あくびをかみ殺すスタッフに、大きな声で雑談をするスタッフ。
この現場はやる気がない。
だからどうしても、気分が乗らない。スタッフの雰囲気の良し悪しは、演者にダイレクトに影響する。
ダウンジャケットとマフラーが手放せない時期に行う、設定上はひとつ先の季節の撮影。
詠は白い息が出ないように、もう何個口に含んだかわからなくなった氷で口の中の温度を下げた。
俳優はテレビ越しの人が思っているよりもずっと体力勝負。
スタッフが普通に長袖を着込んでいる中、薄着で寒い思いをしているのだから退屈そうにするのはやめてほしい。
さっさと終わりにしたいのはお互い様だ。
「はーい。いいでーす」
監督の声が聞こえて、詠はさっさとダウンジャケットを着た。
こんな現場を経験するとき、演技をするのが馬鹿らしく感じる。
しかし詠はその時にいつも響と響の祖母を思い出していた。それから颯真と、鈴夏の事も。
遠く離れているけれど、みんなが見ていてくれる。一方的ではあるけれど、それは詠からあの田舎に向けて唯一、元気にやっている、と見せられる機会だった。
桜が咲く季節。
過去に一度ノミネートされたことのある賞で、今回初めて新人最優秀賞を取った。
大人たちを横目に壇上に上がる。嬉しい気持ちよりも、緊張が勝っていた。
「この度はこんな素敵な賞をいただいて、ありがとうございます。まさか、自分がいただけるとは思っていなかったのですが……」
撮影したのは一昨年。公開されたのは去年。
演じ切った事を改めて思い出して思うのは、人間の愛の形はいろいろとあるという事。
虐待されて育った子が愛を探し、知るお話。
虐待の傷は、母から受けた精神的な苦痛を大きく増幅させて。愛は、響や響の祖母から貰ったあの温かい気持ちをそのまま。雑誌を買って持っていてくれたことも、綺麗になったと褒めてくれたことも、全部。
自分の持っているものを全て吐き出した役だった。ここ数年、家族もののドラマや映画では暗い雰囲気の役が多い。
しかし詠はこの映画に特別な思い入れのようなものがあった。頭から離れない事が一つある。
育児のストレスから虐待に走った母親役の女優が見せた出産の回想シーン、赤ちゃんを初めて胸に抱いた時の表情。
言葉にしなくても伝わるほど嬉しそうな顔で、泣いていた。
これはNGだろうと思っていたのに、監督はその演技を大絶賛。
生まれた時にそれほど嬉しいなら、どうしてその子どもにつらい思いをさせるのだろう。
どう気持ちが変化すれば、あれほど酷い虐待に走るのだろう。今持っているものだけでは埋められない何かが間違いなくそこにはある。
やはり自分はまだ、子どもなのだろうか。
詠はステージの上で笑顔を見せる。
響と響の祖母は、この放送を見ていてくれているかもしれないから、せめて綺麗に笑おうと思って。
差し障りのない事を言ってから降壇する。
それから当然しばらくの間、詠の知り合いは騒がしかった。
「ただいまー」
学校帰りの誰もいない家に、昔からの習慣で言う。
「詠ちゃん、おかえりなさい」
中からかすかに聞こえた小梢の声に、詠は靴をそろえてから長い廊下を抜けた。
「小梢さん、どうしたの? こんな時間に」
「話したいことがあって、待っていたの」
一緒に食事をするときはお互いに予定を確認し合う。何も言わないで小梢が待っているという事実が、なんとなくいい話ではないと詠に予感させた。
詠はとっくに足が届くようになったアイランドキッチンのカウンターに座った。小梢もその隣に腰を下ろす。
「実は私、家政婦のお仕事を辞める事にしたの」
「どうして急に?」
「娘夫婦が離婚しちゃってね。まだ孫が小さくて手がかかるから、保育園の送り迎えとかいろいろあって続けられそうにないのよ」
幼い頃から小梢を知っている。
いつか子どもが結婚して孫が生まれたら。そんな話をしていたかと思えば結婚して、孫ができて。それから、離婚して。
詠はこの東京で、このいつまでたっても居心地の悪い飾られた店のような家の中で、時間が流れていることを改めて実感した。
みんな、変わっていく。
いつか演じた作品の中で、〝変わっていくことは悪い事じゃないよ〟というセリフを誰かが言ったことを詠は思い出す。
悪い事ではないかもしれないけれど、今を生きる自分たちにとっては、とても悲しい事のような気がした。
「……そうなんだ」
「今までありがとう、詠ちゃん。私、詠ちゃんから幸せをたくさんもらったわ」
そう言って小梢は、詠の手を握った。
「何言ってるの小梢さん。お礼を言わないといけないのは私の方だよ」
詠は自分の知っている幼い頃よく繋いでくれた小梢の手を思い出した。
そのころよりもずっと、小梢の手は乾燥している。一体いつから小梢の手は、こんなに疲れてしまっていたのだろう。考えてみても、心当たり一つ浮かばなかった。
「最後にお茶でもどう?」
そういう小梢の言葉に同意すると、小梢はレモングラスティーを入れてくれた。
お茶を飲みながら、懐かしい話をたくさんした。
学校の行事に参加してうまく立ち回ってくれたのも、芸能人として生きてこられたのも、全て小梢のおかげだ。
「お母さんがいなくて寂しかったとき、小梢さんがいてくれたから頑張れたんだよ。本当にありがとう、小梢さん」
自分の中にあるありったけの感謝を込めて詠はそういう。
改めて言えば照れくさくて。母の日に感謝の気持ちを表す女子高生はこんな気持ちなのかもしれないと思った。
「頑張ってね詠ちゃん。これからはテレビの向こうで応援してるから」
帰り際、小梢は玄関のドアを開けて振り返りながら言った。
その言葉を最後に、ドアが閉まる。
それは流れとしては完璧な当然の別れの言葉のように思えた。
しかし昔から知っている小梢のその言葉は、自分が芸能人であることを心のもっと深い部分で思い出し、それから理解した。
小梢のように応援してくれている人がいて初めて成り立つ仕事だ。
現場が嫌だとか、スタッフの態度が悪いだとか。そんなことはわがままなのかもしれない。
役者の仕事は移り変わりが激しくて、役者が一人いなくなったとしても他の人であっさりと埋められて、居場所はあっと言う間に奪われてしまう。
響ともっと一緒にいたい。
でもそれはきっと、誰かにとっては〝咲村詠〟のわがまま。
もう高校一年生は終わった。
東京での一日は最近、長いようで短い。
高校受験をしておらず、これまで自分で選ぶという事をしてこなかった詠は、途方もない選択肢の中で身動きが取れずにいた。
高校を卒業した先で、どんな人生を歩けばいいのか。
その全部が、自分の責任。
何かに寄り掛かってしまいたくて。寄り掛かってしまいたいと思うたび、響に会いたくなる。
納得する答えが見つかりますように。
詠はそう願って、目を開けた。
今年も変わらずこの神社には響がいて、この社殿がある。
いたるところで工事が終わっては始まる東京と同じ時を刻んでいるとは信じがたいほど、何も変わらない。
響の日常。
詠にとってはたった二週間の非日常。
また今年も、恋焦がれた短い夏が来た。
「そうだ。おめでとう、詠」
石段を降りながら、響が言う。
それが春に取った新人最優秀賞の事だというのはすぐにわかった。
「見ててくれたの?」
「うん。見てた」
響はあっさりと言いながら、石段を降りていく。
「可愛かったでしょー? あの私」
「可愛かった、可愛かった」
浴衣を着た時と同じように、響はテキトーにあしらう口調で言う。
響は覚えているだろうか。もう何年も前の出来事を。
何の気もなしに〝可愛いでしょ?〟と問いかけて、〝響のお嫁さんになってあげてもいい〟なんて冗談を言って、ただ対等に、平等に、戯れて過ごしたあの夏を。
「詠ちゃん、いらっしゃい」
「響のおばあちゃん。今年もお世話になります」
毎年恒例。響の両親に線香を上げる為に響の家へ行くと、今年も響の祖母は温かく出迎えてくれる。
「おめでとうねー、詠ちゃん」
「ありがとうございます」
「もう嬉しくて、嬉しくて」
響の祖母はそう言うと、目に涙をためて詠を抱きしめた。戸惑っている詠の背を、響の祖母はゴシゴシと強い力でさすった。
どんな風にしたらいいのかわからなくて、詠は戸惑いながら響を見る。
