今日もまた、あの夏の真ん中で死にたいと思った

 ――生涯、胸の中にしまっておくと決めた記憶がある。
 それは、夏という季節にだけ縛られた思い出。
 この場所で起きた出来事の全て。
 ひと夏を幾重にも重ねて彩った日々の事。

 住み慣れた都会のように太陽光を遮るものはなにもない。
 だだっ広い田園を真っ直ぐ裂くように山へ続く車道を左折して、港町の方向へ。左手にはバス停。その奥には田んぼと古い小学校。右手には山の(ふもと)まで続く田園と、いくつかの家。田園をまっすぐに割いて山の麓まで伸びる畦道の先にある、木々に埋もれそうな石造りの鳥居。

 乗っている車がこれから辿る道を、(うた)は先回りして頭でなぞった。

 今、すべてを思い出す。
 底の見える美しい川の水面を魚が叩いた飛沫。川水の冷たさ。海水の生ぬるさ。人間同士が作る沈黙の隙間を埋めるカエルとセミの鳴き声と、涼しい風鈴の音に、凪打つ草の囁き。

 小学校で行われる小さな祭りの後、月明かりとスマートフォンのライトを頼る夜。
 大人になった今はもう隣にいない〝彼〟が、小指を差し出した。

 ――生涯、胸の中にしまっておくと決めた記憶がある。

 それは、東京に帰って誰かに話した途端に全て消えてなくなってしまうのではないかと思うほど夢のようで。当時の詠にとっては、何もかもが非日常だった風景。

「天気がいいね」
「そうだね。凄く気持ちいい」

 助手席に座っている詠は、隣でワンボックスカーを運転する秋良(あきら)の声を聞いて、彼の方へと視線を向けて返事をした。

「こんなに天気がいい日は、思い出すなぁ。ママと出会ったのもな、こんないい天気の日で、」
「パパ。もうその話聞き飽きたよ」

 爽やかでよく通るアキラの声をさえぎって後ろから不満な様子を隠さずに言うのは、今年で小学校5年生になる詠と秋良の娘、秋音(あきね)だ。

 秋良はしっかりと両手でハンドルを握って前を見たまま口を開く。

「そんな意地悪な事言わないで聞いてよ。これが親孝行だと思って。何回でも」
「毎回毎回同じ話聞かされる私の事も少しは考えてよ」

 はっきりとそう言い切る秋音に秋良は「ええー」と言いながら落ち込んだ様子を見せる。

 少し前まで一人では何もできなかったのに、いつの間にか親に自分の意見を正面からぶつけられるまで成長していることに嬉しくなる。しかし言い方には気を遣うように言わなければと思って、車の窓越しに田舎の景色を眺めた。

 最後にこの田舎の景色を眺めてから時が流れて、誰かの妻になり、それから母親になった。

「あ、お義母さん! お義母さんは初めてですよね。詠と出会った日の事を聞くのは」

 秋良は話し相手の大人を見つけた子どものように嬉しそうに声を張る。

「そうね。聞かせてちょうだい、秋良くん」

 詠の母、菫は助手席に座る詠の後ろから穏やかな声で返事をする。菫の隣に座る秋音はげんなりとした顔をした後、背もたれに深く身体を預けてこの日の為に取り付けた後部座席用のモニターで出発時から垂れ流しにされている連作映画を見ていた。

「俺がまだ気ままに世界を見て回っていた時の話です。アメリカで凄く気持ちのいい朝を迎えて、気分がよかったからコーヒーでも飲もうとカフェに向かったんです。そうしたら、そのカフェからコーヒーを片手に持った詠が出てきたんですよ! 髪を払いながら、うつむいていて……。それにとにかく凄く惹き付けられたんですよ。なんだか光に照らされているような。周りの全員が脇役みたいな。神様、みたいな。オーラ、みたいな感じで」

 語彙力の欠如とはまさにこの事だと思ったが、詠はそれを口に出さないまま、ほんの少し顔を後部座席の方へと向けた。

「いっつも大げさなの」
「いや、本当なんだって。芸能人って本当にオーラあるんだなーって思ったんだよ」
「ママが芸能人だって知らなかったくせにー」

 秋良の言葉を聞いた秋音は、待っていましたと言わんばかりに身を乗り出す。

「後から納得したって話だよ!」
「ええー? 俺最初から知ってましたーみたいな感じにしたかったんじゃなくてー?」

 小生意気な秋音の言葉に苦笑いを浮かべる詠の隣で秋良は「違うよ!」とムキになっている。

「こんなに大切にされて、幸せね。詠」

 菫は後部座席から、詠にぼそりと呟く。
 それは今、目の前で繰り広げられている幸せに対する、精一杯の祝福のよう。

 暑い季節が来た。
 ここ最近は子どもが外で遊ぶ様子を見ることも減った。

 子どものために作られた公園は、なんだか寂しそうだ。
 自分たちが子どもの頃の夏とは随分と変わってしまった。

 この田舎で過ごした夏はもうずいぶん前の事で、夫の秋良にも娘の秋音にも関係のない話。
 それでもこの場所に行こうと詠が二人に提案したのは、一つの区切りをつけたかったから。

 強いて理由を挙げるなら、娘の秋音が〝彼〟と出会った自分と同じ年齢になったから。

 秋良は口にはしないが自分との間に明確な一線を引いている事を彼は気付いているだろうと、詠は思っていた。

 二人の間にはいつもほんの少しの距離がある。それは意識しないと触れられない程の距離。
 でも、明確に縮まらないと分かる距離。

 それは娘の秋音も気付いていて、秋音はその距離感を面白がって〝ママの秘密主義〟という名前を付けて呼んでいた。

 でもきっと、今日でその〝ママの秘密主義〟も終わる。
 そうしたらきっといつか思い描いたような家族になれるはずだ。

 ――生涯、胸の中にしまっておくと決めた記憶がある。

 心の奥の奥から引っ張り出した記憶の中で、〝彼〟の顔が浮かぶ。

 バス停を背に畦道を駆け抜けて、石造りの鳥居をくぐって境内に入る。息を整えながら見上げた先の石段の真ん中あたり。

 石灯篭に背を預けて待つ(きょう)が本から視線をそらして優しい顔で笑う、あの夏の日のこと。
 小学5年生、夏。

 詠は小学校が夏休みに入って祖父母の住む田舎へと向かう為、一人で新幹線から二度電車を乗り換えて、それから長い時間揺られていた。
 ずっと同じ景色を見ている。そう思いながらも詠は、車窓から海や田んぼや山の見慣れない景色をなぞった。

 電車が進むにつれて、人が少しずつ少なくなっていく。誰にも見つからずにここまで来られた事で少し気が緩んだ詠は深くかぶっていた帽子を少し上げた。

 詠にとって東京という場所は窮屈(きゅうくつ)だ。友達も、仕事も、日常も。全部全部、窮屈。
 田舎に来たのはほんの気まぐれ。次の映画で〝主人公が訪れる田舎に住んでいる子ども〟の役をする事になったから、ちょっと行ってみようかと思っただけ。

 母から聞いていた名前の駅に到着して、キャリーケースを引っ張って駅のホームへ出た。

 黒ずんだコンクリート。くすんだ白い木の壁の建物。ただの看板がおしゃれにさえ見える。
 山と、木と、草と。それから少しの花。空はこんなに広かっただろうか。

 何もない。お土産屋もなければ、駅員さえいなかった。
 駅のすぐそばにコンビニがあるが、そのコンビニ中でさえ誰もいない。

 ここが母の生まれ育った場所。
 太陽の光を遮るものがなく、よく風が通る。
 田舎は空気が美味しいというが、都会の空気との違いはよくわからない。代わりに風の違いを感じた。誰かの肌を撫でてにごった生ぬるい風ではなくて、さらりと乾いて通り過ぎるだけの、心地のいい風の感覚。

 顔を上げればビルの窓に太陽の光が反射して、下を向けばアスファルトが照り返す東京とは違い、太陽の光自体がいたるところに反射して、淡く眩しい。

「詠ちゃんね」

 聞きなれないなまった口調で呼ばれた方向を見れば、祖母と思われる人が嬉しそうに笑っていた。テキパキと動きそうな印象の60歳くらいの女性。

 母は詠の知る限り一度も帰省というものをしたことがない。当然祖母という立場の人に会うのはこれが初めての事で、どんな距離感で接したらいいのかよくわからないまま詠はこくりと頷いた。

「そうです」
「ずーっと会いたかったんよ。でも(すみれ)がね、『私も詠も仕事で忙しい』って言うて、全然帰ってこんから。でもテレビで見とったから、はじめましてって感じでもないね」
「いつもありがとうございます」

 詠は慣れた様子で嫌味もなく、さらりと流す。こうやって受け答えをする事にももう、慣れてしまった。
 自分は相手の事を全く知らないのに、相手は自分の事をよく知っている。もうそれが、当たり前。

「でもはじめまして。詠ちゃんのばーばです」
咲村(さきむら)(うた)です。二週間よろしくお願いします」

 舞台の稽古始めの要領でそう言って、詠はもう一度頭を下げた。

 祖母の運転してきた軽自動車に乗り込んだ詠は、助手席の窓から流れる景色を眺めていた。
 詠の住んでいる大都会、東京とはまるで違う。東京は眠らない。家の大きな窓から下を見下ろせば、いつだって明るく光っていた。この場所は一体、夜になるとどんな感じなんだろう。

