虫が多くて窓を開けることができないから、薄く曇ったフロントガラスと自分たちに当たるようにクーラーを設定してから走り出す。

 咲村旅館に戻ってきた後、駐車場に車を停めて歩いた。
 畦道を神社の方向へ、スマートフォンで足元を照らしながら。

 夜の神社はまるで何かを待って息を潜めているみたいに静かで、昼間よりももっと明確に存在を示していた。

 ろうそくを石灯篭の中において行く。
 一つずつ、石灯篭に火がともる。

 夜をぼんやりと照らす光は一つでは心もとなくても、全てに火がつけば、それはしばらく人の視線を釘付けにする理由になる。

 異世界を舞台にしたテーマパークに訪れた時と同じ感覚。
 自分の常識とは違う世界の形を見ている。
 まるで、魔法で作られた世界にいるみたい。

「綺麗だね」
「うん」

 響がぼそりと呟いて、それに詠が返事をする。響が花火を手に持つから、詠は柄が長いライターで響の持つ花火の先に火をつけた。
 シュワシュワと爆ぜる音がする。

「なんかコレ、勢い凄い」

 響の持っている花火は先から勢いよく火を噴き出していた。

「本当だ! 私もやりたい。どの花火?」
「赤いのに黄色いヒラヒラが付いてるヤツ」

 言われた花火を手に取って、響の花火に合わせる。
 火が移って間もなく、爆ぜる音が段々と大きくなり、それから連続して一つの音になると同時に、勢いよく噴出した。

「おお、すごい!」

 詠は勢いよく噴き出す火を小さく振り回した。
 たくさん買ったはずの花火はあっという間になくなってしまう。

「勝負するしかないでしょ」

 線香花火を片手に言う詠に、響は笑う。

「言うと思った」

 線香花火に火をつけた。
 二人で背が縮んでいく線香花火を見つめる。
 こんな時の二人は、いつも真剣で。

 先にポトリと中核が落ちたのは、響。

「響……」
「……なに?」
「弱くない?」

 そう言うと響は少しむっとした表情をして、新しい線香花火を取り出した。
 詠の持っている線香花火が終わると、響はさっさと次を差し出した。

 しかし次も、響の線香花火が先に終わる。

「……手加減してやろうとか思わないの?」
「勝負に手加減とかないから」

 今まで散々してやられたことを思い出した詠は、何度も響に言われた言葉をやっと彼に返した。

 線香花火も終わってしまった。

 だからもうそろそろ、この魔法を解かなければいけない。

 二人は一つずつ石灯篭の火を消した。吹き消しても名残る火を見て、このままずっと消えなければいいのにと思った。
 最後の火を消し終えると、神社はまた息を潜めて元通り。

 別れの畦道を、手をつないで歩く。

 子どものころは何も考えていなかった。
 会えない季節さえ愛しく思って、だけどいつの間にか、会えない時間が苦しくなった。

「響はさ」
「うん」
「私と一緒にいたかった?」

 明るい声で、何の気もないみたいに問いかける。

「一緒にいたかったって、何回も思ったよ」

 空白の夏を少しでも、ほんの少しでも響で埋めたくて。
 それはきっと、お互いさま。

「もしあの時気が付かなかったら。せめてもう少し遅かったら。詠は引退してこの田舎に来てたのにって。だけど、早く気付いてよかったとも思ったよ。だって詠はいつも、一人で生きて行こうって必死だった。この場所はきっと、詠にとっては今までとは違う世界だから」

