響の祖母は今年も快く詠を家に迎え入れた。
詠がすっかり気に入った客間のすぐ横の幻想的な廊下には相変わらず木漏れ日が揺らめいていて、開け放たれてガラスを通していない太陽の光は去年よりももっと廊下を温めている。飾られた風鈴が高い音を鳴らしていた。
「詠はお昼ご飯食べてるからいらないよ」
響は確かにそう説明したはずだが、食事の準備ができたという声に二人で向かった先のダイニングテーブルには明らかに二人分の天ぷらとそうめんが置いてあった。
「作りすぎたから、二人で食べられる分だけ食べて」
結局詠は揚げたての天ぷらを半分、それにそうめんを半分。つまりちょうど一人分食べきった。
響は詠の食べっぷりを見て、昼ご飯を食べて来たというのは嘘なのではないかと本気で疑っていた。
それから二人は去年と同じように二人で食器を洗う。その様子を茶の間と台所の間でいつの間にか見ていた響の祖母は、やはり今年も嬉しそうに笑っていた。
「響ちゃんよかったね。今年も詠ちゃんと遊べて」
「うん。ちゃんと来たし」
そう言いながら響は泡だらけの食器を詠に渡した。詠はそれをお湯で丁寧に洗い流す。
「響ちゃんね、夏休みなんて退屈だって毎年言ってて。それなのに去年詠ちゃんが帰っ
てから、一度だってそう言わないんよ。凄く楽しみにしててね」
「ばーちゃん」
「カレンダーにバツ印をつけたりして」
「ばーちゃん!」
響は少し顔を赤らめて声を張った。「ごめんごめん」と申し訳なさなど微塵もない口調で言う響の祖母と、知られたくない事実を必死に隠そうとする響を見て詠は笑った。
「私は嬉しいよ。私もね、カレンダーにバツ印をつけて楽しみに待ってたんだ。一緒だね」
響は居心地が悪そうな顔で詠が追いつけないペースで皿洗いを終え、手についた泡を洗い流して台拭きを手に客間の方へと消えた。
「ほら、詠ちゃん。これこれ」
小さな声でそう言った響の祖母は、既に破かれた七月のカレンダーを詠に見せた。そこには七月一日から赤いペンでバツ印が書かれていて、夏休みが始まる日にはマル印が書かれていた。
「もう……ばーちゃん……」
響は台拭きを片手に台所に戻ってくると、絞り出すような声でそう言った。
響の祖母はまた「ごめんごめん」と言いながら、少し目を見開いて茶目っ気のある顔で詠を見てからカレンダーを片付ける。
どこまでも自由な響の祖母と、祖母に悪気がない事が理解して強気に出られず「ばーちゃん」と呼ぶしか出来ない優しい響のやり取りを見て、詠はこらえきれずに腹を抱えて笑った。
響はむすっとした顔で詠を睨んだ。
それから二人は、いつもの神社で鬼ごっこをして遊んだ。
去年とは違いかなりいい勝負をした詠が、この日のためにここ一年ランニングをして体力をつけてきた事をドヤ顔で説明すると、響は腹を抱えて笑っていた。
それからは去年同様、毎日朝から二人で遊んだ。
咲村旅館の一室でたくさんの座布団を使って遊んでみたり、カラオケをしてみたり。響の家の庭で遊ぶ日もある。
「今日はお菓子を買って海で食べよう」
響の提案で商店街から少し離れたところにぽつりとある古びた駄菓子屋に向かった。
子どもたちが貼ったのだろう。駄菓子屋の引き戸には、時代遅れのシールたちがたくさん貼られている。
苔の生えたトタン屋根から釣り下がって揺れる風鈴。いくつかの少し錆びたカプセルトイの機械と大きなゴミ箱、アイスケース、長椅子の横を通り過ぎる。
引き戸は響の家の玄関よりもスムーズに動き、カラカラと軽い音を立てて開いた。
「こんにちはー」
「こんにちは」
いつもより少し大きめの声で挨拶をする響の後ろで、詠は麦わら帽子を深く被りながら小さな声で言った。
「はい、こんにちは」
腰を曲げて座っている小さなおばあちゃんが、うちわ片手に穏やかな声でそういう。
扇風機が首を回してはいるが、その風さえぬるい。店の中はたくさんの種類のお菓子が所狭しと並んでいた。壁には厚紙にはめ込まれたスーパーボールや、袋に入った紙風船やいろいろなものが重なって並んでいる。
近くのスーパーでは見た事のないお菓子の品揃えに、詠は思わず声を上げた。
響は駄菓子屋のおばあちゃんが金額を計算している間に、外に置いてあるアイスケースに向かう。詠もついて行くと、そこには細い棒の形、それに丸い形の冷凍されたゼリー。フルーツをかたどったシャーベットたちが並んでいた。
響に続いてゼリーを数本選んで、響の後ろに並んだ。
二人は袋いっぱいのお菓子を片手に、肩口で汗を拭いながら歩いた。客が誰もいない事も、店員に気付かれなかった事も運がよかった。
会えた嬉しさですっかり忘れていた詠だったが、自分が芸能人だという事は響に気付かれてはいないらしい。
テレビっ子の詠からすると信じられないが、おそらく響はあまりテレビを見ないのだろう。
テレビ見ないの? と問いかければきっと響は答えるだろう。しかしもし、何でテレビを見ないと思ったのかと問い返されてしまえば、ごまかす作り話が出来る自信が詠にはなかった。
いつか気付いてしまうのだろうか。ずっと響が〝咲村詠〟を知らないままでいてくれたらいいのに。どうにかしてずっと隠し通すことはできないだろうか。そんな考えが頭をよぎったが、それは響のいない季節に考えればいい事だ。
「暑いねー」
自分の気持ちを誤魔化して、明るい口調で切り替えるふりをする。
「暑いな」
どこまでも追いかけてくるセミの声と、かすかに聞こえる風鈴の音が二人の沈黙の隙間を埋める。
響は駄菓子の入った袋に手を突っ込んで冷凍ゼリーを取り出した。
「こんなに暑いと、せっかく凍ってるゼリーが溶ける。……もう半分くらい溶けてるし」
そう言うと響はゼリーの袋にある切れ込みの部分を歯で噛んで開けて、袋ごとゼリーを噛んだ。
「あー生き返る。……けど、すぐ溶ける」
詠も響と同じように袋の中からゼリーを取り出して、同じようにゼリーの袋を開けて口に入れた。
「美味しい、冷たい!!」
響の言う通り半分くらいは溶けていたが、凍っている部分を噛むと、シャリシャリと音が鳴る。あっという間にゼリーを食べ終わってしばらく歩いて、やっと海が見えた。
商店街から少し離れた駄菓子屋からこの海までは大した距離ではないが、こうも暑いと歩くのが億劫になる。しかし、建物が並ぶ商店街よりは風を直接感じて過ごしやすい。
小高い場所から海を見下ろしながら歩く。数組の家族が楽しそうに遊んでいた。
