「ちょ、俺が救世主!?」~転生商人のおかしな快進撃~

「旦那様、これ……何ですか?」

 怪訝(けげん)そうなアバドン。

「宇宙船だよ」

 俺はにこやかに返した。

「宇宙船!?」

 目を丸くするアバドン。その驚いた表情が、俺の胸を高鳴らせる。この世界では宇宙はまだ未開拓なのだ。バグを見つけられる予感がビンビンしてくる。

「そう、これで宇宙に行ってくるよ」

「宇宙!? 宇宙って空のずっと上の……宇宙……ですか?」

 アバドンは空を指さして首をひねる。その仕草が、どこか子供っぽくて愛おしい。

「お前は行ったことあるか?」

「ないですよ! 空も高くなると寒いし苦しいし……、そもそも行ったって何もないんですから」

「何もないかどうかは、行ってみないとわからんだろ」

 俺の声には、冒険への期待が込められていた。

「いやまぁそうですけど……」

「俺が中入ったら、このボルトにナットで締めて欲しいんだよね」

「その位ならお安い御用ですが……こんなので本当に大丈夫なんですか?」

 アバドンは教会の鐘をこぶしでカンカンと叩き、不思議そうな顔をする。

「まぁ、行ってみたらわかるよ」

 日ごろあまり気にしていないが、地上では指先ほどの面積に数kgの大気圧がかかっている。つまり、このまま宇宙へ行くと、それが無くなって逆に鐘には内側から十トンほどの力がかかってしまう。ちゃんとその辺を考えないと爆発して終わりだ。でも、これだけ分厚い金属なら耐えてくれるにちがいない。

 水の中に潜れる魔道具の指輪も買ってあるので、これで酸欠にもならずに済みそうだ。

 こういうチートアイテムの存在自体が、この世界は仮想現実空間である一つの証拠とも言える気がするのだが、どうやって実現しているかが全く分からない。

 俺は青く輝く指輪を(いじ)りながら、この前代未聞の挑戦に口をキュッと結んだ。

 だが、この冒険がこの世界の真実の一旦を見せてくれるはずだという根拠のない確信が、俺の背中を押す。

「さぁ、行くぞ!」

 俺は鐘をズン! と横倒しにし、中に断熱材代わりのふとんを敷き詰める。

 乗り込んだら鉄板で蓋をしてもらう。身動きするのも大変な狭い空間に身を委ねる感覚に、一瞬躊躇(ちゅうちょ)を覚えたが、今さら中止などありえない。すぐに覚悟を決めた。

「じゃぁボルトで締めてくれ」

「わかりやした!」

 アバドンは丁寧に五十か所ほどをボルトで締めていく。ギリギリと響くその音が、俺の心臓の鼓動と重なっていった。

 俺は宇宙に思いをはせる――――。

 生まれて初めての宇宙旅行、いったい何があるのだろうか? この星は地球に似ているが、実は星じゃないかもしれない。何しろ仮想現実空間らしいので地上はただの円盤で、世界の果ては滝になっているのかもしれない……。そんな想像をすると、背筋に寒気が走る。

 それとも……、女神様が出てきて『ダメよ! 帰りなさい!』とか、怒られちゃったりして。俺は美奈先輩似の女神を思い出しながらクスッと笑った。

 カンカンと鐘が叩かれ、その音に現実に引き戻される。

「旦那様、OKです!」

 締め終わったようだ。出発準備完了である。俺は深呼吸をして、心を落ち着かせた――――。

「ありがとう! それでは宇宙観光へ出発いたしまーす!」

 俺は自分に言い聞かせるように叫ぶ。

 鐘全体に隠ぺい魔法をかけた後、自分のステータス画面を出して指さし確認をした。

「MPヨシッ! HPヨシッ! エンジン、パイロット、オール・グリーン! 飛行魔法発動!」

 鐘がボウっと黄金色の光に包まれていく。その神々しい輝きが、これから始まる冒険を祝福してくれているかのようだ。

 俺はまっすぐ上に飛び立つよう徐々に魔力を注入していく。体内を流れる魔力が、鐘全体に広がっていくのを感じた。

「お気をつけて~!」

 鐘の横に付けた小さなガラス窓の向こうで、アバドンが大きく手を振っている。

 1トンの重さを超える大きな鐘はゆるゆると浮き上がり、徐々に加速ながら上昇していく。

 見る間にどんどん小さくなっていくアバドン。

 きっと外から見たらシュールな現代アートのように違いない。録画してYoutubeに上げたらきっと人気出るだろうな……、と馬鹿なことを考え、鼻で笑った。そんな他愛(たわい)もない思考が、緊張を和らげてくれる。

 のぞき窓の向こうの風景がゆっくりと流れていく。俺は徐々に魔力を上げていった……。

 石造りの建物の屋根がどんどん遠ざかり、街全体の風景となり、それもどんどん遠ざかり、やがて一面の麦畑の風景となっていく。俺があくせく暮らしていた世界がまるで箱庭のように小さくなっていった。その光景に、感慨(かんがい)深いものを感じる。


