「颯真となに話してた?」
「ひと夏の過ちの話」
「なんだそれ」

 短い言葉での会話。響の言葉を最後に二人は黙り込んだ。
 いつもの沈黙じゃない。もっと重たくて、お互いがお互いを探るような、そんな沈黙。

 詠が颯真に呼ばれてビーチボールに参加して、それからみんなが海に入る所を見ていた。

「そろそろ帰るか」

 誰かがそう言いだして、みんなは片付けを始める。
 「これ誰の~?」「ちょっと男子、片付けてよ!」という声が響く。しかしみんな、片付け一つでも終始楽しそうにしていた。

 響は積極的に片付けをしているが、詠と目を合わせる事は一度もなかった。

「響」

 片付けも終盤。詠はそう声をかけると、響は振り返った。

「明日、」
「やっと終わった。お疲れ~」
「帰ろうぜ~。学校側組~」

 詠の声は響のクラスメートの男子たちに遮られて消えた。響はクラスメートの流れにほとんど無理矢理乗せられて、そのまま帰っていく。

「商店街側組も帰ろうぜー」

 詠は響の背中を眺めながら、旭の言葉を聞く。

 〝明日も同じ場所でいいんだよね〟
 そんな事を聞かなくても響は絶対にあの神社で待っているし、詠はあの神社へ行く。だから何か言葉が必要なはずがないのに響にそう聞いてみたかったのは、響ともっと話がしたかったから。

 詠はみんなの流れに乗って、旅館へと帰った。

「おはよう、響」

 次の日、神社の石段の下からそう声をかける詠に、響は笑顔を向けた。

「おはよう詠」

 いつも通り。何一つ変わらないいつも通りの響だった。

 二人はまるで言い合わせたかのように、初日の海の話をしなかった。
あっと言う間に二週間が過ぎ去っていく。

 会えなかった季節の話をしたり、これから先の事を話したり。

「明日、ひまわり見に行こうよ」

 そういう響の言葉を快諾して、畦道を過ぎた所で別れた。

 最終日。
 二人はバスに乗って少し離れた所にあるひまわり畑を見に来ていた。

「響、見て! このひまわり、私の顔より大きい!!」
「本当だ。すごいな」

 ひまわり畑の辺りには、そこそこ人がいる。
 バス停から降りてそう歩かずに立派なひまわりを見る事ができるなんて、田舎は本当に素敵な所だと詠は思った。

 辺りには二人よりも年上の男女のカップルがたくさんいる。

「ありがとう、響。連れてきてくれて」
「俺が見たかっただけだよ」

 先を歩く響に気付かれないように、詠は笑った。

 詠は確信していた。響はきっと花になんて興味がない。朝顔を見に行った日に、東京で見られない景色だから好きだと何気なく言った言葉から、このひまわり畑を見せようと考えてくれた。

 響の優しさはいつも気付かない程ささやかで。きっと見逃している事もたくさんあるだろう。だから見せる気のない響の優しさに気付いた時、例え響が何かを言わなくても楽しませようと思ってくれている事も、大切に思ってくれている事も伝わってくる。

 初日の海で見た、颯真の鈴夏に対する真っ直ぐな思いを思い出した。

「私達さ」

 だからほんの少しだけ、距離を詰めてみたくなって。

「うん」
「周りから見たらカップルに見えるかな?」

 撮影だったら、間違いなくリテイク。
 もっとさらりと聞くつもりだったのに、力が入ってしまって。詠は緊張が響に伝わっていない事を願った。

「……さーね」

 しかしやはり、恥ずかしくて。でも今更、引くに引けなくて。

「そうだったらいいのにな、って。私は思うんだけど」

 そういう詠に、響は何も答えなかった。

「もしかして、照れた?」
「照れてない」

 響は食い気味にそう言って、さっさと先を歩く。詠はそれに続いた。

「照れるなよー」
「照れてないって」

 響があまりにも不自然だから、詠は冷静さを取り戻してここぞとばかりに響に絡んだ。

 なんだか損をした気分だ。最初から以前のように接していれば、もっともっと楽しい時間を過ごせたのに。
 今年はなんだか、おかしい。でもきっと、来年は大丈夫だ。

 しばらくひまわり畑を見て歩いた後、移動販売車を見つけた。店の前に出ているホワイトボードには画用紙で作ったソフトクリームや向日葵が飾られていて、メニューと営業日のカレンダーが貼られていた。