「7歳の時やったかね。あの、ほら。時代劇の。主人公の子どもの頃の役をしたのは」

 大人はみんな、自分が演じたいくつかの役の中からその話ばかりをすることを詠は知っていた。

「そうです」
「あれはすごかったね~。ほかの子はいろいろおったけど、詠ちゃんが一番上手かった」

 身近な大人はみんな、同じことを言う。

「ありがとうございます」

 だから詠も、いつも通りに返事をする。祖母という立場の人間も、他人と大して変わりない事を話すのだと思った。

(すみれ)は元気ね?」
「はい。お仕事を凄く頑張っています」
「そうかね。いっつもこっちから連絡して、そん時に一方的な報告ばっかりしてから。あの子は小さいときから、一つの事に夢中になると他の事はなーんもできん子でね。お父さんも私も心配しとるんよ」

 確かに母は趣味でもドラマでも一度一つの事にハマると他の事には全く手が付かない性質があった。そんな集中力があったからこそ、離婚して幼い詠を抱えて本を書き、成功を収めたのだろうと詠は思っていた。

 母の性質は小さい頃からすでにあったのか。そう思うと、普段決して多くを語らない母の知らない部分に触れられた気がして嬉しかった。

「でも、自慢のお母さんです」
「……そうね」

 自分の母を誇らしく思う詠とは対照的に、自分の娘の話を聞いた祖母の口調はどこか暗い。

「菫に最後あったのは、詠ちゃんのお父さん連れてきた時やったな。その時にうちのお父さん……詠ちゃんのおじいちゃんと大喧嘩して。それで出て行ったきり。やめとけって言っても、聞く耳を持つ子やないから」

 なんだか深く聞いてはいけない気がして、詠は何も返事をせずにただ外を眺めていた。

 道の続きは、山に向かって真っ直ぐに伸びていた。その手前で左に曲がると、右手には山の(ふもと)まで大きな田んぼが続いている。いくつか家があり、奥には石で造られた鳥居が見えた。神社だろうか。左手にはぽつぽつと家があり、それからバス停。田んぼの少し奥には学校がある。

 絵に描いたような田舎の風景。所狭しと建物が並んではいないし、車が込んでいない。それ所か、ずっと一車線の道を走っているが、ほとんど車とすれ違わない。

 いつもとは全く違う景色に胸が高鳴る。見た事のない世界の入り口に足を踏み入れているような。

 詠の祖母は移動中ずっと、上手に演技して凄い、ご近所さんに自慢している、と詠に話して聞かせた。

 俳優、役者という仕事は、そして子役という立場は窮屈だ。
 知らない人から「詠ちゃん」「詠ちゃん」と声をかけられる日々。学校の帰りだろうが、買い物をしている最中だろうが関係なくそれは訪れる。

 撮影が入って学校を休むと、友達からはズルいと言われる。それが少し誇らしくもあり、同時に学校になじめない原因でもあった。

 道を真っ直ぐに進んでいると、分かれ道で先ほどよりも少し細い道に入る。商店街のようだが、〝〇〇通り〟と書いてあるよく見るアーチはない。
 昔ながらの建物がお行儀よく整列していた。いくつかの建物は店の名残を残しながらも一階にはシャッターを下ろしている。現在は店を閉めて住居として利用しているのかもしれない。

 車は商店街の中の細い道を右に曲がってほんの少し坂を上がり、広い駐車場の一角で停まった。
 詠はシートベルトを外して外に出た。大きく鼻から息を吸い込んでみてもやはり空気が美味しいという感覚は分からなかったが、かすかに潮の香りがする。

 詠の荷物を持ってくれる祖母について歩き、車で上がってきた小さな坂を下る。そして道を挟んで向こう側にある小さな旅館の中に入った。

 建物の中は少し古いが、綺麗に整頓されていた。和と洋が混じっていて、昼ドラサスペンスの温泉回でよく見る印象的な作りだった。

「お父さん。詠ちゃん」
「おーおー、詠ちゃんね。よう来たね」

 カウンターに座っていた男性は立ち上がると、嬉しそうに笑ってこちらに向かって歩いてきた。長年一緒にいると似てくるのか、祖父母の笑顔はよく似ている。

「おじいちゃんね、詠ちゃん来るの楽しみにてたんよ。『あと何日で来るんかね』って」
「余計な事は言わんでいいから」

 祖母の言葉を制した祖父は祖父はしゃがんで詠と視線を合わせた。詠は思わず背筋を伸ばして、それから口を開く。

「はじめまして、咲村詠です。二週間お世話になります」
「はじめまして、詠ちゃん。……って言っても、はじめましてって感じはせんな」
「私と同じこといいよる」

 そう言って祖父母は笑い合う。母の顔は祖父に似ていて、気の強そうな印象は祖母に似ているのだと思った。

 階段を上がって二階に移動する。床や壁に織物を広く使った場所独特の埃のようなにおいに、下腹部を締め付けられる。このにおいは嫌いじゃない。
「お腹減ったやろう。少し遅いけど、お昼ご飯にしよう。荷解きしたら降りておいでね」

 部屋から出て行く祖父を見送った後、大した荷物は持ってきていなかった詠はキャリーケースを開くこともせずに畳を踏みつけて窓を開けた。

 建物の隙間をぬって、少し離れた所に漁港が見える。
 詠は先ほどよりも明確になった潮の香りを鼻から吸い込んだ。

 ここはいい。凄く気に入った。誰にも会わないし、隠れる必要もない。「思ったより背が大きいのね」なんて聞いてもいない評価をされたり、話しかけられたタイミングで急いでいてその場を去っても、「可愛くない」と言われたりしなくていい。撮影に差し支えるから日焼けをしないようにという理由で真夏に長袖を着ていたって、誰からも何も言われない。
 だって、誰にも会わないんだから。

 友達なんていらない。どうせ気を使うだけだから。
 そう割り切って、詠は大きく伸びをした。

 きっとこの夏は素晴らしいものになるに違いない。そんな予感に胸が高鳴っている。

 祖父に言われた通り、昼食の為に一階に降りるとエントランスの方が騒がしい。
 それは明確な、嫌な予感。

「ごめんね、詠ちゃん。俺とばーさん、詠ちゃんが来るのが楽しみでご近所さんに話したらみんな来てしまって」

 詠の心臓は一度だけ大きく音を立てた。
 気を抜いていた訳じゃない。ここは華やかな東京とは別の世界だと思いこんでいただけだ。

 誰から話かけられることなく、無理に笑顔を作ることなく、何をしなくても悪口を言われることもなければ、評価もされない。そんな世界だと思っていただけ。

 日本の表舞台、大都会東京とはあまりに違っていたから。

「みんな詠ちゃんの顔が見たいって。疲れている所、申し訳ないんだけど」
「わかりました」

 詠は笑顔を張り付けた。いつも通りだ。いつも通りにしていたらいい。ここでいい顔をしなければ、自分を育てた母が恥をかくことになるかもしれない。

 母の存在だけが詠の全て。
 詠の世界の中心は生まれてからずっと母だった。

 詠は小一時間エントランスにいて、ひたすら笑顔を振りまいていた。
 ウチの子と写真を撮ってほしいとか、何のドラマが好きだったという感想を聞いた。諦め切って生活をしている都会で話しかけられる事よりも苦痛だった。

 握手会が終わったのは時計が15時を指す頃。疲れてしまってお腹は空いていなかったが、用意してもらったものを食べない訳にもいかずにとっくに冷えた焼飯をレンジで温めて食べた。

 上機嫌な祖父母に向かって、詠は笑顔を貼り付け続けた。

 昼ご飯をたくさん食べた代わりに夜ご飯は少ししか食べられなかった詠は、さっさと自分の部屋に入って、今日という一日を頭の中でなぞる。

 新しい世界を見たようなあの気持ちは、どこに隠れてしまったのだろう。

 結局ここも、何も変わらない。
 知らない人に話しかけられて、冷えたご飯をレンジで温めて食べて。
 自分一人の部屋で一人きりで眠って。

 この場所では母が帰ってきた合図、鍵を開ける音さえ聞こえない。
 東京にいればその音は聞こえるのに。しかし音が聞こえても、母が何か言葉をかけていたわってくれるわけではないのだが。

 次の日から祖父母が交代でいろいろな所に連れて行ってくれた。とは言ってもすぐ近くに子どもが直接的に楽しめる施設があるわけではないので、漁港だったり商店街のお店だったり車で少し離れた所にある喫茶店だったり。

 ただそれが、楽しかったのかと言われればそうでもなかった。
 学んだことと言えば、田舎という場所は人との関りが多くて深い繋がりがあるのだという事。少し歩けば顔見知り。詠は自分のマンションの左右に住んでいる人の事さえ、ほとんど知らない。

 祖父母は悪い人たちではない。本当に自分が来るのを楽しみ待っていてくれたのだという事を詠も理解していた。
 いろんな話を聞きたがって、少し外に出るときにも詠を連れて行きたがった。