 広大な森と川と海が見えてきた。さらに高度を上げていく……。

 どんどん小さくなっていく風景。まるで地図を見ているようだ――――。

 青かった空も徐々に暗くなり、ついには空が真っ暗になる。宇宙の(やみ)が、俺を包み込む。

 ゴー! とうるさかった風切り音も徐々に小さくなり、ついには無音になった。静寂が訪れる。

「いよいよだぞ……、何が出るかなぁ……」

 俺はワクワクしながら小窓から地上を見ていた。青くかすむ大気の層の下には複雑な海岸線が伸びている。その美しさに、思わず息を呑む。

「綺麗だな……」

 と、この時、海岸線の形に見覚えがあるような気がした。既視感(デジャヴ)が、俺の脳裏をよぎる。

 ニョキニョキっと伸びる特徴的な二つの半島……。その形に、懐かしさを感じたのだ。

「知多……半島……?」

 俺は思わず口を突いて出た言葉に自分で驚いた。

「へっ!? あ、あれは知多半島と渥美半島……じゃないのか?」

 どっちが知多半島で、どっちが渥美半島だか忘れてしまったが、これは伊勢湾……? 俺の心臓が、激しく鼓動を打ち始める。

 となると、向こうが伊勢志摩……。いやいや、そんな馬鹿な! 俺は必死に否定しようとする。

 しかし、よく見れば浜名湖もあるし琵琶湖もある。日本人なら誰だって間違いようがない形……。

 俺は血の気が引いた。全身から力が抜けていくのを感じる。

 俺たちが住んでいたのは、なんと日本列島だったのだ。

 その瞬間、俺の中で何かが崩れ落ちた。これまでの冒険、異世界での経験、全てが一瞬にして色あせていく。代わりに湧き上がってきたのは、混乱と戸惑い、そして新たな疑問だった。

「なぜ……なぜ日本なんだ?」

 俺の声が、狭い鐘の中に木霊(こだま)する。その問いかけに、答えてくれる者はいない。ただ、無限に広がる宇宙の闇だけが、俺を取り囲んでいた――――。

 さらに高度を上げていくと全貌が見えてくる。それはまごうことなき日本列島だった。俺の目の前に広がる光景は、忘れることなどできない懐かしい日本。俺は思わずウルっと涙腺が緩んだ。

 確かに以前、移動中に綺麗な富士山みたいな山があって、「火山だったら同じ形になることもあるよね」と勝手に思い込んで『異世界富士』と呼んでいたのだ。でも、やっぱりあれは富士山だったのだ。自分の鈍感さに、今更ながら(あき)れてしまう。

 さらに高度を上げる……。すると、見えてきたのは四国、九州、そして朝鮮半島。さらに沖縄から台湾……。北には北海道から樺太があった。そう、俺が住んでいた世界は地球だったのだ。

 俺は唖然(あぜん)として、ドサッと布団に倒れ込んだ。狭い鐘の中で、自分の激しい鼓動が耳に響く。

 気候も季節も生えている植物も日本に似すぎてるなとは思っていたのだ。しかしそれは当たり前だったのだ、同じ日本だったのだから……。今思えば、あの懐かしい空気感、どこか既視感のある風景、全てが繋がってくる。

 俺は頭を抱えてしまった。異世界だと思っていたら日本だった。これはどういうことだろうか? 人種も文化も文明も全く日本人とは違う人たちが日本列島に住み、魔法を使い、ダンジョンで魔物を狩っている。その光景を想像すると、現実と非現実が混ざり合い、頭がクラクラしてくる。

 この世界が仮想現実空間だとするならば、誰かが地球をコピーしてきて全く違う人種に全く違う文化・文明を発達させたということだろう。

 しかし――――。

 一体何のために? その目的を考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだ。

 そもそも地球なんてどうやってコピーするのだろうか? 俺は必死に考えるが……皆目見当もつかなかった。頭の中で、無数の疑問が渦を巻いている。

 ふと、窓の外に目をやると、地球が青く輝いているのが見えた。その美しさに、一瞬だけ疑問を忘れてしまう。その澄んだ青色が、俺の心を静かに癒していく。

「綺麗だなぁ……」

 宇宙に来たら何かが分かるというのは正しかった。しかし、それはまさに想像の斜め上を行く事態で、むしろ謎は深まるばかりである。その皮肉な状況に、俺は苦笑せざるを得なかった。

 俺は青く輝く美しい星、地球をしばらく眺め続けていた。その姿に、故郷日本への想いと、この不思議な世界への疑問が交錯する。静寂の中、俺の心は激しく揺れ動いていた。


『旦那様~! ご無事ですか~?』

 アバドンの声が聞こえる。その声に、俺は現実に引き戻された気がした。

『無事だけど無事じゃない。なんかこう……見てはいけないものを見てしまった……。ちょっと戻るね』

 俺は情けない声で応えた。その声には、自分でも驚くほどの虚脱感(きょだつかん)が滲んでいた。

 本当はこの世界を一周しようとも思っていたのだが、きっと太平洋の向こうにはアメリカ大陸があってヨーロッパ大陸があってインドがあって東南アジアがあるだけだろう。これ以上の探索は意味がない。その現実が、俺の心に重くのしかかる。