響は優しい顔で笑っていた。響の表情に、響の祖母が優しく抱きしめてくれている事に、事実が絡まって、詠の涙腺を緩ませた。
この場所が好きだ。いつも温かいこの場所が自分の中から消える事が、詠には想像が出来なかった。
納得する答えは、見つかるだろうか。
詠は誤魔化すように、響の祖母の肩口に顔を埋めた。
それから、「美味しいご飯つくるからね」という響の祖母から離れて、お日様の恩恵が満ちた廊下を通って、まずは響の両親の写真が飾られた仏壇に線香を上げて手を合わせる。それから隣の客間で響の祖母が作ったそうめんと天ぷらを食べて、響と二人で皿を洗う。
二人が客間に移動した後は、響の祖母が麦茶を持って来る。
「響ちゃん、こんな田舎で暮らすって意固地になってないね」
「え?」
響の祖母はまるで世間話のようにあっさりと言う。
心構え一つしていなかった詠はあっけにとられて響の祖母を見たが、いつも通り、ゆっくりとした動きで麦茶をお盆からテーブルに移している。
「詠ちゃんは仕事があるやろうしね」
響の祖母の手から離れたグラスには氷がたくさん入っていて、テーブルに置いた衝動でカランと音を鳴らした。
「咲村さんと話していてね。あの二人は一緒になるつもりなんかねって、」
「ばーちゃん」
響はそういう祖母の言葉を少し強い口調で止めた。
何の話か分からない詠は響と響の祖母をちらりと見た後口を開いた。
「あの……。一緒になるって?」
「結婚するって事」
「け、結婚……?」
表情を変えずにそういう響は、何の感情も乗せずにそう言い放つ。詠は少し顔が赤くなるのを感じた。
「詠には向こうに詠の生活がある。口を出すのは止めてあげてよ」
「でもね、響ちゃんはいつも私の事を気にしてばかりで。……響ちゃんには、響ちゃんの人生があるんだから」
その言葉に、響は黙ったままだった。
結婚。
そんな事をこの状況で口にできるはずもなかった。将来さえ決めていない。さらに言うなら付き合うという工程さえ踏んでいない。
「ごめんね。私たちの頃は二人くらいの年齢で一緒になる事なんて、珍しくもなんともなかったもんやから、つい。……じゃあ詠ちゃん、ゆっくりしていってね」
「はい。ありがとうございます」
響の祖母はそう言うと、笑顔を作って客間から出て行った。
響は麦茶のグラスを二つ掴むと、廊下に移動する。
そして二人で外に足を放って冷たい麦茶を飲んだ。
響は祖母がいる限りこの場所をこの家を離れる気はない。
だからこれは、自分の問題。しかし、響と一緒にいたいという思いがある限り、到底一人で抱えていて解決する話ではない。
去年、縮まったと思っていた距離は勘違いだったのかもしれない。
外を歩くとき、自分から響の手を握った。
響はそれをそっと握り返した。
「どこに行きたい?」と聞かれた時、人気のない場所を選んだ。
響はそれに同意を示した。
しかし、去年の様に響から手を繋ぐ事はなく、響の行きたい場所が詠と重なる事もなかった。
それなのに響は、いつもと変わらず楽しそうに笑っている。
もしかしたら響は、この二週間だけ自分に会う事を楽しみにしていて、真剣に将来を考えているのは自分だけなのかもしれない。
響と一緒にいる事がただ楽しくて。その気持ちは重なっていると思っていて、今でもそうだと断言できる。
しかし、響が夏休みの二週間だけ一緒にいる事を楽しみにしていて、他の季節を夏と同じくらい楽しめているのなら、それは自分の持っている感情とは違うものだ。
そうなら〝詠と会うのはこの二週間だけで充分だよ〟と言ってくれたら、芸能人として生きていく事を決断できるかもしれない。
しかし、そう思ったのは本当に一瞬の事。すぐにそんなことを響に言われたら立ち直れないかもしれないなんて、女々しい自分が顔を出している。
響に会えば納得する答えが出るかもしれないと思っていたのに、一体どうしたいのか見当もつかない。
最終日の朝、旅館で目を覚ます。
いつもいつも刻みつけようと必死になっていた夏が、ぼんやりとしているうちに過ぎ去っていった。
夏は最初から、こんなに短かっただろうか。
去年はもっと
一昨年はもっともっと
この季節を楽しめていたはずなのに。
顔を合わせばいつも通り笑い合って、何もかもいつも通りに見せかけた今年の夏が、終わろうとしている。
今日は唯一、暗くなるまで一緒にいる事が許される日。
神社で待ち合わせた後、人気のない場所を散歩して、響の家で昼ご飯を食べてから、夕方まで話をしながらゆっくりした。
響の提案で海に行くことになり、初めて響がこぐ自転車の後ろに乗った。
響の「しっかり掴まってて」を口実に、響を後ろから抱きしめた。
すべてをやりつくしたと思っていた夏に、知らない風が吹いている。
夏祭りの準備でみんなバタバタしているのか、海に人気はなかった。足だけ浸かって、いつも冷たいと期待させておいて大して冷たくない海水の話をして、座ってまた、話をする。
辺りが薄暗くなる頃には、畦道を歩いていた。自転車を押して歩く響の隣を神社に向かって。
もう夏が、終わってしまう。
「俺が呼びに来るまでここで待ってて」
鳥居の横に詠を残して、響は一人で鳥居をくぐっていなくなる。
詠のすぐ隣にある竹の柵は鳥居から横にまっすぐ整列していて、木々を境内に閉じ込めていた。
都市部ではなかなか見ない、圧倒されるほどの緑。必要最低限しか人間の手が施されていない竹の柵もそれを結ぶ糸も明らかに劣化した色をしているのに、まるで朽ちるつもりがない。
詠は空に視線を移した。
薄らと見えて来る星。もうすぐ、真っ暗になる。
そう思うと急に不安になった。
今の今まで、よく知った田舎町だと思っていた。
しかし響がいないのなら、まるでここは知らない場所だ。
なんの馴染みも、思い入れもない。
この場所に関わる全ての感情が、響に繋がっているという事実。
響がいないなら意味がない。
響がいないのならここでは生きていけないという漠然とした不安のすぐ隣にある、響と一緒にいたいという想い。
でも、響は共に歩む将来なんて望んでいないかもしれないという、口に出すには重たい気掛かり。
いつから夏を、純粋に楽しめなくなったのだろう。
いつから目の前にある今の向こう側を、将来にばかり目を向けるようになってしまったのだろう。
どうしてこの場所の夜はこんなに暗くて、不安感を煽るのだろう。
東京の夜は、不自然なくらい明るいのに。
理不尽な恨みをぶつける当てもなく吐いた息は、喉元で震えた。
「お待たせ、詠。こっち来て」
柔らかい笑顔を浮かべる響を見て、ぽつんと胸の内に広がるのは紛れもない安心感だった。
心の内の温度差が、なんだか無性に泣きたい気持ちにさせる。
踵を返す響の後ろに続いた。
鳥居の前で立ち止まって振り向く響の気配を感じて、詠は俯いていた視線を上げた。
見た景色に思わず息を呑む。
響越しに見えた景色が、詠をそうさせた。
「綺麗」
石段の両脇に均等に並んでいる石灯篭から、淡い火の光が漏れている。
暗闇を暖かく裂いて、石段と木々を幻想的に照らしていた。
「昔、詠がこれが全部光ってたら綺麗だろうねって言ってたから」
響はそう言うと、詠から石灯篭へと視線を移す。
「いつか付けてみたいって思ってたんだ。こんなに綺麗とは思ってなかったよ」
幻想的に揺れて、小さく震える火の光をただ眺めている。
そういえばいつか、そんなことを言った。
いつだろう。夕方と夜の間。二人で夏祭りに言った時。小学6年生の夏のこと。
生ぬるい涙が頬を伝っても、それを誤魔化そうと思えるほどの余裕がなかった。少し俯いて涙を拭う詠に響はぎょっとした様子を見せて、それから心配そうに覗き込んだ。
「詠、どうした?」
響は勢いよく抱き着く詠を、数歩後ろによろけながらもしっかりと支えた。
響が好きだ。
この気持ちが恋じゃないならきっと、生涯恋という気持ちは理解できない。
今ならきっと、誰よりも恋愛ドラマのヒロインをうまく演じられる。それほど鮮烈に自分に刻み込んでいるこの想いは、感情の行く先を決める事ができないばかりに口にする事すら許されない。
響はどんな気持ちなのだろう。
同じ気持ちだと知ることができるならどれだけ幸せで、将来を同じ方向を見て話すことができたらどれだけ幸せなんだろう。
響を抱きしめているだけで幸せを感じているのに、もしかするとそれは死んでも構わないくらいの幸せなのではないかと思った。
