今日もまた、あの夏の真ん中で死にたいと思った

 響からの連絡を待っていた。
 あの夜も、次の日の朝も。電車の中も、新幹線の中も、東京でも。撮影現場でも、家でも。

 一向に、響からの連絡は来ない。
 気持ちは重なったのだからすぐに響から連絡が来るものとばかり思っていた。

 響はマメに連絡を取る性格ではないと結論付けて片付けられる気もするし、悪い予感がする気もしている。
 どちらにしても冷静ではない事だけが事実で。感じた事のない焦りに、身も心も奪われている。

 人間はなんて強欲な生き物なんだろう。
 今までは連絡を取る術を持っていなくて、言いたいことが見つかってもただ一年間じっとこらえて待っているしかなかった。それが当たり前だったのに、今はどうだ。
 待つことさえできなくて、暇さえあれば手元を覗き込んでいる始末。

 着信音を最大にして枕元に置いたまま、今日もまた連絡がなかったと思いながら眠りにつく。
 木枯らしが吹いて、木から落ちた葉が地面を擦って乾いた音がしても、それは変わらない。

 撮影終わり、時刻は午後8時過ぎ。
 家に着いてすぐに、携帯電話が鳴った。

 なんとなく、本当に何となく。
 今鳴っているこの電話は響からだと思った。

 詠はいつも通り、ポケットから携帯電話を出しながらそんなことを考えていた。
 知らない電話番号。
 指先一つで受け入れて、耳に当てた。

「もしもし」

 もしかすると、声が震えていたかもしれない。
 しかし、そんな事にも気をやれないほど、緊張している。

〈詠〉

 電話越しで聞こえる、機械音が混じった響の声。
 ゆっくりと吐く息が喉元で震えて、その音が響に届いていませんようにと頭のどこかで願った。

「響」

 この雑多な東京で響の名前を呼ぶ。響に語り掛ける。

〈うん〉

 彼の名前が初めて、音になって誰かに届いた。

 パソコンで急に画面を明るくしたような。いつも通りの部屋の中で彩度だけが上がったような、そんな錯覚。
 
 東京でこんな気持ちになるとは思わなかった。

〈……ごめん、詠〉

 しかし次に続く響の声の響きはあまり、響らしくない。

「どうしたの?」

 電話の向こう側から聞こえる響の声は少し震えている。何かあったのだろうか。響の身に何か、大変な事が。

〈高校を卒業したら、結婚する〉

 ただ淡々と、響は言う。だからその相手が自分だなんて思い上がりは、一つとしてなかった。
 
 〝結婚する〟
 それは誰が、どういう理由で。
 だから、なんだというのだろう。

「誰が」
〈俺が〉
「……誰と?」

 響の日常の事は何も知らない。だから、知っているはずがないのに。わかっているのに、それなのになぜか、それはほとんど確信しているみたい。
響の結婚する相手を知っていると思った。

〈……鈴夏と〉

 冷や水を浴びせられるというのは、こんな状況を言うのだろう。

「どういう事?」

 どうという事でもない。
 きっと、そういう事。
 響の言うその言葉のまま。何か特別な答えが欲しい訳ではない。

 自分だけでは整理のつかない、感情の吐出。

 そうか。ドラマで唖然とした人間の言う〝どういう事?〟というのは、こんな気持ちなんだ。
 意識のどこかで、こんな状況で演技の事を考える自分が、嫌い。

 〝どうしてそんなことになってるの?〟
たったそれだけの原因を追究する言葉さえ浮かばないほど。
 あの日、響と初めてキスをした日に感じた、上下左右が分からなくなる感覚。あれとほとんど、同じ。

〈鈴夏との子どもができたから、責任取って結婚する事にした〉

 簡潔に、端的に、ハッキリと言い切るくせに。それなのにどうして、ほんの少し声が震えているのだろう。

 電話の向こう側にいるのは、今年あの季節を一緒に過ごした記憶を持っている響なのだろうか。
 花火をして、それから初めてキスをした響なのだろうか。

 小学5年生で出会った時の事を全て話して聞かせれば、響は目が覚めるのではないか。

「冗談よね」
〈違うよ〉
「……この前会った時の約束は、何だったの?」
〈だから、早く言わないといけないと思って〉

 噛み合わない話に落胆して吐いた息は、喉元で震えていた。

「……からかってるだけでしょ?」

 冗談に決まっている。響が他の誰かと結婚するなんて、ありえない。

「響はそんな無責任な人じゃないよ」

 そうだ。響は結婚もしていないのに誰かを妊娠させるような無責任な人じゃない。
 きっと何か、理由があるはずで。

 そう、例えば――

〈代わって〉

 電話越し、少し遠くから聞こえた声に意識の全てが無意識に、耳だけに集中する。
 それはまるで、世界がピタリと動きを止めたみたい。

〈詠ちゃん、私。鈴夏〉

 これ以上に最悪な状況を、知らない。

〈ごめんなさい〉

 響はそんな無責任な人じゃないから

〈出来心だったの〉

 謝ってもらう筋合いなんて、これっぽっちもないはずで

「……嘘」
〈……嘘じゃないです〉

 何も答えられずにいると、電話口の向こうでほんのわずかに鈴夏がすっと息を吸って、息を止める音がする。

 役者になんてならなければよかったと思った。
 鈴夏が泣いているのが演技ではないという事も、泣く立場にないと分かっていて必死にこらえようとしている事も、手に取るようにわかってしまったから。

 こんなふうに泣けばいいのか。こんなふうに表現すれば、リアルに見ている人に伝わって
 
〈ごめんなさい〉

 これは、避けられない未来だったのだろうか。

〈本当にごめんなさい、詠ちゃん……〉

 鈴夏を責める気にはならなくて、だからと言って優しくする気になれるはずもなくて

「響に代わって」

 自分でも驚くほど冷たい声で詠が言うと、電話の向こうでガサガサと音が聞こえて、それから止まった。

「最低だと思う。響のこと」
〈うん〉

 喉元で震える声を、抑えつける。
 タガが外れれば、響を罵る言葉しか出てこない。
「私……」

 いつもなら、こうやって言葉を選んでいれば

「私は……」

 響は手を差し伸べてくれただろう

「私が傷付くって、思ってくれなかった……?」

 でも絶対、もうそんな展開にはならないのに。
 わかっているのに、響にすがりつきたい気持ちが、消えない。

〈傷付くと思った。でも――〉

 次の言葉を聞けば、ほんのりとともった明るい気持ちから急降下することは、何となくわかっていた。

〈――二週間しかここにいない詠にバレる訳ないって思ってた〉

 詠の事が好きだったのは本当だよ。
 この期に及んで、そんな言葉が返ってくると思っていた。
 でも別に、そんな上辺をなぞるセリフみたいな言葉が欲しい訳じゃなくて。

 青春恋愛漫画が原作のドラマや映画では、ラストは一途に互いを想って終わるじゃないか。
 それともそれは極めて稀な事で、これが現実なのだろうか。

 今まで夢を見ていて、自分の感性がずれているのだろうか。
 正しいのは「一人で生きていけるようにしなさい」と言った母だったのだろうか。

 わからない。
 わからなかった。
 ただの女子高生にはわかるんだろうか。

 あの時確かに響の気持ちを感じて、想いは重なっていると疑いもしなかった。
 あれが全部嘘? 冗談でしょ?
 そんな言葉が、ぽつりと胸に浮かぶのに、喉元で絡まってとても言葉にならない。

 怒りも悲しみも通り越して、心に穴が開いたみたい。

〈ごめんね、詠〉

 でもきっとこの穴はすぐに、マイナスの感情で埋まっていく。
 そして響と関われば関わるほど、この穴は広く深くなる。
 そんな予感。

「大嫌い」

 みっともないほど震える声でそう言って、詠は電話を切った。

 しばらくぼんやりした後、大切な何かを失うのはこんな気持ちなのかと他人事のように考えた。
 きっと今なら、絶望の底にいるヒロインをうまく演じられる。
 そう思ってすぐ、詠は乾いた笑いを漏らした。

 約十四年積み上げてきたものと、これからの人生を捨てる決心をした。
 それでもよかった。
 ただ響が、好きだと言ってくれるなら。

 響と出会って、たくさんの事を感じた。どうしようもない幸せもたった今感じている絶望も。

 ぜんぶ、利用してやる。
 絶対に見返してやる。
 俺はこんな大女優を捨てたんだと、必ず後悔させてやる。

 そう思ってやっと、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
 涙を止める気にはなれなかった。

 それから詠は若さを最大限利用して、青春恋愛ドラマや映画を中心に活動した。
 もう恋愛シーンを撮影する事に 遠慮も配慮もしなくていい。
 失うものがない人は強いと言うが、それは事実だ。

 恋愛に絡んだ役を演じる時、あの頃の響を思い浮かべた。
 目の前に響がいる。そう思うと、ごく自然な演技ができた。こんな言葉を言いたかった。こんな風に抱きしめて、こんな風に響にキスをして。