        ◇

 広場に着陸し、アバドンにボルトを抜いてもらう――――。

 再び地上に立った時、俺は奇妙な喪失感(そうしつかん)を覚えて足元がふらついた。まるで、大切な何かを宇宙に置き去りにしてきたかのように。

「宇宙どうでしたか?」

 アバドンは興味津々に聞いてくるが、俺は何を言っていいのか言葉が出てこなかった。

 アバドンに日本列島の話をしても理解できないだろう。転生者と現地人の(みぞ)の深さに、俺は一瞬たじろいだ。

「なんか説明の難しいものが……。お前も行ってくるか?」

 俺は大きくため息をつくと首を振りながら答える。

「私は旦那様と違いますから、こんなのもち上げて宇宙まで行けませんよ」

 手を振りながら顔をそむけるアバドン。

「そか。綺麗だったぞ……」

「それは()ござんしたね」

 ちょっとすねるアバドン。

「ははっ、良かったんだかどうだか……。コーヒーでも飲むか?」

 俺は疲れた笑いを浮かべながら言った。身体がコーヒーの苦味を求めている。

「ぜひぜひ! 旦那様のコーヒーは美味しですからね!」

 嬉しいことを言ってくれるアバドンの背中をパンパンと叩き、店へと戻る。その温もりが、俺をわずかに元気づけてくれた。

 店に戻ると、いつもの手順でコーヒー豆を挽いていく。

 ゴリゴリという破砕音にお湯の沸く音――――。

 しかし、いつもなら安心感を与えてくれるこの日常の一コマが、どこか(はかな)く感じられた。

「アバドン、この世界って……本当に現実なのかな?」
 
 コーヒーを淹れながら、俺は思わず呟いた。

「はぁ? 旦那様、宇宙で何かありました?」

 アバドンはけげんそうに首を傾げる。その素直な反応に、俺は苦笑する。

「いや、なんでもない。ただの……思いつきさ」

 俺はそう言いながらコーヒーをアバドンに差し出す。

 自分も一口すすると、香り高い苦味が疲労に硬くなった身体を包み込んでいく。

 この異世界の日本列島で俺はどう生きていけばいいのだろうか――――?

 俺は窓の外に転がっている宇宙船をチラリと見て、再び深い思考の海に沈んでいった。


      ◇


 顔を上げるとアバドンは目をつぶり、軽く首を振りながらコーヒーの香りを堪能(たんのう)していた。その仕草に、どこか人間らしさを感じる。

「ちょっと、この世界について教えて欲しいんだよね」

 俺はコーヒーをすすりながらさりげなく聞いてみる。

 アバドンは濃いアイシャドウの目をこちらに向け、嬉しそうに紫色のくちびるを開いた。

「なんでもお答えしますよ! 旦那様!」

「お前、ダンジョンでアルバイトしてたろ? あれ、誰が雇い主なんだ?」

「ヌチ・ギさんです。小柄でヒョロッとして()せた男なんですが……、彼がたまに募集のメッセージを送ってくるんです」

 この男がこの世界の謎を解くキーになるに違いない。俺は身を乗り出してアバドンの瞳を見つめた。

「その、ヌチ・ギさんが、ダンジョン作ったり魔物を管理してるんだね、何者なんだろう?」

「さぁ……、何者かは私も全然わかりません」

 そう言ってアバドンは首を振る。その仕草に、俺は少しがっかりした。

「彼はいつからこんなことをやっていて、それは何のため?」

「さて……私が生まれたのは二千年くらい前ですが、その頃にはすでにヌチ・ギさんはいましたよ。何のためにこんなことやってるかは……ちょっとわかりません。ちなみに私もヌチ・ギさんに作られました」

 なんと、アバドンの親らしい。魔物を生み出し、管理しているのだから当たり前ではあるが、ちょっと不思議な感じがする。

「ヌチ・ギさんは……、何ができるのかな?」

 俺の声に、好奇心と緊張が混じる。

「森羅万象何でもできますよ。時間を止めたり、新たな生き物作りだしたり、それはまさに全知全能ですよ」

 なるほど、MMORPGのゲームマスターみたいなものかもしれない。やはりこの世界は仮想現実で、世界を構成するデータを直接いじれるからどんなことでも実現可能だし、何でも調べられる――――。

 その考えが浮かんだ瞬間、背筋に冷たいものが走った。


「俺じゃ勝てそうにないね」

 俺は自嘲気味に首を振る。

「そうですね、旦那様は最強ですが、ヌチ・ギさんは次元の違う規格外の存在ですから、存在自体反則ですよ」

 肩をすくめるアバドン。

 一体、ヌチ・ギはこの世界の何なのだろうか? この世界に魔物やダンジョンを作って何をやりたいのだろうか?

 コーヒーカップを見つめながら、俺は考え込む。この世界の真実、そしてヌチ・ギという存在。全てが繋がっているような気がするのに、その全容が見えない。俺は深いため息をついた。

「まぁ、神様みたいなものだと思っておけばいいかな?」

 するとアバドンは、腕を組んで首をひねる。

「うーん、ヌチ・ギさんはこう言うとアレなんですが、ちょっと邪悪で俗物なんですよ」

「邪悪……?」

「どうも女の子を生贄(いけにえ)にして楽しんでるらしいんですよね」

「はぁ!? それじゃ悪魔じゃないか!」

 俺の声が思わず上ずる。この世界の闇の深さに、戦慄を覚えた。

「彼は王族の守り神的なポジションに()いていてですね、軍事や疫病対策や飢饉対策を手伝って、その代わりに可愛い女の子を提供させているんです」

「……。女の子はどうなっちゃうの?」

 俺は口を開くのも(はばか)られるような気持ちで尋ねた。

「さぁ……屋敷に入った女の子は二度と出てこないそうです」

「それは大問題じゃないか!」

 俺は思わず立ち上がった。

「でもヌチ・ギさんを止められる人なんていないですよ。王様だっていいなりです」

 俺は絶句した。この世界の闇がそんなところにあったとは。この世界はヌチ・ギに実質支配されていたのだ。そして、その男は女の子を喰い物にする悪魔。でも、誰もこの状況を変えられない。全知全能であればもう人間にはなすすべがないのだ。何という恐ろしい世界だろうか。

 この世界は仮想現実空間ということはほぼ堅そうだ。ヌチ・ギが女の子を食い物にするために作った仮想現実空間……。いや、この世界を作るコストはそれこそ天文学的で莫大だ。女の子を手にするためにできるような話じゃない。と、なると、ヌチ・ギは単に管理を任されていて、役得として女の子を食っているという話かもしれない。

