「私……」

 いつもなら、こうやって言葉を選んでいれば

「私は……」

 響は手を差し伸べてくれただろう

「私が傷付くって、思ってくれなかった……?」

 でも絶対、もうそんな展開にはならないのに。
 わかっているのに、響にすがりつきたい気持ちが、消えない。

〈傷付くと思った。でも――〉

 次の言葉を聞けば、ほんのりとともった明るい気持ちから急降下することは、何となくわかっていた。

〈――二週間しかここにいない詠にバレる訳ないって思ってた〉

 詠の事が好きだったのは本当だよ。
 この期に及んで、そんな言葉が返ってくると思っていた。
 でも別に、そんな上辺をなぞるセリフみたいな言葉が欲しい訳じゃなくて。

 青春恋愛漫画が原作のドラマや映画では、ラストは一途に互いを想って終わるじゃないか。
 それともそれは極めて稀な事で、これが現実なのだろうか。

 今まで夢を見ていて、自分の感性がずれているのだろうか。
 正しいのは「一人で生きていけるようにしなさい」と言った母だったのだろうか。

 わからない。
 わからなかった。
 ただの女子高生にはわかるんだろうか。

 あの時確かに響の気持ちを感じて、想いは重なっていると疑いもしなかった。
 あれが全部嘘? 冗談でしょ?
 そんな言葉が、ぽつりと胸に浮かぶのに、喉元で絡まってとても言葉にならない。

 怒りも悲しみも通り越して、心に穴が開いたみたい。

〈ごめんね、詠〉

 でもきっとこの穴はすぐに、マイナスの感情で埋まっていく。
 そして響と関われば関わるほど、この穴は広く深くなる。
 そんな予感。

「大嫌い」

 みっともないほど震える声でそう言って、詠は電話を切った。

 しばらくぼんやりした後、大切な何かを失うのはこんな気持ちなのかと他人事のように考えた。
 きっと今なら、絶望の底にいるヒロインをうまく演じられる。
 そう思ってすぐ、詠は乾いた笑いを漏らした。

 約十四年積み上げてきたものと、これからの人生を捨てる決心をした。
 それでもよかった。
 ただ響が、好きだと言ってくれるなら。

 響と出会って、たくさんの事を感じた。どうしようもない幸せもたった今感じている絶望も。

 ぜんぶ、利用してやる。
 絶対に見返してやる。
 俺はこんな大女優を捨てたんだと、必ず後悔させてやる。

 そう思ってやっと、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
 涙を止める気にはなれなかった。

 それから詠は若さを最大限利用して、青春恋愛ドラマや映画を中心に活動した。
 もう恋愛シーンを撮影する事に 遠慮も配慮もしなくていい。
 失うものがない人は強いと言うが、それは事実だ。

 恋愛に絡んだ役を演じる時、あの頃の響を思い浮かべた。
 目の前に響がいる。そう思うと、ごく自然な演技ができた。こんな言葉を言いたかった。こんな風に抱きしめて、こんな風に響にキスをして。

 その時だけは素直になれて、その度に、響が好きだと思い知る。

 それからマネージャーは、一途に主人公を想っているのに報われない女の役を持ってきた。はまり役だという世間からは高評価を皮切りに、ドラマで姑息な裏切り者の役を、映画では若き天才犯の悪役を。そして連続ドラマの主演を。
 数年かけて完全に〝子役〟のイメージを払拭し、演技の幅を広げた。

 後から聞いた話だが、マネージャーはヒロインの役を演じた時に少しの憂いが混じっていている事に気付いたらしい。だから恋愛二番手の役を持ってきたのだと言う。

 あっという間に酒を飲める年を超えて、二十三歳を迎える頃。男を翻弄する役が評判を呼び、本格的に〝咲村詠〟という架空のキャラクターに結び付いた。

 やはり、失うものがない人間は強い。
 詠を突き動かしているのは〝後悔すればいい〟という強い気持ちだけ。
 それでも相変わらず、〝役〟が愛する人を前にした時には響を思い描く。大切な人に触れる時も、温かい気持ちは全部、響から貰った。

 同時に、恨む人を前にした時にも響を思い描いた。
 響との思い出に付随する感情の全てを演技で吐き出すと詠は決めていた。
 自分の持ちうる全てで、後悔させてやる。そんな気持ち。
 恨みが晴れることも、想う気持ちが消える事もない。
 だからきっと、報われることはないだろう。

 役から抜けた時に、ふと思う。響はどんな大人になっているんだろう。もし響を目の前にした時、響を許せるだろうか。

 いつからだろう。街中で響に似た人を視線で追うようになったのは。
 そう言えばいつか海で遊んでいるときに、鈴夏は響の事を視線で追っていたな。そう考えると、ズキンと確かに胸が痛む。鈴夏もこの気持ちを味わったのだろうか。じゃあ鈴夏は今、心底いい気分に違いない。

 そう思って、バカげていると嘲笑する。響と最初で最後の電話をした時に思った。鈴夏という女の子はそんな人間じゃない。自分はそこまで、人を見る目は腐っていない。

 気付けば日々の全てが、あの頃に縛られている。

 対向の道に飾られた、大手化粧品メーカーの看板。気取った顔の自分が載ったそれを横目に、夜の騒がしい街を歩く。いつもの風景。詠の隣を通り過ぎる、いたって普通のタクシー。

 息を呑んだ。その男は少し顔を向こうに傾けていて、正面から顔が見えた訳ではない。でも、響に似ている。視線を響に似た人に定めて確認しようとした頃には、タクシーは通り過ぎて、小さくなっていった。

 似ていただけ。いつもの事。だけどいつも、心臓の音がしばらく鳴りやまない。反射的に息を呑んで反応してしまう。一体いつまで、こんなことを続けるんだろう。
 そう思って、今日も一日が過ぎていく。

 海外で大きな仕事が決まる頃、詠は二十五歳になっていた。
 この仕事が成功すれば〝咲村詠〟は日本から一歩飛び出る事になる。

 何度も思い出した。
 何度も記憶をなぞった。

 役に入り切っていても、役から抜けきって本来の自分に戻っても、心の中には響がいる。

 まだ幼い響が、あの神社の石段の真ん中に座っている。
 響があの優しい顔で笑っている。
 〝詠〟と優しい声で名前を呼んでくれた、あの日々。

 日本を出る前に最高の自分であの場所に戻って、一つの区切りをつけに行こうと思った。