「帰ろうか」
そういう響に、詠は響の肩口に顔を押し付けたまま首を振った。
「出た。詠のワガママ」
「響は私のワガママ、聞いてくれるって知ってる」
響の背中に回した両手で響の服を握る。
この夜に絆されて、もう少しだけ踏み込んでみたくなる。だから、応えてほしい。
「手、繋いでくれなかった」
「繋いだよ」
「響から繋いでくれなかった」
答えを大人に任せる子どものようにそう言うと、響は少し間を開けて小さく息を吸った。
「ちょっと恥ずかしかっただけ」
それは響のついた嘘。響は本当に恥ずかしい時、素直に口にしたりはしない。
それから答えはごく自然に出た。これは優しい嘘。きっと響にもこの先が分からない。東京で暮らす気が響にない以上、全てを捨てなければいけないのは詠の方だ。
もし芸能人ではなかったら。どこにでもいる普通の東京の女子高校生だったら。響は祖母に、『詠には向こうに詠の生活がある』なんて口にしなかったかもしれない。
ただ愛しいだけならよかったのに。愛しくて堪らなくて、同時に苦しくもある。
こんな思いをするくらいならいっそ、この夏に溶けて消えてしまえたらいいのに。
「俺にとってこの場所は、小さいころから暮してるいい所だよ。でもきっと詠にとっては違う」
響の口調は、穏やかでいて淡々としている。
神社の前で一人で待っていた時のあの孤独が蘇る。
それは、火照っている身体を少し落ち着かせた。
「そんなの、響にわかるわけない」
詠の精一杯強がりを聞いた響は黙っていた。それから小さく息を吐き、すっと息を吸い込んだ。
響のひとつひとうの細やかな動きにさえ、意識を向けていた。
「颯真ならどうするかなって考えたんだ。きっと〝絶対に幸せにするから〟ってあの真っ直ぐな目で見てちゃんと口にして、それを本当にやってしまうんだろうなって」
「じゃあそう言ってよ」
小さな小さなこの声が響にすがりついて、思わず颯真が言いそうなその言葉を口にしてくれたらいいのに。
そう思ってやっと、自分の欲しいものに気が付いた。響に背中を押してほしい。〝一緒にいよう〟〝幸せにする〟と言ってほしい。
そうすれば東京にある何もかもを捨てて、この場所で暮らす覚悟ができる。
「東京にいる友達も、家族も、努力してきた事も全部捨てて、こんな何もない田舎に住んでくれって?」
確認するように淡々とした口調で言った彼の言葉は、あまりに彼らしくない。
そんな無責任な言葉は似合わないとさえ思う。
もどかしくて、何かを吐き出したくて。でも何を吐き出せばいいのかさえわからない。
響は詠の背に腕を回して抱きしめ返した。それから詠の横顔にすり寄るように頬を寄せる。
考えていた事の全てが吹き飛んで、満ち足りた気持ちになる。何もかもすれ違っているのに、根本的な部分が重なっている事を本能で理解する。
これが幸せだと断言できるこの感覚を、学校のカップルたちは漏れなく知っているのだろうか。
それならどうして現実を投影したドラマの中でカップルは、浮気や不倫に走るのだろう。そんなことが無意識に頭に浮かんで、響に抱きしめられられている状況でも仕事の事を考える自分に嫌気がさした。
恋愛だけに夢中になれるただの女子高生だったらよかったのに。取り巻いている環境。夏以外の季節が、年齢よりも随分と背伸びをさせる。
だから夢さえ見られない。きっとそれはお互いさまだ。
あと一歩に届かなくて、どうしても触れられない。
響は何も答えない詠の両肩に触れると少し押しやるようにして距離を取る。
「そろそろ本当に帰らないと、みんな心配するね」
二人で石灯篭を始末をして、手を繋いで、畦道を歩く。
もう何もかも、いつも通り。
年にたった一度しか訪れない、いつも通り。
詠は小指を差し出す。
「また来年ね、響」
「うん」
次に会うときまでには答えは出るだろうか。
響と別れ際に視線が合わなくなったのは、いつからだろうか。
高校三年生になった。
新しいクラスでは担任が、この一年がどれだけ大切でどれだけ人生を左右するかという話を熱く語っている。
どうでもいい。どうにでもなる。
東京とはそういう場所だと、詠は知っていた。
「進学はしません。芸能活動に集中します」
就職を選ぶ生徒はまずいない中、詠は聞かれる度に決まり文句のようにその言葉を繰り返した。
芸能人はそんなものなのだろうと思うのか、教師はそれ以上何も言わない。しかし実際、詠の中で答えが出ているわけではなかった。
詠は何度も、あの田舎で生活している自分を思い描いてみた。しかしそれはいつも、上手くいかない。
自分の力だけでは生きていけないというのは、どういう感覚なのだろう。田舎の狭い世界で誰かと力を合わせて暮らすというのは、母親にしてきたように他人の機嫌をうかがって自分を殺すという事に近いのだろうか。
だったらそれは自分が一番苦手としていることだと、詠は知っていた。
去年も答えは出なかった。芸能活動に集中するとしても、夏の二週間仕事を調節することは簡単ではないが出来ないことはないだろう。
とにかくこの家を出て……。そう思って考える。どうせ家を出るなら、あの田舎に。しかしあの場所には、単身でやってくる人間を受け入れる住居はなさそうで。離れているとなると、車が必要で、免許が必要で。いやそもそも、何の仕事で生計を立てるというんだ。
現実を直視してため息を吐き捨てる。心は明らかにあの田舎に向いているのに、いつも思考がそれを阻む。
響がいないなら、あの場所は縁も所縁も、なじみもない場所。
詠はリビングで食事を終えてから、皿を洗おうと立ち上がる。
小梢が家政婦の仕事をやめてから母は別の家政婦を呼ぶと言っていたが、もう高校生なのだから自分のことくらい自分でできると断った。
それからは週に数回、掃除や洗濯を家事代行サービスで利用していた。
食事は自分で作ったり、弁当を届けてもらったり。生活は何一つ困っていない。
玄関のドアが開く音がした。いつもより早い、母の帰宅。
楽しみだったこの音が警戒心を煽るだけの音になったのは、一体いつからだろう。
「おかえり」
「ただいま」
リビングに入ってくる母にさらりとした口調で言うと、母は荷物をカウンターに置きながら目も合わせずに返事をする。
「好きな人がいるの?」
唐突に母からそう言われて、一瞬何の話をしているのかと思った。自分に好きな人がいるから再婚するとかそんな話だろうかと思ったが、それだと疑問形はおかしな話だ。
恋愛話をするほど親密な親子関係だっただろうかと記憶を辿ったが、そんなはずはない。
「なに急に」
「なんだかここ最近、様子がおかしいから」
ここ最近というのは一体いつだろう。少なくともこの事は一年以上前から悩んでいる訳で、最近ではない。そもそも毎日数分顔を合わせればいい方の親子関係に様子をうかがう時間などありはしないと思うのだが。
「お母さんに迷惑はかけないよ」
曖昧に返事をする。深く突っ込まれれば上辺だけさらっと話をして部屋に戻ればいいし、このまま無言ならそれでいい。
「仕事、辞めようと思ってるの?」
「どうだろう。まだ決めてない」
手を洗った後、金属の輪にぶら下がったタオルで手を拭いた。
「そんなことで人生を棒に振るのはやめなさいね」
一瞬、母が何を言っているのかわからなかった。
母がどんな権限を持ってして誰にアドバイスをしているのかも、詠にはすぐに理解できなかった。
詠は思わず母を見たが、母はすでにソファーに腰かけていた。〝親として当然の事〟とでも言いたげに、目も合わせずに。
「えっ。……私に言ってるの?」
「一人でも生きていけるようにしなさい。それが自分のためよ。仕事を辞めるなんてバカげてる」
母の言葉の意味を理解して心の深い所まで落ち込んだ後は、それを燃料にフツフツと怒りが湧きあがってきた。
「いまさら何!?」
自分の考えを否定されたから。そんな単純な怒りではない。
今まで何もしてこなかったくせに。この人の言動に親としての愛を感じた事なんてない。もしそれが、自分の経験則から導き出される子どもに対する純粋なアドバイスなのだとしても、絶対に受け入れる事はない。
「今までずっと、仕事仕事でまともに子どもに構いもしなかったくせに! 自分の考えと違う事だけ、偉そうに説教しないでよ!!」