 とは言え、この辺は全く想像の域を出ない。何しろ情報が少なすぎる。俺は頭を抱えた。

「ありがとう、とても参考になったよ。彼のいそうなところに行くのはやめておこう」

 俺の声には、諦めと決意が混じっていた。

「正解だと思います。絶対ドロシーの(あね)さんがヌチ・ギさんの目に触れることが無いようにしてくださいね。奪われたら最悪です」

「うーん、それは怖いな……。気を付けよう」

 俺はふぅぅ、と大きく息を吐きながら、この世界の理不尽さを憂えた。

 勇者は特権をかざして好き放題やってるし、ヌチ・ギは国を裏で操りながら女の子を(もてあそ)んでいる。そして、それらは簡単には改善できそうにない。

 俺は窓の外を見つめた。穏やかな日差しに包まれる街並み――――。

 この平和な光景の裏に、こんな残酷な真実が隠れているなんて。

 俺は深いため息をついて首を振り、コーヒーをすすった。


       ◇


 この世界ではヌチ・ギがキーになっているということはわかった。なぜここが日本列島なのかも聞けば教えてくれるだろう。しかし、俺はチートで力をつけてきた存在だ。ゲームの世界ではチートは重罪である。下手に近づけばチートがばれてペナルティを食らってしまう。下手したらアカウント抹消……、殺されてしまうかもしれない。そう思っただけで、背筋に冷たいものが走る。

 とても話を聞きになんて行けない。アバドンに聞きにいかせたりしてもアウトだろう。ヌチ・ギは万能な存在だ。アバドンの記憶を調べられたりしたら最悪だ。

 ふぅ……。

 俺はガックリして首を振った。もう少しで真実に手が届きそうなのに近づけないもどかしさが胸を苛む。

 それでも、ヌチ・ギもバカじゃない。いつか俺の存在にも気づくだろう。その時に対抗できる手段はどうしても必要だ。それにはこの世界のことを解明しておく必要がある。

 女神様に連絡がつけば解決できるのにな、と思ったが、どうやったらいいかわからない。死んだらもう一度あの先輩に似た美人さんに会えるのかもしれないが……、さすがに死ぬわけにもいかない。行き詰った現実が胸の奥で(きし)む。

 ふぅ……。

 俺はコーヒーをすすりながら、テーブルに可愛く活けられたマーガレットの花を見つめた。

 ドロシーが飾ったのだろう。黄色の中心部から大きく開いた真っ白な花びらは、元気で快活……まるでドロシーのようだった。その花の瑞々(みずみず)しさに、少し心が和む。

 俺はドロシーのまぶしい笑顔を思い出し、目をつぶった。その笑顔が、この混沌とした状況の中で、唯一の光明のように感じられる。

「守らなきゃな」

 混沌とした不安の中、俺は小さく呟いた。

 窓の外では雲が湧いて陽を覆いはじめている。不吉な暗雲が、まるで俺の複雑な心情を映し出しているかのようだ。

「アバドン、もう一杯コーヒーどうだ?」

 俺は立ち上がる。

「ありがとうございます、旦那様。でも、そろそろ私は帰らないと」

 アバドンの言葉に、俺は少し寂しさを覚えた。魔人がいなくなって寂しいとは、自分は相当弱っているらしい。

「そうか。気を付けて帰れよ」

 俺は振り返らずにただゴリゴリとコーヒー豆をひいた――――。

 アバドンが去った後、俺は一人で静かにコーヒーを飲み干す。その苦みが、これからの挑戦への決意を新たにさせた。


        ◇


 翌朝、久しぶりに店を開け、掃除をしているとドアが開いた。

「カラン! カラン!」

 鐘の音が、静かな店内に響き渡る。

 見ると女の子と初老の紳士が入ってくる。二人の姿に俺の心臓が小さく跳ねた。

「いらっしゃいませ」

 明らかに冒険者とは違うお客――――。

 とても嫌な予感がする。

 女の子はワインレッドと純白のワンピースを着こみ、金髪を綺麗に編み込んで、ただ者ではない雰囲気を漂わせている。まるで絵画から抜け出してきたかのようだ。

 鑑定をしてみると――――。

リリアン=オディル・ブランザ 王女
王族 レベル12

 なんとお姫様ではないか。なぜ姫様が!? 俺は頭の中が真っ白になる。

 リリアンは俺を見るとニコッと笑い、胸を張ってカツカツとヒールを鳴らし近づいてくる。その足音が、俺の心臓の鼓動と重なる。

 整った目鼻立ちに透き通る肌、うわさにたがわない美貌に俺はドキッとしてしまう。その美しさは、まさに天衣無縫(てんいむほう)と言うべきものだった。

 俺は一つ深呼吸をすると、ひざまずいて言った。

「これは王女様、こんなむさくるしい所へどういったご用件でしょうか?」

 リリアンは琥珀色の瞳をキラリと輝かせる。

「そんな(かしこ)まらないでくれる? あなたがユータ?」

「は、はい……」

 俺の声が、思わず裏返る。

「あなた……私の騎士(ナイト)になってくれないかしら?」

 いきなり王女からヘッドハントを受ける俺。あまりのことに混乱してしまう。

「え? わ、私が騎士(ナイト)……ですか? 私はただの商人ですよ?」

 俺は必死に平静を装おうとする。しかし、その声には隠せない動揺が滲んでいた。

「そういうのはいいわ。私、見ちゃったの。あなたが倉庫で倒した男、あれ、勇者に次ぐくらい強いのよ。それを瞬殺できるってことはあなた、勇者と同等……いや、勇者よりも強いはずよ」

 瞳に好奇心を輝かせながらリリアンは嬉しそうに言う。

 バレてしまった……。

 俺は、苦虫を噛み潰したような顔をしてリリアンを見つめる。その瞬間、これまでの平穏な日々が、砂の城のように崩れ去っていくのを感じた。

「王女様、私は……、静かに暮らしていたいだけなので……」

 言葉を選びながら、俺は静かに口を開いた。貴族社会における宮仕え、そんな堅苦しくて面倒くさいこと絶対にお断りである。しかし、断り方が悪くて王族の怒りを買えば王室侮辱罪で重罪なのだ。もっと面倒くさいことになる。

