「お昼ご飯、食べていくね?」
「うん。食べるって」

 詠よりも先に返事した響は、靴を脱いでタイル地の床の上を滑らせながら端に寄せた。

「じゃあばあちゃん、頑張って作らんと。ほら、そんなとこ立ってないで、入っておいで」

 詠は引き戸を閉めると響と同じ様に靴を脱いで丁寧に端にそろえ、響の祖母を振り返った。

「あの、詠です。……お邪魔します」

 頭を下げると響の祖母は「詠ちゃんね。礼儀正しい子ね」と言って嬉しそうに笑った。響は振り返って待っていたが、詠が挨拶し終えた事を確認すると廊下を左に曲がった。詠は速足で歩いて響を追いかける。

 突き当たって右に曲がった廊下の左手は縁側。ガラスを通過した太陽の光が廊下全体に溢れている。すぐそばに立っている木を風が揺らすたびに、廊下の木目に落ちた影も淡く揺らめいた。

 その廊下は、自然の恩恵を余すことなく受けて飽和している。
 今まで見たどんな景色よりも幻想的で、綺麗だった。

「きれい」

 詠は思わずそう呟いて廊下に足を踏み入れてみる。隙間のあいた木陰が廊下から詠のむき出しの足に、それから服に移った。

 太陽の光を浴びた足も、廊下を踏みしめた足の裏もじわじわと温かくなる。

 響は詠が息を呑むほど幻想的な空間には何も思う事がないらしい。彼はさっさと手前の障子を開けて広い和室に入って行った。部屋の向かい側は襖になっていて、右手の床の間には掛軸や置物がある。

「そういえば、家の人に連絡しとかなくていいの?」
「そうだ! 忘れてた!」

 心配しているかもしれない。一度帰った方がいいのだろうか。そんなことを考えながらあたふたする詠とは対照的に、響は冷静な様子で立ち上がった。

「電話しておいた方がいいね」

 響は入ってきた障子とは真逆にある襖を開けた。隣もまた畳張りの和室になっていて、テレビや背の低いテーブルがある。どうやら茶の間のようで、テーブルと色を合わせた棚には皿や小さな置物などがあった。

 茶の間の左手の襖は開け放たれていて、キッチンが見えた。キッチンというよりは台所という表現がよく似合う。響の祖母が二人に背を向けて料理していた。パチパチとも、シュワシュワともいえる音が絶え間なく聞こえる。

 台所の端には背の高い小さな台に乗った固定電話と、目の前の壁には酒屋の名前の入ったカレンダー。カレンダーの周りを、直接画鋲で打ち付けたメモや電話番号が無造作に埋め尽くしていた。

 響が声をかけると、響の祖母はすぐに固定電話の乗っている背の高い台の下から〝電話帳〟と書かれた赤い表紙の縦開きの冊子を出した。所々が擦り切れて、年季が入っている。どうやら五十音順で電話番号が手書きで記載されているらしい。響の祖母が指さした所には「サキムラさん(旅館)」の文字と電話番号が書かれていた。

 詠は電話をかけて響の家でお昼をご馳走になることを伝えた。電話口の祖母が響の祖母に代わってほしいと言うので、詠は料理中の響の祖母に話しかける。

「いいえー。大したモンじゃありませんから。……ええ、ええ。詠ちゃんはいい子ですね」

 壁に向かってゆっくりとした動きで丁寧にお辞儀をする祖母をよそに、響は冷凍庫から水色の棒付きアイスを二本取り出して肘で冷凍庫を閉めると、詠の元に戻ってきた。

「行こう、詠。大人の話は長いから」

 響はさっさと客間を通り過ぎて、廊下と外の間にあるガラスの引き戸を開け放つ。外に足を放って座り込み、詠が隣に座った事を確認してアイスを差し出した。
 豪快に袋を破ってから頬張ったアイスが口の中で溶けていく。

「暑いな」
「暑いね。……響は冬と夏、どっちが好き?」
「断っ然、夏!」
「なんで夏が好きなの?」
「何もしなくても風呂入ったみたいに汗かいて、夕方にはなんかぐだった感じで疲れて。で、風呂入ってさっぱりして、扇風機の前を占領してアイスを食べる。で、ちょうどいい感じに疲れてるなーって思いながら寝るのがいいんだよ」

 あっという間にアイスを食べ終わった響は、破けて袋の役割を果たしていない透明の袋に棒を突っ込んだ。

「詠は?」
「私は冬かな」
「なんで?」
「だって、汗かかないし。身に着けるものいっぱいだと、おしゃれできるし」
「ふーん」

 自分から聞いておいて、響は興味なさげにそういう。

「じゃあ、響は学校に好きな人いる?」
「……いない」
「えっ、絶対いるじゃん! 誰? どんな人?」
「言ったってわかんないだろ。……って言うか別に、多分好きって訳でもないよ。好きって言われたから、なんか変に意識してるだけだし」