 その時だけは素直になれて、その度に、響が好きだと思い知る。

 それからマネージャーは、一途に主人公を想っているのに報われない女の役を持ってきた。はまり役だという世間からは高評価を皮切りに、ドラマで姑息な裏切り者の役を、映画では若き天才犯の悪役を。そして連続ドラマの主演を。
 数年かけて完全に〝子役〟のイメージを払拭し、演技の幅を広げた。

 後から聞いた話だが、マネージャーはヒロインの役を演じた時に少しの憂いが混じっていている事に気付いたらしい。だから恋愛二番手の役を持ってきたのだと言う。

 あっという間に酒を飲める年を超えて、二十三歳を迎える頃。男を翻弄する役が評判を呼び、本格的に〝咲村詠〟という架空のキャラクターに結び付いた。

 やはり、失うものがない人間は強い。
 詠を突き動かしているのは〝後悔すればいい〟という強い気持ちだけ。
 それでも相変わらず、〝役〟が愛する人を前にした時には響を思い描く。大切な人に触れる時も、温かい気持ちは全部、響から貰った。

 同時に、恨む人を前にした時にも響を思い描いた。
 響との思い出に付随する感情の全てを演技で吐き出すと詠は決めていた。
 自分の持ちうる全てで、後悔させてやる。そんな気持ち。
 恨みが晴れることも、想う気持ちが消える事もない。
 だからきっと、報われることはないだろう。

 役から抜けた時に、ふと思う。響はどんな大人になっているんだろう。もし響を目の前にした時、響を許せるだろうか。

 いつからだろう。街中で響に似た人を視線で追うようになったのは。
 そう言えばいつか海で遊んでいるときに、鈴夏は響の事を視線で追っていたな。そう考えると、ズキンと確かに胸が痛む。鈴夏もこの気持ちを味わったのだろうか。じゃあ鈴夏は今、心底いい気分に違いない。

 そう思って、バカげていると嘲笑する。響と最初で最後の電話をした時に思った。鈴夏という女の子はそんな人間じゃない。自分はそこまで、人を見る目は腐っていない。

 気付けば日々の全てが、あの頃に縛られている。

 対向の道に飾られた、大手化粧品メーカーの看板。気取った顔の自分が載ったそれを横目に、夜の騒がしい街を歩く。いつもの風景。詠の隣を通り過ぎる、いたって普通のタクシー。

 息を呑んだ。その男は少し顔を向こうに傾けていて、正面から顔が見えた訳ではない。でも、響に似ている。視線を響に似た人に定めて確認しようとした頃には、タクシーは通り過ぎて、小さくなっていった。

 似ていただけ。いつもの事。だけどいつも、心臓の音がしばらく鳴りやまない。反射的に息を呑んで反応してしまう。一体いつまで、こんなことを続けるんだろう。
 そう思って、今日も一日が過ぎていく。

 海外で大きな仕事が決まる頃、詠は二十五歳になっていた。
 この仕事が成功すれば〝咲村詠〟は日本から一歩飛び出る事になる。

 何度も思い出した。
 何度も記憶をなぞった。

 役に入り切っていても、役から抜けきって本来の自分に戻っても、心の中には響がいる。

 まだ幼い響が、あの神社の石段の真ん中に座っている。
 響があの優しい顔で笑っている。
 〝詠〟と優しい声で名前を呼んでくれた、あの日々。

 日本を出る前に最高の自分であの場所に戻って、一つの区切りをつけに行こうと思った。
 懐かしい。
 もう昔の事。海外に行く前にこの場所に来た時と同じ感覚。詠はそれすらも懐かしいと思っていた。

 だだっ広い田園を真っ直ぐ裂くように山へ続く車道を左折して、港町の方向へ。左手にはバス停と、その奥には古い小学校。右手には山の麓まで続く田園と、いくつかの家。山の麓まで伸びる畦道の先にある、木々に埋もれそうな石造りの鳥居。

 しかし、海外に旅立つ前に来た時よりもずっと、時間の流れを感じる。
 小学校側には新しい家が目立つ。田舎、という先入観からだろうか。真新しい家達は、全くこの景色になじめていない。

 古い建物に交じって、新しい家がいくつも建っている。しかし詠は、以前そこに何があったのか、一つとして思い出すことはできなかった。

 しばらく道なりに進み、分かれ道で先ほどよりも少し細い道に入る。

「着いたよー」
「運転ありがとう」
「どういたしまして」

 秋良は咲村旅館の向かいにある駐車場に車を停めた。
 助手席のドアを開けると、まだ車内に残った冷房の空気を押しのけて熱い空気が入り込んでくる。サンダルを履いた足を地面に足を付けると、足の甲がじりじりと熱くなった。

「足元気を付けてね、詠」
「大丈夫」

 詠は車を降りると道の向こうにある咲村旅館を眺めた。いつもこの旅館に泊まった。子どもの頃はよくわからなかったが、大人になって見ると随分と趣のある場所だ。夜に酒でもやりたくなるような。

 三人分と詠の母の分の荷物まで持つ秋良の代わりに、詠はスライドドアを閉めた。

 詠は旅館を正面に、商店街の左右を見た。店だった場所のほとんどにシャッターが閉まっている。自分が子どもの頃はまだ、営業をしていた店の方が多かったのに。
 そんなことを考えながら、旅館の中に足を踏み入れた。

 大人になって改めて見てみても、このエントランスの雰囲気はやはりサスペンスに出てくる旅館だった。

「おばあちゃん、おじいちゃん。久しぶり」

 詠が少し大きな声でそう言うと、祖父母は嬉しそうに笑いながらカウンターの向こうから出てきた。
 年を重ねたからだろうか。二人の笑顔は、詠が最後に見た時よりも穏やかな気がした。
 この旅館は数年前に閉めたらしい。以前よりも少し、埃の匂いが強くなった。

「あらー、待ってたよ。詠ちゃん、ゆっくりして行ってね」
「ありがとう、おばあちゃん。紹介するね。夫の秋良と、娘の秋音です」

 少し改まってそう言うと、二人は口々に挨拶をした。
 祖父母は嬉しそうにほほ笑んで数回うなずいた。

「久しぶり。お母さん、お父さん」

 一番後ろでそう言う詠の母は、緊張している様子だった。

「おお。ゆっくりして行き」

 祖父はたったそれだけ呟くと、大して顔を見る事なくカウンターの向こうに消えた。祖母は「本当に久しぶりね」と言いながら、母の肩を力強く数回叩いて嬉しそうな顔でうっすらと目に涙を浮かべていた。

「詠ちゃんが初めてここに来たのも、秋音ちゃんくらいの年齢やったね」

 泊まる部屋に向かいながら、祖母はそう言った。

「ママ、どんな子どもだったの?」
「朝から晩まで外で元気に遊ぶ、活発な子だったよ」
「えー。ママが? カフェで友達とずっと話してそうなのに」
「とんでもない。お昼ご飯を食べたら携帯も財布も置いて、すぐここを飛び出して行ってたんだから」
「ママ、ここで何してたの?」

 まさか質問が飛んでくるとは思わなかった詠は気を抜いて旅館の様子を眺めていたが、すぐに笑顔を作った。

「東京にはないものを見てたの」
「出た。ママの秘密主義だ」
「秘密主義って?」

 何の気なしに答える詠に、秋音はいつもの事とでも言いたげにあっさりした様子で返事をする。
 それに問いかけたのは詠の祖母だった。

「時々こうやって、私が何を聞きたいのか気付いているくせに話を逸らすの。ね! パパ」

 娘に同意を求められた秋良は曖昧に笑って「誰にでも言いたくない事はあるものだよ」と言った。

 過去を聞かれる時、曖昧な返事をする。
 俳優業に全力になる前の人生、いや、それから先も役者として生きてきた時間の全ては、響が基準だった。
 長期休みが練習で潰れる部活には入らないようにしていて、そのために仕事を調節した。
 人生を、出来事を、誰かに語って聞かせるには必ずそこに、響の存在がある。

「ここの部屋を使って。菫は隣の部屋ね」

 案内された部屋はいつも詠が使っていた部屋よりも広い部屋。エントランスの埃っぽさが全くない、綺麗な空気。
 毎年部屋を開けた時もこんな空気だったのだろうか。思い出せない。大人になったから感じ方が変わったのだろうか。

「自動販売機で飲み物を買ってくるよ」

 荷物を置いた後、秋良と秋音はそう言って部屋を出て行った。

「二人は?」
「自動販売機に行ったよ」

 自分の部屋に荷物を置いた母が部屋の中に入ってくる。
 その空間は、シンと静かだった。

 和解という和解があったわけではないが、詠が一方的に嫌っていた構図が終わったのは、海外での仕事を終えて日本に帰ってきてすぐの現場で倒れた時の事だ。

 連絡を受けた母は病院まで駆けつけて来て泣いた。どうして泣いているのかわからずに唖然とする詠に母は「ごめん」「育児から逃げてたの」「生きていくために強く自分を保っていないといけないと思った」そんなことを言った。
 だからずっと張り合っていたのが馬鹿らしくなっただけ。

 結局、倒れた原因は単に疲労が溜まっていただけという事だったので大事はなかった。母の事は別に許しているわけでも、怒っているわけでもない。しかし詠は、生涯この距離感で構わないと思っていた。