 響はそこまでわかってくれていたんだ。
 そう思うとやっぱり、二人は似た者同士で。お互いの事をよく分かっている。

 どんな選択をしてもきっと、二人の未来は変わらなかっただろう。
 だからこれから二人は、せめて間違っていないはずの選択肢を選ぶ。

「詠、俺さ」
「うん」
「多分来年の夏までは生きていられない」

 心臓がねじれるような音が、大きく一度だけ自分の中に響く。

 もうまもなく、跡形もなく、魔法は解けてしまうのだと思った。

「だからダメだよ。夏以外の季節に、ここに来たら」

 詠はゆっくりと息を吐いた。
 詠はいつも通りを装って口を開く。

「また夏になったら、ここに来るよ。しばらくは来られないけど」
「じゃあ幸せになったら、会いに来て」

 響は手を繋いだまま一歩先を歩きながら、そういう。

「俺がいなくても今幸せだなって思えるようになったら、俺に会いに来て」

 残酷なことを言う。
 響のいない世界にはきっと意味なんてなくて。
 だけど響は、意味を見つけて生きろと言うんだから。

「……幸せかどうかなんて、わからないよ」
「大丈夫だよ」

 響はそう言うと、握っている詠の手を少し強く握った。

「じゃあ私が幸せになって会いに来たら、響はあの神社で待っててくれる?」

 少し震える声で、でも笑顔を作って問いかけた。

「俺さ、学校帰りにシロツメクサが咲き始めるのを見るのが楽しみだった。詠に会える季節が少しずつ近付いてるんだって思って。夏休みの時期になったら、朝から詠を待ってたよ。夏休みの真ん中の昼過ぎに来ることなんてとっくにわかってるのに、もしかしたら早く来るかもしれないって思って待ってた」

 それはいつか響が、恥ずかしがって隠したがった事実。

「だから俺はずっと、夏を待ってるんだと思う」

 いつも違う場所で、いつも二人で、夏を待っていた。
 もう二度と、二人の知る夏は来ない。
 だから。

 詠は握っている響の手をはなした。
 響は大して驚いた様子も見せずに、詠の方へと振り返った。

「響!」

 だから、夏が消える前に、どうしても刻み付けたくて。

「響が私の事どう思ってるか、まだ一回もちゃんとした言葉で聞いてない!」

 この思い出がいつか美談になるくらいなら、呪いのような苦しみでいい。

「どう思ってる? 私の事」

 刻み付いて残るものが、死ぬまで癒えない傷でいい。
 それでもいいから、この夏を何度も、何度でも思い出したい。

「詠」

 響は全部吹っ切れたみたいにそう言って、笑う。

「好きだよ」

 綺麗な顔で笑って響が言う。詠は飛びつくみたいに、響に抱き着いた。

「私も大好きだよ、響」

 目の前に迫った別れが来ることさえ、まるで嘘みたいに思えて。

 きっとこれから先の人生で、これほど心が満たされる事はない。
 そしてきっとこれから先の人生で、これほど離れがたい瞬間を迎える事はない。

 ひとつだけ願いが叶うなら、二人で一緒に消えるみたいに、この夏の真ん中で死んでしまいたい。
 そう思っている事を、誰か優しく叱ってほしい。

 だけど大切な響と約束をしたから。
 響が応援してくれた〝咲村詠〟に戻らないといけないから、もうお別れ。

 だからそろそろ、詰め込んだ夏に自分でふたをする。

 詠は最後に目を閉じて、響の温かさに身を委ねて、それから背伸びをして、キスをした。

 浮かび上がってくるのは、途方もない響への感謝。
 だけど〝ありがとう〟という言葉は、悲しすぎて。

「またね」

 いつも通りの別れの言葉。
 しかし自分の鼓膜を通ってから、その言葉は〝()()会おうね〟という意味の言葉なのだと頭をよぎる。

 それはもう二人の最後を結ぶには足りない言葉。

 普段使う言葉の意味なんて、こんなことにならなければ考えもしなかっただろう。

 詠は響から身体をはなして、正面から真っ直ぐ響の目を見た。
 それから詠は小指を差し出す。

「ちゃんと待っててよ」

 そう言うと響は笑って小指を差し出し、詠の指と絡めた。

「うん、待ってるよ」
「おやすみ、響」
「うん。おやすみ」

 詠は畦道を跨いで、アスファルトを踏みしめた。
 指の感覚が、はなれる。

 途端に胸の内の穴がむき出しになったことに、詠は気付かないふりをした。
 いつも歩く帰り道を、振り返らずに歩いた。

 振り返ってしまうと。外の景色に気をやってしまうとどうなるか。自分が一番よく分かっていたから。

 今日一日を思い出して時には笑顔を浮かべながら道を歩き、それから車に乗り込んだ。
 アクセルを踏んで、東京に向かって車を走らせた。

 見慣れた景色をなるべく映さないように前だけを見る。
 見慣れない道に入ったころ、ふいに吸った息が喉元で震えた。

 詠は路肩に車を停めて、ハンドルに額を預けた。
 涙は今か今かと外に出る事を待っているみたいに溢れて、押し寄せて、留まることを知らない。

 夢から覚めた。
 魔法は解けた。

 でも疼く胸の痛みが、夏を証明している。