「ちょっと待ってて」

 そういった響は、奥の襖を開けて台所に移動すると襖を閉めた。
 詠は自分の呼吸さえも邪魔に思えて、息を潜めて耳に意識を集中させた。

「もしもし、鈴夏? ……そう。どうした?」

 すぐ隣で聞こえる響の声は、いたっていつも通り。
響の声色から、付き合っている同級生たちのあの雰囲気を探ろうとしている事に気が付いた詠は、自分がほんの少し嫌になって、ゆっくりと息を吐き捨てた。

 響を疑っているような気持ちになる。響が誰と付き合おうが響の自由のはずだ。

「うん。今年も俺はいかない」

 鈴夏は響を何かに誘ったのだろう。はっきりと断りを入れる響の声に、安心している。

「いつも誘ってくれてありがとう。でも多分、この時期は毎年詠といるから。一緒には行けないと思う」

 いつも通りの口調で言う響に詠の中には罪悪感が浮かぶ。しかし、それを覆うくらいの安心感が無意識に身体中の力を抜かせた。

「じゃあまた学校で」

 そう言った響の声が聞こえてすぐ、襖が開いた。
 感情がまるでジェットコースターみたいで、なんだか気だるい。
 自分は一体、何がしたくて、どうなりたいんだろう。

「ただいま」

 響は少し離れた所に腰を下ろした。詠は反射的に「おかえり」と返事をする。

「そういえば、響は去年も夏祭り行かなかったの?」
「行ってないよ」
「今年もいかないの?」
「詠が行きたいなら行くけど」

 一昨年の夏祭りの事を思い出す。
 あの時はいろいろと考えてしまってよく楽しむ暇もなかったが、響にもう秘密はない。一緒に夏祭りに行けば楽しめるだろう。

 しかし、きっと夏祭りには鈴夏もいる。鈴夏に会うのは少し怖い。あの真っ直ぐな女の子を見ていると、自分の小ささをまざまざと見せつけられる気がするから。
学校の女の子は鈴夏だけじゃないはずだ。他にもし、響を好きだと思っている子がいたとしたら、一年にたった二週間しかいられない自分に勝ち目はない。

 そう考えてはっとした。何を考えているんだろう。

「ううん。私は……でも、響はいいの?」
「俺は夏祭りよりも、詠と一緒にいる方が楽しいし」

 なんの迷いもなく真っ直ぐにそういう響に、詠は自分の顔が赤くなるのを感じた。
 まともに響を見る事が出来ずうつむくと、響は少し焦った様子をみせた。

「なんで照れるんだよ。……詠がそんな顔するから、なんか俺も恥ずかしくなってきた」

 響はそう言って立ち上がると、客間に行こうとしているのか廊下に向かって歩きだした。

「二人とも、隣の部屋にお茶を置いておくからね」

 ちょうどそのタイミングで台所の方向から聞こえた響の祖母の声に、詠は返事をして立ち上がると、すでに部屋を出ようとしている響の後を追った。

 廊下を通って客間に入ると、手作りと思われる毛糸のコースターの上に氷がたくさん入った麦茶が置かれていた。グラスは汗をかいていて、コースターを湿らせている。

「あそこで飲みたい」
「はいはい」

 詠が廊下を指さすと、響はわかってますよ、とでも言いたげな慣れた様子で返事をする。
 客間から引っ張った扇風機を廊下に出して、二人に当たるように首を固定してスイッチを入れた。それから二人は麦茶の入ったグラスを手に取り、ガラス戸が開け放たれている廊下に座り、外に足を放って座った。

「海の近くにさ、自動販売機あるでしょ」
「あるね。それがどうかした?」
「後ろのフェンスを埋め尽くしてる朝顔、知ってる?」
「うん、知ってるよ」
「去年初めて気付いたんだけど、すごく綺麗だなって思ってさ」
「そう言われるとよく見たくなる。後で行こうよ」
「うん。行こう」

