「体調が悪くて病院に行ったんだけど、先生から再検査しましょうって言われて。その時、なんとなく、多分もう長くは生きられないんだろうな、って思ったんだ」

 どうしてその説明を、あの電話でしてくれなかったんだろう。
 もし、あの電話でそういってくれていたら

「一番に詠の顔が浮かんだ。詠がこっちに来るって言って帰ったばかりだったから。俺が悩んでいるのを颯真が気付いてくれて、二人でこそこそやってたら鈴夏が気付いて協力してくれた。もう修復できないくらい詠に嫌われたいって、俺が言ったんだ」

 それを聞いて、一番に思い浮かんだのは響に対する恨みだった。どれだけ辛い思いをしたのか、教えてあげたいと、そう思った。
 次にその考えを覆いつくして心の内側に広がったのは、響は強い人だという関心。

 もし自分が響と同じ立場になったら、きっとそんな風にはできないだろう。響の都合も考えないで縋りついて、自分が生きている限り、響の時間の全てが欲しいと言うに違いない。
 自ら響を突き放す選択なんてできるはずがないと思った。

 何も言えないじゃないか。
 何年も何年も恨んで、でもやっぱり好きで。苦しくてもがいてきた事なんて、響の覚悟に比べたら、ごく小さなことだと嫌でもわかってしまうんだから。

 響は何も言わない詠の足元を見て不思議そうな顔をした。

「それより詠、なんで靴履いてないの?」
「……走ってくるのに、邪魔だったから」
「邪魔だからって普通、靴脱いで走る?」

 響は少し笑って、呆れた様子で詠に言う。
 反射的に言い返してやろうと思うのは、あの頃と同じ気持ち。
 しかし距離感を測りかねていて、ぐっと口をつぐんだ。

 それから詠は改めて自分の格好を見た。
 全力で走って汗だくだ。スカートには汚れが付いていて、裸足の足は当然黒ずんでいる。化粧が崩れていることも、髪もぼさぼさな事も見なくてもわかる。

 詠は自分に対して呆れ果てて、溜息と同時に乾いた笑いを漏らした。

 先ほどまであった〝最高の自分〟は一体どこに行ってしまったのだろう。

「ごめん二人とも。協力してくれたのに」

 少し声を張ってそういう響の視線を辿って振り返ると、そこには走ってきたのか息を整えている颯真と鈴夏がいた。先ほど鈴夏に抱かれていた子どもはいない。

「俺らこそごめんな、響。詠ちゃん見てると、もう嘘つけなくてさ」
「いいよ。鈴夏も、本当にありがとう」

 そう言うと鈴夏は泣きそうになるのをぐっとこらえて息を吐いた後、首を横に振った。

「なんかさ、少しすっきりしてるよ」

 響がそう言うと、颯真は「そっか」と少し寂しそうに笑った。

「嘘ついててごめんなさい、詠ちゃん」
「俺も、ごめん」

 鈴夏に続いて、颯真も言う。
 あの電話の時、鈴夏は間違いなく罪悪感が溢れて泣いていた。それは騙す事に対する罪悪感や、響の末路を知らない哀れみの涙だったのかもしれない。