詠はリビングから飛び出すと、廊下を足早に駆けて部屋のドアを大きな音を立てて閉じた。
頭の中を母の言葉が占拠する。
『一人でも生きていけるようにしなさい』
あの田舎での暮らしはあまりにも、母の言葉から遠い。
わかっている事をもう一度刷り込まれたような感覚。
それも、一番言われたくない人に。
「……響」
ぼんやりと呟いた声が、鼓膜を通る。
大都会東京にその名前の響きは、どこまでも似合わない。
どこまでも似合わないと思って、それから初めて寂しい東京で温かい名前を耳に通したことに気が付いた。
結局何も決めきれないまま、夏は来る。
石段のいつもの場所から詠を見つけた響は嬉しそうに、それでいてどこか悲しそうに笑う。
また一つ、響は大人になったと思う。
詠は社殿に手を合わせながら考えた。
神様がいるのなら、響と自分の将来を知っているのだろう。もし知っているのなら、教えてほしいと思った。
もし東京で暮らすとして、響は来年もこの場所で待ってくれているだろうか。
「最終日の夜、花火しようよ」
石段を降りていつものように家に向かう途中で響が言う。
毎年夜に祖父母が花火を準備してくれているが、東京で花火をしたのは、保育園の頃のお泊り保育と小学校になってから小梢とした二回だけ。
「うん。やりたい」
響の祖母に挨拶をした後、響の両親に線香を上げて、ご飯を食べて、縁側で麦茶を飲む。
この流れが当たり前になったのはいつからで、将来について話をしなくなったのはいつからだろう。
穏やかに夏が過ぎていく。
いつも通りの夏だ。
一緒にいられることが堪らなく嬉しくて、それなのに減っていく時間を悲しく思う。
互いの知らない時間を埋めるような会話をするようになったのは、一体いつからだろう。
思い出せない。
もう、どんな気持ちで夏を過ごしていたのか、よく思い出せない。
「ねえ、響。タイムカプセル作らない?」
「タイムカプセル?」
「あの神社に埋めるの。忘れた頃に二人で開けるってどうかな?」
「うん、いいよ」
タイムカプセルなんて……と響は気乗りしない様子を見せると思っていたが、どうやら見当違いだったらしい。
意見がぶつかった時になんだかんだと言いながら響が譲るのはいつもの事だが、今回に限っては胸騒ぎを誘発した。
響はもしかすると、大きな覚悟を決めたのかもしれない。
例えばもう、次の夏からは会わないとか。
響の考えていることは大体わかるはずだったのに、わからない事が増えたのは一体いつからだろう。
「ちょうどよさそうなのがあった」
縁側に座りながら麦茶を飲んでいると後ろからそう言われ、グラスを口から離して振り返った。
響は詠に群青色の長方形のお菓子の缶をテーブルに置いた。それから響は廊下側から客間を出ると玄関の方へと歩いて行った。それを視線で見送った後、詠は客間を見回した。
毎年来ているこの客間をゆっくりと眺めたのは、多分小学5年生で初めてこの家に来た時以来。
何一つ変わっていない。掛け軸も、置物も。
それなのに一体いつからこんなにぎこちなくて、お互いに探り合いながらも見て見ぬふりをするようになったのだろう。
「紙、何もないからこれでいい?」
そう言いながら響が持ってきたのは、よく見慣れた大学ノート。
「響もそのノート使ってるんだ」
「定番じゃない?」
共通点を見つけた気がして嬉しいなんて、子どもじみていると笑われてしまうだろうか。
響の日常を知らない。
誰とどんな道を通って学校に行って、どんな態度で授業を受けて、放課後はどんな風に過ごすのか。
たった二週間の夏。
それ以外の響を知らない。
知りたいと思ったことが頭の中を一周しているうちに喉元で絡まるようになったのは、一体いつからだろう。
「タイムカプセルを埋めるんやってね、詠ちゃん」
響の祖母は茶の間から顔を出して言いながら、響がテーブルに向かって座る客間を通って詠のいる縁側まで来ると、詠に封筒を二枚手渡した。それは千代紙でできていて、ちょうど写真が入るくらいのサイズ。紙が重なっている部分がわずかに湿っていた。
「可愛い。これ、響のおばあちゃんの手作りですか?」
「そうよ。さっき響ちゃんに聞いたから、急いで作ったから。よかったら使って」
「ありがとうございます。すごく嬉しい」
詠がそう言って笑うと、響の祖母は優しい笑顔を浮かべる。
「ちょっと出るから、ゆっくりして行ってね」
響の祖母はそう言うと、また茶の間と客間を分かつ襖を締め切った。
詠は麦茶のグラスを片手に立ち上がる。
「何枚?」
「二枚ほしい」
「おっけー」
響は詠がテーブルに座った事を確認すると、二枚の紙と三色ボールペンを滑らせるように差し出した。
「ありがとう。封筒、私こっちでもいい?」
「いいよ」
詠は紙とペンと封筒を一枚手に取る。以前、夏祭りの時に着せてもらった浴衣の柄になんとなく似ている封筒だった。立ち上がってから、足早に廊下側のテーブルの端に移動した。
「響、見ないでね」
「そんな悪趣味な事しない」
こちらを見もせずにそういう響に安心して、さっそく黒のボールペンを出す。
しばらく悩んで、現在自分が悩んでいる事、未来の自分に対する問いかけ、そして最後に今の想いを書いた。
文字を中央に寄せて書いて、青と赤のボールペンで動物やら花やら適当にイラストを散りばめる。書き終わって紙を四つ折りにしてから封筒に入れた。
そしてもう一枚の紙には、自分の名前と電話番号を書いた。
どうして今になってそうしようと思ったのか。それはおそらく、響のいつもと違う様子を察したからだ。
詠はそれを小さく折ってポケットに突っ込んだ。それからちらりと響を見た。彼はペンすら持っていない。
「書かないの?」
「何書いたらいいのかわからない」
「好きな事書いたらいいじゃん。誰に見られる訳でもないんだから」
「好きな事って言われても……」
どうやら響はこういう作業が苦手らしい。
詠は響の隣にペンを持って移動すると、自分の紙にも書いたイラストを響の横線だけのシンプルな紙に書いた。
「早く書かないと、この紙がどんどんイラストで埋まります」
「何それ」
「追い詰められたら書く気になるかと思って」
そう言いながら詠は下から上に向かってどんどんとシュールな絵を書いていく。
「俺もうこれでいいよ」
「いい訳ないじゃん。これ、未来の響が読むんだよ?」
「じゃあ離れといてよ。なんか書きづらい」
そう言うと響はしぶしぶと言った様子で紙にペン先を付けた。
詠は顔を逸らしてから、響を見ないようにして先ほどまでいたテーブルの端にゆっくりと移動する。詠が元の場所に戻って振り向くころには、響は封筒に折り畳んだ紙を入れていた。
「はやいよ、響。本当に書いた?」
「書いた書いた。いいんだよ。どうせ俺が見るんだから」
「夢がないなー。響は」
響がお菓子の缶の中に手紙を入れる。テキトーに折りたたんだのか、響の封筒は詠のものよりも膨れていた。やる気ないなと思いながらも口には出さず、詠も同じように缶の中に手紙を入れた。
響は缶の蓋を閉めると、ノートとペンを持って立ち上がった。
詠は何となく響に続いて客間を出た。お気に入りの廊下を左に曲がった正面。玄関から入ってすぐが、響の部屋。
「響の部屋、なんか久しぶり~」
「いつも客間とか庭ばっかりだしね」
客間同様和室の響の部屋は、凄くシンプル。
勉強机とベッドだけが広い室内にポツリと浮いているようにも見える。響の机の上には、折り畳みの携帯電話が置いてあった。響が携帯電話を持っていたなんて知らなかった。
携帯を持っているなら、どうして教えてくれなかったんだろう。
ズキズキと胸が痛んで、どうしようもない。
「前までは結構ごちゃごちゃしてたのにこんなに綺麗になって……。私は嬉しいよ」
「どっから目線だよ、それ」
「勉強道具とか、服とかないの?」
「ごちゃごちゃしてるのイヤだなって思ったから、全部しまってるだけ。押し入れの中にあるよ」
響はそう言うと、勉強机の上にノートとペンを置いた。
この空間で生活している響は、どんな顔をしているんだろう。
この空間に女の子が入った事はあるのだろうか。
何か考えるより先に、振り返った響に抱き着いた。
彼は少しバランスを崩して机に片手を付くと、動きを止めた。
