納得する答えが見つかりますように。
 詠はそう願って、目を開けた。

 今年も変わらずこの神社には響がいて、この社殿がある。
 いたるところで工事が終わっては始まる東京と同じ時を刻んでいるとは信じがたいほど、何も変わらない。

 響の日常。
 詠にとってはたった二週間の非日常。

 また今年も、恋焦がれた短い夏が来た。

「そうだ。おめでとう、詠」

 石段を降りながら、響が言う。
 それが春に取った新人最優秀賞の事だというのはすぐにわかった。

「見ててくれたの?」
「うん。見てた」

 響はあっさりと言いながら、石段を降りていく。

「可愛かったでしょー? あの私」
「可愛かった、可愛かった」

 浴衣を着た時と同じように、響はテキトーにあしらう口調で言う。

 響は覚えているだろうか。もう何年も前の出来事を。
 何の気もなしに〝可愛いでしょ?〟と問いかけて、〝響のお嫁さんになってあげてもいい〟なんて冗談を言って、ただ対等に、平等に、戯れて過ごしたあの夏を。

「詠ちゃん、いらっしゃい」
「響のおばあちゃん。今年もお世話になります」

 毎年恒例。響の両親に線香を上げる為に響の家へ行くと、今年も響の祖母は温かく出迎えてくれる。

「おめでとうねー、詠ちゃん」
「ありがとうございます」
「もう嬉しくて、嬉しくて」

 響の祖母はそう言うと、目に涙をためて詠を抱きしめた。戸惑っている詠の背を、響の祖母はゴシゴシと強い力でさすった。

 どんな風にしたらいいのかわからなくて、詠は戸惑いながら響を見る。
 響は優しい顔で笑っていた。響の表情に、響の祖母が優しく抱きしめてくれている事に、事実が絡まって、詠の涙腺を緩ませた。

 この場所が好きだ。いつも温かいこの場所が自分の中から消える事が、詠には想像が出来なかった。
 納得する答えは、見つかるだろうか。

 詠は誤魔化すように、響の祖母の肩口に顔を埋めた。

 それから、「美味しいご飯つくるからね」という響の祖母から離れて、お日様の恩恵が満ちた廊下を通って、まずは響の両親の写真が飾られた仏壇に線香を上げて手を合わせる。それから隣の客間で響の祖母が作ったそうめんと天ぷらを食べて、響と二人で皿を洗う。

 二人が客間に移動した後は、響の祖母が麦茶を持って来る。

「響ちゃん、こんな田舎で暮らすって意固地になってないね」
「え?」

 響の祖母はまるで世間話のようにあっさりと言う。
 心構え一つしていなかった詠はあっけにとられて響の祖母を見たが、いつも通り、ゆっくりとした動きで麦茶をお盆からテーブルに移している。

「詠ちゃんは仕事があるやろうしね」

 響の祖母の手から離れたグラスには氷がたくさん入っていて、テーブルに置いた衝動でカランと音を鳴らした。

「咲村さんと話していてね。あの二人は一緒になるつもりなんかねって、」
「ばーちゃん」

 響はそういう祖母の言葉を少し強い口調で止めた。
 何の話か分からない詠は響と響の祖母をちらりと見た後口を開いた。

「あの……。一緒になるって?」
「結婚するって事」
「け、結婚……?」

 表情を変えずにそういう響は、何の感情も乗せずにそう言い放つ。詠は少し顔が赤くなるのを感じた。

「詠には向こうに詠の生活がある。口を出すのは止めてあげてよ」
「でもね、響ちゃんはいつも私の事を気にしてばかりで。……響ちゃんには、響ちゃんの人生があるんだから」

 その言葉に、響は黙ったままだった。

 結婚。
 そんな事をこの状況で口にできるはずもなかった。将来さえ決めていない。さらに言うなら付き合うという工程さえ踏んでいない。

「ごめんね。私たちの頃は二人くらいの年齢で一緒になる事なんて、珍しくもなんともなかったもんやから、つい。……じゃあ詠ちゃん、ゆっくりしていってね」
「はい。ありがとうございます」