アスファルトを固めて作ったような、神社の石段とは違う石段を注意深く降りる詠とは対照的に、響はリズムよく下を見る事もなく降り切って砂浜に足をつけた。
「水着、持ってくればよかった」
「俺も同じこと思ってた」
二人は気持ちを共有しながら、砂浜に腰を下ろして駄菓子を食べた。
「そういえばさ、去年言ってた好きな子とはどうなったの?」
「……よく覚えてたな、そんな話。別にそういうのじゃないから、どうにもなってないよ」
「えーつまんなー」
詠は最後のお菓子を食べ終わるとゴミの入った袋の口を器用に縛って、飛ばされないように袋の上に砂をかぶせた。
「私、足だけ海に浸かってくる」
「俺も行く」
二人はサンダルを脱ぎ捨てて駆け出し、海水に足をつけた。
詠は笑顔を引っ込めて自分の足元を見た。意識を足に集中させてみるが、やはり予想していた感覚とはずいぶん違う。
「……私の言いたい事わかる?」
「めっちゃよくわかる」
二人はじっと水面を見つめた。
ぬるい。足を浸した海水は思っている何倍もぬるかった。
すっと汗が引く冷たさを期待していた詠は少しでも冷たくなるように足を動かした。詠の足の動きに合わせて、ぴちゃぴちゃと海水が飛ぶ。
「入るまではいっつも、今日は冷たいはずだって思うんだよね。でも、期待しているほど冷たくはない」
響の言葉を聞いてから詠は海水に手を付ける。足だけよりはマシだった。
「響ってさー」
「うん」
「将来の夢とかあるの?」
「将来の夢……」
響はぼそりと呟くと少し間を開けて口を開いた。
「小学校の先生かな」
「へー。なんで?」
「勉強になりそうだから」
全然意味がわからない回答に詠は息を漏らしながら笑った。
「先生って勉強を教えるんでしょ? 自分が勉強するの?」
「そう。俺が勉強する」
頑なに態度を変えない響に、詠はさらに笑った。
「本当に響って変わってる。でも、いい夢だね」
「詠はなに? 将来の夢」
「んー。お嫁さんかな」
「……へー」
あまりに幼稚な答えだと思ったのか、響は絞り出したような口調で言った。
「引かないでよ。ちゃんとした理由があるんだから。あのね、すごく仲良しな家族を作りたいの」
「仲良しな家族って?」
「うーん。なんでも話し合えてー、心を開いていてー、休日は家族の日で、毎週毎週休みを合わせて楽しい事をする!」
「そっか」
響は呟いた後、詠の方を見て笑った。
「いい夢だね」
響の言葉に嬉しくなって、詠は笑顔を返した。
「どうせ相手いないだろうから、響のお嫁さんになってあげようか?」
「いや。大丈夫」
「……大丈夫ってなによ」
「俺には荷が重そうだから」
「そこは〝何があっても俺が君を守るよ〟ってかっこよくいう所なんじゃないの?」
「少女漫画の見過ぎ」
本当に響は変わっているなと思いながらも、自分も同じくらい変わっている自覚があった詠は大して気にすることなく海を眺めた。
「せっかく海に来たんだから、海っぽい事しようよ」
詠は響にアバウトな提案をしながら辺りを見回した。
「海っぽい事って?」
「例えばー」
打ち上げられた木の枝を一本拾った詠は、砂の山を作り中央に木の枝を突っ込んだ。
「うつ伏せから、どっちが早く木の枝を取れるか競争!」
「ビーチフラッグか。俺の勝ちだな」
響はそう言うと、海水から上がって詠の隣に来た。
二人は砂で服が汚れる事も気にせずに、木の枝から距離を取って足を向けてうつ伏せになる。
「詠の合図でスタートでいいよ」
「じゃあいくよ。……よーーーい、ドン!!」
詠は間違いなく響よりも早く身を起こした。いや、ズルだと言われればその通り。それくらいフライングして走り出したはずだ。
しかし、身を起こしてから駆け出すまでの時間は響の方が早く、詠が麦わら帽子を押さえながら走っている間に砂の山に刺さった木の枝は響の手にあった。
「ちょっと待ってて! 次は勝つから! 自信あるから、私!!」
そう言いながら麦わら帽子が飛ばされないように砂をかける詠を見た響は、先ほど詠が風に飛ばされないようにと砂に埋めた駄菓子のゴミが入った袋を見た。
「何でも砂浜に埋めるじゃん。そういう生き物みたい」
本気になった詠は呆れる響をよそに準備体操を始める。
それから何度も何度も挑戦したが、詠が響に勝つことができたのは彼が砂に足を取られて盛大に転んだ数回だった。
ここに来た時と同じように、海を眺めながら海水に足を浸して汗が引くのを待っていた。辺りは少しずつ少しずつ、オレンジ色になっていく。
「詠が帰る日の前日、小学校で小さい夏祭りがあるんだけど」
「うん」
いつも通りの口調でそういう響に、詠は何の気なしに短く答えた。
「一緒に行こうよ」
響と行く夏祭りが楽しい事なんて、考えなくてもわかる事だ。
しかし、もし誰かにバレたら。この関係は終わってしまうだろう。
関係が終わってしまうくらいなら、夏祭りなんていらない。しかし、どうして夏祭りにいきたくないのかと問いかけ返されると答えられない。
「……私はいい」
「そっか。詠は夏祭りとか好きだと思ってた」
「好きだよ。でも、浴衣持ってないしさ」
「別に浴衣じゃなくてもいいよ。着たいんだったら、俺の家に母さんが子どもの頃使ってたやつがまだあるよ」
「でも……」
「あんまり行きたくない?」
「ううん、そうじゃなくて……」
夏祭りは夜にあるのだからきっと暗いだろうし、人もいっぱいいるだろう。あれだけ人がたくさんいる東京のテーマパークに行ったときだって、一日いて一度もバレなかった。
きっと、誰も気づかない。
「やっぱり行きたい。一緒にいく」
詠がそう言うと、響は嬉しそうに笑った。
母の顔色をうかがって生きてきた。芸能界では作家である母親の評判を下げないようにいい子でいたし、周りの大人の機嫌を取ってきた。
だから人より少し、子どもから卒業するのが早かったのかもしれない。
いろんな人を見てきた。大人も、子どもも。だからよくわかる。
響は優しい。きっと誰にでも親切だ。でも響は、おそらく自分が嫌いだと思う人と無理に付き合う人ではない。
散々わがままを言って困らせているにも関わらず、響は受け入れてくれている。認めてくれているという事実が、例え一年を通して見るとごく短い間なのだとしても、残りの季節を耐えていこうと思わせてくれる。
響と一緒にいる〝咲村詠〟は、東京で生活をしている物分かりがよくて聞き分けのいい〝咲村詠〟とはまるで違う。わがままで、何でもはっきりと口にして、負けず嫌いを全面に出している。そんなどことなく気が強い女の子。そう自覚していた。