 田舎生活も折り返しに突入した今日は、山の(ふもと)にある小さな神社の清掃の日らしい。

 神主が亡くなってから、地域の人が交代で清掃しているそうだ。朝の8時()集合らしく、どうしてそんなに早い時間の集合でしかも〝頃〟なんて曖昧な表現なんだと、都会で生活している感覚とこの場所の感覚はずいぶん違う事に驚いた。

 二人で行こうと話をしていた祖母は、当日の早朝に腰を痛めた。重い物を持ち上げようとして痛くなったそうで、ご近所さんの目もあるので誰かが行かなければならず祖父が行くと言い出したが、それでは旅館が回らない。

 別に旅館にいてもなにかすることがあるわけではないので、詠は自分が行くと言った。それだけで「詠ちゃんはすごい」「えらい」「いい子」と褒められる。

 大人の明らかに子どものご機嫌を取るような、媚びた態度が嫌い。
 そして大人の言葉を素直に受け入れられない自分も、大嫌い。

 幸い、ここに到着する前に神社を見ていたので、道に迷う事は無さそうだ。
 商店街を抜けて、道をまっすぐに進むと右手にバス停が見える。バス停の少し奥に小学校があった。

 車道を挟んだ向かいには山の麓まで田んぼが続いていた。いくつか建物がある。詠は田んぼを割く畦道(あぜみち)を歩いた。正面にある石で出来た大きな鳥居が、だんだんと近付いて来た。

 鳥居の左右には竹で出来た柵。境内から伸びる木の葉が、風が吹くたびに竹に触れてさらさらと音を鳴らす。
 鳥居をくぐってすぐ、十段程の石段を上って少し歩くと、今度は長い石段があった。両端に等間隔で並ぶ石で出来た灯篭には、苔が生えている。灯篭の奥には大きくて高い木がいくつも生えていて、石段に影を作っていた。

 整列した石灯篭の中間あたりに、石灯篭に身体を預けて一人の少年が座っていた。

 同じくらいの年の子がいる。
 詠は身を固くしながら少年と目を合わせないように石段を上がった。

「こんにちは」

 詠がちょうど隣を通った時、少年は笑顔を作ることも仏頂面をすることもなく、ただ端的にそういった。

「……こんにちは」
咲村(さきむら)さん?」

 詠は名字を呼ばれて言葉に詰まった。詠の様子を見た少年は不思議そうに首を傾げた。

「違った?」
「そうだけど……なんでわかったの?」
「今日の神社清掃、ウチと咲村さんの所だから。……ここ、人来ないから。咲村さんの孫かなんかかなって。夏休みだし」

 何も答えない詠の態度を気にする様子もなく、少年は口を開く。

「で、咲村さんなの? 違うの?」
「そうだけど……」

 やはり少年は怪しげな詠の態度を気にする事はなく、立ち上がってズボンについた砂を払った。

「俺は藤野(ふじの)(きょう)。響でいいよ。名前は?」
「……私の事、知らない?」

 小さな声でそういう詠に、響は眉間にしわを寄せた。

「もしかして、会った事ある? ごめん、全然思い出せないんだけど……」

 詠は少しの間響を見ていたが、彼が嘘をついているようには見えなかった。

「……ごめん、私の勘違いだったみたい」
「そっか。それで名前、なんて言うの?」

 学校で〝咲村詠〟を知らない人はいなかったし、同じ年の子どもと友達を作ろうとしても芸能人であることがいつも邪魔をしていた。

 詠は嬉しい気持ちが内側から溢れて、笑顔になる。

「咲村詠! 詠でいいよ!」
「じゃあ、詠。さっさと掃除終わらせよう」

 響は優しい顔で笑ってそう言うと、石段を上がっていった。
 詠は響の後ろを歩く。

 詠の夏はこの日、この瞬間から始まる。
「誰もいないね。いい場所なのに」
「いつも誰もいないよ。大人はこの長い階段を上がりたがらないし、子どもは遊具がある小学校の校庭の方がいいって言ってる」

 響は木造の古くて小さな建物の戸を開けながら、平坦な口調で言う。
 響が開けた戸の中は物置小屋で、掃除道具が乱雑に置かれていた。蜘蛛の巣がいくつもあり、手入れがされていない事は一目でわかる有様だ。

 二人は落ち葉を掃き、古びた賽銭箱についた汚れを拭き取り、大きな岩くり抜いた様な手水鉢の底のぬめりを取った。
 掃除をしながら自分達の事を話した。もちろん詠は自分が芸能人である事や、母親が作家をしている事、父親がいない事も、世間一般の〝普通〟以外の事実は全て隠して。

 響の家はこの辺りで、神社へ来る前に見かけたバス停の向こう側にある小学校の五年生らしい。

「もう、飽きちゃった」

 詠はとうとう石段に座り込んだ。かれこれ二時間は掃除をしている。その間、響は文句ひとつ言う事もなくどこか嬉しそうに掃除をしていた。二時間、ずっと。

「何でそんなに楽しそうなの?」
「楽しそう?」

 響はきょとんとした顔で掃く手を止めて、石段に座り込む詠を見上げた。

「俺が? そんな顔してた?」
「してたよ。なんで? この後なにかご褒美があるとか?」
「何もないよ。どうせやらなきゃいけないなら、楽しくやろうと思ってたくらいで。……それが顔に出てたのかも」

 そう言うと響は眉間にしわを寄せて再び地面を掃き始めた。

「顔怖いよ」
「詠が余計な事言うから」

 響はほうきの棒を自分の肩に預けて、両手の人差し指を折りたたみ、第二関節で自分の眉間をぐりぐりと押してパッと顔を上げた。

「ダメだ。わからなくなった……」

 絶望したような、疲れたような。そんな表情で真剣に悩んでいる様子の響を見て、詠はゲラゲラと腹を抱えて笑った。

 いつも誰かの目があった。〝咲村詠〟という一人の役者として、芸能人として評価をされる。それは当たり前の事だと思っていた。いい子でいなければいけないと思っていた。印象が直接かかわる仕事を自分で選択した。

 他の誰でもない、母に認めてほしかったから。

 母親との距離がこれ以上開かないようにと常に考えて行動していた。それは今でも変わらない。変わらないのに、こんな風に誰かと冗談を言い合うこの空間が、堪らなく心地いい。

 響は〝咲村詠〟を知らない。
 この空間では、世間の評価も母の顔色も、何も気にしなくていい。

 世界が広がった様な、小さな希望を拾った様な感覚。
 何かが大きく変わる予感。
 いや、もう変わっているのかもしれない。

「よし、掃除終わり」

 石段の最後の一段まで掃き終わって神社をぐるりと見まわす響をよそに、詠は勢いよく立ちあがり、響が石段を上がってくるのを待っていた。

「疲れたね」
「詠ほとんど何もやってないけどね」

 掃除道具を戻した後、詠と響は二人並んで社殿に向かって手を合わせた。響が目を閉じている事を確認した詠は、同じように目を閉じる。

 神社に来る人達は、こうやって手を合わせて何をお願いしているんだろう。そう考えて詠は隣にいる響を盗み見たが、彼はまだ目を閉じていた。詠もそれに習って再び目を閉じる。

 お母さんと仲良くできますように。それから、芸能人だって事が響にバレませんように。

 心の内でさっさとそう告げて、目を開けると響は既に目を開けていた。詠と目が合った響は、石段に向かって歩いて行く。詠もそれに続いた。

「響はよく、ここに来るの?」
「うん。結構来るよ。学校からの帰り道だし、誰もいないから静かでいいし」

 静かなこの場所に慣れている人間は、東京の喧騒をどう思うのだろう。詠はまた響を盗み見た。穏やかな彼が大都会に紛れている様子は想像できそうにない。

「もう帰る?」
「帰ろうかなって思ってたけど、なんで? 遊ぶ?」

 当たり前のように問いかける響に、詠は思わず足を止めた。

「……いいの?」
「遊ぶのにいいとかなくない? 東京の人って、みんなそんな感じなの? 変なの」

 呆れたような口調で独り言の様にそう言った響は、立ち止まった。それから返事を聞くより前に詠の肩に触れると、石段を駆け下りた。

「じゃあ鬼ごっこ! 詠が鬼!!」
「……ちょっと!」

 詠が状況を整理してやっと口を開く頃には、響はもう石段を降り切っていて、鳥居の手前で右に曲がった。
 詠も急いで石段を降り切ってそれに続いたが、右側の道は緩やかにカーブしていて、響の姿はもう見えない。なるべくペースを落とさずに走ったつもりだったが、一向に響の姿は見えてこない。

 しばらく走ってたどり着いたのは、社殿だった。響は賽銭箱の前に座り込んでいる。鳥居から社殿へ続く道は正面の長い石段ばかりだと思っていた詠は、息を乱しながら今通ってきたスロープを振り返る。それから視線を戻すと、響はすでに立ち上がっていた。