詠は少し身を屈めていた届く距離にいる響の唇にゆっくりと顔を寄せた。
響はすぐに、顔をそらした。
「ここ、どこかわかっててやってる?」
「わかってる」
「ならタチ悪いよ」
「響ならいいって思ってる」
「……詠、男見る目なさすぎる」
「私は響がいい」
一年以上、ずっとうじうじと考え続けている。
東京にいたって答えは出ない。答えは出ないが、自分の気持ちはわかっていた。
響と一緒にいたい。
だから勢いに任せたら、後は全て決められるはずで。
「ダメだよ」
断定的な言葉を使う割に、響の言葉の響きには葛藤と優しさがぐちゃぐちゃに混ざっていた。
「詠。俺、大切にしたいって思ってるよ。詠の事」
響の〝大切〟はきっと、自分の欲しい〝大切〟とは違う。
自分の言動がなければ詠がこの田舎で暮らす決断はできない。響がそう思っているという確信が詠にはあった。
だからきっと響は、今夜、さようならを言う。
「大切に思ってるなら、応えてよ」
響の目をまっすぐに見つめて、目を閉じて、距離を詰める。
きっと拒絶されない。
そんな確信。
「ただいまー」
カラカラと鳴りながら開いた玄関と一緒に聞こえてくる、響の祖母の声。
詠は思わず響から距離を取ったが、響は詠を引き戻して抱きしめた。
「ちょっと、響……!」
「静かにしてて」
響が耳元で囁く。詠は思わず身を固くして、それから熱くなった。
きっと赤くなっているであろう顔を響に見られないように、詠は響の胸元に顔を埋めた。
響の祖母は「疲れたねー」と独り言をつぶやきながら、玄関から廊下をまっすぐに通る。
襖の開け放たれた響の部屋でピクリとも動かない二人を一瞥することなく通り過ぎた。
足音が段々遠くなって行く。響は長い息を吐いたが、詠は未だに緊張して身を固くしていた。
こんな調子になるのに、よく響にキスをしようとして知らないその先まで求めようとしたなと、自分で自分に呆れるくらい。
「埋めにいくよ、タイムカプセル」
誘った自分よりも、誘われた響の方がずっと、余裕があるように見えた。
響の言葉にうなずいて二人で客間に戻ると、響はお菓子の空き缶を手に取った。
離れの蔵にある園芸用のよく見るスコップを取った後、二人は神社に向かった。
それから落ち着きを取り戻した感覚が、身体中を気だるくさせる。
「暑い」
詠は考えてもいない言葉を、ほとんど無意識に口にした。
「うん。暑い」
しかし響は、それにいつも通り返事をする。
まるで先ほどのごたごたなんて、何もなかったみたいに。
あっという間に神社について、響は自分がいつも背を預けて座っている石灯篭のすぐそばに、二人で大きな穴を掘った。
出会った年も含めれば、小学五年生の夏から八年。
日数で換算すれば、一緒にいる時間は四か月にも満たない。
互いの本質的な部分はよく知っている。それでも、お互いの日常はなにも知らない。
タイムカプセルを埋め終わった後、響はどうせ掘るときに使うからと、家から持ってきたスコップを物置小屋に入れた。
それから二人は石段に腰かけた。風を感じる。葉が他の葉に触れて鳴る音が心地いい。
「花火は物置小屋に入れてあるから、このままここで日が暮れるのを待とうか」
「うん」
頷いた後、大きな風が大きく葉を揺らす。二人はその音を、ただ聞いていた。
「いつ開ける? タイムカプセル」
詠の問いかけに、座っている石段に深く寄り掛かって木の隙間から見える空を眺めたまま、響は口を開いた。
「大人になったらかな」
「大人って、いつ?」
「さあ。……わかんない」
一体いつになれば、大人というのだろう。
誰ならその答えを知っているだろうか。
それから、他愛ない話をする。
結局一番好きな駄菓子は何かとか、好きな授業は何かとか。しかしそれは今となっては、酷くわざとらしい気がする。
辺りが暗くなるのを見計らって、響は物置小屋から花火を取り出した。
響は詠の持っている花火に、柄が長いライターで火をつける。
シュワシュワと爆ぜる音がした。
「もう大人がいなくても花火ができる歳になったんだね」
「そうだね」
響はどこか、ぼんやりとしている。
その理由は何となくわかっていた。
「響、感傷的になりすぎ」
そう言うと響は驚いた顔をして、それから呆れたように笑った。
「詠には言われたくないよ」
それから響は吹っ切れたのか、花火がなくなるまでの時間を笑顔で過ごしていた。
響が好きだ。
普通の女子高生でいられたらよかったのに。
普通の女の子だったら、全部勢いに任せてこの田舎で暮らす決断ができたかもしれないのに。
でも、普通の女子高生じゃない。
「勝負だよ、響」
「言うと思った」
二人は最後の花火、線香花火に火をつけた。
丸い火の玉から火の光が細く伸びて、連鎖して分裂する。
制止させてみれば雪の結晶のような。
あえて下を向いて咲いた花のような。
「詠、今年で最後にしよう」
思っていた通りの言葉を思った通りのタイミングで響が言うから、詠は線香花火から視線を逸らさずに口を開いた。
「どうして?」
互いに線香花火から、目をそらさない。
「俺は詠の人生に責任を取れるほど大人じゃないから」
「じゃあ、大人ってなに?」
問いかける詠に、響は答えない。
もし大人になったとしても、きっと響はこの田舎に自分を縛り付けるようなことはしない。そんな確信があったから、詠はもう、響の言葉をあてにしてはいなかった。
――響の線香花火の方が、先に落ちたら
響の線香花火の中核がぽつりと地面に落ちた。それから間もなく、詠の線香花火が落ちる。
「響の負け」
詠の言葉を最後に、辺りを夏の夜の静けさが包んだ。
「私、高校を卒業したらここで生活する」
詠の言葉がよほど想定外だったのだろう。響は目を開いてしばらく固まっていた。
「……意味わからないよ、詠。なんでそうなったの?」
「私が決めたの」
響は頭の中がいっぱいなのか、それ以上の言葉が浮かばないらしい。
「おばあちゃん達に頼んでみる。自分で生計を立てるまでは旅館に置いてほしいって」
怖くないかと言われれば嘘になる。
ただ、響にここに来ると告げた事で退路を断った気持ちになり、うじうじと悩んでいたものが全て離散する。それは、晴れやかな気持ちで。
「大丈夫。私こう見えて結構器用だし。どんな仕事でもできるよ」
詠は自分を励ますつもりで明るい言葉を選んだあと、先ほどポケットに入れた電話番号を書いた紙を取り出した。
「……これ、さっき書いたの。響が携帯持ってるって知らなかったから電話番号しか書いてないけど」
響は小さく折りたたまれた紙を受け取っても、未だに信じられないと言う様子でいる。
「もう私は決めたからね!」
ここまで言えばきっと響は、自分の本当の気持ちを言うだろう。
例えば、俺はこの二週間の夏だけで充分、とか。
この沈黙は、監督のカットの言葉を待っているときと同じ。
響は深く息を吐きながら笑顔を作った。
「こんな何もない田舎に、全部捨てて来るの?」
「そうだよ。響が好きだから」
そう言うと響はさっきよりも目を見開いた。
「全部捨ててここに来たいの。でも、もしかしたら上手くいかないかもしれないし、またお芝居がしたくなるかもしれない。その時はその時で考えるよ。それよりも私は後悔したくないの」
響の腕に包まれていた。頭の中で状況を整理した後で密着する響の体温を明確に感じて、背中に手を伸ばす。
響の手は詠の後頭部に回って、自分の胸に押し付けるようにして動きを止めた。響が身を縮めるから、身体中が密着して心まで響に包まれている、そんな錯覚。
「気の利いた事ひとつ言えない俺のどこがいいのか、全然わからない」
「言葉になんかしなくても響は私を大切にしてくれているって、ちゃんとわかってる」
響は少し距離を取ってから詠に唇を寄せようとほんの少し顔を近付けたが、直前でピタリと動きを止めた。
「嫌じゃない、よね?」
「私は嫌じゃないよ。響はさっき嫌がったけどね」
「嫌だった訳じゃないよ」
「私は嫌がっているように見えた」
「じゃあごめん。嫌じゃなかったよ。余裕がなかっただけ」
そう言うと響は、詠に触れるだけのキスを落とした。
現実世界から無理矢理引き離されるような感覚。目を閉じているからか、上下左右すらわからなくなって、意識がどこに向いているのさえわからない。
