「お腹減ったやろう。少し遅いけど、お昼ご飯にしよう。荷解きしたら降りておいでね」

 部屋から出て行く祖父を見送った後、大した荷物は持ってきていなかった詠はキャリーケースを開くこともせずに畳を踏みつけて窓を開けた。

 建物の隙間をぬって、少し離れた所に漁港が見える。
 詠は先ほどよりも明確になった潮の香りを鼻から吸い込んだ。

 ここはいい。凄く気に入った。誰にも会わないし、隠れる必要もない。「思ったより背が大きいのね」なんて聞いてもいない評価をされたり、話しかけられたタイミングで急いでいてその場を去っても、「可愛くない」と言われたりしなくていい。撮影に差し支えるから日焼けをしないようにという理由で真夏に長袖を着ていたって、誰からも何も言われない。
 だって、誰にも会わないんだから。

 友達なんていらない。どうせ気を使うだけだから。
 そう割り切って、詠は大きく伸びをした。

 きっとこの夏は素晴らしいものになるに違いない。そんな予感に胸が高鳴っている。

 祖父に言われた通り、昼食の為に一階に降りるとエントランスの方が騒がしい。
 それは明確な、嫌な予感。

「ごめんね、詠ちゃん。俺とばーさん、詠ちゃんが来るのが楽しみでご近所さんに話したらみんな来てしまって」

 詠の心臓は一度だけ大きく音を立てた。
 気を抜いていた訳じゃない。ここは華やかな東京とは別の世界だと思いこんでいただけだ。

 誰から話かけられることなく、無理に笑顔を作ることなく、何をしなくても悪口を言われることもなければ、評価もされない。そんな世界だと思っていただけ。

 日本の表舞台、大都会東京とはあまりに違っていたから。

「みんな詠ちゃんの顔が見たいって。疲れている所、申し訳ないんだけど」
「わかりました」

 詠は笑顔を張り付けた。いつも通りだ。いつも通りにしていたらいい。ここでいい顔をしなければ、自分を育てた母が恥をかくことになるかもしれない。

 母の存在だけが詠の全て。
 詠の世界の中心は生まれてからずっと母だった。

 詠は小一時間エントランスにいて、ひたすら笑顔を振りまいていた。
 ウチの子と写真を撮ってほしいとか、何のドラマが好きだったという感想を聞いた。諦め切って生活をしている都会で話しかけられる事よりも苦痛だった。

 握手会が終わったのは時計が15時を指す頃。疲れてしまってお腹は空いていなかったが、用意してもらったものを食べない訳にもいかずにとっくに冷えた焼飯をレンジで温めて食べた。

 上機嫌な祖父母に向かって、詠は笑顔を貼り付け続けた。

 昼ご飯をたくさん食べた代わりに夜ご飯は少ししか食べられなかった詠は、さっさと自分の部屋に入って、今日という一日を頭の中でなぞる。

 新しい世界を見たようなあの気持ちは、どこに隠れてしまったのだろう。

 結局ここも、何も変わらない。
 知らない人に話しかけられて、冷えたご飯をレンジで温めて食べて。
 自分一人の部屋で一人きりで眠って。

 この場所では母が帰ってきた合図、鍵を開ける音さえ聞こえない。
 東京にいればその音は聞こえるのに。しかし音が聞こえても、母が何か言葉をかけていたわってくれるわけではないのだが。

 次の日から祖父母が交代でいろいろな所に連れて行ってくれた。とは言ってもすぐ近くに子どもが直接的に楽しめる施設があるわけではないので、漁港だったり商店街のお店だったり車で少し離れた所にある喫茶店だったり。

 ただそれが、楽しかったのかと言われればそうでもなかった。
 学んだことと言えば、田舎という場所は人との関りが多くて深い繋がりがあるのだという事。少し歩けば顔見知り。詠は自分のマンションの左右に住んでいる人の事さえ、ほとんど知らない。

