なんの馴染みも、思い入れもない。
 この場所に関わる全ての感情が、響に繋がっているという事実。

 響がいないなら意味がない。
 響がいないのならここでは生きていけないという漠然とした不安のすぐ隣にある、響と一緒にいたいという想い。
 でも、響は共に歩む将来なんて望んでいないかもしれないという、口に出すには重たい気掛かり。

 いつから夏を、純粋に楽しめなくなったのだろう。
 いつから目の前にある今の向こう側を、将来にばかり目を向けるようになってしまったのだろう。

 どうしてこの場所の夜はこんなに暗くて、不安感を煽るのだろう。
 東京の夜は、不自然なくらい明るいのに。

 理不尽な恨みをぶつける当てもなく吐いた息は、喉元で震えた。

「お待たせ、詠。こっち来て」

 柔らかい笑顔を浮かべる響を見て、ぽつんと胸の内に広がるのは紛れもない安心感だった。
 心の内の温度差が、なんだか無性に泣きたい気持ちにさせる。

 踵を返す響の後ろに続いた。
 鳥居の前で立ち止まって振り向く響の気配を感じて、詠は俯いていた視線を上げた。

 見た景色に思わず息を呑む。
 響越しに見えた景色が、詠をそうさせた。

「綺麗」

 石段の両脇に均等に並んでいる石灯篭から、淡い火の光が漏れている。
 暗闇を暖かく裂いて、石段と木々を幻想的に照らしていた。

「昔、詠がこれが全部光ってたら綺麗だろうねって言ってたから」

 響はそう言うと、詠から石灯篭へと視線を移す。

「いつか付けてみたいって思ってたんだ。こんなに綺麗とは思ってなかったよ」

 幻想的に揺れて、小さく震える火の光をただ眺めている。
 そういえばいつか、そんなことを言った。
 いつだろう。夕方と夜の間。二人で夏祭りに言った時。小学6年生の夏のこと。

 生ぬるい涙が頬を伝っても、それを誤魔化そうと思えるほどの余裕がなかった。少し俯いて涙を拭う詠に響はぎょっとした様子を見せて、それから心配そうに覗き込んだ。

「詠、どうした?」

 響は勢いよく抱き着く詠を、数歩後ろによろけながらもしっかりと支えた。

 響が好きだ。
 この気持ちが恋じゃないならきっと、生涯恋という気持ちは理解できない。

 今ならきっと、誰よりも恋愛ドラマのヒロインをうまく演じられる。それほど鮮烈に自分に刻み込んでいるこの想いは、感情の行く先を決める事ができないばかりに口にする事すら許されない。

 響はどんな気持ちなのだろう。
 同じ気持ちだと知ることができるならどれだけ幸せで、将来を同じ方向を見て話すことができたらどれだけ幸せなんだろう。
 響を抱きしめているだけで幸せを感じているのに、もしかするとそれは死んでも構わないくらいの幸せなのではないかと思った。

「帰ろうか」

 そういう響に、詠は響の肩口に顔を押し付けたまま首を振った。

「出た。詠のワガママ」
「響は私のワガママ、聞いてくれるって知ってる」

 響の背中に回した両手で響の服を握る。
 この夜に絆されて、もう少しだけ踏み込んでみたくなる。だから、応えてほしい。

「手、繋いでくれなかった」
「繋いだよ」
「響から繋いでくれなかった」

 答えを大人に任せる子どものようにそう言うと、響は少し間を開けて小さく息を吸った。

「ちょっと恥ずかしかっただけ」

 それは響のついた嘘。響は本当に恥ずかしい時、素直に口にしたりはしない。
 それから答えはごく自然に出た。これは優しい嘘。きっと響にもこの先が分からない。東京で暮らす気が響にない以上、全てを捨てなければいけないのは詠の方だ。

 もし芸能人ではなかったら。どこにでもいる普通の東京の女子高校生だったら。響は祖母に、『詠には向こうに詠の生活がある』なんて口にしなかったかもしれない。

 ただ愛しいだけならよかったのに。愛しくて堪らなくて、同時に苦しくもある。
 こんな思いをするくらいならいっそ、この夏に溶けて消えてしまえたらいいのに。

「俺にとってこの場所は、小さいころから暮してるいい所だよ。でもきっと詠にとっては違う」

 響の口調は、穏やかでいて淡々としている。
 神社の前で一人で待っていた時のあの孤独が蘇る。
 それは、火照っている身体を少し落ち着かせた。

「そんなの、響にわかるわけない」

 詠の精一杯強がりを聞いた響は黙っていた。それから小さく息を吐き、すっと息を吸い込んだ。
 響のひとつひとうの細やかな動きにさえ、意識を向けていた。

「颯真ならどうするかなって考えたんだ。きっと〝絶対に幸せにするから〟ってあの真っ直ぐな目で見てちゃんと口にして、それを本当にやってしまうんだろうなって」
「じゃあそう言ってよ」

 小さな小さなこの声が響にすがりついて、思わず颯真が言いそうなその言葉を口にしてくれたらいいのに。

 そう思ってやっと、自分の欲しいものに気が付いた。響に背中を押してほしい。〝一緒にいよう〟〝幸せにする〟と言ってほしい。
 そうすれば東京にある何もかもを捨てて、この場所で暮らす覚悟ができる。

「東京にいる友達も、家族も、努力してきた事も全部捨てて、こんな何もない田舎に住んでくれって?」

 確認するように淡々とした口調で言った彼の言葉は、あまりに彼らしくない。
 そんな無責任な言葉は似合わないとさえ思う。
 もどかしくて、何かを吐き出したくて。でも何を吐き出せばいいのかさえわからない。

 響は詠の背に腕を回して抱きしめ返した。それから詠の横顔にすり寄るように頬を寄せる。
 考えていた事の全てが吹き飛んで、満ち足りた気持ちになる。何もかもすれ違っているのに、根本的な部分が重なっている事を本能で理解する。

 これが幸せだと断言できるこの感覚を、学校のカップルたちは漏れなく知っているのだろうか。
 それならどうして現実を投影したドラマの中でカップルは、浮気や不倫に走るのだろう。そんなことが無意識に頭に浮かんで、響に抱きしめられられている状況でも仕事の事を考える自分に嫌気がさした。

 恋愛だけに夢中になれるただの女子高生だったらよかったのに。取り巻いている環境。夏以外の季節が、年齢よりも随分と背伸びをさせる。

 だから夢さえ見られない。きっとそれはお互いさまだ。
 あと一歩に届かなくて、どうしても触れられない。

 響は何も答えない詠の両肩に触れると少し押しやるようにして距離を取る。

「そろそろ本当に帰らないと、みんな心配するね」

 二人で石灯篭を始末をして、手を繋いで、畦道を歩く。
 もう何もかも、いつも通り。
 年にたった一度しか訪れない、いつも通り。

 詠は小指を差し出す。

「また来年ね、響」
「うん」

 次に会うときまでには答えは出るだろうか。
 響と別れ際に視線が合わなくなったのは、いつからだろうか。