「遅い」
「疲れた!」

 投げやりにそう言う詠は、手を膝にのせて前かがみになり呼吸を整えた。

「体力なさすぎ」

 そう言ってなんの警戒もなく近づいてくる響の肩に、手を弾ませるようにして触れた。

「タッチ。はい次、響が鬼ね」

 そう言いながら社殿から離れて石段を駆け下りた。

「は? ズルだろ、それ!」
「ズルじゃないもーん」

 なかなか憎たらしいと自分でも思う声を発しながら石段を駆け下りていると、すぐ後ろから響の足音がする。詠が石段の最後の段を踏みつけて数秒後、詠の肩を響の手が掴んだ。

「タッチ。はい俺の勝ち!」

 先ほどまでの上機嫌を全て引っ込めて詠は響を見た。

「ちょっとは女の子に手加減してやろうとか思わないの?」
「勝負に手加減とかないから」

 生来負けず嫌いの詠は、響のその一言で火が付いた。「絶対勝つから!」と響に宣戦布告をして、何度も響と鬼ごっこをしたが、結局昼ごはんの時間が近付いてきても、一度も響に追いついて触れる事はできなかった。

「……悔しい」
「あー楽しかった」

 悔しいと声色に書いてある様子で言う詠をよそに、響は相変わらず平坦な口調で言って、軽い足取りで石段を降りた。

「ねー響。私、昼ご飯食べてまた続きしたい」
「じゃあ、ウチでお昼ご飯食べる?」
「……いいの?」
「いいよ、多分。ばーちゃん友達連れてくると喜ぶし」

 〝友達〟という言葉が少しくすぐったい。ここに来てすぐは、騒がしいから友達なんていらないと思っていたくせに。

 石段を降り切った後、二人は鳥居を抜けて左に曲がる。境内と道を分ける竹の柵が途切れて、草が覆い茂っていた。

 沈黙、それから感覚と聴覚を隙間なく埋め尽くす、セミとカエルの大合唱。
 思い返してみるとまじまじと観察したことのないバッタが、足元で元気に跳ねている。ここは本当にあの喧騒と同じ国なのだろうか。そんなことを考えて汗をぬぐいながら、響の少し後ろを歩いた。

 響の家は神社から五分程歩いた場所にあった。緩やかなスロープを抜けると現れた大きな家は少し古くて、庭はボール遊びができるほど広い。

「ただいまー」

 響が木の格子にすりガラスがはめ込まれている引き戸をスライドさせると、ガラガラという音がした。それは低い所と高い所で同時になっていて、細かい音が詰め込まれて大きくなっている様な、聞きなれない心地のいい音。

 二人は冷たい色をしたタイルを踏みつけた。

「響ちゃん、おかえり。……あらあら、見ない子やね。響ちゃんのお友達ね」

 玄関にやってきたのは、響の祖母。詠は自分の祖母の様にきびきびとした印象はないが、代わりにどこまでも優しく暖かな雰囲気のある人だと思った。
 穏やかに笑う目元に浮かんだしわが、そんな雰囲気をさらに持たせているのかもしれない。
「お昼ご飯、食べていくね?」
「うん。食べるって」

 詠よりも先に返事した響は、靴を脱いでタイル地の床の上を滑らせながら端に寄せた。

「じゃあばあちゃん、頑張って作らんと。ほら、そんなとこ立ってないで、入っておいで」

 詠は引き戸を閉めると響と同じ様に靴を脱いで丁寧に端にそろえ、響の祖母を振り返った。

「あの、詠です。……お邪魔します」

 頭を下げると響の祖母は「詠ちゃんね。礼儀正しい子ね」と言って嬉しそうに笑った。響は振り返って待っていたが、詠が挨拶し終えた事を確認すると廊下を左に曲がった。詠は速足で歩いて響を追いかける。

 突き当たって右に曲がった廊下の左手は縁側。ガラスを通過した太陽の光が廊下全体に溢れている。すぐそばに立っている木を風が揺らすたびに、廊下の木目に落ちた影も淡く揺らめいた。

 その廊下は、自然の恩恵を余すことなく受けて飽和している。
 今まで見たどんな景色よりも幻想的で、綺麗だった。

「きれい」

 詠は思わずそう呟いて廊下に足を踏み入れてみる。隙間のあいた木陰が廊下から詠のむき出しの足に、それから服に移った。

 太陽の光を浴びた足も、廊下を踏みしめた足の裏もじわじわと温かくなる。

 響は詠が息を呑むほど幻想的な空間には何も思う事がないらしい。彼はさっさと手前の障子を開けて広い和室に入って行った。部屋の向かい側は襖になっていて、右手の床の間には掛軸や置物がある。

「そういえば、家の人に連絡しとかなくていいの?」
「そうだ! 忘れてた!」

 心配しているかもしれない。一度帰った方がいいのだろうか。そんなことを考えながらあたふたする詠とは対照的に、響は冷静な様子で立ち上がった。

「電話しておいた方がいいね」

 響は入ってきた障子とは真逆にある襖を開けた。隣もまた畳張りの和室になっていて、テレビや背の低いテーブルがある。どうやら茶の間のようで、テーブルと色を合わせた棚には皿や小さな置物などがあった。

 茶の間の左手の襖は開け放たれていて、キッチンが見えた。キッチンというよりは台所という表現がよく似合う。響の祖母が二人に背を向けて料理していた。パチパチとも、シュワシュワともいえる音が絶え間なく聞こえる。

 台所の端には背の高い小さな台に乗った固定電話と、目の前の壁には酒屋の名前の入ったカレンダー。カレンダーの周りを、直接画鋲で打ち付けたメモや電話番号が無造作に埋め尽くしていた。

 響が声をかけると、響の祖母はすぐに固定電話の乗っている背の高い台の下から〝電話帳〟と書かれた赤い表紙の縦開きの冊子を出した。所々が擦り切れて、年季が入っている。どうやら五十音順で電話番号が手書きで記載されているらしい。響の祖母が指さした所には「サキムラさん(旅館)」の文字と電話番号が書かれていた。

 詠は電話をかけて響の家でお昼をご馳走になることを伝えた。電話口の祖母が響の祖母に代わってほしいと言うので、詠は料理中の響の祖母に話しかける。

「いいえー。大したモンじゃありませんから。……ええ、ええ。詠ちゃんはいい子ですね」

 壁に向かってゆっくりとした動きで丁寧にお辞儀をする祖母をよそに、響は冷凍庫から水色の棒付きアイスを二本取り出して肘で冷凍庫を閉めると、詠の元に戻ってきた。

「行こう、詠。大人の話は長いから」

 響はさっさと客間を通り過ぎて、廊下と外の間にあるガラスの引き戸を開け放つ。外に足を放って座り込み、詠が隣に座った事を確認してアイスを差し出した。
 豪快に袋を破ってから頬張ったアイスが口の中で溶けていく。

「暑いな」
「暑いね。……響は冬と夏、どっちが好き?」
「断っ然、夏!」
「なんで夏が好きなの?」
「何もしなくても風呂入ったみたいに汗かいて、夕方にはなんかぐだった感じで疲れて。で、風呂入ってさっぱりして、扇風機の前を占領してアイスを食べる。で、ちょうどいい感じに疲れてるなーって思いながら寝るのがいいんだよ」

 あっという間にアイスを食べ終わった響は、破けて袋の役割を果たしていない透明の袋に棒を突っ込んだ。

「詠は?」
「私は冬かな」
「なんで?」
「だって、汗かかないし。身に着けるものいっぱいだと、おしゃれできるし」
「ふーん」

 自分から聞いておいて、響は興味なさげにそういう。

「じゃあ、響は学校に好きな人いる?」
「……いない」
「えっ、絶対いるじゃん! 誰? どんな人?」
「言ったってわかんないだろ。……って言うか別に、多分好きって訳でもないよ。好きって言われたから、なんか変に意識してるだけだし」

 響は照れることも嬉しそうな様子も見せずに、ただ冷静な様子で言った。

「なんかつまんない」
「自分で聞いといて……」

 呆れた様子の響の恨み言は、詠の耳をすり抜ける。

 しばらく他愛もない事を話していると、響の祖母が二人を呼ぶ声が聞こえた。台所に移動すると、ダイニングテーブルの上には大きなお皿に乗ったたくさんの天ぷらと、そうめんが置いてあった。

 二人はそれを慎重に客間に運ぶ。
 しっかりと「いただきます」と手を合わせた後、詠はイカの天ぷらをめんつゆに付けて頬張った。衣はサクサクなのに、中のイカは弾力があって柔らかい。

「天ぷらってこんなに美味しかったっけ」
「あらー嬉しい。いつでも食べにおいでね」

 響の祖母はそう言うと、客間から出て行った。詠は夢中で食べ進めた。大きなお皿にあった天ぷらもそうめんもあっという間に無くなった。

「響のおばあちゃん、美味しかったです。ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」

 二人は茶の間でテレビを見ている響の祖母の後ろを通りながら、食べた皿を台所に運んだ。

「はいはい。流しに置いとけばいいからね」

 響の祖母は少し声を張るが、その頃にはもう響は皿にスポンジを押し当てていた。

「俺が洗うから、詠は流して」
「うん、いいよ」

 詠は響の隣に並ぶと、響から回ってくる泡だらけの皿を冷たい水で流した。

「油はお湯の方が落ちるんだよ」
「へー。そうなんだ」

 響はスポンジを置いて蛇口の方向を自分の方へと向けると、お湯を出した。そして温度を確認した後、再び詠の方へと移動させる。皿洗いはあっという間に終わった。いつの間にか響の祖母は茶の間と台所の間に立っていて、優しい笑顔を浮かべていた。