 どうして言ってくれなかったのと責めたい気持ちになることを詠はぐっと我慢した。
 三人がとった行動が、自分のためを思っていたという事はわかっていたから。

 小さく首を振る詠を見た鈴夏は、バッグを差し出した。

「詠ちゃん、これ。……中身は壊れたりはしていないみたいだけど、ほとんど外に出てたから傷はついているかもしれない」
「それ、私の……」

 詠は鈴夏の差し出しているバッグを見ながら、溜まった涙を拭った。

「靴もね!」

 そう言うと颯真は、先ほど詠が脱ぎ捨てたヒールをズイッと差し出した。

「ごめん。ありがとう」
「詠、もしかしてバッグと靴投げ捨てて来たの?」

 二人からバッグとヒールを受け取ると、響は少し期待したような口調で問いかける。

「バッグは落としたんだよな。靴は放り投げてたけど!」

 颯真がそう言うと、響は噴出して笑った。

「ちょっと! 笑わないでよ! 大体、誰のせいでこんな格好になったと思ってるの!?」

 そう言いながら受け取ったヒールも履かずに石段を一段飛ばしで上がる詠に、響はただ笑うだけだった。

「全然変わってないね。そういう所」

 詠が響の前にたどり着いた事と、響が笑い終えて目じりの涙を拭ったのは同じタイミングだった。

「懐かしいね、詠」

 初めて近くで見る大人になった響は、また優しい笑顔を浮かべる。その一言は、二人の距離をグンと遠ざけた気がした。
 一体いつの間に、〝懐かしい〟という言葉が心に染みるようになったのだろう。

 どうしようもなく、泣きたくなる。

「じゃあ、俺達はもう行くな」
「ありがとう。鈴夏ちゃん、颯真くん」

 颯真の言葉を合図に踵を返した二人だったが、詠の言葉を聞いて振り返ると優しい笑顔を浮かべてひらひらと手を振った。鈴夏と颯真は前にあった時よりも笑顔も仕草が似てきた気がする。

「……どうして言ってくれなかったの?」
「俺が臆病だったから」

 当たり前の顔をして、その一言を響は呟く。

「俺は物心つく前に親が死んでるからさ、おいて行かれる悲しみって言うのは分からないけど、側にいてほしい人が側にいない悲しみならよく知ってる。だから、死ぬ人間よりも残される人間の方が辛いと思うんだ。誰かに辛い思いをさせてまで、思い出を作りたいとは思えない」
「……東京に行こう。何とかなるかもしれない」
「もう行きたいとは思わないな、東京。人が多くて、それに動きにくい」

 げんなりした様子で響はため息を吐く。心臓がドクリと鳴った。いつ響は東京に来たのだろう。

「紹介された東京の病院に行ったんだ。でも、」
「絶対、大丈夫!! なんとかなるよ! 東京がダメなら、外国に行こう! 私がいい所を探して、」
「詠を探したよ」

 言葉を遮る様に呟いた響の一言は、凛と辺りに響いた。
 響の言葉を遮って説得させようと考えているのに、響の言葉を一言一句聞き逃さないように準備をする自分がいる事も確かだった。

「あんな雪崩れみたいな都会の人込みの中から見つかるはずないのに。もしかしたらどこかにいるかもしれないって。でも、見つけられなかった」
「……慣れない事するからだよ。私が来て響が待ってるんだから、見つけられなくても困らないよ」
「そっか。確かにそうだね」

 納得した様にそう呟くと、響は立ち上がった。

 誰か、「カット」と言ってほしい。
 もう一度、もう一度だけチャンスをくれたら、あの最後の夏からやり直させてくれたら、今度はもっとうまくできるはずなのに。

「久しぶりに会えてよかった。ありがとう、詠」

 通り過ぎようとする響の腕を詠はとっさに掴んだ。バックがまた、石段の上に音を立てて落ちる。

「辛い思いなんてするわけないよ。響、他人の事を真面目に考えすぎ」

 笑い交じりに告げる。当たり前の顔をして、当たり前の様に嘘を吐く。

 何度も響に恋をした。何度も響を抱きしめて、何度も響に口付けた。でも目を開けばそこには、いつも違う誰かがいた。
 響がいない世界が辛くて苦しい事なんて、もう知っている。

 だからもしかすると響が消えた世界には、意味すらないのかもしれない。

 それでも嘘を吐く。
 自分が持っている全てで、響と一緒にいる為の嘘を吐く。

「いつも夏を待ってたのは、響だけじゃない」

 泣くな、哭くな。そう言い聞かせるのに、笑顔でいられるだけの感情を心の内側から引っ張り出せない。
 心の内側が反発して震えている。それはやがて、吐いた息を喉元で震わせた。
 せめて声くらいは、背を向けている響にはまともに聞こえていたらいい。

「だから、全部しよう」

 〝誰かに辛い思いをさせてまで、思い出を作りたいとは思えない〟。
 だから響は一緒にいる事を望んでいない。

「全部しようよ! 今までの夏、全部!」

 響が自分に背を向けているのをいいことに、涙が零れるより前に俯いた。