 もう、大人になった。

 今となれば、新人最優秀賞を取った作品の女優が見せた出産シーンの表情の意味が理解できる。あのシーンは、あの表情でなければいけなかった。

 子どもは愛しい。自分よりも大切で、自分がいなければ死んでしまう。
 そして、切羽詰まった育児の事も今ではよくわかる。化粧水一つつける暇がない、完全に自分以外の人間を時間軸にするストレス。もし、周りやパートナーからのサポートが受けられず、精神的に不安定で、多忙を極めていたら。
 そう考えるとほんの少しだけ〝虐待〟という言葉の意味を感じて、他人事ではないのが育児というものだ。

 母があの高層マンションを選んだ理由も何となく理解できた。きっと、自分の子どもが芸能人であることを考慮したセキュリティの為だったのだろう。
 あの家は大人になって思うと、凄くおしゃれで。きっと母は、親にできる事はお金を出す事だけと思っていたのだろうと、詠は何となくそう思っていた。

 ずいぶんと、大人になった。
 最後にここに来た時よりも、ずっと。

「久しぶりにゆっくり一人で散歩でもしてきたらどうね、詠ちゃん」

 祖母は穏やかな笑顔を浮かべてそう言う。
 自分の気持ちを全て知っているような笑顔だった。

 大人になるとわかる。大人は子どもをちゃんと見ていて、気持ちまで敏感に察してくれている事。 
 大人になって、人間は完ぺきではない事を知った。
 だから母の事は今はもう、何とも思っていない。

「うん。そうする」

 財布もスマートフォンも全てを部屋に残して、まずはこの旅館でいつも使っていた部屋を覗いた。太陽の光を受けて、埃がキラキラと光っている。畳はささくれて、テーブルの上には座布団が重ねられ、ものが部屋中を埋め尽くしていた。
 使っていた時の面影はないはずなのに、やはりどこかに懐かしさを感じる。記憶よりも、もっと曖昧。小さな何かが無数に集まって、心の内側に燈っているように思う、そんな感覚。

 それから詠は、商店街の中を歩いた。あの駄菓子屋はなくなっていて、代わりにはす向かいに新しい駄菓子屋がある。一本違う通りに出ると海が見える。キラキラと光を受けて輝いていた。フェンスを埋め尽くす朝顔。その前にある自動販売機で麦茶を買って、海を眺めた。
 遠くにはドライブ途中にちょうどよさそうなおしゃれなカフェがいくつかできていた。秋音が好きそうな店だ。

「暑い」

 独り言をつぶやいて、ペットボトルの口に唇を押し付ける。この海でビーチフラッグをした。水は思ったほど冷たくない事は、もう知っている。
 海辺を通って、海に背を向けて歩く。追い風に急かされて、あの日、汗を拭って駆け抜けた道へ。

 ふいに強い風に押されて、少しだけ俯いて帽子を押さえて振り返る。

 風が穏やかに肌を撫で髪をさらう一秒にも満たない間、幼い頃の自分が隣を走り去る幻を見た。
 それを追って、進行方向を向き直る頃には、風も幻も掻き消えていた。

 ヒールのないサンダルを見て、思わず笑顔になった。
 かぶっていた麦わら帽子を乱暴に引っ掴んで、走った。

 バス停。ひまわり畑に行った時に使った。
 小学校。夏祭りはきっと、今もあるだろう。
 向かいの畦道をひたすらに走る。ひとりぼっちの沈黙を隙間なく埋める、セミとカエルの大合唱。

 あの石造りの鳥居が、だんだんと近づいてくる。

 今日、秋良にすべてを話そう。
 芸能人ではない、咲村詠を大切にしてくれている秋良に。

 芸能活動を引退した今はもう、何にも縛られなくていい。

 だからあの日消えてしまった初恋に、さようならを。
 その前に、最後の約束を。
 詠は赤い高級外車に乗り込んだ。子どものころ見た景色を大人の自分が見たらどう思うのか、少し楽しみでもある。

 しがらみになったこの感情は、消えなくていい。
 ただ、自分自身にもう響に振り回されているわけではなくて、自分の意志で役者として生きていくんだと教えてあげたい。
 だから今更響と話をするなんて気まずい事がしたいとは思わないし、誰かに会いたい訳でもない。

 ただ、あの場所で止まった夏を感じたい。
 これを人は〝過去を清算する〟というのかもしれない。

 今日は海外に出発する前日の早朝。何があっても、明日には日本を出ないといけない。
 思い出の場所を回るつもりではあったが、たった一日、たった数時間。響と鈴夏と会う可能性の方が明らかに低い。
 しかし、もしも偶然会ってしまったらと考えてドキドキと心臓が鳴った。

 それから短く息を吐いて、首を横に振った。何のために最高の自分で来たんだ。化粧も完璧だ。時間が経ってもヨレないように精一杯工夫したし。服だってこの日の為に新調したし、美容室にも行った。
 最高の自分だ。だからもし偶然会ったのだとしても、堂々としていればいい。

 それでも踏ん切りがつかずにうじうじして車のハンドルを握るだけ。
 詠は緊張するシーンの前と同様、目を閉じて大きく息を吸って吐き出した。

「私は日本を代表する、大女優さまよ」

 そう言うと詠は何を考えるより先に車のエンジンをかけて、もう一度ハンドルを握った。

 数時間運転し続けて、旅館の道路を挟んだ向かいにある屋外駐車場に車を止めて外に出る。
 運転するためだけに履いていたスニーカーを脱ぎ捨てて、助手席の足元に置いてあるヒールに履き替えた。

 ホテルのディナーくらいなら気にせずに入ることができる服装で来た。コツコツと高い所で鳴るはずのヒールの音は、整備が行き届いていない地面では鈍い音がする。

 鍵を閉めながら愛車を振り返った。車が詳しい知り合いに聞いて今日の為にコーティングした赤い車は、光を反射して眩しく光っている。

 東京ではどうという事もなかったのに、自分の恰好も車も、この田舎では明らかに浮いていて何もかもが場違いだ。
 毎年楽しみにしていた場所に、今ではこれほど気合を入れないと来られない。自分が少し変わってしまったと頭に浮かんで、詠は振り切るように旅館に向かって歩いた。

 短い下り坂を降りて道に出ると、小さな子どもの泣き声がした。

 その瞬間、心臓が嫌な音を立てて、それから変な汗が噴き出した。まだ確認してもいないのに。しかし、そんな予感はよく当たる。

 子ども抱えて灰色の軽自動車の後部座席から出てきたのは鈴夏。
 記憶にある鈴夏よりほんの少しふくよかになっているが、間違いない。鈴夏は腕の中の子どもをあやすように身体を揺らしている。運転席のドアが開く。
 見たくない。逃げ出したい。しかし、混乱して動く所か視線を動かす事さえできなかった。

 運転席から降りてきたのは響、ではなく颯真だった。

 颯真は急いで運転席のドアを閉めて外に出ると、すぐに鈴夏の側に駆け寄った。両手を広げた颯真に、鈴夏は微笑みながら首を振る。困ったように笑った颯真は、子どもに向かって何かを話しかけている。二人の声は確かに耳に届いているのに、頭で理解することができなかった。

 二人から目を逸らせないまま立っていると、先に気が付いたのは鈴夏だった。
 鈴夏は目を見開いて詠を見ていた。それに気づいた颯真がこちらを見る。彼も鈴夏と同じように目を見開いた。

「どういうこと……?」

 なるべく真っ直ぐ二人の元に歩くように努めた。
 7年前、響との子どもを産んだなら、運転席から出てくるのは響のはずで。

「詠ちゃん」

 鈴夏は震える声で詠の名前を呼んだ。颯真は憐れむような顔で詠を見ていた。

 響と鈴夏が結婚しているのなら、憐れなのは颯真も同じ事だ。
 鈴夏は響と結婚したはず。いろいろあって再婚したのか。
 だったら、小学生くらいの子どもがもう一人いるはずなのにそんな様子はない。

 一体これはどういう事なのか。
 どっちでもいい、どうでもいいから、はやくこの状況を説明して。続いた沈黙の中で視線を落とす、鈴夏に抱かれてすやすやと眠りについた子どもは、こんな状況でなければ笑ってしまうくらい、颯真にそっくりで。

「響は?」

 その子を見つめたままほとんど無意識にそう呟いた。
 響の面影はどこを探しても見当たらない。

「響はどこ?」
「知らない」

 詠の言葉に被せるように、鈴夏は震える声で言った。

「知らない。何をしているのか、どこにいるのかも」

 鈴夏は何を言っているんだろう。詠が顔を上げると、鈴夏はぽろぽろと大粒の涙を流して苦しそうな顔をしていた。

「……きっと探しても見つからないから……詠ちゃんは、忘れた方がいいよ。……響の事は、もう」

 それなのに、声を震わせないように必死に平然を装っている。
 7年前、電話口で泣いた鈴夏を思い出す。あの時も、こんな顔をしていたのかもしれない。

「鈴夏。いいよ、もう。もうやめよう」

 颯真は詠の記憶のどんな彼よりも落ち着いた様子でそう言った。
 この状況に、二人が知っていて自分が知らない何かがある。それは響に絡んでいるという事は分かった。

「詠ちゃんごめん。俺達、詠ちゃんを騙してた」

 相槌を打つ余裕もなかった。ただ、颯真の口から言葉の続きが発せられるのをひたすらに待っていた。

「実は響、病気なんだ」

 世界の全てが音を立てて止まった。そんな錯覚に陥ってすぐ、足元で何かが散らばる音がした。
 気付いたら二人に背を向けていた。歩きにくいヒールを考えるより先に脱ぎ捨てて走った。