 祖父母は悪い人たちではない。本当に自分が来るのを楽しみ待っていてくれたのだという事を詠も理解していた。
 いろんな話を聞きたがって、少し外に出るときにも詠を連れて行きたがった。

 田舎生活も折り返しに突入した今日は、山の(ふもと)にある小さな神社の清掃の日らしい。

 神主が亡くなってから、地域の人が交代で清掃しているそうだ。朝の8時()集合らしく、どうしてそんなに早い時間の集合でしかも〝頃〟なんて曖昧な表現なんだと、都会で生活している感覚とこの場所の感覚はずいぶん違う事に驚いた。

 二人で行こうと話をしていた祖母は、当日の早朝に腰を痛めた。重い物を持ち上げようとして痛くなったそうで、ご近所さんの目もあるので誰かが行かなければならず祖父が行くと言い出したが、それでは旅館が回らない。

 別に旅館にいてもなにかすることがあるわけではないので、詠は自分が行くと言った。それだけで「詠ちゃんはすごい」「えらい」「いい子」と褒められる。

 大人の明らかに子どものご機嫌を取るような、媚びた態度が嫌い。
 そして大人の言葉を素直に受け入れられない自分も、大嫌い。

 幸い、ここに到着する前に神社を見ていたので、道に迷う事は無さそうだ。
 商店街を抜けて、道をまっすぐに進むと右手にバス停が見える。バス停の少し奥に小学校があった。

 車道を挟んだ向かいには山の麓まで田んぼが続いていた。いくつか建物がある。詠は田んぼを割く畦道(あぜみち)を歩いた。正面にある石で出来た大きな鳥居が、だんだんと近付いて来た。

 鳥居の左右には竹で出来た柵。境内から伸びる木の葉が、風が吹くたびに竹に触れてさらさらと音を鳴らす。
 鳥居をくぐってすぐ、十段程の石段を上って少し歩くと、今度は長い石段があった。両端に等間隔で並ぶ石で出来た灯篭には、苔が生えている。灯篭の奥には大きくて高い木がいくつも生えていて、石段に影を作っていた。

 整列した石灯篭の中間あたりに、石灯篭に身体を預けて一人の少年が座っていた。

 同じくらいの年の子がいる。
 詠は身を固くしながら少年と目を合わせないように石段を上がった。

「こんにちは」

 詠がちょうど隣を通った時、少年は笑顔を作ることも仏頂面をすることもなく、ただ端的にそういった。

「……こんにちは」
咲村(さきむら)さん?」

 詠は名字を呼ばれて言葉に詰まった。詠の様子を見た少年は不思議そうに首を傾げた。

「違った?」
「そうだけど……なんでわかったの?」
「今日の神社清掃、ウチと咲村さんの所だから。……ここ、人来ないから。咲村さんの孫かなんかかなって。夏休みだし」

 何も答えない詠の態度を気にする様子もなく、少年は口を開く。

「で、咲村さんなの? 違うの?」
「そうだけど……」

 やはり少年は怪しげな詠の態度を気にする事はなく、立ち上がってズボンについた砂を払った。

「俺は藤野(ふじの)(きょう)。響でいいよ。名前は?」
「……私の事、知らない?」

 小さな声でそういう詠に、響は眉間にしわを寄せた。

「もしかして、会った事ある? ごめん、全然思い出せないんだけど……」

 詠は少しの間響を見ていたが、彼が嘘をついているようには見えなかった。

「……ごめん、私の勘違いだったみたい」
「そっか。それで名前、なんて言うの?」

 学校で〝咲村詠〟を知らない人はいなかったし、同じ年の子どもと友達を作ろうとしても芸能人であることがいつも邪魔をしていた。

 詠は嬉しい気持ちが内側から溢れて、笑顔になる。

「咲村詠! 詠でいいよ!」
「じゃあ、詠。さっさと掃除終わらせよう」

 響は優しい顔で笑ってそう言うと、石段を上がっていった。
 詠は響の後ろを歩く。

 詠の夏はこの日、この瞬間から始まる。