騎士(ナイト)なら貴族階級に入れるわ。贅沢もできるわよ。いいことづくめじゃない?」

 無邪気にメリットを強調するリリアン。その声には、少女特有の快活さが混じっていた。しかし、俺の耳には、それが不協和音のように響いた。

 平穏な暮らしにずかずかと入ってくる貴族たちには本当にうんざりする。俺は内心で溜め息をついた。

「うーん、私はそう言うの興味ないんです。素朴にこうやって商人やって暮らしたいのです」

「ふーん、あなた、孤児院出身よね? 孤児院って王室からの助成で運営してるって知ってる?」

 リリアンは意地悪な顔をして言う。その瞳に俺は一瞬、冷たい光を感じた。

 孤児院を盾に脅迫とは許しがたい。抑えきれない怒りが込み上げてくる。

「孤児院は関係ないですよね? そもそも、私が勇者より強いとしたら、王国など私一人でひっくり返せるって思わないんですか?」

 俺はそう言いながらリリアンをにらんだ。つい、無意識に「威圧」の魔法を使ってしまったかもしれない。その瞬間、部屋の空気が重くなったような気がした。

「あ、いや、孤児院に圧力かけようって訳じゃなくって……そ、そう、もっと助成増やせるかも知れないわねって話よ?」

 リリアンは気おされ、あわてて言う。お姫様相手に少しやりすぎてしまったかもしれない。

「増やしてくれるのは歓迎です。孤児院はいつも苦しいので。ただ、騎士(ナイト)の件はお断りします。そういうの性に合わないので」

 この世界で貴族は特権階級。確かに魅力的ではあるが、それは同時に貴族間の権力争いの波に揉まれることでもある。そんなのはちょっと勘弁して欲しい。


「うーん……」

 リリアンは腕を組んでしばらく考え込む。

「分かったわ、こうしましょう。あなた勇者ぶっ飛ばしたいでしょ? 私もそうなの。舞台を整えるから、ぶっ飛ばしてくれないかしら?」

 どうやら俺が勇者と揉めていることはすでに調査済みのようだ。

「なぜ……、王女様が勇者をぶっ飛ばしたいのですか?」

 俺の声には、好奇心と警戒心が混じっていた。

「あいつキモいくせに結婚迫ってくるのよ。パパも勇者と血縁関係持ちたくて結婚させようとしてくるの。もう本当に最悪。もし、あなたが勇者ぶっ飛ばしてくれたら結婚話は流れると思うのよね。『弱い人と結婚なんてできません!』って言えるから」

 リリアンの言葉に、俺は思わず同情してしまう。あんな奴と結婚させられたらたまったものではない。

「そういうのであればご協力できるかと。もちろん、孤児院の助成強化はお願いしますよ」

 俺はニコッと笑う。行方も知れない勇者と対決できる機会を用意してくれて、孤児院の支援もできるなら断る理由はない。

「うふふ、ありがと! 来月にね、武闘会があるの。私、そこでの優勝者と結婚するように仕組まれてるんだけど、決勝で勇者ぶちのめしてくれる? もちろんシード権も設定させるわ」