 どこで間違えたんだろう。
 どの時点だったら、それに気付けただろう。
 いやでも、病気という話はそもそも嘘なのかもしれない。
 じゃあ、響が病気だと颯真が騙すのはどうして。

 考えても仕方がない事を、頭は勝手に考え出す。

 バス停と小学校に背を向けて畦道へ。打ち付けるような心臓の鼓動が痛い。それでも走り続けた。心臓の音だけが内側に響いている。

 鳥居の前で走るのをやめ、歩いて鳥居をくぐった。途端に疲れや足の痛みが襲ってくる。気付けば全身汗だくだった。

 そしてはっとして立ち止まった。
 どうして神社なんかに。行かないといけないのは、響の家なのに。

「詠?」

 反射的に顔を上げると、そこには響がいた。
 長い階段の真ん中あたり、詠から見て右の石段に寄り掛かっているのは間違いなく、大人になった響だった。彼は目を丸く見開いて詠を見ていた。

 まだ鈴夏との関係を聞いたわけじゃない。何を騙していたのか聞いたわけじゃないのに、分かる気がした。

「何してるの、響。……こんなところで」

 震える自分の声が耳に届いたから、泣いてしまうと思った。そう思ったから、詠は落ち着くように深呼吸をする。

「詠こそ。なんでここに居るの?」
「明日日本を出るから、最後にこの場所を見ておこうって思って」
「そっか」
「響は、どうして?」
「どうしてって。別に」

 あっさりとそっけなくそう言った響をただ見ていた。
 自分がどんな顔で彼を見ているのかは、わからなかった。
 ただ言葉を待つ詠に観念したようにゆっくりと息を吐いた響は、詠が大好きなあの優しい顔で笑った。

「ただ、夏を待ってただけ」

 ぶわっと涙が溢れて、それを見られないように俯いてさっと拭った。

「子どもは?」
「嘘だよ」
「じゃあ、鈴夏ちゃんとの結婚は?」
「それも嘘」
「……病気だって、本当?」
「それは本当」
「だったらこんなところにいないで……病院にいないとダメじゃん」
「もう退院してきた」

 響はあっさりと言う。
 7年ほど前の、電話口での出来事。

 響はきっともう、長く生きていられないのだと思った。
「体調が悪くて病院に行ったんだけど、先生から再検査しましょうって言われて。その時、なんとなく、多分もう長くは生きられないんだろうな、って思ったんだ」

 どうしてその説明を、あの電話でしてくれなかったんだろう。
 もし、あの電話でそういってくれていたら

「一番に詠の顔が浮かんだ。詠がこっちに来るって言って帰ったばかりだったから。俺が悩んでいるのを颯真が気付いてくれて、二人でこそこそやってたら鈴夏が気付いて協力してくれた。もう修復できないくらい詠に嫌われたいって、俺が言ったんだ」

 それを聞いて、一番に思い浮かんだのは響に対する恨みだった。どれだけ辛い思いをしたのか、教えてあげたいと、そう思った。
 次にその考えを覆いつくして心の内側に広がったのは、響は強い人だという関心。

 もし自分が響と同じ立場になったら、きっとそんな風にはできないだろう。響の都合も考えないで縋りついて、自分が生きている限り、響の時間の全てが欲しいと言うに違いない。
 自ら響を突き放す選択なんてできるはずがないと思った。

 何も言えないじゃないか。
 何年も何年も恨んで、でもやっぱり好きで。苦しくてもがいてきた事なんて、響の覚悟に比べたら、ごく小さなことだと嫌でもわかってしまうんだから。

 響は何も言わない詠の足元を見て不思議そうな顔をした。

「それより詠、なんで靴履いてないの?」
「……走ってくるのに、邪魔だったから」
「邪魔だからって普通、靴脱いで走る?」

 響は少し笑って、呆れた様子で詠に言う。
 反射的に言い返してやろうと思うのは、あの頃と同じ気持ち。
 しかし距離感を測りかねていて、ぐっと口をつぐんだ。

 それから詠は改めて自分の格好を見た。
 全力で走って汗だくだ。スカートには汚れが付いていて、裸足の足は当然黒ずんでいる。化粧が崩れていることも、髪もぼさぼさな事も見なくてもわかる。

 詠は自分に対して呆れ果てて、溜息と同時に乾いた笑いを漏らした。

 先ほどまであった〝最高の自分〟は一体どこに行ってしまったのだろう。

「ごめん二人とも。協力してくれたのに」

 少し声を張ってそういう響の視線を辿って振り返ると、そこには走ってきたのか息を整えている颯真と鈴夏がいた。先ほど鈴夏に抱かれていた子どもはいない。

「俺らこそごめんな、響。詠ちゃん見てると、もう嘘つけなくてさ」
「いいよ。鈴夏も、本当にありがとう」

 そう言うと鈴夏は泣きそうになるのをぐっとこらえて息を吐いた後、首を横に振った。

「なんかさ、少しすっきりしてるよ」

 響がそう言うと、颯真は「そっか」と少し寂しそうに笑った。

「嘘ついててごめんなさい、詠ちゃん」
「俺も、ごめん」

 鈴夏に続いて、颯真も言う。
 あの電話の時、鈴夏は間違いなく罪悪感が溢れて泣いていた。それは騙す事に対する罪悪感や、響の末路を知らない哀れみの涙だったのかもしれない。

 どうして言ってくれなかったのと責めたい気持ちになることを詠はぐっと我慢した。
 三人がとった行動が、自分のためを思っていたという事はわかっていたから。

 小さく首を振る詠を見た鈴夏は、バッグを差し出した。

「詠ちゃん、これ。……中身は壊れたりはしていないみたいだけど、ほとんど外に出てたから傷はついているかもしれない」
「それ、私の……」

 詠は鈴夏の差し出しているバッグを見ながら、溜まった涙を拭った。

「靴もね!」

 そう言うと颯真は、先ほど詠が脱ぎ捨てたヒールをズイッと差し出した。

「ごめん。ありがとう」
「詠、もしかしてバッグと靴投げ捨てて来たの?」

 二人からバッグとヒールを受け取ると、響は少し期待したような口調で問いかける。

「バッグは落としたんだよな。靴は放り投げてたけど!」

 颯真がそう言うと、響は噴出して笑った。

「ちょっと! 笑わないでよ! 大体、誰のせいでこんな格好になったと思ってるの!?」

 そう言いながら受け取ったヒールも履かずに石段を一段飛ばしで上がる詠に、響はただ笑うだけだった。

「全然変わってないね。そういう所」

 詠が響の前にたどり着いた事と、響が笑い終えて目じりの涙を拭ったのは同じタイミングだった。

「懐かしいね、詠」

 初めて近くで見る大人になった響は、また優しい笑顔を浮かべる。その一言は、二人の距離をグンと遠ざけた気がした。
 一体いつの間に、〝懐かしい〟という言葉が心に染みるようになったのだろう。

 どうしようもなく、泣きたくなる。

「じゃあ、俺達はもう行くな」
「ありがとう。鈴夏ちゃん、颯真くん」

 颯真の言葉を合図に踵を返した二人だったが、詠の言葉を聞いて振り返ると優しい笑顔を浮かべてひらひらと手を振った。鈴夏と颯真は前にあった時よりも笑顔も仕草が似てきた気がする。

「……どうして言ってくれなかったの?」
「俺が臆病だったから」

 当たり前の顔をして、その一言を響は呟く。

「俺は物心つく前に親が死んでるからさ、おいて行かれる悲しみって言うのは分からないけど、側にいてほしい人が側にいない悲しみならよく知ってる。だから、死ぬ人間よりも残される人間の方が辛いと思うんだ。誰かに辛い思いをさせてまで、思い出を作りたいとは思えない」
「……東京に行こう。何とかなるかもしれない」
「もう行きたいとは思わないな、東京。人が多くて、それに動きにくい」

 げんなりした様子で響はため息を吐く。心臓がドクリと鳴った。いつ響は東京に来たのだろう。

「紹介された東京の病院に行ったんだ。でも、」
「絶対、大丈夫!! なんとかなるよ! 東京がダメなら、外国に行こう! 私がいい所を探して、」
「詠を探したよ」

 言葉を遮る様に呟いた響の一言は、凛と辺りに響いた。
 響の言葉を遮って説得させようと考えているのに、響の言葉を一言一句聞き逃さないように準備をする自分がいる事も確かだった。

「あんな雪崩れみたいな都会の人込みの中から見つかるはずないのに。もしかしたらどこかにいるかもしれないって。でも、見つけられなかった」
「……慣れない事するからだよ。私が来て響が待ってるんだから、見つけられなくても困らないよ」
「そっか。確かにそうだね」