 その後は二人でもう一度神社に行って鬼ごっこをしたが、結局詠は、一度も響に追いついて触れる事ができなかった。

「明日も遊べる?」

 そう聞いたのは意外にも響の方。

「うん、遊べるよ!」
「じゃあ、また明日。あの神社で」

 それから残りの日は、朝からずっと響と一緒にいた。祖父母が二人分の弁当を持たせてくれることもあれば、響の祖母が作ってくれることもあった。飽きる事なく遊び、他愛もない話をした。

「明日には帰るんだっけ?」
「うん、そう。明日の朝には帰るの」

 道路から神社まで真っ直ぐに田んぼを裂く畦道を並んで歩きながら、別に寂しそうでも何でもない口調で言う響に、詠は名残惜しい気持ちを隠さずにそう言った。

 夕日が辺りをオレンジ色に染めている。頭上を飛び交うトンボと、意識すれば思い出した様に聞こえてくる、セミとカエルの声が詠をどこか切ない気持ちにさせた。

 二人はこの数日でルールを決めた。
 畦道から舗装された道路に切り替わる所で別れるというルール。

 道の終わりは、もうすぐ来る。
 詠はこれからしっかりと舗装された道路を歩いて、祖父母の待っている旅館に帰る。響は今来た道を戻って帰る。

話したい事、聞きたいことは今ここで口にしておかなければ、少なくとも来年までは会う事が出来ない。


「ねえ、響。来年も会える?」

 詠はそう言いながら響を見た。

「会えるよ」

 響は自分の足元を見ながら、返事をする。

「じゃあまた、あの神社で待ち合わせ」
「本当? 本当に、待っててくれる?」
「待ってるって。詠こそ、ちゃんと来るの?」
「うん。来る。来るよ、絶対」
「じゃあ俺も、絶対待ってる」

 響がそう断言しても、詠は不安を消すことができなかった。

 響と過ごした一週間、詠はずっと〝自分〟のままでいた。わがままもたくさん言った。詠にとってそれは、五年分を詰め込んだくらいのわがまま。
 響は文句をいいながらも詠の意見を尊重し、出来ないことは出来ないとはっきりと断り、その理由を説明して詠を説得した。

 大きく変わった。自分は一体、東京で大人たちに向かってどうやって作り笑いをしていて、どう気持ちに整理をつけてあの寂しい家で過ごして、どんな心持ちで仕事をしていたのかわからなくなるくらいには。

 帰りたくない。響と一緒にいたい。
 そうおもって俯いている詠に、響は自分の小指を差し出した。

「不安なら指切りくらいしてやってもいいよ」

 どこか上から目線でいう響にひと文句を言う事も忘れて、詠は響の小指に自分の小指を絡めた。

「また来年」
「……うん、また来年」

 響に釣られて、詠も同じように呟いた。
 二人はどちらからともなく小指を離して、それぞれの道を歩いた。詠は何度も何度も来た道を戻る響を振り返ったが一度として彼が振り返ることはなく、当然、目が合う事はなかった。

 もうすぐ、夏が終わる。
 都内のとあるマンションの一室。
 詠はこの家を家ではなく店の様だと思っていた。テレビCMで流れる小綺麗なモデルルームではない。店という所が重要。

生活感は全くなく、無駄に長い廊下を何度も曲がってリビングに続くドアを開ければ、正面はカーテンのないガラス張りの、黒やグレーで統一されたリビング。天井から終わりかけの線香花火の様な電球が横一列に並んでいる。
 詠の身長では座ることがやっとのアイランドキッチンの向かいに置いてある背の高い椅子。

「これから毎年おばあちゃんの家に行きたい」

 詠は祖母の家から帰宅して早々、厳選されたものがただそこに並んでいるだけのリビングで母にそう言った。母は何か言及することもなく、ただ「そうなの」とだけ答えて祖母の連絡先を詠に教えた。

 こんなふうに母が自分に興味のない態度を見せた時、詠はいつもざわつく不安に襲われた。
 しかし、今回に限っては全く違っていた。

 自分の都合を誰かに決められなくていい事が嬉しいと思った。嬉しいと思っているのに、母に対してそう思う自分に嫌悪している。
 いつもは聞かれてもいない事をペラペラと喋るのに、響の事に関しては何一つ喋る気にならない。
 これが、詠が田舎から帰ってきて感じた、気持ちの変化だった。

 詠が演じたドラマの役は大成功を収めた。出番の多い役ではなかった割に評判が良かったのは響のおかげだ。
 みんなのびのびとしている。それは響と過ごした最後の一週間の自分をそのまま演じればいいだけだった。

「やっぱり詠ちゃん、なんだか明るくなった」

 小梢(こずえ)は詠の演技を凄く喜んで、誰も使いこなせない広いリビングの端のテレビで録画したドラマのシーンを何度も何度も見ている。
 小梢は詠が幼い頃から仕事で忙しい母の代わりに家事をしている家政婦で、週に五日この家に来ている。彼女のおかげで部屋はいつもきれいに保たれていて、栄養バランスの取れた食事ができる。

 ドラマを見る小梢を横目に、詠はランニングウェアを着て屈伸をした。
 次に会った時は必ず、響を捕まえたかったから。

「別に何も変わらないよ」
「詠ちゃんくらいの年齢なら、もう秘密の一つくらいあるわよね」

 和枝は茶化す様な口調で言う。夏に田舎から帰ってきてから運動する習慣が付いたからか、好きな人でもできたと思っているのだろう。
 しかし詠は、それよりももっと大切なものを見つけた気分だった。

「本当に何もないけどね。じゃあ、行ってくるね」

 詠はそういって息の詰まるリビングを出た。

 もし話して聞かせたとすれば、大人は笑うのだろうか。
 たった一つの季節の、たった一週間だけ一緒にいた少年と来年また会う事だけを楽しみにしているなんて。
 最近よく大人から言われる「明るくなった」の理由の全てが、そこにあるなんて。

 詠は考えと一緒に息を吐き捨てた。
口にする気なんてない。誰にも教えたくない。自分だけの秘密にしておきたい。

 それは〝夢は人に言うと正夢にならない〟と聞いて次に素敵な夢を見た時のよう。
 あの素敵な一週間がもし全部夢でしたなんて言われてしまえば、きっと立ち直ることができない。
 誰かに言いたくなって。だけどやっぱり、言いたくない。

 長い間エレベーターで揺られた後、ゆっくりと走り出す。

 早く響に会いたい。そう思うと自然と笑顔がこぼれる程温かい気持ちになるのに、最近は連鎖したように不安を連れてくる。

 響に自分が芸能人であることを知られていないかという事だ。
 知られてしまえばきっと響も、これまでの友達と同じように一線を引いた向こう側から好奇の目で見るか、もしくは必要以上に馴れ馴れしく関わってくるに違いない。

 詠は何度も経験した人間のその感情の移り変わりが大嫌いだった。
 悲しくて、虚しくて。それなのに、同時にイライラする。




 桜は散り、連日の雨が止み、お気に入りの卓上カレンダーのバツ印があと一つで花丸印に追いつく日の夜。
 詠は家の中で唯一生活感のある自室で、先日買ったばかりの携帯電話を特に意味もなく眺めていた。

 小学六年生にもなれば、もう公共交通機関を使ってどこにでも一人で移動ができる。小梢がわざわざ仕事場までついてくるという事もなくなる。

 念願の携帯電話を購入しても、それは眠る前に卓上カレンダーにバツ印をつける事には及ばない。

 卓上カレンダーに赤いペンでバツ印を付ければ、やっと花丸印までの空白が全て埋まった。

 詠はそれから電気を消してベッドにもぐりこんだ。
 念願の携帯電話も、好きだったはずのゲームも、興味が失せてしまった。

 響に会えることが楽しみで眠れない。だけど響に会えることが楽しみだから、退屈な時間は寝ているときのように意識のない状態で、さっさと過ぎてくれればいい。
 次の日の朝、詠は去年と同じように新幹線から電車に乗り換えて目的の駅に到着した。そこから見える景色は、去年となにひとつ変わっていない。
 建物の建築、解体、改装。大型ディスプレイの内容に看板。いたるところがすぐに変わる都会の景色とは違う。

 景色に出迎えられているような気さえして、詠は思わず笑顔になる。

 シンプルな造りの駅の階段を降りて、人がいない古びた商店街を横目に大きく息を吸ってみる。去年は分からなかった東京とここの空気の違いがわかる気がした。

「詠ちゃん、久しぶり。少し大きくなったね」
「おばあちゃん。今年もお世話になります」
「そんな他人みたいな寂しい事言わんで。お父さんも楽しみにしとるから」

 迎えに来た祖母は、嬉しそうにしていた。そして車に乗り込むと「菫は元気ね」と母の事を聞きたがった。詠は去年と同じような事を話しながら外の景色を眺めた。

 気持ちばかりがはやって、やがて内側だけに閉じ込めておくことができなくなる。
 この感覚は、去年神社で響が自分を知らないという事を理解した時と同じ。

「今年もまた響くんと遊ぶんね」
「うん、そう! 凄く楽しみにしてるの!」
「そうねそうね。詠ちゃんがここでいっぱい楽しんでくれているのを見ると、私もお父さんも嬉しいわ」