 リリアンは嬉しそうにキラキラとした目で俺を見る。長いまつげにクリッとした琥珀色の瞳。さすが王女様、美しい。その美貌に、一瞬我を忘れそうになる。

「わ、分かりました。孤児院の助成倍増、建物のリフォームをお約束していただけるなら参加しましょう」

「やったぁ!」

 リリアンは両手でこぶしを握り、可愛いガッツポーズをする。その仕草に、思わず微笑んでしまう。

「でも、手加減できないので勇者を殺しちゃうかもしれませんよ?」

 俺の言葉に、一瞬空気が凍りつく。

「武闘会なのだから偶発的に死んじゃうのは……仕方ないわ。ただ、とどめを刺すようなことは止めてね」

 リリアンの声には、微かな緊張が滲んでいた。

「心がけます」

 俺はニヤッと笑う。懸案が一つ解決しそうなことに、胸の重荷がすぅっと晴れていくのを感じた。

「良かった! これであんな奴と結婚しなくてよくなるわ! ありがとう!」

 いきなり俺にハグをしてくるリリアン。ブワっとベルガモットの香りに包まれて、俺は面食らった。

 うほぉ……。

 トントントン……。

 と、その時、ドロシーが二階から降りてくる。なんと間の悪い……。俺の心臓が、一瞬止まったかのように感じた。

 絶世の美女と抱き合っている俺を見て、固まるドロシー。その表情に、言いようのない痛みを感じる。

「ど、どなた?」

 ドロシーの周りに闇のオーラが湧くように見えた。その闇が、この場の空気を一変させる。

「あら、助けてもらってた孤児の人ね。あなたにはユータはもったいない……かも……ね」

 リリアンはドロシーを舐めるように見回した。

 俺は慌ててリリアンを引きはがす。

「ち、違うんだドロシー……」

 しかし、ドロシーは鋭い視線でリリアンをにらむ。

「そ、それはどういう……」

 ドロシーの声が震えている。

「ふふっ! 冗談よ! じゃ、ユータ、詳細はまた後でね!」

 リリアンは俺にウインクして、出口へとカツカツと歩き出した。その足音が、妙に高く響く。

 唖然(あぜん)としながらリリアンを目で追うドロシー。

 リリアンは出口でクルッと振り返り、ドロシーをキッとにらむ。

「やっぱり、冗談じゃない……かも」

「なんですって……?」

 激しい火花を散らす二人。その瞬間、空気が張り詰める。

 俺はいきなりやってきた修羅場にオロオロするばかりだった。

 リリアンはニヤッと笑うと、

「バトラー、帰るわよ!」

 と、颯爽と去っていった。

 扉が閉まり、静寂が訪れる――――。

「ドロシー、これは……」

 俺は冷や汗を流しながら説明をしようとしたが……。

「あの人、なんなの!?」

 ドロシーはひどく腹を立てて俺をにらむ。その瞳に、怒りだけでなく不安も渦巻いているのが見てとれた。

「お、王女様だよ。この国のお姫様」

 俺は肩をすくめて答える。

「お、お、王女様!?」

 目を真ん丸くしてビックリするドロシー。この国の特権階級のトップの一族、雲の上の人であることにドロシーは固まってしまう。

「なんだか武闘会に出て欲しいんだって」

「で、出るって言っちゃったの!?」

「なりゆきでね……」

 俺の言葉に、ドロシーの顔が青ざめていく。

「そんな……、出たら殺されちゃうかもしれないのよ!」

 この世界の武闘会は、地球で行われているような安全を確保したような大会ではなく、実質は殺し合いなのだ。毎回多くの死傷者がでて、観客もそれに興奮して盛り上がるという実に野蛮な大会だった。

「そこは大丈夫なんだ。ただ……、ちょっと揉めちゃうかもなぁ……」

 俺は公開の場で勇者を叩きのめすリスクにちょっと気が重くなる。移住を含めた万全な対策を施したうえで挑まねばならいだろう。

 俺は深いため息をついた。

「断れなかったの?」

 ドロシーは眉をひそめる。

「ドロシーの安全にもかかわることなんだ、仕方ないんだよ」

 俺はそう言って、諭すようにドロシーの目を見た。

 ハッとするドロシー。

「ご、ごめんなさい……」

 うつむいて、か細い声を出すその姿に、胸が痛んだ。

「いやいや、ドロシーが謝るようなことじゃないよ!」

 ちょっと言い方を間違えてしまったかもしれない。

「私……ユータの足引っ張ってばかりだわ……」

「そんなことないよ、俺はドロシーにいっぱい、いっぱい助けられているんだから」

 なんとかフォローしようとしたが、ドロシーの目には涙があふれてくる。

「うぅぅ……どうしよう……」

 ポトリと涙が落ち、その一滴にドロシーの心の重みを感じた。

「ドロシー落ち着いて……」

 俺はゆっくりドロシーをハグした。どうしようもない震えが伝わってくる――――。

「ごめんなさい……うっうっうっ……」

 嗚咽する背中を俺は優しくトントンと叩いた。

「ドロシー、あのな……」

 俺は自分のことを少し話そうと思った。これは長い間隠してきた真実を明かす時なのかもしれない。

「俺、実はすっごく強いんだ」

 俺はドロシーの瞳をまっすぐに見た。

「……?」

「だから、勇者と戦っても、王様が怒っても、死んだりすることはないんだ」

「え……?」

 いきなりのカミングアウトに、ドロシーは理解できてない様子だった。その表情に、戸惑いと混乱が見える。

「……、本当……?」

 ドロシーは涙でいっぱいにした目で俺を見つめた。

「本当さ、安心してていいよ」

 俺はそう言って優しく髪をなでる。

「でも……、ユータが戦った話なんて聞いたことないわよ、私……」

「この前、勇者にムチ打たれても平気だったろ?」

 俺はニヤッと笑った。

「あれは魔法の服だって……」

「そんな物ないよ。あれは方便だ。勇者の攻撃なんていくら食らっても俺には全く効かないんだ」

 俺は笑顔で肩をすくめる。

「えっ!? それじゃあ勇者様より強い……ってこと?」

「そりゃもう圧倒的ね」

 俺はドヤ顔で笑った。

「う……、うそ……」

 ドロシーは唖然(あぜん)として口を開けたまま言葉を失っている。その表情に、俺はついクスッと笑ってしまう。

 人族最強の名をほしいままにする勇者。それより強いというのはもはやドロシーの想像を超えてしまっていた。

「あ、今日はもう店閉めて海にでも行こうか? なんか仕事する気にならないし……」

 俺はニッコリと笑って提案する。

 ドロシーは呆然(ぼうぜん)としたまま、ゆっくりとうなずいた。


         ◇


 俺はランチをバスケットに詰め込み、ドロシーには水着に着替えてもらう。

 短パンに黒いTシャツ姿になったドロシーに、俺は日焼け止めを塗った――――。

 白いすべすべの素肌はしっとりと手になじむほど柔らかく、温かかった。その感触に、俺は思わずドキリとする。

「で、どうやって行くの?」

 ドロシーがウキウキしながら聞いてくる。

「裏の空き地から行きまーす」

 少し悪戯っぽく言いながら裏口を指さす。

 え……?

 ドロシーは何を言っているのか分からずに、けげんそうな顔で小首をかしげた。


       ◇


 俺は空き地のすみに置いてあったカヌーのカバーをはがした。朝露に濡れたカバーの感触が、これから始まる冒険を予感させる。

「この、カヌーで行きまーす!」

 買ってきたばかりのピカピカのカヌー。朱色に塗られた船体にはまだ傷一つついていない。その艶やかな色が、二人の気分を盛り上げる。

「うわぁ! 綺麗! ……。でも……、ここから川まで遠いわよ?」

 どういうことか理解できないドロシー。その困惑(こんわく)した表情に、俺は笑みをこぼす。

 俺は荷物をカヌーにドサッと乗せ、前方に乗り込むと、

「いいから、いいから、はい乗った乗った!」

 と、後ろのシートをパンパンと叩いた。

 首をかしげながら乗り込むドロシー。

 俺は怪訝(けげん)そうな顔のドロシーを見ながらCAの口調で言った。

「本日は『星多き空』特別カヌーへご乗船ありがとうございます。これより当カヌーは離陸いたします。しっかりとシートベルトを締め、前の人につかまってくださ~い」

「シートベルトって?」

「あー、そこのヒモのベルトを腰に回してカチッとはめて」

「あ、はいはい」

 器用にベルトを締めるドロシー。その真剣な表情に、俺はつい微笑んでしまう。

「しっかりとつかまっててよ!」

「分かったわ!」

 ドロシーは俺にギュッとしがみついた。ふくよかな胸がムニュッと押し当てられ、その感触に俺は思わず顔が熱くなるのを感じた。
「あ、そんなに力いっぱいしがみつかなくても大丈夫……だからね?」