夏祭りの日はあっという間に来た。二人はいつものように朝から夕方まで遊んで、響の家に行った。響の祖母が用意してくれていた浴衣は客間にあった。クリーム色にオレンジやピンクの花があしらわれた温かいデザイン。響の祖母は「懐かしい」「懐かしい」と言いながら目を細めて、詠に浴衣を着つけた。
「響、どう? 似合ってる?」
詠は障子を開けて、縁側に座っている響の前でくるくると回って見せた。
「うん。似合ってるよ」
「響のお母さん、凄くセンスいいんだね」
辺りはぼんやりと暗くなり始めていた。
「お父さんとお母さん、まだ帰ってこないの?」
「帰ってこないね」
「ご挨拶したかったんだけど」
「いいよ。そんなの」
響は縁側から立ち上がると足元を指さした。
「下駄ここにあるよ。足元、気を付けて」
詠は響の目の前に勢いよく手を差し出した。響は呆れたように笑った後、詠の手を握る。詠は縁側から足を下ろして、片方ずつ下駄を履いた。
「かわいい?」
「かわいい、かわいい」
響は詠をあしらうと、立ち上がった詠から手をはなす。
隣に並んでしばらく歩くと、いつもの石造りの鳥居が右手に見える。
「神社の石段の横にある石のアレ」
「灯篭のこと?」
「灯篭って言うんだ。あれ、何に使うの?」
「ろうそくに火をつけて、あの灯篭の中に入れるんだよ」
「へー」
詠はそう言いながら等間隔で整列した石灯篭を眺めた。
「きっと綺麗だろうね。これ全部光ってたら」
「迫力ありそうだね」
二人は詠の靴や服などの荷物を一旦置くために旅館へと向かった。夏祭りに向かう人たちにバレないかと心配だったが、幸いにも誰にも気づかれなかった。
祖父母は詠の浴衣姿に大喜びしてすぐにカメラを探しに行った。「俺はいいです」と言う響をほとんど無理やり詠の隣に並ばせた祖母が写真を撮る定位置に戻る間、二人は顔を見合わせて苦笑いをした。
旅館のエントランスでも外でも何枚も何枚も写真を撮る。
「ごめんね、響」
「うん。別にいいよ」
小学校までの道を隣に並んで歩きながら、詠はそういった。
これくらい暗ければ、大人しくしていればそうそう顔もバレないだろう。
「なんか詠、嬉しそう。夜、出歩くのが嬉しいの?」
響の純粋な疑問に、詠は咄嗟に口を開いた。
「それもそうだけど、響とお祭りに行けるのが嬉しいの。楽しみにしてたんだもん。響は違うの?」
つらつらと、流れるように嘘をつく。
もちろん響とお祭りに行けるのは嬉しい。しかし、顔に出ていた気持ちとは違う。顔に出ていた気持ちは、誰にも〝咲村詠〟だとバレないと思ったから。
笑顔を貼り付けた裏側で感じるのは、嫌な気持ち。
響に嘘をついた。
思っている事とは違う事を口にするこの感覚は、東京にいて大人の顔色をうかがう時に似ている。
「詠、俺に何か隠してる?」
詠は思わず立ち止まった。
もしかして、知っているんだろうか。もしかして、探られているのだろうか。それとも怪しまれているだけなのか。
響は詠が立ち止まってから数歩歩いた後、振り返ってしばらく詠を見ていた。
「なんとなくだけど、詠は何か俺に隠してるのかなって思う時あるよ。今だけじゃなくて。……言いたくなかったら別に聞かない。でも、言いたいことがあるなら聞くよ」
言ってしまおうか。
もしかすると、響は認めて受け入れてくれるかもしれない。なんだ、そんな事かって、笑ってくれるかもしれない。
「なんでもない」
ふわふわと考えがまとまらない頭のまま、詠はほとんど無意識に口を開いた。
口にしてから思う。そんな確信はどこを探しても見つからない。
「何にも隠してないよ。気にしないで」
この関係性を失うかもしれない賭けをするくらいなら、誰にも気づかれない事を祈っていた方が現実的な気がした。
響は何か言いたげな様子を見せたが、開いた口を結ぶといつもの笑顔を浮かべた。
「……そっか、わかった」
胸の奥が締め付けられて痛い。
どうしようもなく、今の自分が嫌い。
「じゃ、早く行こう。わたあめが食べたい。毎年人気で、すぐに売り切れるから」
詠は短く返事をして、先を歩く響について行った。
「あっ、そうだ詠。言い忘れてたけど」
俯いていた詠が顔を上げると、響は笑っていた。
「俺も楽しみにしてたよ。詠と夏祭りに行くの」
響はそれだけを言うと、詠の返事も聞かずにさっさと正門を過ぎて階段を上がった。胸に温かい何かが灯って、それから消えようとしていた。詠は小走りで響の隣に並んで、彼のペースに合わせて歩いた。
「私の浴衣姿が思っている以上に可愛かったから、嬉しいでしょ」
「似合ってる似合ってる。かわいいかわいい」
響はまたあしらうように言って、それから笑った。詠も釣られて笑った。さっきの暗い雰囲気なんて、なかったことにして。
階段を上り切ってすぐに見えた正面玄関に見向きもしない響は、右に曲がって校舎の外をなぞって歩く。
詠は自分の通う私立の学校との違いに驚いていた。
校門はこの学校ほど簡易的ではなく、背が高くて錆ひとつない。
レンガを均等に並べて作られている外通路は、赤茶色のレンガの色を鮮明に残している。
この学校の石畳の通路はとっくに色あせていて、元の色の判別さえ難しい。石畳の側には雑草が生い茂っていて、砂の道を隠していた。
白かクリーム色の外壁は所々剥げていて、砂埃や汚れがそのまま放置されていた。
「あそこが、俺の教室」
響は二人が歩く道と校舎の間にある飼育小屋を超えて、三階の一室の窓を指さした。
いつも響は、あの教室にいる。しかし詠は、響の普段の生活を何一つ知らない。どんな態度で授業を聞くのか。昼休みは何をしているのか。今見上げている響が過ごしている教室がどんな部屋なのか。
今まで何も気にしていなかったのに、今になってそれは悲しい事のような気がする。
「中、入れないの?」
「教室の中は入れないよ。大体、それ見て何が楽しいんだよ」
楽しいとかそういう事じゃなくて、と言おうとした詠だったが、すぐに広いグラウンドが見えて口をつぐんだ。
グラウンドに向かって歩きながら、詠は自分の胸に手を当ててみる。
この気持ちは何だろう。悲しいような、焦りのような。
しかしそれは響のいない季節に考えればいい事だと気持ちを切り替えて、詠は正面を見据えた。
詠の知る夏祭りとは随分と違っている。