 山に向かって真っ直ぐに伸びる道の途中で左に曲がると、右手に見える山の(ふもと)まで続く大きな田んぼ。奥の方に響の家が見える。畦道の先に石でつくられた鳥居も見えた。詠は祖母越しに目を凝らして眺めたが響らしき人は見えなかった。
 詠が諦めきれずに右側に視線をやっている間、左手にあるバス停と響の通う小学校を通り過ぎた。車は海の近くの商店街の中に入って行く。

 去年と同じように祖父に案内してもらった部屋で大した荷解きもせず、荷物を放った。
 去年と違ったのは、ご近所さんが詠の顔を見に来ない事だった。二人が詠の為に配慮してくれたのかもしれないし、もしかすると去年散々見た芸能人の顔に飽きてしまったのかもしれない。だから今年は、祖父母と詠の三人で出来立ての定食を食べたが、別に出来立てかレンジで温めるかなんて、今の詠にはどうでもよかった。

 さっさと食事を終えた詠は、「そんなん、せんでいいのに」という祖父母の言葉を背中に聞きながら食器を洗った。

 それから走った。先ほど車で通った道を全速力で。そして疲れて、肩で息をしながら歩いて、少しすればまた走った。
 買ったばかりの携帯電話を携帯できていない事に気付いたのは、畦道を駆け抜けている途中だった。しかし、わざわざ旅館にとりに戻る気はさらさらない。それすら気に留めたくないくらい、詠は焦りにも似た気持ちを抱えていた。

 早く。一秒でも速く。

 石造りの鳥居をくぐった。十段ほどの階段を駆け上がって少し開けた場所から見上げれば、社殿まで続く長い階段の中間地点には石灯篭に寄り掛かって本を読む響がいた。

 木漏れ日が、響の顔で揺れている。

 世界の全てが温かく照らされて、鮮明に彩られていく。

「響!!」

 詠は渾身の力で叫んだ。響は弾かれたように顔を上げて、それから優しい顔で笑った。
 木漏れ日が響の顔から肩へと移動して、地面に落ちる。

「詠、久しぶり」
「本当に待っててくれた!」
「本当に来た」

 響が立ち上がる間、詠は長い石段を駆け上がった。
 詠は響の前で立ち止まると、石段のさらに上を指さした。

「あれやりたい。手、合わせるヤツ」
「詠、意外と神様とか信じるんだ」
「別にそういうわけじゃないけどさ。わざわざ手を合わせるんだから、なんかいい事あるんじゃないかなーって思って」
「そんなヤツには絶対いいことないよ」

 石段を上がる詠の後ろを、響は呆れた様子でついてくる。そして去年同様、二人で手を合わせた。
 しかしやはり詠が目を開いても、響はまだ目を閉じていた。

「響は神様っていると思う?」
「さー。どうだろうね」

 閉じていた目を開きながら響はそういって、それから踵を返して石段に向かって歩き出した。

「もしいるなら、去年私達綺麗に掃除したし手も合わせたからきっと幸せな人生になるね」
「じゃあ神様がいるかどうかなんて、死ぬときにならないと分からないね」

 響は何の気もない様子で石段を降りながら言った。

「詠、昼ご飯食べた?」
「食べてきたよ」
「じゃあ、いったん俺の家に行こう。お腹空いた」

 夏休みは七月の終わりからあって、今はもう八月の半ば。
 何日の何時に詠が来るのか、響にわかるはずがない。

「ずっと待っていてくれたの?」

 詠はそう言いながら響の背中を追いかけて石段を降りるが、彼は何も言わずに詠に背を向けたまま石段を降りている。

「ねーってば」
「そうじゃなきゃ、どうやって詠の来る日当てるんだよ」

 呆れた口調で響は言う。
 そこで詠ははっとして、立ち止まって自分のポケットを探った。つい先ほど、旅館に忘れてきたと思ったばかりの物を探して。

「携帯電話……!」
「携帯電話?」
「持ってる?」
「持ってないけど」
「じゃあ、私が買ってあげるよ!」
「は?」

 響は不思議そうに詠を見ていた。

 仕事をしているのだから、響の携帯電話代くらい問題なく払える。
 母は詠が自分で稼いだ金をどう使おうと口を出さない。いちいち何に使っているかなんて聞かれるとは思えなかった。なかなかいい提案をしていると思っている詠と相反して、響は不思議そうな顔付きを崩さない。

「携帯電話なんて、誰かに買ってもらうものじゃないよ」
「でも携帯電話があれば、いつ行くねってすぐに連絡が取れるし、夏まで待たなくてもいつでも話ができるじゃん!」

 詠が本気で言っていると察したのか、響は少し眉をひそめた。

「俺はいらない。本気で言ってるなら、俺には詠のその感覚は分かんないと思う」

 響は平坦な口調でそう言うと前を、向いて先を歩く。
 喜びを分かち合えるとばかり思っていた詠は、期待が外れて気持ちが萎んでいくのを感じた。何がいけなかったのか、響にどんな声をかけたらいいのかわからないまま響の背中を見ていたが、彼が立ち止まる様子はない。詠はどうすることもできずに、響の後ろを歩いた。

 きっとなにか大きな間違いを犯したのだろうと思った。
 だから、私何かした? と聞けない。自分と響の違いを自分から明確にしてしまいそうな気がして。

 響は何の前触れもなく立ち止まると、振り返る。
 視線は交わる事なく、響は下を向いていた。

「ごめん。ちょっと言い過ぎた……かも」

 決まりが悪そうに言う響に、詠は俯いたまま立ち止まって首を数回横に振った。今自分がした行動がどういう意味なのか、自分でもよくわからない。

「詠の家って、もしかしてお金持ち?」

 心臓の音がドクリとなって規則的な音が耳に響く。
 やっぱり何か大きな間違いを犯してしまったのだと思うと、詠は頭の中が真っ白になって、何も返事が出来なかった。

「別に嫌なら答えなくていいけど。詠のその感覚は普通とはちょっとずれてるよ。一般的、っていうか、多くの人はって事だから。詠が間違ってるって言ってるわけじゃないんだけどさ」
「……うん」

 〝普通〟が分かる子に生まれてきたかった。そうしたらきっと、小さな事でびくびくしなくても当たり前に〝普通〟の感覚があって、響と何の気兼ねもなく話ができたのに。

「……ごめん、俺、あんまり自分の気持ちを言葉にするって、得意じゃなくて。どんなふうに言えば詠に伝わるのかわからない」

 詠には今の響が少しだけ寂しそうに見えた。

「……私は、響が喜んでくれるって思ったのに」

 はっきりと口にする響と張り合うには、少しふてくされた口調で呟く詠の声は小さすぎる。

 お互いに携帯電話を持っていれば、いつだって連絡が取れる。
 お金を払うのは自分で、自分にはその稼ぎがある。
 本当にいい提案だと思っていた。それが今となっては、とまどいもせずに口に出した自分が恥ずかしくなっている。

「詠の言う通り、休みになってからずっとここで待ってたよ」

 そう言われて初めて、詠は響を見た。しかし響はカエルが鳴く田んぼをぼんやりと眺めている。

「いつ来るんだろうとか、もしかして今年は来られなくなったのかもしれないとか、いろんなことを考えて待ってた。で、さっきやっと詠に会えた。だから今、やっと夏が来たなー。って思ってる。俺はそんな気持ちなんだけど、詠は違う?」

 いつも通りの口調の響に、詠は首を振った。
 同じ気持ちだ。やっと夏が来た。そんな言葉じゃ足りない。足りないくらい嬉しかった。
 今までのどんな待ち合わせよりずっと。

「これから中学高校になったらみんな携帯電話を持って、嫌でもずっと繋がるようになる。今だけだよ。連絡も取らずに待ち合わせて、いつ来るのかなって思っていられるの。大人は多分、こんな思いはもうできない」

 大人だけじゃないよ。詠は心の中だけでそう呟いた。
 私立小学校に通う詠は、近所に気軽に遊べる人はいない。誰かと連絡を取って待ち合わせるなんて、当たり前の事だと思っていた。この場所は、景色も人も響との関係も何もかも日常とはかけ離れていて、詠にとっての日常の感覚を持ったままでいると、生き辛い。

「……嫌いになってない? 私の事」

 詠はそう言った後、響の反応が気になって顔を上げた。
 響は不思議なものを見る目で詠を見ていた。

「変だって、思ってない?」
「変なヤツだなーって思うけど、それって嫌いになる理由になるの? って言うか、東京の人ってみんなそういう考え方なの? それとも詠が特別変なの?」
「もう! 変、変って言わないでよ! 自分だって変わってるクセに!」
「自分で言ったんじゃん。八つ当たりー」