「うふふ、いいじゃない、早くいきましょうよ!」

 嬉しそうに微笑むドロシー。

 俺は赤い顔でコホンと咳払いをした。

「と、当カヌーはこれより離陸いたします」

 隠ぺい魔法と飛行魔法をかけ、徐々に魔力を注入していく――――。

 ふわりと浮かび上がるカヌー。その瞬間、二人の心も宙に浮いたかのようだった。

「えっ!? えっ!? 本当に飛んだわ!」

 驚きと喜びに湧くドロシー。

「ふふっ、冗談だと思ってたの?」

「だって、こんな魔法なんて聞いたことないもの……」

 ドロシーは口をとがらせる。普通の飛行魔法では自分一人が浮き上がるのも大変なのだ。カヌーごと浮かび上がらせる魔法など前代未聞だった。

「まだまだ、驚くのはこれからだよ!」

 俺はニヤッと笑うと魔力を徐々に上げていく。

 カヌーは加速しながら上空へと浮かび上がり、建物の屋根をこえるとゆっくりと回頭して南西を向いた。眼下に広がる景色が、二人の心を高揚させる。

「うわぁ! すごい、すご~い!」

 ドロシーが耳元で歓声を上げた。

 上空からの風景は、いつもの街も全く違う様相を見せる。陽の光を浴びた屋根瓦はキラキラと光り、煙突からは湯気が上がってくる。

「あ、孤児院の屋根、壊れてるわ! あそこから雨漏りしてるのよ!」 

 ドロシーが目ざとく、屋根瓦が欠けているのを見つけて指さす。その鋭い観察眼に、俺は感心した。

「本当だ、後で直しておくよ」

「ふふっ、ユータは頼りになるわ……」

 ドロシーは俺をぎゅっと抱きしめた。

 ドロシーのしっとりとした(ほほ)が俺の(ほほ)にふれ、俺はドギマギしてしまう。

 高度は徐々に上がり、街が徐々に小さくなっていく――――。

「うわぁ~、まるで街がオモチャみたいだわ……」

 ドロシーは気持ちよい風に銀髪を躍らせた。

 石造りの建物が王宮を中心として放射状に建ち並ぶ美しい街は、午前の澄んだ空気をまとって一つの芸術品のように見える。ちょうどポッカリと浮かぶ雲が影を作り、ゆったりと動きながら陰影を素敵に演出していた。

「綺麗だわ……」

 ドロシーはウットリとしながら街を眺める。その瞳に、世界の美しさが映り込んでいた。

 俺はそんなドロシーを見ながら、この瞬間を大切に心に刻もうと思った。


       ◇


「これより当カヌーは石垣島目指して加速いたします。危険ですのでしっかりとシートベルトを確認してくださ~い」

 俺の声が風に乗って響く。

「はいはい、シートベルト……ヨシッ!」

 ドロシーは可愛い声で安全確認。俺は思わず微笑んでしまう。

 俺はステータス画面を出す。

「燃料……ヨシッ! パイロットの健康……ヨシッ!」

 そしてドロシーを鑑定した。

「お客様……あれ? もしかしてお腹すいてる?」

 HPが少し下がっているのを見つけたのだ。俺は少し心配になる。

「えへへ……。ちょっとダイエット……してるの……」

 ドロシーは恥ずかしそうに下を向く。

「ダメダメ! 今日はしっかり栄養付けて!」

 俺は足元の荷物からおやつ用のクッキーとお茶を取り出すと、ドロシーに渡した。

「ありがと!」

 ドロシーは照れ笑いをし、クッキーをポリっと一口かじる。そよ風になびく銀髪が陽の光を反射してキラキラと輝いた。

「うふっ、美味しいわ! 景色がきれいだと何倍も美味しくなるわね」

 ドロシーは幸せそうな顔をしながら街を見回す。

「そうだね……」

 俺もクッキーをかじり、芳醇な甘みが広がっていくのを楽しんだ。俺の場合はドロシーと食べるから美味しいのだが。

 ドロシーがクッキーを食べている間、ゆっくりと街の上を飛び、城壁を越え、麦畑の上に出てきた。

 どこまでも続く金色の麦畑、風が作るウェーブがサーっと走っていく。そして、大きくカーブを描く川に反射する陽の光……、いつか見たゴッホの油絵を思い出し、しばし見入ってしまった。

「美味しかったわ、ありがと! 行きましょ!」

 ドロシーが抱き着いてくる。俺は押し当てられる胸に、つい意識がいってしまうのをイカンイカンとふり払った。

「それでは行くよ~!」

 防御魔法でカヌーに風よけのシールドを張る。この日のために高速飛行にも耐えられるような円(すい)状のシールドを開発したのだ。石垣島までは千数百キロ、ちんたら飛んでたら何時間もかかってしまう。ここは音速を超えて一気に行くのだ。