運動会で見る真っ白なテントが横並びに並んでいて、手書きの文字で〝ラムネ〟〝りんご飴〟と書かれたパネルがテントからぶら下がっている。都会で開催される夏祭りと比べると、随分と迫力のない小さな祭りだった。
響は目的のわたあめのテントの前に並んだ。釣られて響の隣に並んだはいいが、グラウンドはテントを照らす為の光で詠が思っていたよりも明るかった。
当然、テントに近付くにつれてさらに明るくなっていく。
「あら詠ちゃんじゃない! 響くんとお友達だったのね」
「はい」
〝わたあめ〟と書かれたパネルの下にいる、見るからに人が好さそうで上品なこの女性がいったい誰なのか詠は知らないが、今年挨拶をした誰か、もしくは去年押しかけた誰かだろう。
目を合わせない詠を気にする様子もなく、女性は「楽しんで」というと響と詠に割り箸に刺したわたあめを差し出した。
「詠、鈴夏の母さんと知り合いなの?」
「うん、そうだね。……多分」
「多分ってなんだよ」
詠は焦っていたが、そんな詠を大して気にする様子もなく響はわたあめを指先でつまんで口の中に放り込みながら、〝ラムネ〟と書かれたパネルのぶら下がったテントの前に並んだ。
横に長いテーブルの向こう側からお金を受け取った中年の女性は、詠を二度見した。
「あら! 詠ちゃんじゃない! 今年も来ていたのね」
二人の中年の女性の内の一人が氷水で満たされたクーラーボックスに手を突っ込みながら振り向いた。
「本当だ、詠ちゃん。また会えて嬉しい。響くんも一緒なのね」
どう思われるかなど気にする余裕もなく、詠はこくりとうなずいてラムネを手に取った。
「詠、人気者だね」
「そりゃそうよ。だってこの前の、」
「あの!! ありがとうございます!」
詠は大きな声で女性の言葉を遮ると、響の手を引いて走った。
そしてグラウンドのすみに移動した。少し離れた所では、同じくらいの年齢の子が集まって、遊具で遊んでいた。
たくさんの人に顔を見られてしまった。
来年会うときにはもう、響は〝咲村詠〟を知っているかもしれない。
自分で芸能人になることを選んだ。注目を浴びる事が嬉しいと思う事も少なくなかった。
それなのに遊具で無邪気に遊ぶ同じくらいの年齢の子どもの方が、ずっとずっと輝いている。
みんなきっと何も悪い事をしていないのにこそこそしなければいけない気持ちなんて知らない。
「詠。どうした?」
「響、私帰りたい」
心配そうに問いかける響の手を握ったまま、詠は響の目を見た。
「帰ろう。別の場所で食べようよ」
「別の場所って……。ここでよくない?」
「でも、帰りたい」
「じゃあせめて、なんで帰りたいのか説明して。納得できないから」
「それは……言いたくない」
「そういうわがままは聞きたくない。納得できないって言ったよ。せめて理由くらいは話してよ」
黙り込んだ詠に、響は「ねえ、詠」と優しい声で言う。
いつもみたいに、いいよじゃあもう帰ろう。と言われるものだとばかり思っていた。
しかし、響はどこまでも詠と向き合う気でいるらしい。
「ほら、やっぱり響じゃん」
二人は声の方へ視線を移した。響に声をかけた男の子と、その隣には女の子が一人。
響は詠が握っている手を軽く振りほどいた。
「颯真、鈴夏」
「俺の親も鈴夏の親も出店の手伝いしててさ。だから俺と鈴夏、夕方からずーっとここにいるんだよ」
「颯真と二人で遊んでたんだけど、響を見つけたから」
「で、その子は?」
鈴夏と呼ばれた女の子は知らない。いや、もしかしたら去年いた子どもの中にいたのかもしれない。しかし、颯真と呼ばれた男の子は知っている。去年、ファンだと言って目を輝かせていた男の子。本当に好きでいてくれているのだろうなと実感した彼の熱気は、よく覚えていた。
見開かれた颯真と鈴夏の目から逃げるように、詠は思わず目を逸らした。
「え、詠ちゃんじゃん! 今年も来てたんだ! 響、なんで詠ちゃんと知り合いなんだよ!!」
「なんでって……神社の掃除当番で一緒になって。詠、颯真と知り合い?」
響はそう問いかけるが、詠は目を逸らしたまま何も答えなかった。
「響、〝咲村詠〟知らないの!?」
「いや……知ってるけど。え? どういう事?」
もう今すぐにここで消えてしまいたいと思った。
目に涙が溜まっていく。せめてこれくらいは気付かれませんようにと思いながら詠は俯いて視線を逸らした。
「会えて嬉しい! 私、去年は会えなかったから」
鈴夏と呼ばれた女の子は胸の前で手を合わせて嬉しそうにしている。
「有名人だよ! 芸能人!!」
「詠が、芸能人?」
唖然として颯真から詠へと視線を移した響の視線に耐えきれず、詠は走った。
正門を背に向けて階段を降りていると、痛みを感じて思わず立ち止まった。鼻緒の部分がズレて血が出ている。詠は迷わず下駄を脱いで手に持つと、再び走った。
終わった。
何もかも、終わった。
せっかく見つけた、唯一自分らしくいられる居場所だったのに。
走り続けて旅館の前で立ち止まると、身体中から汗が噴き出して頭がクラクラして立っていられなかった。身体は間違いなく暑いはずなのに、寒気がする。
それから詠の帰りを待っていた祖父母に促されるままエントランスのソファに座り、楽しかったとありきたりな感想を告げながら寒気が過ぎ去るのを待った。
それからさっさと風呂に入った後、祖母が裾の汚れた浴衣と下駄はクリーニングに出してくれると言ったので、直接響の家に行って返さなくていい事に安堵した。
小学生が一人で出歩くには外が暗かった事がよかったのか、響は来なかった。
次の日の早朝、逃げるように田舎を去った。
響から逃げるように東京に帰ってきた。
世界からまた、色がなくなった。
仕事なんてやりたくない。
響が自分をテレビで見たら、おいて帰った挙句普通に仕事をしている自分をどう思うだろう。
考えても仕方のない事を頭の中でぐるぐると描きながら、数か月を過ごしている。
「よし、終わり!」
すぐ近くでそう言われて我に返る。鏡を囲うライトの眩しさを感じた。詠のヘアメイクを担当する女性は、ヘアアイロンを通し終えた詠の髪から指をはなした。
「ありがとうございます」
「やっぱりこの色で大正解。似合ってるもん」
そういえばさっきチークの話をしたなと思いながら、詠は適当に話を合わせて席を立つ。
今日の撮影は大きな一軒家の中。階段を降りて一階のリビングに向かう。一軒家に住んでいれば、わざわざ長い時間をかけてエレベータを待たなくていいのに。
それか響の家のような平屋ならもっと楽だ。
どうして母はあんなマンションを選んだのだろう。