 納得した様にそう呟くと、響は立ち上がった。

 誰か、「カット」と言ってほしい。
 もう一度、もう一度だけチャンスをくれたら、あの最後の夏からやり直させてくれたら、今度はもっとうまくできるはずなのに。

「久しぶりに会えてよかった。ありがとう、詠」

 通り過ぎようとする響の腕を詠はとっさに掴んだ。バックがまた、石段の上に音を立てて落ちる。

「辛い思いなんてするわけないよ。響、他人の事を真面目に考えすぎ」

 笑い交じりに告げる。当たり前の顔をして、当たり前の様に嘘を吐く。

 何度も響に恋をした。何度も響を抱きしめて、何度も響に口付けた。でも目を開けばそこには、いつも違う誰かがいた。
 響がいない世界が辛くて苦しい事なんて、もう知っている。

 だからもしかすると響が消えた世界には、意味すらないのかもしれない。

 それでも嘘を吐く。
 自分が持っている全てで、響と一緒にいる為の嘘を吐く。

「いつも夏を待ってたのは、響だけじゃない」

 泣くな、哭くな。そう言い聞かせるのに、笑顔でいられるだけの感情を心の内側から引っ張り出せない。
 心の内側が反発して震えている。それはやがて、吐いた息を喉元で震わせた。
 せめて声くらいは、背を向けている響にはまともに聞こえていたらいい。

「だから、全部しよう」

 〝誰かに辛い思いをさせてまで、思い出を作りたいとは思えない〟。
 だから響は一緒にいる事を望んでいない。

「全部しようよ! 今までの夏、全部!」

 響が自分に背を向けているのをいいことに、涙が零れるより前に俯いた。
「大丈夫。私、ちゃんと帰るよ。絶対。約束する」

 一歩だって引くつもりはなくて、詠は矢継ぎ早に言う。
 詠の言葉を聞いて、響は小さく笑った。それが純粋な笑顔なのか呆れているのかはわからない。

「じゃあ、あの頃の夏を全部しよう」

 響がそう言ったことで感じたのは、安心。響と一緒に過ごす時間を作れたことに対する安心感。

 緩んだ詠の手を解いた響は、手を握ったまま振り向いた。

「詠」

 響が名前を呼んでくれる。
 ただそれだけで嬉しくて内側から溢れてくるこの愛しい気持ちはきっと、どんな言葉でも、態度でも表現できない。

「ありがとう」
「……意味わかんない」

 可愛げもなく呟く詠に、響は笑いを漏らす。

 言葉の意味なんて、痛いほどよくわかっている。
 全部だ。この状況に至るまでの全てと、これから先に起こる事の全て。

 今までたくさんのものを響にもらった。だから苦しくても東京で生活が出来て、その生活も最低ほど悪くないと思わせてくれた。

 今までもらった分には到底足りなくても、響には明るい未来を見てほしい。

 これから必ず来る別れの後は、身を引き裂くような苦しみでもいい。
 思考も呼吸も鼓動さえ止まってほしいとすがりつく程の絶望に付きまとわれてもいい。

 ただこの夏を、一日を、響と過ごせるなら。
 これから先の人生は、もう何もいらない。

 この気持ちをきっと、決心というのだ。
 全てが心の内側で決まり、定まって、動く予感がしない。そんな感覚。

「はやく行こう!」

 詠は心からの笑顔で言うと、しゃがんで散らばったバッグの中身を拾った。

「夏はあっという間に終わるんだから。響も知ってるでしょ?」
「うん。そうだね」

 響も詠と同じようにしゃがみ込んでバッグの中身を拾う。
 それから詠は、雑に投げ捨てられて傷だらけになったヒールを片方履いた。

「気を付けて」

 そう言ってなんの気もない様子で手を差し出す響に、胸がトクンと高鳴る。
 あの頃よりももっと、鮮やかに。

「詠、普通に転がり落ちていきそうだから」

 詠は高鳴る胸を抑えつけて、何の遠慮もなく響の手をしっかりと握った。

「道連れだから」
「一人で落ちてよ」

 響の手を握ってバランスを取りながら、もう片方のヒールに足を通す。

 それから二人は石段を上がって社殿に向かって手を合わせ、目を閉じた。
 きっと、神様なんていない。もしいるなら、響をこんなに早く迎えに来ようなんて考えるはずがない。

 でも、願わずにはいられなくて。
 響を救ってくださいと、心の底から願った。

 それから石段を降りて鳥居をくぐり、左に曲がって響の家に向かった。
 セミとカエルの鳴き声が隙間を埋め尽くす。それが懐かしくて思わず笑顔になる。この音を、暑さを感じていると、しみじみといい子ども時代を過ごしたという思いが身に染みる。

 カラカラと懐かしい音をならす戸を開けて、響は声を張る。

「ただいま」

 途端に、家の中からバタバタと音がする。
 響が靴を脱いでいる間、廊下の向こうから目を見開いた響の祖母が歩いてきた。

 響の祖母は詠を見ると、目をまんまるに見開いた。

「……詠ちゃんね?」
「お久しぶりです。響のおばあちゃん」

 裸足で玄関を降りた響の祖母は、詠の頬を包むように手をやって優しく撫でた。

「もう会う事はないって思ってたんよ。また、綺麗になった」
「ぼろぼろだよ。だって裸足で走ってきたんだもん」
「なんもわからん。昔からずっと、詠ちゃんは綺麗よ」

 そういうと響の祖母は薄っすらと浮かんだ涙を指先で拭った。

「ほら上がっておいで」
「お邪魔します」

 詠は響の差し出したタオルで砂まみれの足を拭いてから家の中に入った。

 日の光を集めた温かい廊下。
 真夏の最奥は今日も温かい木漏れ日が揺れている。
 この場所が昔から、大好きだった。

 客間の横を通りすぎて、響の両親に線香を上げる。
 これが最後の線香になるんだろう。胸の痛みを覆うように目を閉じた。そして響の両親に心の内で告げる。

 ――まだ響と一緒にいたいです。

 詠が目を開けると響はすでに目を開けていて、いつものように「ありがとう」と言った。

 客間に移動して眺める。
 この場所は、時が止まっているみたいに何一つ変わらない。

 それから響の祖母が作った天ぷらとそうめんを、向かい合って客間で食べた。

「やっぱり美味しいね。響のおばあちゃんの天ぷらは世界一だよ」

 いつもは旅館で昼ご飯を食べてから響の家でも食べていたが、今日は空腹の状態でいるからか、それとも久しぶりだからか、本当に美味しく感じて。
 いつも通り詠は、一人分をぺろりと食べきった。

 詠と響は並んで食器を洗う。
 小さなシンクでは、大人が二人で並んで洗うとギューギュー詰めで。

「あ、もう水!」

 水がはねて、シンクから少しはみ出す。

「もっとあっち行ってよ」
「俺も詠と全く同じこと思ってる」

 二人で喧嘩をしながら、それでもやっぱり、楽しかった。

「あそこで飲みたい」
「はいはい」

 片付けを終えると、温かい縁側で二人で汗をかいたグラスで冷たい麦茶を飲む。
 「二週間はここにおるんね?」と問いかける響の祖母に、詠は今日の夜にはここを出る事を伝えた。

 木漏れ日を足に移しながら、ゆっくりと麦茶を飲む。
 風鈴の音が心地いい。うだる暑さを冷たい麦茶が緩和する。

「詠ちゃん。気を付けて帰るんよ。またいつでも遊びにおいでね。お仕事、頑張って」
「ありがとう。響のおばあちゃん」

 先に玄関を出て振り返った詠の隣を、響が「いってきます」と言って横切って外に出る。
 響の家で響を見るのは、これが最後になるのだろう。

 だから詠は響の家の出来事を、今までと、今日の分を心の中に刻み付けた。

 鳥居を背に、二人で畦道を歩く。何度もこの場所を二人で並んで歩いた。

 バス停を通り過ぎて、港の方へ。遠くから旅館の前に立っている祖父母を見て、あらかじめ連絡しておいた到着予定時間からずいぶん過ぎている事を思い出した。
 祖父母は詠の隣にいる響の姿を見て目を見開くと、嬉しそうに笑っていた。祖父母に謝ってから、響と二人で駐車場に移動した。

「紹介します。私の愛車です」
「凄い車」

 響は光を反射する詠の車を眩しそうに目を細めてみていた。
 詠は運転する為だけに履いてきたスニーカーに履き替えて、地面を踏み鳴らした。

「やっぱスニーカーだね。ヒールはダメだ」
「じゃあなんでそんなの履いてきたの?」
「ちょっとカッコつけたかったの」
「……何のために?」
「だーって」

 詠はふてくされた調子でそういって歩き出した。

「くやしいじゃん。私は響と一緒にいられるって思ってたのに、鈴夏ちゃんと二人で逃避行とかさ」
「……逃避行はしてないけど」
「見返してやるって思ったもん。私を捨てた事」
「……言い方」

 響はそれについてはぐうの音も出ないのか、何かを言いたそうに黙っていた。
 しかしそこには響のたくさんの思いがあるという事が分かっていたから、詠は響を笑顔で茶化し続けた。