何の感覚もないのに、心の内側には間違いなく温かいものが生まれていて。
唇が離れて、至近距離で目が合って、それから顔が赤くなるのを感じて、思わず顔をそらした。でも離れたくなくて、響の肩に頭を預けてみる。すると響は、詠の頭に首をかしげるようにして頭を乗せた。
「顔見れないー」
「俺も」
冗談めかして言い合った後、軽く笑い合う。
「そろそろ帰らないとね」
「まさか詠から言い出すなんて」
「来年からずっと一緒にいられると思ったら、私だってバイバイくらい言えるよ」
つい先ほどまでうじうじと考えていたのは何だったのだろうと思うくらい、晴れやかな気持ち。
次に会う時から、ずっと一緒にいられる。
「好きだよ、響」
「うん。俺も」
気持ちが通じ合うというのは、人をこんなに浮いた気持ちにさせるのか。〝恋は盲目〟というが、今自分は盲目になってしまっているのだろうか。
「また、来年」
「うん。またね」
小指をはなした後、少しの沈黙。それから人目がない事を確認した二人は、また触れるだけのキスをする。
別れるのは当然寂しい。
しかし、この一年我慢すれば、夏以外の季節の響を知れる。それは別れの悲しみを麻痺させて、詠を浮いた気持ちにさせた。
詠が振り返ると、響も振り返っていた。
詠が手を振ると、響も大きく手を振り返した。
響からの連絡を待っていた。
あの夜も、次の日の朝も。電車の中も、新幹線の中も、東京でも。撮影現場でも、家でも。
一向に、響からの連絡は来ない。
気持ちは重なったのだからすぐに響から連絡が来るものとばかり思っていた。
響はマメに連絡を取る性格ではないと結論付けて片付けられる気もするし、悪い予感がする気もしている。
どちらにしても冷静ではない事だけが事実で。感じた事のない焦りに、身も心も奪われている。
人間はなんて強欲な生き物なんだろう。
今までは連絡を取る術を持っていなくて、言いたいことが見つかってもただ一年間じっとこらえて待っているしかなかった。それが当たり前だったのに、今はどうだ。
待つことさえできなくて、暇さえあれば手元を覗き込んでいる始末。
着信音を最大にして枕元に置いたまま、今日もまた連絡がなかったと思いながら眠りにつく。
木枯らしが吹いて、木から落ちた葉が地面を擦って乾いた音がしても、それは変わらない。
撮影終わり、時刻は午後8時過ぎ。
家に着いてすぐに、携帯電話が鳴った。
なんとなく、本当に何となく。
今鳴っているこの電話は響からだと思った。
詠はいつも通り、ポケットから携帯電話を出しながらそんなことを考えていた。
知らない電話番号。
指先一つで受け入れて、耳に当てた。
「もしもし」
もしかすると、声が震えていたかもしれない。
しかし、そんな事にも気をやれないほど、緊張している。
〈詠〉
電話越しで聞こえる、機械音が混じった響の声。
ゆっくりと吐く息が喉元で震えて、その音が響に届いていませんようにと頭のどこかで願った。
「響」
この雑多な東京で響の名前を呼ぶ。響に語り掛ける。
〈うん〉
彼の名前が初めて、音になって誰かに届いた。
パソコンで急に画面を明るくしたような。いつも通りの部屋の中で彩度だけが上がったような、そんな錯覚。
東京でこんな気持ちになるとは思わなかった。
〈……ごめん、詠〉
しかし次に続く響の声の響きはあまり、響らしくない。
「どうしたの?」
電話の向こう側から聞こえる響の声は少し震えている。何かあったのだろうか。響の身に何か、大変な事が。
〈高校を卒業したら、結婚する〉
ただ淡々と、響は言う。だからその相手が自分だなんて思い上がりは、一つとしてなかった。
〝結婚する〟
それは誰が、どういう理由で。
だから、なんだというのだろう。
「誰が」
〈俺が〉
「……誰と?」
響の日常の事は何も知らない。だから、知っているはずがないのに。わかっているのに、それなのになぜか、それはほとんど確信しているみたい。
響の結婚する相手を知っていると思った。
〈……鈴夏と〉
冷や水を浴びせられるというのは、こんな状況を言うのだろう。
「どういう事?」
どうという事でもない。
きっと、そういう事。
響の言うその言葉のまま。何か特別な答えが欲しい訳ではない。
自分だけでは整理のつかない、感情の吐出。
そうか。ドラマで唖然とした人間の言う〝どういう事?〟というのは、こんな気持ちなんだ。
意識のどこかで、こんな状況で演技の事を考える自分が、嫌い。
〝どうしてそんなことになってるの?〟
たったそれだけの原因を追究する言葉さえ浮かばないほど。
あの日、響と初めてキスをした日に感じた、上下左右が分からなくなる感覚。あれとほとんど、同じ。
〈鈴夏との子どもができたから、責任取って結婚する事にした〉
簡潔に、端的に、ハッキリと言い切るくせに。それなのにどうして、ほんの少し声が震えているのだろう。
電話の向こう側にいるのは、今年あの季節を一緒に過ごした記憶を持っている響なのだろうか。
花火をして、それから初めてキスをした響なのだろうか。
小学5年生で出会った時の事を全て話して聞かせれば、響は目が覚めるのではないか。
「冗談よね」
〈違うよ〉
「……この前会った時の約束は、何だったの?」
〈だから、早く言わないといけないと思って〉
噛み合わない話に落胆して吐いた息は、喉元で震えていた。
「……からかってるだけでしょ?」
冗談に決まっている。響が他の誰かと結婚するなんて、ありえない。
「響はそんな無責任な人じゃないよ」
そうだ。響は結婚もしていないのに誰かを妊娠させるような無責任な人じゃない。
きっと何か、理由があるはずで。
そう、例えば――
〈代わって〉
電話越し、少し遠くから聞こえた声に意識の全てが無意識に、耳だけに集中する。
それはまるで、世界がピタリと動きを止めたみたい。
〈詠ちゃん、私。鈴夏〉
これ以上に最悪な状況を、知らない。
〈ごめんなさい〉
響はそんな無責任な人じゃないから
〈出来心だったの〉
謝ってもらう筋合いなんて、これっぽっちもないはずで
「……嘘」
〈……嘘じゃないです〉
何も答えられずにいると、電話口の向こうでほんのわずかに鈴夏がすっと息を吸って、息を止める音がする。
役者になんてならなければよかったと思った。
鈴夏が泣いているのが演技ではないという事も、泣く立場にないと分かっていて必死にこらえようとしている事も、手に取るようにわかってしまったから。
こんなふうに泣けばいいのか。こんなふうに表現すれば、リアルに見ている人に伝わって
〈ごめんなさい〉
これは、避けられない未来だったのだろうか。
〈本当にごめんなさい、詠ちゃん……〉
鈴夏を責める気にはならなくて、だからと言って優しくする気になれるはずもなくて
「響に代わって」
自分でも驚くほど冷たい声で詠が言うと、電話の向こうでガサガサと音が聞こえて、それから止まった。
「最低だと思う。響のこと」
〈うん〉
喉元で震える声を、抑えつける。
タガが外れれば、響を罵る言葉しか出てこない。
「私……」
いつもなら、こうやって言葉を選んでいれば
「私は……」
響は手を差し伸べてくれただろう
「私が傷付くって、思ってくれなかった……?」
でも絶対、もうそんな展開にはならないのに。
わかっているのに、響にすがりつきたい気持ちが、消えない。
〈傷付くと思った。でも――〉
次の言葉を聞けば、ほんのりとともった明るい気持ちから急降下することは、何となくわかっていた。
〈――二週間しかここにいない詠にバレる訳ないって思ってた〉
詠の事が好きだったのは本当だよ。
この期に及んで、そんな言葉が返ってくると思っていた。
でも別に、そんな上辺をなぞるセリフみたいな言葉が欲しい訳じゃなくて。
青春恋愛漫画が原作のドラマや映画では、ラストは一途に互いを想って終わるじゃないか。
それともそれは極めて稀な事で、これが現実なのだろうか。
今まで夢を見ていて、自分の感性がずれているのだろうか。
正しいのは「一人で生きていけるようにしなさい」と言った母だったのだろうか。
わからない。
わからなかった。
ただの女子高生にはわかるんだろうか。
あの時確かに響の気持ちを感じて、想いは重なっていると疑いもしなかった。
あれが全部嘘? 冗談でしょ?