 響の祖母はそう言うと、笑顔を作って客間から出て行った。

 響は麦茶のグラスを二つ掴むと、廊下に移動する。
 そして二人で外に足を放って冷たい麦茶を飲んだ。

 響は祖母がいる限りこの場所をこの家を離れる気はない。

 だからこれは、自分の問題。しかし、響と一緒にいたいという思いがある限り、到底一人で抱えていて解決する話ではない。

 去年、縮まったと思っていた距離は勘違いだったのかもしれない。

 外を歩くとき、自分から響の手を握った。
 響はそれをそっと握り返した。

 「どこに行きたい?」と聞かれた時、人気のない場所を選んだ。
 響はそれに同意を示した。

 しかし、去年の様に響から手を繋ぐ事はなく、響の行きたい場所が詠と重なる事もなかった。
 それなのに響は、いつもと変わらず楽しそうに笑っている。

 もしかしたら響は、この二週間だけ自分に会う事を楽しみにしていて、真剣に将来を考えているのは自分だけなのかもしれない。

 響と一緒にいる事がただ楽しくて。その気持ちは重なっていると思っていて、今でもそうだと断言できる。
 しかし、響が夏休みの二週間()()一緒にいる事を楽しみにしていて、他の季節を夏と同じくらい楽しめているのなら、それは自分の持っている感情とは違うものだ。

 そうなら〝詠と会うのはこの二週間だけで充分だよ〟と言ってくれたら、芸能人として生きていく事を決断できるかもしれない。

 しかし、そう思ったのは本当に一瞬の事。すぐにそんなことを響に言われたら立ち直れないかもしれないなんて、女々しい自分が顔を出している。

 響に会えば納得する答えが出るかもしれないと思っていたのに、一体どうしたいのか見当もつかない。

 最終日の朝、旅館で目を覚ます。
 いつもいつも刻みつけようと必死になっていた夏が、ぼんやりとしているうちに過ぎ去っていった。

 夏は最初から、こんなに短かっただろうか。

 去年はもっと
 一昨年はもっともっと
 この季節を楽しめていたはずなのに。
 顔を合わせばいつも通り笑い合って、何もかもいつも通りに見せかけた今年の夏が、終わろうとしている。

 今日は唯一、暗くなるまで一緒にいる事が許される日。
 神社で待ち合わせた後、人気のない場所を散歩して、響の家で昼ご飯を食べてから、夕方まで話をしながらゆっくりした。

 響の提案で海に行くことになり、初めて響がこぐ自転車の後ろに乗った。
 響の「しっかり掴まってて」を口実に、響を後ろから抱きしめた。

 すべてをやりつくしたと思っていた夏に、知らない風が吹いている。

 夏祭りの準備でみんなバタバタしているのか、海に人気はなかった。足だけ浸かって、いつも冷たいと期待させておいて大して冷たくない海水の話をして、座ってまた、話をする。

 辺りが薄暗くなる頃には、畦道を歩いていた。自転車を押して歩く響の隣を神社に向かって。
 もう夏が、終わってしまう。

「俺が呼びに来るまでここで待ってて」

 鳥居の横に詠を残して、響は一人で鳥居をくぐっていなくなる。

 詠のすぐ隣にある竹の柵は鳥居から横にまっすぐ整列していて、木々を境内(けいだい)に閉じ込めていた。

 都市部ではなかなか見ない、圧倒されるほどの緑。必要最低限しか人間の手が施されていない竹の柵もそれを結ぶ糸も明らかに劣化した色をしているのに、まるで朽ちるつもりがない。

 詠は空に視線を移した。
 薄らと見えて来る星。もうすぐ、真っ暗になる。

 そう思うと急に不安になった。
 今の今まで、よく知った田舎町だと思っていた。

 しかし響がいないのなら、まるでここは知らない場所だ。