つ。
という言葉が唐突に脳裏に浮かんだ。
 ママは怪我しているところを助けたと言っていた。そもそも、どうしてアマゾン方面に生息する鳥が、ここ日本にいるのかは謎だ。希少の鳥らしいし、わざわざ呪いの贈り物としてこの鳥を使うのは困難だ。それに、娘のわたしを呪う理由が思いつかない。だけど、もしも、栄養失調と思えない程のママの様態がマンマ・ミーアちゃんによってだったら? 
 それ以上考えるまでもなく、わたしは鳥籠を掴んでベランダへ向かっていた。
澄んだ空気。朝陽がわたしの顔を射し、眩しさから一瞬目をつむる。電車の走る音が遠く聞こえた。
一日が始まったのだ。
鳥籠の扉を開け放す。籠の中で飛び回っていたマンマ・ミーアちゃんは、暫くすると勢いよく外へ飛び出した。空に向かって羽ばたいていく姿は小さくなり、直ぐに見えなくなった。
空っぽの鳥籠。たぶん、もう一生必要とすることはないだろう。二度と鳥など飼うことはないから。だけど直ぐに処分する気にはなれなかった。いつも居たものが居ない虚しさ。あんなちっこい生命体に悲しさを抱くだなんて。それこそ呪いによって自分の感情センサーが故障したんじゃないかと疑う。
その時、ベランダの手すりに何かが止まった。
 深海のように暗く、真っ青な色の鳥。マンマ・ミーアちゃんだった。首を傾げて、じっとわたしを見据えていた。つぶらな瞳は無垢で、神秘的で、本当にうまく化身しきっていると思う。遠くの空の悪魔で変身し直してきたのかもしれない。だからきっと腹部に黒い点はないだろう。ううん、今度こそ青い鳥になったのだ。きっと。
 マンマ・ミーアちゃんの足元に指を差し出す。つと細っちぃ足で手すりから指に乗っかった。
 視線は微動だにせず、こちらに向けたままだ。その小さな瞳にわたしの顔が反射して映っているのだろうが、あまりにもつぶら過ぎて確認は出来ない。いいや、漆黒の瞳に姿は飲み込まれ、映っていない。
──チュン。
 いつもより、優しい音調の鳴き声。
「チュン」
 指に乗るマンマ・ミーアちゃんを、そっと鳥籠に戻した。