 次の行き先はあっさりと決まったが、もうしばらく扇風機の当たる場所で冷たい麦茶を楽しみたい気持ちは同じだったらしい。

 他愛もない話をしながら麦茶を飲んだ。セミの音の種類の話とか、響の学校の話とか。
 それから響の祖母が持ってきてくれたアイスを食べる。
冷たいアイスと麦茶が体温をグッと下げると同時に、夏の猛暑が体内にこもろうとする。その感覚が倦怠感を連れてくる。

 二人はしばらくたってから家を出た。右手にある神社を横目に左に曲がり、畦道を歩いた。頭上にはトンボが飛び交っている。

「詠、花が好きなの?」
「好きだよ。でも花っていうよりは、フェンスを埋め尽くした朝顔って言うのが何だが東京じゃ楽しめない雰囲気があって好きなの」
「へー」

 響は自分で聞いておいて、大して興味なさそうな返事をする。

「全然歩いてないのに、もう暑い。自動販売機に着いたら何飲みたい?」

 そしてあっさりと話は別の所へと切り替わった。

「夏は冷たい麦茶でしょ」

 また、他愛もない話をしながら歩く。
 詠は去年までは感じられなかったゆっくりとした時間の流れを感じていた。
 他愛ない話をすることが楽しい。響を知れる一歩になって、自分を知ってもらう一歩になる。

 そう思っていた詠だったが、海に到着する頃には「暑い」以外の言葉を失っていた。
自動販売機を前にした詠は、朝顔に見向きもせずに既に手に握りしめていた小銭を自動販売機に突っ込んだ。

「いや、確かに暑いけどさ。綺麗だって騒いでた朝顔、全然見ないじゃん」
「そんな余裕ない。だってもう、命の危機を感じてるもん」

 二人はそれぞれ麦茶を買って、その場でキャップを開けて飲んだ。
二人は深く息を吐き捨てた後、同じタイミングで朝顔を見た。

「ねえ、響。やっぱり、綺麗だよね」
「全っ然、心に響かないんだけど」

 呆れ笑いを浮かべてそう言った響は、あっさりとペットボトルの麦茶を一本飲み終えて、備え付けられたゴミ箱に放り込んだ。

 次は海に足をつけて涼もうという話になり、詠は砂浜まで降りるアスファルトを固めたような石段に足をかけた。

「最悪。忘れてた」

 ぼぞりと呟いた響は、石段に足をかけている詠の手を勢いよく握った。
 詠はバランスを崩しかけたが、響に腕を引かれてこける事はなかった。



せっかく少し引いた汗が再び背中を濡らしている。

「ちょっと、響! 危ないよ!」
「別の所行こう」
「えっ、なんで? 海で涼むのは?」
「どうせ大して冷たくないよ」

 響の言葉に納得がいかない詠と、少しでも早くこの場を去りたいと思っている様子の響。
 二人がそんなやりとりをしていると、聞き覚えのある声が響いた。

「おーい、響ー! あ、詠ちゃんもー!!」

 詠が振り返ると、浮き輪やボールを持った二十人いないくらいの男女がいた。
 そのうちの一人の男が、二人に向かって大きく手を振っていた。響はすぐに詠から手をはなした。

「あれ、颯真くんじゃない?」

 詠がそう言いながら響を見ると、彼の顔には面倒くさいと書いてある。

 何も言わない響を不審に思いながら、詠はもう一度颯真を見た。相変わらず大きく手を振っている。そして段々と近付いてくる。
 遠い距離にいるが、動きだけできっと満面の笑みを浮かべているのだろうという事が分かり、何度か会ったことがないが颯真らしいと思った詠は思わず笑みを浮かべた。

「気付いてないフリして行こう」
「いやでも、私今めちゃくちゃ目合ってるよ」

 颯真のあの満面の笑みを曇らせるのは本望ではないと思った詠は、視線を逸らせなかった。
 その様子を見た響は、諦めたように溜息をひとつ吐いた。