 それから二人は駄菓子屋で駄菓子を買って、凍ったゼリーを食べながら海に向かった。

 砂浜で駄菓子を食べてしばらくゆっくりと海を眺めて、それからぬるい海水に足を浸す。

「本当に詐欺だよね。ここの海、冷たそうって思わせといて全然冷たくないんだもん」
「詠、毎年文句言ってたね」

 今年もやはり海が冷たくない話を二人でする。
 動いていると少しは冷たくて、詠は足で水をきった。

「あれもしとこうよ!」

 フェンスや電柱に絡む朝顔が見える自動販売機を指さした詠は、海から上がって砂浜を歩いた。

 クリーム色の細かい砂が詠の足の水分を吸収した後で、砂を払って靴下とスニーカーを履く。それから海よりも小高い場所にある自動販売機に向かって、小銭を入れて麦茶を買った。

 二人でたった今上がったばかりの海を眺めた。

 詠は響に沢山の質問をした。会っていない数年に何をしていたのか。
 無意識に、いやきっと意図的に女性の影を探している。
 結局、明確な影は浮かび上がっては来なかった。

 彼氏のスマホを盗み見る女の気持ちが、今ならよくわかる。
 ただ、どうして傷つくと分かっている事をわざわざ知りたくなるのかは、わからない。
 海のあと、二人はシロツメクサの花冠を作った野原に来た。

 響は前に作った時の感覚を覚えている様子で、相変わらずとても上手に花冠を作る。
 詠が試行錯誤していると、「できた」と言った響が手を伸ばして、詠の頭に花冠を飾った。

 それはどんな恋愛ドラマのワンシーンよりも綺麗で。

 頭に乗った軽い冠は、仕事でつけたどんなアクセサリーよりも、ショーケースから取り出したどんな宝石よりも価値がある。

「ありがとう」

 返事をするように響が笑うと、花を掻っさらう風が吹く。
 詠は頭に乗った形に残らない贈り物が飛ばされないように少し強引に抑えた。

 ありのままを残す為にスマートフォンで撮る写真は、違う。
 頭の中で整理して文字にする手書きの日記も、きっと違う。

 響といる時間は、いつも日常から外れていて。そしてあまりにささやかで。
 形に残そうという気にはなれなかった。

 あれほど特別だったのに、一緒にいなければきっと夏に意味なんてない。

 うだるように暑い夏の真ん中。二人きりの夏の全てを使って散りばめた思い出が、息を吸う度にもう一度焼き付こうともがいている。

「行こうか」

 響はそう言うと立ち上がって、あっさりと詠の頭に置いた花冠を野原に放り投げた。
 もし響が花冠を取ってくれなかったら、きっと名残惜しくて手放すことはできなかっただろう。だから、これでよかった。
 放り投げられた花冠の重さで草が窪んでいる。周りの草がそよそよと揺れていた。

「響が運転ー」

 それから二人は、車を停めている駐車場まで戻って来た。

「えー嫌だよ。こんな綺麗な車ぶつけたら大変だし」
「私は隣でペットボトルの蓋とか開けて渡したりしたいんだもん。それに、ぶつけたら直すからいいの」
「そういう問題じゃない」

 引こうとしない響に、詠は今にも泣きそうな顔を作って両手で顔を覆った。

「ひどいわ。私を捨てといて! どうせ遊び、」
「もうわかったよ!」

 響は詠の言葉を遮って運転席のドアに触れた。
 しかしその顔には、呆れた笑顔が浮かんでいる。

 二人で車に乗り込むと、響がエンジンをかけた。

「その無駄に演技力高いのやめてよ」
「大女優さまですから」
「自分で言うんだ」

 響はまた呆れ笑いを浮かべてブレーキから足を放すと、アクセルを踏んだ。

「アクセル重っ」
「人間ってすごいよ。このアクセル重い感覚にもすぐに慣れるの。よし! 出発!」

 車はいつも詠の祖母が駅まで送り迎えをしてくれる道を進んだ。それから、見慣れない景色になる。とは言っても、広い田んぼと時々いくつかの家が見えるだけの見晴らしのいい一本道。

「響、運転うまいね。全然酔わない」
「そう? 田舎は車運転できないと買い物にも行けないからかもね」

 うだるような暑さの夏の景色を冷たい車内から響と見ている。
 これは大人の特権。
 あの頃とは違うのだとしんみりと感じた。

 田園の中にポツリとあるコンビニに寄って詠はコーヒーを、響は水を買って、また車に乗り込んだ。
 車が動き出してから、詠は水が入ったペットボトルの蓋のあけて差し出した。

「どうぞ!」

 響はふっと笑って、ペットボトルを受け取った。

「ありがと」

 ずっと響と、こういう事がしたかった。

 しばらく車を走らせると、ひまわり畑へ到着した。
 車を降りると、じめじめした暑さが襲ってくる。

「このひまわり。私の顔くらいある」

 前にひまわりを見た時、確かこんな風に言った。

「詠の顔よりも、このひまわりの方が大きい」

 響はその時、どんな風に返事をしたんだっけ。
 響に関わるささやかな事を、全部を思い出したい。
 丁寧に記憶をなぞって、あんなこともあったねと言って答え合わせをしたい。
 それはとてもとても、贅沢な事なのだと知った。

 前にいたソフトクリームの移動販売車は残念ながら今日はいなかった。

「暑いね。帰ろうか」

 響の言葉を合図に、二人はぐるりとひまわり畑を大回りして再び車に乗り込んだ。
 窓の向こう側で、ひまわり達が流れていく。

 旅館に戻ってきて車を停める頃にはもう、日は傾いていた。

「次はどうする?」
「響と一緒なら、なんでもいい」

 詠がそう言うと、響は笑って「俺も」と答える。
 他にやり残したことは、なんだっけ。

「やっとみつけた!」

 二人が旅館の方向を見ると、そこには肩で息をしている颯真がいた。
 彼は自分の膝に手をついて、息を整えた。

「ずっと連絡しているのに、響全然電話でないし!」
「全然気づかなかった」
「少しだけ。本当に少しだけでいいから、二人の時間ちょうだい」

 颯真は息を整えて、それから真剣な表情でそういう。詠と響は顔を見合わせた後、小さく頷いて颯真の後に続いた。

 他愛もない話をしながら歩く。あの頃の夏の話。
 当たり前に日々が続くと思っていた。狭い世界にいた時の話。

 幸せだった。
 まるでこの夏がずっと続くと錯覚するくらい、他愛ない話が、愛しい。

 颯真は小学校の中に入っていった。
 校舎の周りをぐるりと回る。あそこが小学6年生の響がいた教室。

 グラウンドには前に一度だけ海で会った、響の同級生たちがテントの下にいた。

 一度だけ見た景色だった。

 運動会で見る真っ白なテントが横並びに並んでいて、手書きの文字で〝ラムネ〟〝りんご飴〟と書かれたパネルがテントからぶら下がっている。
 都会で開催される夏祭りと比べると、随分と迫力のない小さな祭り。

「夏祭りは、明日だろ」
「材料を少し譲ってもらったの。今年の会長は私のお母さんだから」

 唖然とした様子でそういう響に、鈴夏はわざとらしく胸を張って、それからニコリとほほ笑みかけた。

「二人で夏祭りに参加したのは、あの一回だけでしょ。今日は今までの分、思い切り楽しんで帰ってね」

 辺りはうっすらと暗くなり始めていた。

 詠はたくさんの人の優しさに触れて泣きそうになりながら、涙をこらえて響の幼馴染たちがいる店先で注文をする。
 焼きそばやリンゴ飴が出てきて、いつの間にか響の幼馴染もその子どもも店先で注文して、小さな小さなにぎやかな夏祭り。

「お疲れ、詠ちゃん」

 少し離れた所でたこ焼きを食べながら見ていると、颯真が詠にラムネを差し出した。

「ありがとう。颯真くん」

 詠は颯真からラムネを受け取って、口をつけた。

「前にもこうやって話したね。颯真くんが鈴夏ちゃんに片思いしてた頃」
「怖いもの知らずだったなーって思うよ。響に勝てるなんて自信、どっから湧いてきたんだろうってさ」

 颯真もそんなことを思うのか。
 詠は颯真の意外な部分を見た気になって、やっぱり、あの頃の夏を思い出していた。

「響はさ、昔からなんか大人みたいで、皆がはしゃぐような事でも一線を引いて見てた。今になって響はきっと無理してたんだって思うんだ。でもそう考えるといつも、詠ちゃんを思い出す。きっとあの頃の響にとって、詠ちゃんは救いだったんだろうなって」