「よろしくお願いします」
詠はリビングに入ると、笑顔を貼り付けて数人に頭を下げた。
あの夏祭りの帰りに鼻緒が擦れてできた傷もすぐに治った。
誰もこの葛藤を知らない。
ここにはいつも通りの〝咲村詠〟がいる。
小学校の卒業式。母は来なかった。
中学校の入学式にも、やはり母は来なかった。
小梢はどちらも出席してくれて、「大きくなったね」と言って泣いていた。
それに詠は「大袈裟だよ」と言いながら笑った。そして小梢は遠回しに母が来ない事についての慰めを言っていたが、詠はもうよく覚えていない。
多分、「本の締め切りが迫っていて……」とかそんな事だったと思う。
詠にとっては、どうでもいい事だった。
母を前にすると条件反射でいい子でいようとするクセに、母がいない所では母の事なんてどうでもいい。
そんな事よりも、問題は響の事だ。
「音どう?」
「いいです」
「照明はー?」
「いいでーす」
詠の意識の外側で、大人たちが会話をする。
「お願いします」
「思いっきりやっていいからね」
キリっとしたメイクを施した母親役の俳優が、優しい口調で詠に言って肩を叩いた。
詠は「はい」と呟いてからキャメルの革張りのソファーに腰を下ろした。ヘアメイク担当の女性が、詠の身に着けた制服の襟を正し、髪を整える。
詠の通う学校は一貫校で、中学になってもメンバーは大して変わらない。
見慣れた顔を見ていると、気持ちを新たにしようという気もなくなってくる。
しかし、廊下ですれ違えばほかの学年の生徒は「ほら、あの子だよ」と話し出す。堪らなく苦痛だった。自分が普通の子ではないと実感するばかりで。
自分で芸能界に足を踏み入れたくせに。
また、響に会いたい。
しかし同時に、堪らなく怖い。次に会った時、響はどんな顔をしているだろうか。
何か月も何か月もずっと考えているのに、自分を前にした響がどんな言葉を言うのか、詠には全くわからなかった。
一緒に夏祭りに行くと約束をしておいて、途中でわがままを言って、挙句の果てに響を置いて帰って。
一年間は会う所か話をする事も出来ないと分かっていたのに。響はもう芸能人だという事を知っている。だったら響は今、どんな気持ちでいるんだろう。詠には全く想像ができなかった。しかしそんな疑問を押しのけて、確信できる事がたった一つだけあった。
きっと響は今年も変わらず、あの神社で待っている。
それが今はほんの少し、プレッシャー。
「詠ちゃんは……オッケーね」
監督の声が、通り過ぎる。
鈴夏という子が心底羨ましい。誰の目も気にしなくてよくて、響といつだって遊ぶこともできる。喧嘩をしたらすぐに仲直りして。
今の詠が欲しいものを、鈴夏は全て持っていた。
「はい、いきまーす。よーい……」
俳優に圧をかけないように配慮された監督の声が響く。
詠は短く太く息を吐き出した。
羨ましい。
何もかも持っているあの子が、羨ましい。
「……スタート!」
――どうして、私だけ、こんな場所に
ソファーから勢いよく立ち上がる。
母親が腕を掴む。
その手を振り払い、押し返す。
母親は尻餅をつく。
「〝私がどんな気持ちでいるか、考えたこともないくせに!〟」
腹の奥底に溜まる口には出せない嫌悪感を、全部。
――私は、今
「〝大っ嫌い〟」
誰かになり切っている事をいいことに、全部全部吐き出す。
――誰にこの言葉を言っているんだろう
嫌悪感を全部吐き出した後に感じるのは、肩の荷が下りたような、言葉にするのは難しい感覚。
でもまだ。まだ嫌悪感を持っていないといけない。〝私〟はまだ、誰も許していない。
分離した内側で考える。
このシーンが成功したら、今年もそっちに行くと祖父母に連絡しようか。
どんな瞬間よりも長い数秒の沈黙。いつも無理矢理自分と向き合わされる。
直前にどれだけ仕事をしたくないと思っていたって、この瞬間は決まって監督の声色を探る為に意識を集中させて、誰かになり切る感覚に心地よさを覚える。
「カット! おっけーい」
ふっと空気が緩んで、詠は母親役の俳優に手を差し伸べた。
「大丈夫ですか?」
「全然大丈夫ー」
彼女はにこりと笑って詠の手を握るが、ほとんど体重を預けずに立ち上がる。
「すみません。思いきり押しのけました」
「もっと思いっきり来てよかったのに」
〝可愛い子役〟のイメージを払拭するためとはいえ、かなりダークな作品を選んだと思う。
しかし詠は気楽にさえ思っていた。これくらいはっきりと口にする役の方が演じるのが楽しい。仕事なんてしたくないと思っていても、〝自分ではない誰か〟になりきる感覚には依存性がある。
今日の撮影が終わったら、今年もまたそっちにいくと祖父母に連絡しよう。
新幹線から電車に乗り換えて、それからまたローカル線に乗り換える。だんだんと田舎味が増していくたびに懐かしいと感じる、過去に二度見た景色。だから、いらっしゃいと温かく迎え入れられているような気持ちになる。
この駅で降りるのは、三度目。
東京と違ってこの場所は相変わらず、何も変わらない。何もない。
ただ、退屈ばかりの殺風景とは違う。
駅の階段を降りると、祖母は満面の笑みを浮かべて待っていた。
「詠ちゃん、久しぶり。卒業も入学もおめでとうね」
「おばあちゃん。ありがとう。今年もお世話になります」
「なんか顔つきが大人になって来たな。子どもの成長は早くてビックリする。特に女の子は早いって言うしね」
祖母の独り言を聞きながら、助手席に乗り込んだ。
「浴衣と下駄、響の家に返しておいてくれた?」
「ちゃんと返しといたよ。藤野さんが、詠ちゃんは遠慮なく家に来てくれるから孫がもう一人できたみたいで本当に嬉しいって、喜んどった」
「……そっか」
駅から旅館までの道も何一つ変わっていなかった。
響の家と石の鳥居が見えた時、詠の心臓はドクドクとうるさく鳴った。「菫は元気ね」と聞く祖母に、詠は今年も去年と同じような言葉を返した。
旅館についてからも決まった流れで部屋に入り、祖父母と遅めの昼食を食べた。
いつもなら旅館を飛び出していくところだが、詠はそれからすぐに自室にこもった。
それから一週間、退屈凌ぎに出歩くことはあってもすぐに旅館に戻ってきた。
「去年、響くんと喧嘩でもしたね」
とうとう祖父は何の気もない顔で詠に問いかけた。その隣で祖母は祖父同様に何の気もない顔をしながら帳簿をつけていたが、おそらく祖母が心配して祖父に相談したのだろうと察しはついていた。