そんな言葉が、ぽつりと胸に浮かぶのに、喉元で絡まってとても言葉にならない。
怒りも悲しみも通り越して、心に穴が開いたみたい。
〈ごめんね、詠〉
でもきっとこの穴はすぐに、マイナスの感情で埋まっていく。
そして響と関われば関わるほど、この穴は広く深くなる。
そんな予感。
「大嫌い」
みっともないほど震える声でそう言って、詠は電話を切った。
しばらくぼんやりした後、大切な何かを失うのはこんな気持ちなのかと他人事のように考えた。
きっと今なら、絶望の底にいるヒロインをうまく演じられる。
そう思ってすぐ、詠は乾いた笑いを漏らした。
約十四年積み上げてきたものと、これからの人生を捨てる決心をした。
それでもよかった。
ただ響が、好きだと言ってくれるなら。
響と出会って、たくさんの事を感じた。どうしようもない幸せもたった今感じている絶望も。
ぜんぶ、利用してやる。
絶対に見返してやる。
俺はこんな大女優を捨てたんだと、必ず後悔させてやる。
そう思ってやっと、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
涙を止める気にはなれなかった。
それから詠は若さを最大限利用して、青春恋愛ドラマや映画を中心に活動した。
もう恋愛シーンを撮影する事に 遠慮も配慮もしなくていい。
失うものがない人は強いと言うが、それは事実だ。
恋愛に絡んだ役を演じる時、あの頃の響を思い浮かべた。
目の前に響がいる。そう思うと、ごく自然な演技ができた。こんな言葉を言いたかった。こんな風に抱きしめて、こんな風に響にキスをして。
その時だけは素直になれて、その度に、響が好きだと思い知る。
それからマネージャーは、一途に主人公を想っているのに報われない女の役を持ってきた。はまり役だという世間からは高評価を皮切りに、ドラマで姑息な裏切り者の役を、映画では若き天才犯の悪役を。そして連続ドラマの主演を。
数年かけて完全に〝子役〟のイメージを払拭し、演技の幅を広げた。
後から聞いた話だが、マネージャーはヒロインの役を演じた時に少しの憂いが混じっていている事に気付いたらしい。だから恋愛二番手の役を持ってきたのだと言う。
あっという間に酒を飲める年を超えて、二十三歳を迎える頃。男を翻弄する役が評判を呼び、本格的に〝咲村詠〟という架空のキャラクターに結び付いた。
やはり、失うものがない人間は強い。
詠を突き動かしているのは〝後悔すればいい〟という強い気持ちだけ。
それでも相変わらず、〝役〟が愛する人を前にした時には響を思い描く。大切な人に触れる時も、温かい気持ちは全部、響から貰った。
同時に、恨む人を前にした時にも響を思い描いた。
響との思い出に付随する感情の全てを演技で吐き出すと詠は決めていた。
自分の持ちうる全てで、後悔させてやる。そんな気持ち。
恨みが晴れることも、想う気持ちが消える事もない。
だからきっと、報われることはないだろう。
役から抜けた時に、ふと思う。響はどんな大人になっているんだろう。もし響を目の前にした時、響を許せるだろうか。
いつからだろう。街中で響に似た人を視線で追うようになったのは。
そう言えばいつか海で遊んでいるときに、鈴夏は響の事を視線で追っていたな。そう考えると、ズキンと確かに胸が痛む。鈴夏もこの気持ちを味わったのだろうか。じゃあ鈴夏は今、心底いい気分に違いない。
そう思って、バカげていると嘲笑する。響と最初で最後の電話をした時に思った。鈴夏という女の子はそんな人間じゃない。自分はそこまで、人を見る目は腐っていない。
気付けば日々の全てが、あの頃に縛られている。
対向の道に飾られた、大手化粧品メーカーの看板。気取った顔の自分が載ったそれを横目に、夜の騒がしい街を歩く。いつもの風景。詠の隣を通り過ぎる、いたって普通のタクシー。
息を呑んだ。その男は少し顔を向こうに傾けていて、正面から顔が見えた訳ではない。でも、響に似ている。視線を響に似た人に定めて確認しようとした頃には、タクシーは通り過ぎて、小さくなっていった。
似ていただけ。いつもの事。だけどいつも、心臓の音がしばらく鳴りやまない。反射的に息を呑んで反応してしまう。一体いつまで、こんなことを続けるんだろう。
そう思って、今日も一日が過ぎていく。
海外で大きな仕事が決まる頃、詠は二十五歳になっていた。
この仕事が成功すれば〝咲村詠〟は日本から一歩飛び出る事になる。
何度も思い出した。
何度も記憶をなぞった。
役に入り切っていても、役から抜けきって本来の自分に戻っても、心の中には響がいる。
まだ幼い響が、あの神社の石段の真ん中に座っている。
響があの優しい顔で笑っている。
〝詠〟と優しい声で名前を呼んでくれた、あの日々。
日本を出る前に最高の自分であの場所に戻って、一つの区切りをつけに行こうと思った。
懐かしい。
もう昔の事。海外に行く前にこの場所に来た時と同じ感覚。詠はそれすらも懐かしいと思っていた。
だだっ広い田園を真っ直ぐ裂くように山へ続く車道を左折して、港町の方向へ。左手にはバス停と、その奥には古い小学校。右手には山の麓まで続く田園と、いくつかの家。山の麓まで伸びる畦道の先にある、木々に埋もれそうな石造りの鳥居。
しかし、海外に旅立つ前に来た時よりもずっと、時間の流れを感じる。
小学校側には新しい家が目立つ。田舎、という先入観からだろうか。真新しい家達は、全くこの景色になじめていない。
古い建物に交じって、新しい家がいくつも建っている。しかし詠は、以前そこに何があったのか、一つとして思い出すことはできなかった。
しばらく道なりに進み、分かれ道で先ほどよりも少し細い道に入る。
「着いたよー」
「運転ありがとう」
「どういたしまして」
秋良は咲村旅館の向かいにある駐車場に車を停めた。
助手席のドアを開けると、まだ車内に残った冷房の空気を押しのけて熱い空気が入り込んでくる。サンダルを履いた足を地面に足を付けると、足の甲がじりじりと熱くなった。
「足元気を付けてね、詠」
「大丈夫」
詠は車を降りると道の向こうにある咲村旅館を眺めた。いつもこの旅館に泊まった。子どもの頃はよくわからなかったが、大人になって見ると随分と趣のある場所だ。夜に酒でもやりたくなるような。
三人分と詠の母の分の荷物まで持つ秋良の代わりに、詠はスライドドアを閉めた。
詠は旅館を正面に、商店街の左右を見た。店だった場所のほとんどにシャッターが閉まっている。自分が子どもの頃はまだ、営業をしていた店の方が多かったのに。
そんなことを考えながら、旅館の中に足を踏み入れた。
大人になって改めて見てみても、このエントランスの雰囲気はやはりサスペンスに出てくる旅館だった。
「おばあちゃん、おじいちゃん。久しぶり」
詠が少し大きな声でそう言うと、祖父母は嬉しそうに笑いながらカウンターの向こうから出てきた。
年を重ねたからだろうか。二人の笑顔は、詠が最後に見た時よりも穏やかな気がした。