 響は照れることも嬉しそうな様子も見せずに、ただ冷静な様子で言った。

「なんかつまんない」
「自分で聞いといて……」

 呆れた様子の響の恨み言は、詠の耳をすり抜ける。

 しばらく他愛もない事を話していると、響の祖母が二人を呼ぶ声が聞こえた。台所に移動すると、ダイニングテーブルの上には大きなお皿に乗ったたくさんの天ぷらと、そうめんが置いてあった。

 二人はそれを慎重に客間に運ぶ。
 しっかりと「いただきます」と手を合わせた後、詠はイカの天ぷらをめんつゆに付けて頬張った。衣はサクサクなのに、中のイカは弾力があって柔らかい。

「天ぷらってこんなに美味しかったっけ」
「あらー嬉しい。いつでも食べにおいでね」

 響の祖母はそう言うと、客間から出て行った。詠は夢中で食べ進めた。大きなお皿にあった天ぷらもそうめんもあっという間に無くなった。

「響のおばあちゃん、美味しかったです。ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」

 二人は茶の間でテレビを見ている響の祖母の後ろを通りながら、食べた皿を台所に運んだ。

「はいはい。流しに置いとけばいいからね」

 響の祖母は少し声を張るが、その頃にはもう響は皿にスポンジを押し当てていた。

「俺が洗うから、詠は流して」
「うん、いいよ」

 詠は響の隣に並ぶと、響から回ってくる泡だらけの皿を冷たい水で流した。

「油はお湯の方が落ちるんだよ」
「へー。そうなんだ」

 響はスポンジを置いて蛇口の方向を自分の方へと向けると、お湯を出した。そして温度を確認した後、再び詠の方へと移動させる。皿洗いはあっという間に終わった。いつの間にか響の祖母は茶の間と台所の間に立っていて、優しい笑顔を浮かべていた。

 その後は二人でもう一度神社に行って鬼ごっこをしたが、結局詠は、一度も響に追いついて触れる事ができなかった。

「明日も遊べる?」

 そう聞いたのは意外にも響の方。

「うん、遊べるよ!」
「じゃあ、また明日。あの神社で」

 それから残りの日は、朝からずっと響と一緒にいた。祖父母が二人分の弁当を持たせてくれることもあれば、響の祖母が作ってくれることもあった。飽きる事なく遊び、他愛もない話をした。

「明日には帰るんだっけ?」
「うん、そう。明日の朝には帰るの」

 道路から神社まで真っ直ぐに田んぼを裂く畦道を並んで歩きながら、別に寂しそうでも何でもない口調で言う響に、詠は名残惜しい気持ちを隠さずにそう言った。

 夕日が辺りをオレンジ色に染めている。頭上を飛び交うトンボと、意識すれば思い出した様に聞こえてくる、セミとカエルの声が詠をどこか切ない気持ちにさせた。

 二人はこの数日でルールを決めた。
 畦道から舗装された道路に切り替わる所で別れるというルール。

 道の終わりは、もうすぐ来る。
 詠はこれからしっかりと舗装された道路を歩いて、祖父母の待っている旅館に帰る。響は今来た道を戻って帰る。

話したい事、聞きたいことは今ここで口にしておかなければ、少なくとも来年までは会う事が出来ない。


「ねえ、響。来年も会える?」

 詠はそう言いながら響を見た。

「会えるよ」

 響は自分の足元を見ながら、返事をする。

「じゃあまた、あの神社で待ち合わせ」
「本当? 本当に、待っててくれる?」
「待ってるって。詠こそ、ちゃんと来るの?」
「うん。来る。来るよ、絶対」
「じゃあ俺も、絶対待ってる」

 響がそう断言しても、詠は不安を消すことができなかった。

 響と過ごした一週間、詠はずっと〝自分〟のままでいた。わがままもたくさん言った。詠にとってそれは、五年分を詰め込んだくらいのわがまま。
 響は文句をいいながらも詠の意見を尊重し、出来ないことは出来ないとはっきりと断り、その理由を説明して詠を説得した。

 大きく変わった。自分は一体、東京で大人たちに向かってどうやって作り笑いをしていて、どう気持ちに整理をつけてあの寂しい家で過ごして、どんな心持ちで仕事をしていたのかわからなくなるくらいには。

 帰りたくない。響と一緒にいたい。
 そうおもって俯いている詠に、響は自分の小指を差し出した。

「不安なら指切りくらいしてやってもいいよ」

 どこか上から目線でいう響にひと文句を言う事も忘れて、詠は響の小指に自分の小指を絡めた。

「また来年」
「……うん、また来年」

 響に釣られて、詠も同じように呟いた。
 二人はどちらからともなく小指を離して、それぞれの道を歩いた。詠は何度も何度も来た道を戻る響を振り返ったが一度として彼が振り返ることはなく、当然、目が合う事はなかった。

 もうすぐ、夏が終わる。