「別に喧嘩なんてしてないよ。じゃあ、響と遊んでこようかな」
なるべく明るくそう言って旅館を出たが、おそらく誤魔化しきれてはいないと思う。
しかし〝響と遊んでくる〟と言ったからには、少なくとも日が傾くまでは旅館に帰れないという事だ。
詠は海の正面の小高い道沿いをぶらぶらと歩いた。去年は響とこの景色を見ていたのに。
詠はふと視界に留まった緑に足を止めた。
自動販売機を喰らい尽くそうとする、朝顔。
よく見れば自動販売機と向こう側の空き地とを隔てるフェンスのほぼ全てを朝顔が覆っている。伸びた朝顔は、自動販売機に影を作る日よけのテント、すぐ近くにある電柱をも呑み込もうとツルを伸ばしている。
明るい光に朝顔の深い色がよく映えている。響はこの綺麗な景色を知っているだろうか。響はこの場所で生活しているのだから知らないはずないか。
そんなことを考えながら、ペットボトルの水を買って半分を一気に飲んだ。冷たい水が、身体の暑い部分を冷ましながら重力にほんの少し逆らって落ちて行く。
詠は一息ついてから、海を眺める。
時間が静かに流れていくのは目的もなく歩いたからだろうか。
少し歩いただけで汗だくだ。薄手の長袖が肌に張り付いて気持ち悪い。
響はあの神社で待っているに決まっている。
こんなに、暑いのに。
そう思うと、いてもたってもいられなくなり、詠は残りの水を一気に飲み干すと自動販売機の隣に備え付けられているゴミ箱に少々強引に突っ込んで走った。
身体が重たい。水なんか飲まなきゃよかった。そう何度も何度も後悔しながら、詠は畦道を走った。
響はきっと待っている。だから、急がないと。
詠は鳥居を通り過ぎてすぐに石段を見上げたが、そこに響はいなかった。
詠は現状を理解できないまま息を整えながら、石段を一歩ずつ上がった。
絶対にいるという自信があった。疑いなんてほんの少しも持ってはいなかった。嫌われても仕方のない事をした自覚はあったのに。
響は、芸能人だという事を隠していた事に怒ったのだろうか。
それとも勝手に帰った事。
当然、思い当たることは山ほどあるが、響だからきっと大丈夫だと甘えていた事だけが事実。
あっけなく行き場をなくした気持ちが込み上げて、詠は目に涙を溜めた。目を閉じれば、涙が頬を伝ってぽたぽたと石段に染みを作って、慌てて涙を腕で拭った。
長い石段の中間あたりまで歩いて座ろうとして顔を上げると、響が鳥居を越えて歩いてくる。
「響!!!」
響はびくりと肩を浮かせて詠を見た後、ぎょっとした様子で戸惑っていた。
「なんで泣いてるの?」
響の言葉に、怒っている様子は全くなかった。いつも通りの響に、詠は一度強く唇を噛みしめた後、石段を駆け下りた。
「待ってるって言った!!」
「いや、読み終わったから新しい本取りに行ってただけだよ。詠、運悪すぎだろ」
詠が階段を駆け下りながら叫ぶと、響はやはり変わらない様子で言う。いてもたってもいられないような、どうしようもない思いだった。
この一年間、今の今まで一体自分は何を悩んでいたんだっけ。
そんな事を本気で思うくらい、響は何も変わらなかった。
結局この思いを伝える方法が分からないまま石段を降り切った詠は、響の前で立ち止まった。向かいあったまま目を合わす事も喋る事もない時間が数秒過ぎた後、詠は頭を下げた。
「ごめんなさい」
「……言いたいことが山ほどある」
顔を上げた詠の目を正面から真っ直ぐに見ながら、響ははっきりした口調で言う。
「何も言わないで帰るとか反則だと思う」
「うん」
「一年会えないのに。どうしようもなくて、ずーっとモヤモヤしてた」
「……うん。ごめんなさい、響。凄く反省してる。あと、芸能人だって黙ってた事、とか……」
「そんなしょーもない事で怒らない。……でも、詠にとってはしょーもなくなかったんだよな」
人がずっと悩んでいた事を「しょーもない」で片付けるな。と言ってやろうと思ったが、響はすぐに思うところがあるような穏やかな口調で言葉を続けた。
「なんとなくわかるよ。知られたくないって思う気持ち」
「響にも、わかるの?」
「なんとなくね」
響は曖昧にそう言うと、踵を返して歩いた。
「行こう。もたもたしてると、夏終わるよ」
響は鳥居の方へと身体を向けたが、すぐにまた石段の方を向く。
「忘れてた。手、合わせるんだった」
そういって石段を歩く響の後ろについて行く。
社殿に向かって手を合わせて、石段を降りて鳥居をくぐり、左に曲がって響の家へ。
いつも通りの流れ。ただ、先を歩く響の背中だけが、去年、一昨年とは少し違う。
響が大人になった気がした。顔つき、雰囲気。何が原因なのかはわからない。
だったら響の目に映っている自分も、少しずつ大人になってるんだろうか。
「もう怒ってない?」
「黙って帰った事は、一生言い続けてやろうと思ってる」
小さな声で言う詠に、響はおふざけを交えた口調でそう返した。
「よかったぁ。本当に。響、怒ってたらどうしようかと思った」
「怒ってたんだよ」
「でも今は怒ってないんでしょ?」
「最初はなんで何も言わずに帰るんだよってムカついたけど、一年もたったらそりゃ冷静になるよ」
相変わらずこの場所は、セミとカエルの鳴き声が沈黙を隙間なく埋め尽くしている。
「ねえ、響。私の話、聞いてくれないかな」
それはずっと、吐き出せなかった思い。
強がって、隠して。でも本当は、誰かに聞いてほしくて堪らなかった思い。
「いいよ」
響の家に着くまでの間、詠は自分の母の事や自分で芸能人になる道を選び、友達とうまくいかなかった過去を話した。
だから自分を知らない響に会えて平等に接してくれて嬉しかった事、知られてしまえば今まで通りではいられなかった事を話した。
響はたまに短い相槌を打ちながら、詠の話を聞いていた。
詠の話を聞き終えた後、響はやっと口を開いた。
「話についていけるくらいしかテレビ見ないから、詠の事全然知らなかった。去年、夏祭りの途中で詠が帰った後、颯真と鈴夏に話を聞いて本当にビックリした」
詠は響の方を見る事が怖くて、口をつぐんでいた。
二人の沈黙の隙間は、カエルとセミが埋め尽くしている。去年も一昨年も全く同じはずなのに、今の詠には大合唱を音ととらえる余裕がなかった。