 この場所に来るのは週一回。ここが週に一回なら他にどんな場所でやっているのだろうと何となく考えながら、ソフトクリームを食べて涼む。
 火照るからだに、冷たくて甘い食べ物が心地いい。

 ひまわりをもう少し見た後、二人は帰りのバスを待った。

 少しすると誰もバスの中にいなくなる。バスに乗っているのは運転手と一番後ろの長い席に座っている響と詠だけ。

「響、高校を卒業したらどうするの?」
「まだ俺達、中学二年生だよ」

 響はそう言って笑った後、揺れる外の景色を眺めていた。どこかもの寂し気な雰囲気がある。

 それは今まで見た事のない、響の表情。
 響ってそんな顔もするんだと気楽に言えればよかった。だけど、言えない。明確にわかってしまったから。

 大人に近付こうとしている。
 現実という壁を、目の当たりにして。

「俺はこの田舎で暮らすよ。ばーちゃんほっとけないし」
「そっか、そうだよね。うん……そうだよ」

 響が何を思っているのかわからない。しかし一歩大人へと踏み出したことは間違いなかった。きっと響も気が付いただろう。その証拠にバスが目的のバス停に停まるまで、話をしなかった。

 この田舎にすべての日常がある響と、家も仕事も学校も何もかも東京にある詠。
 いつまでも人生を交わらせることはできない。

「あのさ、詠」
「うん、どうしたの」

 バスを降りた頃には、もう夕方だった。それなのに二人はどちらが何かを言った訳でもないのに、神社に続く畦道を歩いていた。

「初日に海に行った事なんだけど。なんて言ったらいいかわからないから、言葉を選ばずに言うんだけど」
「うん」
「……俺は詠と二人でいたかった」

 詠は思わず息を呑んだ。セミとカエルの大合唱が、はっきりとした沈黙を埋め尽くす。

「詠の考えてる事は何となくわかってるし、それが俺の為だって事も理解してた。でも、今も納得はしてない」

 響が納得はしていない事はわかっていた。しかし次の日から普通にしていたから、きっともう何もないのだろうと思っていただけ。

 響はふいに立ち止まって、いつの間にか目の前にある大きな石造りの鳥居を見上げた。

「こんなところまで来ちゃったね。戻ろう」

 そういう響の言葉で、二人はまた畦道を戻って歩く。その間何も言わない響に、詠は思い切って自分の意見を口にしようと思い立った。

「私にとって夏休みだけのこの場所は、響の日常だって思ったの。私がいなくなっても、当たり前に続くから……。私が原因で響がクラスの子とぎくしゃくするのが嫌だった。だから、一緒に遊ぼうって言った」

 詠は思っている事を包み隠さず、はっきりと口にした。
 響は歩みを止める事も、表情を変える事もない。

 ただ詠の言葉を聞き終わった後で、ゆっくりと口を開いた。
 まるで最初から何を聞いても、その言葉を言おうと決めていたみたいに。

「俺はこのありふれてる日常の中でも、せめて夏くらいは詠と二人でいたいよ」

 響はそう言うとやっと立ち止まった。
 いつの間にかまた、畦道の終わりまで来ていた。響は詠に小指を差し出した。

 響はどんな気持ちで、その言葉を言っているのだろう。

「また来年」

 このもどかしい思いを言葉に、形にする方法を知らない。

「待ってるから」

 響は少し、寂しそうに笑う。
 去年の響は別れ際、どんな顔をしていたっけ。

「うん。また来年」

 詠は響の小指に指を絡めた。
 二人はしばらくそうしていたが、響が小指の力を抜いた指は、するりとはなれて行く。

 また一つ、夏が終わる。