 呆れた様子で笑う響は、何事もなかったかのようにまた歩きだす。

「八つ当たりじゃないし!!」

 詠は響の背中に叫ぶ。演技以外で大きな声を出すなんて、いつ以来だろう。
 響はからかうように笑っている。

「別によくない? 詠も変わってて、俺も変わってる。それ変だよーって笑って言い合えばさ。はい、話おしまい」

 きっと響はどんな自分でも受け入れてくれる。
 そんな小さな確信が詠の中にあった。
 響の祖母は今年も快く詠を家に迎え入れた。

 詠がすっかり気に入った客間のすぐ横の幻想的な廊下には相変わらず木漏れ日が揺らめいていて、開け放たれてガラスを通していない太陽の光は去年よりももっと廊下を温めている。飾られた風鈴が高い音を鳴らしていた。

「詠はお昼ご飯食べてるからいらないよ」

 響は確かにそう説明したはずだが、食事の準備ができたという声に二人で向かった先のダイニングテーブルには明らかに二人分の天ぷらとそうめんが置いてあった。

「作りすぎたから、二人で食べられる分だけ食べて」

 結局詠は揚げたての天ぷらを半分、それにそうめんを半分。つまりちょうど一人分食べきった。
 響は詠の食べっぷりを見て、昼ご飯を食べて来たというのは嘘なのではないかと本気で疑っていた。

 それから二人は去年と同じように二人で食器を洗う。その様子を茶の間と台所の間でいつの間にか見ていた響の祖母は、やはり今年も嬉しそうに笑っていた。

「響ちゃんよかったね。今年も詠ちゃんと遊べて」
「うん。ちゃんと来たし」

 そう言いながら響は泡だらけの食器を詠に渡した。詠はそれをお湯で丁寧に洗い流す。

「響ちゃんね、夏休みなんて退屈だって毎年言ってて。それなのに去年詠ちゃんが帰っ
てから、一度だってそう言わないんよ。凄く楽しみにしててね」
「ばーちゃん」
「カレンダーにバツ印をつけたりして」
「ばーちゃん!」

 響は少し顔を赤らめて声を張った。「ごめんごめん」と申し訳なさなど微塵もない口調で言う響の祖母と、知られたくない事実を必死に隠そうとする響を見て詠は笑った。

「私は嬉しいよ。私もね、カレンダーにバツ印をつけて楽しみに待ってたんだ。一緒だね」

 響は居心地が悪そうな顔で詠が追いつけないペースで皿洗いを終え、手についた泡を洗い流して台拭きを手に客間の方へと消えた。

「ほら、詠ちゃん。これこれ」

 小さな声でそう言った響の祖母は、既に破かれた七月のカレンダーを詠に見せた。そこには七月一日から赤いペンでバツ印が書かれていて、夏休みが始まる日にはマル印が書かれていた。

「もう……ばーちゃん……」

 響は台拭きを片手に台所に戻ってくると、絞り出すような声でそう言った。
 響の祖母はまた「ごめんごめん」と言いながら、少し目を見開いて茶目っ気のある顔で詠を見てからカレンダーを片付ける。

 どこまでも自由な響の祖母と、祖母に悪気がない事が理解して強気に出られず「ばーちゃん」と呼ぶしか出来ない優しい響のやり取りを見て、詠はこらえきれずに腹を抱えて笑った。
 響はむすっとした顔で詠を睨んだ。

 それから二人は、いつもの神社で鬼ごっこをして遊んだ。
 去年とは違いかなりいい勝負をした詠が、この日のためにここ一年ランニングをして体力をつけてきた事をドヤ顔で説明すると、響は腹を抱えて笑っていた。

 それからは去年同様、毎日朝から二人で遊んだ。
 咲村旅館の一室でたくさんの座布団を使って遊んでみたり、カラオケをしてみたり。響の家の庭で遊ぶ日もある。

「今日はお菓子を買って海で食べよう」

 響の提案で商店街から少し離れたところにぽつりとある古びた駄菓子屋に向かった。

 子どもたちが貼ったのだろう。駄菓子屋の引き戸には、時代遅れのシールたちがたくさん貼られている。

 苔の生えたトタン屋根から釣り下がって揺れる風鈴。いくつかの少し錆びたカプセルトイの機械と大きなゴミ箱、アイスケース、長椅子の横を通り過ぎる。

 引き戸は響の家の玄関よりもスムーズに動き、カラカラと軽い音を立てて開いた。

「こんにちはー」
「こんにちは」

 いつもより少し大きめの声で挨拶をする響の後ろで、詠は麦わら帽子を深く被りながら小さな声で言った。

「はい、こんにちは」

 腰を曲げて座っている小さなおばあちゃんが、うちわ片手に穏やかな声でそういう。

 扇風機が首を回してはいるが、その風さえぬるい。店の中はたくさんの種類のお菓子が所狭しと並んでいた。壁には厚紙にはめ込まれたスーパーボールや、袋に入った紙風船やいろいろなものが重なって並んでいる。

 近くのスーパーでは見た事のないお菓子の品揃えに、詠は思わず声を上げた。
 響は駄菓子屋のおばあちゃんが金額を計算している間に、外に置いてあるアイスケースに向かう。詠もついて行くと、そこには細い棒の形、それに丸い形の冷凍されたゼリー。フルーツをかたどったシャーベットたちが並んでいた。
 響に続いてゼリーを数本選んで、響の後ろに並んだ。

 二人は袋いっぱいのお菓子を片手に、肩口で汗を拭いながら歩いた。客が誰もいない事も、店員に気付かれなかった事も運がよかった。

 会えた嬉しさですっかり忘れていた詠だったが、自分が芸能人だという事は響に気付かれてはいないらしい。

 テレビっ子の詠からすると信じられないが、おそらく響はあまりテレビを見ないのだろう。
 テレビ見ないの? と問いかければきっと響は答えるだろう。しかしもし、何でテレビを見ないと思ったのかと問い返されてしまえば、ごまかす作り話が出来る自信が詠にはなかった。

 いつか気付いてしまうのだろうか。ずっと響が〝咲村詠〟を知らないままでいてくれたらいいのに。どうにかしてずっと隠し通すことはできないだろうか。そんな考えが頭をよぎったが、それは響のいない季節に考えればいい事だ。

「暑いねー」

 自分の気持ちを誤魔化して、明るい口調で切り替えるふりをする。

「暑いな」

 どこまでも追いかけてくるセミの声と、かすかに聞こえる風鈴の音が二人の沈黙の隙間を埋める。
 響は駄菓子の入った袋に手を突っ込んで冷凍ゼリーを取り出した。

「こんなに暑いと、せっかく凍ってるゼリーが溶ける。……もう半分くらい溶けてるし」

 そう言うと響はゼリーの袋にある切れ込みの部分を歯で噛んで開けて、袋ごとゼリーを噛んだ。

「あー生き返る。……けど、すぐ溶ける」

 詠も響と同じように袋の中からゼリーを取り出して、同じようにゼリーの袋を開けて口に入れた。

「美味しい、冷たい!!」

 響の言う通り半分くらいは溶けていたが、凍っている部分を噛むと、シャリシャリと音が鳴る。あっという間にゼリーを食べ終わってしばらく歩いて、やっと海が見えた。

 商店街から少し離れた駄菓子屋からこの海までは大した距離ではないが、こうも暑いと歩くのが億劫になる。しかし、建物が並ぶ商店街よりは風を直接感じて過ごしやすい。

 小高い場所から海を見下ろしながら歩く。数組の家族が楽しそうに遊んでいた。
 アスファルトを固めて作ったような、神社の石段とは違う石段を注意深く降りる詠とは対照的に、響はリズムよく下を見る事もなく降り切って砂浜に足をつけた。

「水着、持ってくればよかった」
「俺も同じこと思ってた」

 二人は気持ちを共有しながら、砂浜に腰を下ろして駄菓子を食べた。

「そういえばさ、去年言ってた好きな子とはどうなったの?」
「……よく覚えてたな、そんな話。別にそういうのじゃないから、どうにもなってないよ」
「えーつまんなー」

 詠は最後のお菓子を食べ終わるとゴミの入った袋の口を器用に縛って、飛ばされないように袋の上に砂をかぶせた。

「私、足だけ海に浸かってくる」
「俺も行く」

 二人はサンダルを脱ぎ捨てて駆け出し、海水に足をつけた。
 詠は笑顔を引っ込めて自分の足元を見た。意識を足に集中させてみるが、やはり予想していた感覚とはずいぶん違う。

「……私の言いたい事わかる?」
「めっちゃよくわかる」

 二人はじっと水面を見つめた。

 ぬるい。足を浸した海水は思っている何倍もぬるかった。
 すっと汗が引く冷たさを期待していた詠は少しでも冷たくなるように足を動かした。詠の足の動きに合わせて、ぴちゃぴちゃと海水が飛ぶ。