「実はさ。二人に詠が芸能人だって聞いた時、俺、なんかとんでもない事をしちゃったんじゃないかって思ったんだ。めちゃくちゃ有名な人だって知らないで遊んでたから……。でも、颯真が録画してたドラマとか見てると、そこに映ってるのは詠なのになんか、俺の知ってる詠じゃなくて……。別人に見えたんだよ。で、今日実際に詠に会ってみたら、やっぱり別人って感じがする。だから詠が芸能人って実感、全くないんだよね」
どんな言葉を返そうか。そう思っているともう、家に着いてしまった。
響の祖母は、去年と何一つ変わらずにこの場所にいた。
「詠ちゃん、いらっしゃい」
そういって受け入れてくれることが、堪らなく嬉しい。
「こんにちは、響のおばあちゃん」
だから響と真剣な話をしている途中でも、心の奥底から溢れる安心感で詠は思わず笑顔になった。
開け放たれたガラス戸。高い風鈴の音。揺れる木漏れ日。
裸足で太陽に温められた廊下に触れると、去年と一昨年に感じたこの場所の温かさを、全て思い出す。
ここはきっと、真夏の一番奥。
「ちょっと待ってて」
客間につくと、響は隣の部屋に続く襖を開けて出て行った。
響は台所の方で何かを話しているらしい。響はそれから客間に戻ると、詠の向かいに座った。
「……私が来ないって思わなかった?」
「思わなかった」
響は詠の言葉に間髪入れずにそう言うと、薄く笑った。
「じゃあ詠は、俺があの神社で待ってないって思った?」
「……思わなかった」
「じゃあ、一緒だ」
どうしてそう思うのかはわからない。ただ、響はきっとあの神社で待っているのだろうと信じて疑わなかった。
「怖かった。響がみんなみたいに私と距離を取ったらって思ったら……。私はやっと、居場所を見つけたって思ったから」
「うん」
響は小さくそう呟くと、詠から視線をそらした。
「わかるよ。詠の気持ち」
その一言がなぜか胸に響いて。
響の言葉はきっと、上辺をなぞっただけの同意ではない。言葉を変えるなら共鳴。きっと似た感情を感じて、思いをはせている。
「響、」
詠の言葉を遮るように、響の家のチャイムが鳴った。
響は「いこう」と言いながら立ち上がって廊下を通って玄関に移動した。
ガラガラという音を立てて響が引き戸を開けると、そこには颯真と鈴夏がいた。
「二人とも、詠に謝りたいんだって」
詠は玄関先に並んで立っている颯真と鈴夏を見た。
謝られるような事をされた覚えはないが、二人は申し訳なさそうな顔をして俯いていた。
「詠ちゃん、去年はごめん」
「会えた事が嬉しくて、ついはしゃいじゃって。ごめんなさい」
颯真に続いてそういう言った後、鈴夏は頭を下げた。それに続いて今度は颯真が頭を下げる。
想像していなかった状況に焦った詠は、両手を前に出して首を振った。
「いいから、そんな。……別に、何も、謝られるようなことはされてないし……」
声をかけられた事で迷惑だったと謝られたのは初めての事で。詠は動揺を隠しきれないまま口を開いていた。
どちらにしろ、あの夏祭りに参加した時点でおそらく時間の問題だったのだ。いや、そうじゃなくてもいつか必ずボロが出ていたに違いない。
「俺本当に詠ちゃんのファンで、その……だから、テンション上がって騒いじゃって。一昨年もそうだけどさ、プライベート? っていうの? それで来てるのに騒がれるのはいい気しなかっただろうなって思って。謝りたかったんだ」
「私もずっと謝りたくて。だから私達、響にまた詠ちゃんが来たら教えてってお願いしてたんだ」
鈴夏の口から聞く〝響〟という言葉に、ほんの少し胸の内がざわつく。
この気持ちは何だろう。
この気持ちはまだ、知らない。
「私こそ、混乱しちゃって。走って逃げたりして感じ悪かったよね。ごめんなさい」
正直に言えば二人に対する態度なんて、ここ一年で一度たりとも頭をよぎりはしなかった。響にどう思われているか。それだけで頭の中はいっぱいいっぱいで。
しかし直接謝られて初めて、心の底からの申し訳なさを感じた。
「じゃあ解決。誰かさんが黙って帰ったせいで一年もかかったけど」
響は嫌味っぽい口調でそういう。詠がぶすっとした顔で響を見ると、彼は笑顔を浮かべた。それを見て詠も笑顔を浮かべる。
「テレビで見たまんまだ」
まじまじと詠の顔を見ながらそういう鈴夏は、詠と目が合うと遠慮するように少し身を引いて困ったように笑った。
「ごめんね。可愛いなって思って、つい」
鈴夏は女の詠から見ても愛らしく、守ってあげたいという気持ちが芽生える、可愛らしい子だ。
少し関わっただけでわかる。鈴夏は心の綺麗な人だ。自分の気持ちに誠実で素直な人。
勧善懲悪。どんなドラマでも映画でも、幸せになる結末を迎えるのは素直な人だと決まっている。
響と一緒にいられる鈴夏が羨ましい。
そんなことを口にできる素直さは、持っていない。
〝見た目が綺麗〟という理由なら、当たり前だ。
日焼けできないから、どれだけ暑くても夏に半袖は着られない。肌が荒れればすぐに皮膚科に駆け込むし、食べ物だって好きなものを好きな時には食べられない。痛い思いをして整体に通ったり、辛い思いをして運動をする。だけど全部、当たり前。綺麗でいなければいけないんだから。
「ありがとう。凄く嬉しい」
きっと、私は素直にはなれない。そう察した詠はせめて綺麗に笑った。丁寧なフリをするくらいしか、鈴夏に対抗できる術を持ってはいないと確信していたから。
「響、いいな。詠ちゃんと仲良しで」
鈴夏の声色は、複雑。目立つのは、どこか少しだけ寂しそうという印象。
おそらく六割はその言葉通り。しかし四割はきっと、響に対してではない。おそらく自分に対してだろうと、詠は何となくそう思っていた。
鈴夏は響が好きなんだろうかという、ほとんど確信のある疑問。女の勘というヤツだった。
そして明らかにチクリと胸が痛んだ。
「本当、羨ましい」
颯真はそう言ってちらりと鈴夏の事を見た。こちらはかなりわかりやすい。そんな二人と、全く興味なさ気な響の温度差が面白くて、詠はもやもやとした気持ちをふいに溢れた笑顔でかき消した。
「じゃあもう話は終わりね。二人ともバイバイ。また学校で」
響はそういうと、二人を締め出すように玄関を閉めた。
すりガラス越しにまだ存在を感じる二人に、詠は「じゃあ、またね!」と言った。次会う機会があるのかわからないが。
すりガラス越しの二人の姿はすぐに消えた。外側から感じていた熱気が遮断されたことによって、玄関の空間は寒色のタイルを筆頭にして、ひやりとした空気感を演出する。
「詠が秘密を教えてくれたから、俺の秘密も教えてあげる」
「響の秘密?」
「そう。俺の秘密」