 俺は一気にカヌーに魔力をこめた。グン! と急加速するカヌー。

「きゃあ!」

 後ろから声が上がる。

 カヌーを鑑定すると対地速度が表示されている。ぐんぐんと速度は上がり、あっという間に時速三百キロを超えた。

 景色が飛ぶように流れていく――――。

「すごい! すご~い!」

 耳元でドロシーが叫ぶ。

「ふふっ、まだまだこれからだよ」

 しばらくこの新幹線レベルの速度で巡行し、観光しながらドロシーに慣れてもらおうと思う。


 コンパスを見ながら川沿いに海を目指すと、ほどなくして海が見えてきた。

 青く広がる水平線にキラキラと煌めく太陽の光――――。

「これが海だよ、広いだろ?」

 俺は後ろを向いた。

 ドロシーは身を乗り出し、俺の肩の上で叫んだ。

「すご~い!!」

 目をキラキラと輝かせながら海を眺めるドロシー――――。

 つれてきて良かったと俺は心から思った。

 それにしても、日本だったらこの辺に中部国際空港の人工島があるはずなのだが……、見えない。単純に地球をコピーしたわけではなさそうだ。その事実に、俺は改めてこの世界の不思議さを感じた。

 俺は海面スレスレまで降りてきてカヌーを飛ばす。新幹線の速度でかっ飛んでいく朱色のカヌーは、海面に後方乱気流による水しぶきを放ちながら南西を目指す。

 ドロシーは初めて見る水平線をじーっと眺め、何か物思いにふけっていた。

 どこまでも続く青い水平線……、十八年間ずっと城壁の中で暮らしてきたドロシーには、きっと感慨深いものがあるのだろう。その思いを想像すると、俺の胸に温かいものが広がった。

「あ、あれ何かしら?」

 ドロシーが沖を指さす。その声に、好奇心と驚きが混ざっていた。

 見ると何やら白い煙が上がっている――――。

「どれどれ……」

 鑑定をしてみると、

マッコウクジラ  レア度:★★★
ハクジラ類の中で最も大きく、歯のある動物では世界最大

 と、出た。

「うっひょー! クジラだ! 海にすむデカい生き物だよ」

 クジラなんて俺も初めてである。

「え、そんなのがいるの?」

 ドロシーは聞いたこともなかったらしい。

 俺は速度を落とし、傾いてゆっくりと旋回しながらクジラの方に進路をとった。

 やがて(あお)く透き通った海の中に長く巨大なマッコウクジラの巨体が悠然(ゆうぜん)と泳いでいるのが見えてきた。その長さはゆうに十メートルを超えている。

 デカいーーーー。

 その光景に、俺とドロシーは息を呑んだ。

 そばに小型のクジラが寄り添っている。多分、子供だろう。

 まるで太古の昔から変わらない自然の営みを目の当たりにしているかのようだった。クジラの悠々(ゆうゆう)とした泳ぎに、時間がゆっくりと流れているような錯覚さえ覚える。

「ねえ、ユータ……」

 ドロシーの澄んだ声が、風に乗って耳に届く。

「なぁに?」

「こんな世界があったなんて……私、知らなかった」

 その言葉に、心が温まってくる。ドロシーの目に映る世界の広がりを、俺も同時に感じているような気がした。

 二人は言葉を交わさずに、ただその瞬間を共有していた。海の匂い、潮風の感触、キラキラと輝く海面――――。全てが新鮮で、心に深く刻まれていく。

 俺は静かにカヌーを操縦し、クジラたちの邪魔にならない距離を保ちながら、この奇跡的な出会いをできるだけ長く楽しもうと思った。

「本当に大きいわぁ……」

 嬉しそうにクジラを見つめるドロシー。

「歯がある生き物では世界最大なんだって」

 俺は知識を披露しながら、ドロシーの反応を楽しんでいた。

「ふぅん……あっ、潜り始めたわよ」

 クジラはゆったりと潜っていく……。その優雅な動きに、二人は息を呑んだ。

「どこまで潜るのかしら?」

「さぁ……、深海でデカいイカを食べてるって聞いたことあるけど……」

 などと話をしていると、急にクジラが急上昇を始めた。その突然の変化に、俺の心臓が跳ね上がる。

「え? まさか……」

 クジラはものすごい速度で海面を目指してくる。その迫力に、俺は思わず身構えた。

「え、ちょっと、ヤバいかも!?」

 クジラはその勢いのまま空中に飛び出した。二十トンはあろうかという巨体がすぐ目の前で宙を舞う。巨大なヒレを大きく空に伸ばし、水しぶきを陽の光でキラキラと輝かせながらその美しい巨体は華麗なダンスを披露する。その光景は、まさに圧倒的なアートだった。

「おぉぉぉ……」「うわぁ……」

 圧倒される二人……。その瞬間、時が止まったかのようだった。

 そのまま背中から海面に落ちていくクジラ――――。

 ズッバーン!

 ものすごい轟音が響き、盛大な水柱が上がる。それをまともにくらったカヌーは小さな木の葉のように揺さぶられた。

「キャ――――!!」

 俺にしがみついて叫ぶドロシー。

 シールドは激しく海水に洗われ、何も見えなくなった。シールドがなかったら危なかったかもしれない。

「はっはっは!」

 俺は思わず笑ってしまう。壮大なクジラのジャンプに洗われる、そんなこと全く想像もしていなかったのだ。

「笑いことじゃないわよ!」

 ドロシーは怒るが、俺はとても楽しかった。想像もできないことが起こる、これが人生。まさに生きているという実感が俺の心を熱くさせる。

「クジラはもういいわ! バイバイ!」

 ドロシーは驚かされてちょっとご機嫌斜めだ。その表情に、俺は思わず微笑んでしまう。

「ハイハイ、それでは当カヌーは再度石垣島を目指します!」

 俺はコンパスを見て南西を目指し、加速させた。カヌーが海面を滑るように進み始める。

 ブシュ――――!

 後ろで盛大にクジラが潮を吹く。まるで挨拶をしているみたいだった。その音に、俺とドロシーは振り返り、思わず笑みを交わした。