 遠くの祭に視線をやったまま、笑いながらそういう颯真はやはり大人になっていた。

「ねえ、颯真くん」
「うん」
「鈴夏ちゃんって素敵な子だね」
「そうだろ。俺は小さい時から気付いてたけど」

 長い時間一緒にいてそう言えるのは、本当にすごい事だ。
 お似合いの二人に詠は思わず笑顔を浮かべた。

 近くに来た響が詠の隣に立った。

「詠、鈴夏と颯真の子、見た?」
「うん、見たよ」
「颯真に似てるよね?」

 響がそう言うと颯真が不思議そうな顔をした。

「みんなそう言うけど、どちらかと言えば鈴夏似だろ?」
「いやいや、びっくりするくらい颯真くんに似てるよ」
「ほら。いっつも言ってるのに、全然信じないからな颯真」

 それに対して颯真は「えー」とやはり納得してい無さそうな様子を見せている。

 夏祭りがお開きになる頃には、辺りはもう真っ暗だった。後片付けを率先して手伝おうとする詠と響は、鈴夏と颯真を筆頭にグラウンドから追い出された。

「まだいろいろできるでしょ」
「そうそう。花火とかしたら? 夏と言えば!」

 別れ際に鈴夏と颯真にそう言われて、高校3年生の夏に花火をしたことを思い出した二人は、暗い道を商店街に向かって歩き、それから咲村旅館の向かいに停めてある車に乗り込んだ。

 コンビニで柄の長いライターとろうそくと花火だけを買って、また車に乗り込んで咲村旅館まで戻る。
 しかし響は、誰もいない山道の路肩に車を止めた。

「詠。星が見えるよ」

 響にそう言われて、車を降りた。
 東京では星なんて見えなくて、だから

「空にこんなに星があるって、知らなかった」

 響は腕を伸ばして、指を空に向けた。

「あれが、夏の大三角。……織姫と彦星」
「ちゃんと目立って光ってる」

 詠はしばらく、ただぼんやりと星を眺めていた。

「そろそろ行かないと。花火できなくなるね」

 響はそう言うと、先に車に乗り込む。詠もその後に続いて乗り込んだ。

「響」

 車のエンジンをかけようとする響の手を握ると、響は何も答えずに顔だけを詠の方へ向けた。

「ダメかな。今」

 言い方が面白かったのか、響は笑うと、詠の方へと顔を近付けた。

 光のない山道。真っ暗な車内で、視界の端でふわりと光の花が咲いた。

 反射的に視線を移すと、スマートフォンの画面が光っていた。
 〝どうせ一緒にはなれないのに〟と言われているような、そんな錯覚。
 むかつく。それなのに、どうしようもなく悲しい。

 そんな考えを一瞬でせき止めたのは、響の手が頬に触れた感覚。
 響は少し強引に自分の方に詠の顔を向けると、優しいキスを落とした。

 心の隙間が埋まっていく。まるで最初から何もなかったみたいに。

 お互いの知らない季節が、それぞれを大人にしていた。互いの好意が重なる瞬間を〝求め合う〟と最初に表現した人間は、この気持ちを経験したに違いない。


「響」
「うん」

 いつもよりももっと、響は優しい声で返事をする。

「私もう、死んでもいい」

 そう発した後、麻痺した心のどこかで不謹慎だったかもしれないと思った。
 しかしそれは杞憂で、響は柔らかくて、優しい顔で笑っていた。

 詠は身を乗り出して、響の唇にキスをした。
 虫が多くて窓を開けることができないから、薄く曇ったフロントガラスと自分たちに当たるようにクーラーを設定してから走り出す。

 咲村旅館に戻ってきた後、駐車場に車を停めて歩いた。
 畦道を神社の方向へ、スマートフォンで足元を照らしながら。

 夜の神社はまるで何かを待って息を潜めているみたいに静かで、昼間よりももっと明確に存在を示していた。

 ろうそくを石灯篭の中において行く。
 一つずつ、石灯篭に火がともる。

 夜をぼんやりと照らす光は一つでは心もとなくても、全てに火がつけば、それはしばらく人の視線を釘付けにする理由になる。

 異世界を舞台にしたテーマパークに訪れた時と同じ感覚。
 自分の常識とは違う世界の形を見ている。
 まるで、魔法で作られた世界にいるみたい。

「綺麗だね」
「うん」

 響がぼそりと呟いて、それに詠が返事をする。響が花火を手に持つから、詠は柄が長いライターで響の持つ花火の先に火をつけた。
 シュワシュワと爆ぜる音がする。

「なんかコレ、勢い凄い」

 響の持っている花火は先から勢いよく火を噴き出していた。

「本当だ! 私もやりたい。どの花火?」
「赤いのに黄色いヒラヒラが付いてるヤツ」

 言われた花火を手に取って、響の花火に合わせる。
 火が移って間もなく、爆ぜる音が段々と大きくなり、それから連続して一つの音になると同時に、勢いよく噴出した。

「おお、すごい!」

 詠は勢いよく噴き出す火を小さく振り回した。
 たくさん買ったはずの花火はあっという間になくなってしまう。

「勝負するしかないでしょ」

 線香花火を片手に言う詠に、響は笑う。

「言うと思った」

 線香花火に火をつけた。
 二人で背が縮んでいく線香花火を見つめる。
 こんな時の二人は、いつも真剣で。

 先にポトリと中核が落ちたのは、響。

「響……」
「……なに?」
「弱くない?」

 そう言うと響は少しむっとした表情をして、新しい線香花火を取り出した。
 詠の持っている線香花火が終わると、響はさっさと次を差し出した。

 しかし次も、響の線香花火が先に終わる。

「……手加減してやろうとか思わないの?」
「勝負に手加減とかないから」

 今まで散々してやられたことを思い出した詠は、何度も響に言われた言葉をやっと彼に返した。

 線香花火も終わってしまった。

 だからもうそろそろ、この魔法を解かなければいけない。

 二人は一つずつ石灯篭の火を消した。吹き消しても名残る火を見て、このままずっと消えなければいいのにと思った。
 最後の火を消し終えると、神社はまた息を潜めて元通り。

 別れの畦道を、手をつないで歩く。

 子どものころは何も考えていなかった。
 会えない季節さえ愛しく思って、だけどいつの間にか、会えない時間が苦しくなった。

「響はさ」
「うん」
「私と一緒にいたかった?」

 明るい声で、何の気もないみたいに問いかける。

「一緒にいたかったって、何回も思ったよ」

 空白の夏を少しでも、ほんの少しでも響で埋めたくて。
 それはきっと、お互いさま。

「もしあの時気が付かなかったら。せめてもう少し遅かったら。詠は引退してこの田舎に来てたのにって。だけど、早く気付いてよかったとも思ったよ。だって詠はいつも、一人で生きて行こうって必死だった。この場所はきっと、詠にとっては今までとは違う世界だから」

 響はそこまでわかってくれていたんだ。
 そう思うとやっぱり、二人は似た者同士で。お互いの事をよく分かっている。

 どんな選択をしてもきっと、二人の未来は変わらなかっただろう。
 だからこれから二人は、せめて間違っていないはずの選択肢を選ぶ。

「詠、俺さ」
「うん」
「多分来年の夏までは生きていられない」

 心臓がねじれるような音が、大きく一度だけ自分の中に響く。

 もうまもなく、跡形もなく、魔法は解けてしまうのだと思った。

「だからダメだよ。夏以外の季節に、ここに来たら」

 詠はゆっくりと息を吐いた。
 詠はいつも通りを装って口を開く。

「また夏になったら、ここに来るよ。しばらくは来られないけど」
「じゃあ幸せになったら、会いに来て」

 響は手を繋いだまま一歩先を歩きながら、そういう。

「俺がいなくても今幸せだなって思えるようになったら、俺に会いに来て」

 残酷なことを言う。
 響のいない世界にはきっと意味なんてなくて。
 だけど響は、意味を見つけて生きろと言うんだから。

「……幸せかどうかなんて、わからないよ」
「大丈夫だよ」

 響はそう言うと、握っている詠の手を少し強く握った。

「じゃあ私が幸せになって会いに来たら、響はあの神社で待っててくれる?」

 少し震える声で、でも笑顔を作って問いかけた。

「俺さ、学校帰りにシロツメクサが咲き始めるのを見るのが楽しみだった。詠に会える季節が少しずつ近付いてるんだって思って。夏休みの時期になったら、朝から詠を待ってたよ。夏休みの真ん中の昼過ぎに来ることなんてとっくにわかってるのに、もしかしたら早く来るかもしれないって思って待ってた」