「入るまではいっつも、今日は冷たいはずだって思うんだよね。でも、期待しているほど冷たくはない」

 響の言葉を聞いてから詠は海水に手を付ける。足だけよりはマシだった。
「響ってさー」
「うん」
「将来の夢とかあるの?」
「将来の夢……」

 響はぼそりと呟くと少し間を開けて口を開いた。

「小学校の先生かな」
「へー。なんで?」
「勉強になりそうだから」

 全然意味がわからない回答に詠は息を漏らしながら笑った。

「先生って勉強を教えるんでしょ? 自分が勉強するの?」
「そう。俺が勉強する」

 頑なに態度を変えない響に、詠はさらに笑った。

「本当に響って変わってる。でも、いい夢だね」
「詠はなに? 将来の夢」
「んー。お嫁さんかな」
「……へー」

 あまりに幼稚な答えだと思ったのか、響は絞り出したような口調で言った。

「引かないでよ。ちゃんとした理由があるんだから。あのね、すごく仲良しな家族を作りたいの」
「仲良しな家族って?」
「うーん。なんでも話し合えてー、心を開いていてー、休日は家族の日で、毎週毎週休みを合わせて楽しい事をする!」
「そっか」

 響は呟いた後、詠の方を見て笑った。

「いい夢だね」

 響の言葉に嬉しくなって、詠は笑顔を返した。

「どうせ相手いないだろうから、響のお嫁さんになってあげようか?」
「いや。大丈夫」
「……大丈夫ってなによ」
「俺には荷が重そうだから」
「そこは〝何があっても俺が君を守るよ〟ってかっこよくいう所なんじゃないの?」
「少女漫画の見過ぎ」

 本当に響は変わっているなと思いながらも、自分も同じくらい変わっている自覚があった詠は大して気にすることなく海を眺めた。

「せっかく海に来たんだから、海っぽい事しようよ」

 詠は響にアバウトな提案をしながら辺りを見回した。

「海っぽい事って?」
「例えばー」

 打ち上げられた木の枝を一本拾った詠は、砂の山を作り中央に木の枝を突っ込んだ。

「うつ伏せから、どっちが早く木の枝を取れるか競争!」
「ビーチフラッグか。俺の勝ちだな」

 響はそう言うと、海水から上がって詠の隣に来た。
 二人は砂で服が汚れる事も気にせずに、木の枝から距離を取って足を向けてうつ伏せになる。

「詠の合図でスタートでいいよ」
「じゃあいくよ。……よーーーい、ドン!!」

 詠は間違いなく響よりも早く身を起こした。いや、ズルだと言われればその通り。それくらいフライングして走り出したはずだ。
 しかし、身を起こしてから駆け出すまでの時間は響の方が早く、詠が麦わら帽子を押さえながら走っている間に砂の山に刺さった木の枝は響の手にあった。

「ちょっと待ってて! 次は勝つから! 自信あるから、私!!」

 そう言いながら麦わら帽子が飛ばされないように砂をかける詠を見た響は、先ほど詠が風に飛ばされないようにと砂に埋めた駄菓子のゴミが入った袋を見た。

「何でも砂浜に埋めるじゃん。そういう生き物みたい」

 本気になった詠は呆れる響をよそに準備体操を始める。

 それから何度も何度も挑戦したが、詠が響に勝つことができたのは彼が砂に足を取られて盛大に転んだ数回だった。
 ここに来た時と同じように、海を眺めながら海水に足を浸して汗が引くのを待っていた。辺りは少しずつ少しずつ、オレンジ色になっていく。

「詠が帰る日の前日、小学校で小さい夏祭りがあるんだけど」
「うん」

 いつも通りの口調でそういう響に、詠は何の気なしに短く答えた。

「一緒に行こうよ」

 響と行く夏祭りが楽しい事なんて、考えなくてもわかる事だ。
しかし、もし誰かにバレたら。この関係は終わってしまうだろう。

 関係が終わってしまうくらいなら、夏祭りなんていらない。しかし、どうして夏祭りにいきたくないのかと問いかけ返されると答えられない。

「……私はいい」
「そっか。詠は夏祭りとか好きだと思ってた」
「好きだよ。でも、浴衣持ってないしさ」
「別に浴衣じゃなくてもいいよ。着たいんだったら、俺の家に母さんが子どもの頃使ってたやつがまだあるよ」
「でも……」
「あんまり行きたくない?」
「ううん、そうじゃなくて……」

 夏祭りは夜にあるのだからきっと暗いだろうし、人もいっぱいいるだろう。あれだけ人がたくさんいる東京のテーマパークに行ったときだって、一日いて一度もバレなかった。
 きっと、誰も気づかない。

「やっぱり行きたい。一緒にいく」

 詠がそう言うと、響は嬉しそうに笑った。

 母の顔色をうかがって生きてきた。芸能界では作家である母親の評判を下げないようにいい子でいたし、周りの大人の機嫌を取ってきた。
 だから人より少し、子どもから卒業するのが早かったのかもしれない。

 いろんな人を見てきた。大人も、子どもも。だからよくわかる。
 響は優しい。きっと誰にでも親切だ。でも響は、おそらく自分が嫌いだと思う人と無理に付き合う人ではない。
 散々わがままを言って困らせているにも関わらず、響は受け入れてくれている。認めてくれているという事実が、例え一年を通して見るとごく短い間なのだとしても、残りの季節を耐えていこうと思わせてくれる。

 響と一緒にいる〝咲村詠〟は、東京で生活をしている物分かりがよくて聞き分けのいい〝咲村詠〟とはまるで違う。わがままで、何でもはっきりと口にして、負けず嫌いを全面に出している。そんなどことなく気が強い女の子。そう自覚していた。

 夏祭りの日はあっという間に来た。二人はいつものように朝から夕方まで遊んで、響の家に行った。響の祖母が用意してくれていた浴衣は客間にあった。クリーム色にオレンジやピンクの花があしらわれた温かいデザイン。響の祖母は「懐かしい」「懐かしい」と言いながら目を細めて、詠に浴衣を着つけた。

「響、どう? 似合ってる?」

 詠は障子を開けて、縁側に座っている響の前でくるくると回って見せた。

「うん。似合ってるよ」
「響のお母さん、凄くセンスいいんだね」

 辺りはぼんやりと暗くなり始めていた。

「お父さんとお母さん、まだ帰ってこないの?」
「帰ってこないね」
「ご挨拶したかったんだけど」
「いいよ。そんなの」

 響は縁側から立ち上がると足元を指さした。

「下駄ここにあるよ。足元、気を付けて」

 詠は響の目の前に勢いよく手を差し出した。響は呆れたように笑った後、詠の手を握る。詠は縁側から足を下ろして、片方ずつ下駄を履いた。

「かわいい?」
「かわいい、かわいい」

 響は詠をあしらうと、立ち上がった詠から手をはなす。
 隣に並んでしばらく歩くと、いつもの石造りの鳥居が右手に見える。

「神社の石段の横にある石のアレ」
灯篭(とうろう)のこと?」
「灯篭って言うんだ。あれ、何に使うの?」
「ろうそくに火をつけて、あの灯篭の中に入れるんだよ」
「へー」

 詠はそう言いながら等間隔で整列した石灯篭を眺めた。

「きっと綺麗だろうね。これ全部光ってたら」
「迫力ありそうだね」

 二人は詠の靴や服などの荷物を一旦置くために旅館へと向かった。夏祭りに向かう人たちにバレないかと心配だったが、幸いにも誰にも気づかれなかった。

 祖父母は詠の浴衣姿に大喜びしてすぐにカメラを探しに行った。「俺はいいです」と言う響をほとんど無理やり詠の隣に並ばせた祖母が写真を撮る定位置に戻る間、二人は顔を見合わせて苦笑いをした。
 旅館のエントランスでも外でも何枚も何枚も写真を撮る。

「ごめんね、響」
「うん。別にいいよ」

 小学校までの道を隣に並んで歩きながら、詠はそういった。
 これくらい暗ければ、大人しくしていればそうそう顔もバレないだろう。

「なんか詠、嬉しそう。夜、出歩くのが嬉しいの?」

 響の純粋な疑問に、詠は咄嗟に口を開いた。

「それもそうだけど、響とお祭りに行けるのが嬉しいの。楽しみにしてたんだもん。響は違うの?」

 つらつらと、流れるように嘘をつく。
 もちろん響とお祭りに行けるのは嬉しい。しかし、顔に出ていた気持ちとは違う。顔に出ていた気持ちは、誰にも〝咲村詠〟だとバレないと思ったから。

 笑顔を貼り付けた裏側で感じるのは、嫌な気持ち。
 響に嘘をついた。
 思っている事とは違う事を口にするこの感覚は、東京にいて大人の顔色をうかがう時に似ている。

「詠、俺に何か隠してる?」

 詠は思わず立ち止まった。
 もしかして、知っているんだろうか。もしかして、探られているのだろうか。それとも怪しまれているだけなのか。
 響は詠が立ち止まってから数歩歩いた後、振り返ってしばらく詠を見ていた。

「なんとなくだけど、詠は何か俺に隠してるのかなって思う時あるよ。今だけじゃなくて。……言いたくなかったら別に聞かない。でも、言いたいことがあるなら聞くよ」

 言ってしまおうか。
 もしかすると、響は認めて受け入れてくれるかもしれない。なんだ、そんな事かって、笑ってくれるかもしれない。

「なんでもない」

 ふわふわと考えがまとまらない頭のまま、詠はほとんど無意識に口を開いた。
 口にしてから思う。そんな確信はどこを探しても見つからない。