この旅館は数年前に閉めたらしい。以前よりも少し、埃の匂いが強くなった。
「あらー、待ってたよ。詠ちゃん、ゆっくりして行ってね」
「ありがとう、おばあちゃん。紹介するね。夫の秋良と、娘の秋音です」
少し改まってそう言うと、二人は口々に挨拶をした。
祖父母は嬉しそうにほほ笑んで数回うなずいた。
「久しぶり。お母さん、お父さん」
一番後ろでそう言う詠の母は、緊張している様子だった。
「おお。ゆっくりして行き」
祖父はたったそれだけ呟くと、大して顔を見る事なくカウンターの向こうに消えた。祖母は「本当に久しぶりね」と言いながら、母の肩を力強く数回叩いて嬉しそうな顔でうっすらと目に涙を浮かべていた。
「詠ちゃんが初めてここに来たのも、秋音ちゃんくらいの年齢やったね」
泊まる部屋に向かいながら、祖母はそう言った。
「ママ、どんな子どもだったの?」
「朝から晩まで外で元気に遊ぶ、活発な子だったよ」
「えー。ママが? カフェで友達とずっと話してそうなのに」
「とんでもない。お昼ご飯を食べたら携帯も財布も置いて、すぐここを飛び出して行ってたんだから」
「ママ、ここで何してたの?」
まさか質問が飛んでくるとは思わなかった詠は気を抜いて旅館の様子を眺めていたが、すぐに笑顔を作った。
「東京にはないものを見てたの」
「出た。ママの秘密主義だ」
「秘密主義って?」
何の気なしに答える詠に、秋音はいつもの事とでも言いたげにあっさりした様子で返事をする。
それに問いかけたのは詠の祖母だった。
「時々こうやって、私が何を聞きたいのか気付いているくせに話を逸らすの。ね! パパ」
娘に同意を求められた秋良は曖昧に笑って「誰にでも言いたくない事はあるものだよ」と言った。
過去を聞かれる時、曖昧な返事をする。
俳優業に全力になる前の人生、いや、それから先も役者として生きてきた時間の全ては、響が基準だった。
長期休みが練習で潰れる部活には入らないようにしていて、そのために仕事を調節した。
人生を、出来事を、誰かに語って聞かせるには必ずそこに、響の存在がある。
「ここの部屋を使って。菫は隣の部屋ね」
案内された部屋はいつも詠が使っていた部屋よりも広い部屋。エントランスの埃っぽさが全くない、綺麗な空気。
毎年部屋を開けた時もこんな空気だったのだろうか。思い出せない。大人になったから感じ方が変わったのだろうか。
「自動販売機で飲み物を買ってくるよ」
荷物を置いた後、秋良と秋音はそう言って部屋を出て行った。
「二人は?」
「自動販売機に行ったよ」
自分の部屋に荷物を置いた母が部屋の中に入ってくる。
その空間は、シンと静かだった。
和解という和解があったわけではないが、詠が一方的に嫌っていた構図が終わったのは、海外での仕事を終えて日本に帰ってきてすぐの現場で倒れた時の事だ。
連絡を受けた母は病院まで駆けつけて来て泣いた。どうして泣いているのかわからずに唖然とする詠に母は「ごめん」「育児から逃げてたの」「生きていくために強く自分を保っていないといけないと思った」そんなことを言った。
だからずっと張り合っていたのが馬鹿らしくなっただけ。
結局、倒れた原因は単に疲労が溜まっていただけという事だったので大事はなかった。母の事は別に許しているわけでも、怒っているわけでもない。しかし詠は、生涯この距離感で構わないと思っていた。
もう、大人になった。
今となれば、新人最優秀賞を取った作品の女優が見せた出産シーンの表情の意味が理解できる。あのシーンは、あの表情でなければいけなかった。
子どもは愛しい。自分よりも大切で、自分がいなければ死んでしまう。
そして、切羽詰まった育児の事も今ではよくわかる。化粧水一つつける暇がない、完全に自分以外の人間を時間軸にするストレス。もし、周りやパートナーからのサポートが受けられず、精神的に不安定で、多忙を極めていたら。
そう考えるとほんの少しだけ〝虐待〟という言葉の意味を感じて、他人事ではないのが育児というものだ。
母があの高層マンションを選んだ理由も何となく理解できた。きっと、自分の子どもが芸能人であることを考慮したセキュリティの為だったのだろう。
あの家は大人になって思うと、凄くおしゃれで。きっと母は、親にできる事はお金を出す事だけと思っていたのだろうと、詠は何となくそう思っていた。
ずいぶんと、大人になった。
最後にここに来た時よりも、ずっと。
「久しぶりにゆっくり一人で散歩でもしてきたらどうね、詠ちゃん」
祖母は穏やかな笑顔を浮かべてそう言う。
自分の気持ちを全て知っているような笑顔だった。
大人になるとわかる。大人は子どもをちゃんと見ていて、気持ちまで敏感に察してくれている事。
大人になって、人間は完ぺきではない事を知った。
だから母の事は今はもう、何とも思っていない。
「うん。そうする」
財布もスマートフォンも全てを部屋に残して、まずはこの旅館でいつも使っていた部屋を覗いた。太陽の光を受けて、埃がキラキラと光っている。畳はささくれて、テーブルの上には座布団が重ねられ、ものが部屋中を埋め尽くしていた。
使っていた時の面影はないはずなのに、やはりどこかに懐かしさを感じる。記憶よりも、もっと曖昧。小さな何かが無数に集まって、心の内側に燈っているように思う、そんな感覚。
それから詠は、商店街の中を歩いた。あの駄菓子屋はなくなっていて、代わりにはす向かいに新しい駄菓子屋がある。一本違う通りに出ると海が見える。キラキラと光を受けて輝いていた。フェンスを埋め尽くす朝顔。その前にある自動販売機で麦茶を買って、海を眺めた。
遠くにはドライブ途中にちょうどよさそうなおしゃれなカフェがいくつかできていた。秋音が好きそうな店だ。
「暑い」
独り言をつぶやいて、ペットボトルの口に唇を押し付ける。この海でビーチフラッグをした。水は思ったほど冷たくない事は、もう知っている。
海辺を通って、海に背を向けて歩く。追い風に急かされて、あの日、汗を拭って駆け抜けた道へ。
ふいに強い風に押されて、少しだけ俯いて帽子を押さえて振り返る。
風が穏やかに肌を撫で髪をさらう一秒にも満たない間、幼い頃の自分が隣を走り去る幻を見た。
それを追って、進行方向を向き直る頃には、風も幻も掻き消えていた。
ヒールのないサンダルを見て、思わず笑顔になった。
かぶっていた麦わら帽子を乱暴に引っ掴んで、走った。
バス停。ひまわり畑に行った時に使った。
小学校。夏祭りはきっと、今もあるだろう。
向かいの畦道をひたすらに走る。ひとりぼっちの沈黙を隙間なく埋める、セミとカエルの大合唱。
あの石造りの鳥居が、だんだんと近づいてくる。
今日、秋良にすべてを話そう。
芸能人ではない、咲村詠を大切にしてくれている秋良に。
芸能活動を引退した今はもう、何にも縛られなくていい。
だからあの日消えてしまった初恋に、さようならを。
その前に、最後の約束を。