 それはいつか響が、恥ずかしがって隠したがった事実。

「だから俺はずっと、夏を待ってるんだと思う」

 いつも違う場所で、いつも二人で、夏を待っていた。
 もう二度と、二人の知る夏は来ない。
 だから。

 詠は握っている響の手をはなした。
 響は大して驚いた様子も見せずに、詠の方へと振り返った。

「響!」

 だから、夏が消える前に、どうしても刻み付けたくて。

「響が私の事どう思ってるか、まだ一回もちゃんとした言葉で聞いてない!」

 この思い出がいつか美談になるくらいなら、呪いのような苦しみでいい。

「どう思ってる? 私の事」

 刻み付いて残るものが、死ぬまで癒えない傷でいい。
 それでもいいから、この夏を何度も、何度でも思い出したい。

「詠」

 響は全部吹っ切れたみたいにそう言って、笑う。

「好きだよ」

 綺麗な顔で笑って響が言う。詠は飛びつくみたいに、響に抱き着いた。

「私も大好きだよ、響」

 目の前に迫った別れが来ることさえ、まるで嘘みたいに思えて。

 きっとこれから先の人生で、これほど心が満たされる事はない。
 そしてきっとこれから先の人生で、これほど離れがたい瞬間を迎える事はない。

 ひとつだけ願いが叶うなら、二人で一緒に消えるみたいに、この夏の真ん中で死んでしまいたい。
 そう思っている事を、誰か優しく叱ってほしい。

 だけど大切な響と約束をしたから。
 響が応援してくれた〝咲村詠〟に戻らないといけないから、もうお別れ。

 だからそろそろ、詰め込んだ夏に自分でふたをする。

 詠は最後に目を閉じて、響の温かさに身を委ねて、それから背伸びをして、キスをした。

 浮かび上がってくるのは、途方もない響への感謝。
 だけど〝ありがとう〟という言葉は、悲しすぎて。

「またね」

 いつも通りの別れの言葉。
 しかし自分の鼓膜を通ってから、その言葉は〝()()会おうね〟という意味の言葉なのだと頭をよぎる。

 それはもう二人の最後を結ぶには足りない言葉。

 普段使う言葉の意味なんて、こんなことにならなければ考えもしなかっただろう。

 詠は響から身体をはなして、正面から真っ直ぐ響の目を見た。
 それから詠は小指を差し出す。

「ちゃんと待っててよ」

 そう言うと響は笑って小指を差し出し、詠の指と絡めた。

「うん、待ってるよ」
「おやすみ、響」
「うん。おやすみ」

 詠は畦道を跨いで、アスファルトを踏みしめた。
 指の感覚が、はなれる。

 途端に胸の内の穴がむき出しになったことに、詠は気付かないふりをした。
 いつも歩く帰り道を、振り返らずに歩いた。

 振り返ってしまうと。外の景色に気をやってしまうとどうなるか。自分が一番よく分かっていたから。

 今日一日を思い出して時には笑顔を浮かべながら道を歩き、それから車に乗り込んだ。
 アクセルを踏んで、東京に向かって車を走らせた。

 見慣れた景色をなるべく映さないように前だけを見る。
 見慣れない道に入ったころ、ふいに吸った息が喉元で震えた。

 詠は路肩に車を停めて、ハンドルに額を預けた。
 涙は今か今かと外に出る事を待っているみたいに溢れて、押し寄せて、留まることを知らない。

 夢から覚めた。
 魔法は解けた。

 でも疼く胸の痛みが、夏を証明している。
 石造りの鳥居の前で立ち止まり、息を整える。
 それさえも懐かしい。

 詠は石段を一歩一歩上がった。

「響」

 〝響〟
 その言葉で、現実から一気に引きはがされてどこかに引っ張られる。
 それは昔、この場所に来て感じていた日常の外側に入り込んだ感覚に似ていて、でも明確に何か違う。

「ただいま」

 響との最後の約束。

 〝じゃあ幸せになったら、会いに来て〟
 〝俺がいなくても今幸せだなって思えるようになったら、俺に会いに来て〟

 響との待ち合わせ。
 それから、あの夏の忘れ物を取りに来た。

 響がいつも座っていた中間地点を通り越して、一番上まで上がった。
 社殿の前を通り過ぎ、相変わらず掃除道具が散乱している物置小屋の中から響が家から持ってきたスコップを手に取った。
 ずいぶんと錆びていて、時の流れを感じる。
 きっと響が最後に使った時からずっと、この物置小屋の中で眠っていたのだろう。

 最後の夏。詠はタイムカプセルを埋めたことをすっかり忘れていた。
 響は覚えていたのだろうか。同じように忘れていたのかもしれないし、もしかすると覚えていたのかもしれない。

 中間地点の石灯篭と木の横。
 以前掘り返してタイムカプセルを埋めたはずの場所は周りと変わらずに草が生えていて、外から見ると全くわからない。

 スコップを土に刺すと軽い音がする。砂を抉って山を作る。後はタイムカプセルが見えるまでそれを繰り返すだけ。

 五分も掘れば、あの日に埋めたお菓子の缶が顔を出した。
 劣化して錆びている群青色の缶を穴の中から取り出す。木漏れ日が群青色の上を動いた。

 詠は服が汚れることなんて気にもしないで、土の上に座り込む。そして、膝の上に乗せた群青色の缶に付着した砂や泥を、優しく撫でるように払った。

「懐かしいね、響」

 それから詠は、タイムカプセルのふたを開けた。

 まず見えたのは、高校三年生の自分が入れた封筒。その下に重なるのは、響が入れた封筒。
 封筒は汚れたように劣化しているが、問題なく見る事が出来そうだった。

 どんなことを書いたんだっけ。詠は自分の手紙を開ける。

 そこには当時、この田舎に単身で来ることが怖い事。俳優として仕事を続けるべきかどうか。必死に戦った悩みと、今の自分が何をしているのかという問いかけ、そして最後に今の自分がどれだけ響の事が好きなのか。という事が書いてあった。
 そして文字を中央に寄せて書く書き方も、青と赤のボールペンで動物やら花やら適当にイラストを散りばめている所も、感性が若い。

 そんな事を思いながら、詠は思わず笑みを浮かべた。
 
 この手紙を書いた時点でまだ気持ちが定まっていなかったことが信じられないくらい。
 今他人事としてこの手紙を見れば、もうこの田舎に来たい気持ちはほとんど定まっているように思えた。

 それを当時の自分は本当にもがくように悩んでいたのだという事を思い出す。
 そして、大人になったのだなと思った。

 響の封筒は詠の物と同じように古びているが、詠の封筒の下に重なっていたからか、詠の封筒よりは劣化していない。
 
「どうしようか……」

 しかし、響は最後の夏。〝待っている〟と言った。

「響、開けるからね」

 詠は一言断りを入れてから、響の封筒を手に取った。
 詠の封筒よりもずっと分厚くて重い。

 紙だけじゃない。
 何が入っているんだろう。

 そう思って封筒を開けると、一枚の手紙。
 それを引き抜くと現れたのは、裏返された写真。

 心臓がねじれる音。
 これは嫌な予感か
 それとも胸が鳴る期待か

 何かを忘れている予感。
 新しい何かを知る期待。

 ぐちゃぐちゃに混ざって、もう自分の感情がどこにあるのか、わからない。

 写真を右手の親指の腹と人差し指の第一間接で挟むようにして掴んだ。
 写真を合わせて挟んだはずの指が、少しずれる。

 写真が一枚ではない事に気が付いて、ほんの少し力を込めて封筒から取り出す。
 それから、表を向けた。

 小学六年生。
 夏祭り前に響と二人で撮った、古ぼけた写真。
 まだ活気を残していた頃の商店街や営業していた咲村旅館を背景に撮られた四枚の写真。

 いつもいつも、響に会えた二週間だけに夢中になっていた。

 写真を撮って肝心のその写真をもらっていないことさえ、忘れていた。
 きっと、祖父母も写真を現像してから時間が過ぎて、渡し忘れてしまったのだろう。

 あの夏を残した四枚の写真。
 今とはなにもかもが違う景色が写っている。
 何も知らない二人が、笑っている。

 震える喉元でゆっくりと息を吐いから、もしかすると今まで呼吸を忘れていたのかもしれないと思った。

 今となっては残酷な何かを、鮮明に思い出そうと心の内側でもがいている。それがタイムカプセルの中に入っていたのか、自分の内側で出るのを待っていたのかわからない。

 意識の内側で巻き起こる嵐のような感情を、その有様を、他人事のように一線を引いたどこかから見ている気がする。

 高校三年生の響から、大人になった響への言葉。
 詠は震える手で響が書いた手紙を開く。

 イラストに埋もれて、たった一行。

 〝詠と一緒にいたかった。〟

 今、すべてを思い出す。
 底の見える美しい川の水面を魚が叩いた飛沫。川水の冷たさ。海水の生ぬるさ。人間同士が作る沈黙の隙間を埋めるカエルとセミの鳴き声と、涼しい風鈴の音に、凪打つ草の囁き。

 夏という季節にだけ縛られた思い出。
 この場所で起きた出来事の全て。
 ひと夏を幾重にも重ねて彩った日々の事。

 あの夏を全部思い出したと思っていた。
 それなのに、忘れていた。
 美談になんかしないと思った、最後の夏の事。
 この思い出がいつか美談になるくらいなら、呪いのような苦しみでいいと思ったこと。
 刻み付けるものは、永遠に癒えない傷でいいと思ったこと。

 もう今となれば疼く胸の痛みだけが、あの夏の証明。

 いつだって夏以外、いらなかったのに。

 私は誰かの子で。
 誰かの妻で。
 誰かの母で。
 その役割を、生涯をかけて全うする。

 響のくれた前向きな人生の中で生きていく。
 自分の人生に責任をもって、これからもその役割が許される限り、生きていく。

 これ以上の幸せはいらない。
 私は充分、幸せ。

 心の底からそう思っているけれど、一つだけ、弱音を吐くことが許されるなら。

 やっぱり私は、あの夏の真ん中で死にたかった。

 そう思っている私を、誰か優しく叱ってほしい。