響はそう言うと響はあの廊下を通って客間を通り越し、隣の茶の間へと続く襖を開いた。
「部屋、入っていい?」
「もちろん。どうぞ」
問いかけはしたが、おそらく響は祖母からこの返答が返ってくることを知っていたのだろう。
響は襖を閉めると、踵を返して客間を通り過ぎる。そして廊下に出て、奥へと進んだ。
そして詠が入った事のない隣の部屋の障子を開いた。
その部屋には大きな仏壇以外は、特に何もない部屋だった。
「これが、俺の秘密」
仏壇の前まで移動しながら、響はそういった。詠は響の後ろ姿から仏壇に視線を移した。そこには二十代くらいの男女が笑っている写真が、それぞれ飾ってあった。
「俺の父さんと母さん。俺がまだ赤ちゃんの時に交通事故で死んだんだ」
何と答えたらいいのかわからないまま、詠はしばらく黙り込んだ。
去年、この家で着付けをしてもらった時、「お父さんとお母さん、まだ帰ってこないの?」と当たり前に問いかけて「両親に挨拶がしたい」と言ったはずだ。
その時響はどんな返事をして、どう思っていたんだろう。
「今度は俺の話、聞いてくれる?」
詠は考えるよりも先に頷いた。響は仏壇に背を向けて座り、それに釣られて詠は響の前に座った。
「物心つく前の事だからさ、親がいるって実感が俺にはない。でも大人はみんな、俺を〝かわいそうな子〟って思ってる」
もしかするとそれは〝物分かりのいい子〟〝あの天才子役〟というレッテルを周りの大人から貼られている自分と同じ感覚なのかもしれないと詠は思った。
「親たちがそんなだから、子どもだってそう。俺は別に気にしてないのに、みんながそういう目で見るから俺は〝かわいそうな子〟でいないといけないのかなって。それなら、授業参観で親が来なくて寂しいって思う俺はやっぱり大人の言う通り〝かわいそうな子〟なのかなとか、そんなことをよく考えてた。……だから嬉しかったんだ。みんな俺にどこか遠慮して一線を引いてる。詠みたいにわがままを言ってくれる友達はいなかったから」
同じだと思った。環境も理由も違う。だけどきっと抱えている傷も、痛みも、何もかも同じ。
詠はゆっくりと息を吐いて緊張を解いた。もっと重大なことかと思っていた。例えば響が死んでしまうとか、もう会えないとか、自分にはどうすることもできない事なのかと。
響は俯いていたが、言い終わるといつもの笑顔を浮かべて詠を見る。
「正直に言ってよ。どう思った? 俺の秘密」
「……言い方、悪いかもしれないんだけど」
「いいよ。気にしないから」
「なんだ、そんな事か。って思った」
そう答える詠に、響は短く笑った。
「うん。それで?」
「引っ越す事になったとか、もうすぐ死んじゃうとか。そんな話だったらどうしようって思ってたから」
「俺も詠が芸能人だってわかった時、そんな気持ちだったよ。いろんな事考えるけど、結局、なんでそんな事を必死になって隠してたんだろうって思うよね。だから詠が俺に芸能人だって事を隠したい気持ち、なんとなくわかった」
響は吹っ切れたような顔で詠を見ると、笑った。
「俺達、一緒だね」
詠は大切な何かをたった今共有し終えたような錯覚を覚えていた。
響も間違いなく、同じ気持ち。
似たもの同士、似たような気持ちを抱えている。
「でも、俺は詠なんかよりずーっとタチ悪いよ。どうせ〝かわいそうな子〟なら、大人も子どもも利用してやろうって思ってる。大人はすぐ騙されるし、無理しなくても子どもの輪からあぶれることもない。申し訳ないなんて、これっぽっちも思ってない」
全く子どもらしくなくて捻くれている所が、なんとも響らしい考え方だ。
こうやって自分を守っている。それが詠には手に取るようにわかった。
考え方は違うとしても響の言う通り、二人は一緒だからだ。
「大人ってさ、子どもを純粋で何も知らないって思ってるよね」
「そうそう。自分達にも子どもの頃があって、大人を騙したりしたことくらいあるくせにね」
自分の言葉に付け加える響に、やはり同じ考え方を持っている似た者同士なのだと思った。
響はそう言うと太陽光が差す光の方へと視線を移した。
「そういうのも全部、大人になったら忘れるのかな」
詠の頭の中には、母の顔が浮かんだ。
自分の子どもにすら興味がなさそうなあの人にも子どもの頃があったのだ。あの人ももしかするとこの家で遊んだのかもしれない。
母はきっと祖父母から可愛がられて育ったはずだ。愛を知っているはずなのに、どうして子どもに無関心になってしまうんだろう。
しかし詠は気持ちを切り替えるように息を吐いた。そして目の前の響を見る。
どうでもいい事だと思った。何も言わなくても心が通じ合っていると感じるのは、生まれて初めての事。そんな人がこの世の中に一人いるだけで、響がいるだけで、他の人はいらない。
「本当にびっくりした。詠ちゃんがとっても上手にお芝居をするから」
二人が客間に戻ってすぐ、茶の間に続く襖が開く。響の祖母が座っていて、膝元には麦茶の入ったグラスを二つお盆に乗せて置いてあった。
「夏しか詠ちゃんに会えないとばっかり思っていたから、嬉しかった。ね、響ちゃん」
響の祖母は同意を求めるように響にそう言うが、響は何も答えずに祖母の膝元にある盆を抱えた。
「詠ちゃんの出ているドラマを録画したいって、」
「ばーちゃん! もう本当に余計なこと言わなくていいから!」
響は顔を赤くして声を張り上げる。その時詠は、自分が母親にどうしてほしかったのか明確に理解した。
こんな風に喜んでほしかった。録画するくらい楽しみにしていてほしかった。自分に興味を持っているんだと、実感したかった。
「じゃあ私、もっと頑張らないと」
詠がそう言うと、二人は同じタイミングで詠の顔を見た。
「響のおばあちゃんと響が見ていてくれるなら、もっともっと頑張る」
「それは楽しみ。でも、身体だけは壊さないようにね」
響の祖母は優しい口調でそう言うと、襖を閉めた。
心にいつまでも余韻を残す温かさ。直接耳に届いた先ほどの言葉よりも、残った余韻に身を任せるほど泣きたくなる。でも、自然と頬が緩むのを止められない。
こんな感情があるなんて、知らなかった。
「あとどれくらいこっちにいるの?」
「一週間」
詠が答えると、響は麦茶を一気に飲み干してそれから立ち上がった。
「じゃあ、さっさと遊びに行こう。じゃないと、あっという間に夏は終わるよ」
中学生になると、男女の距離は一気に遠くなる。しかし詠と響との関係は変わらない。一昨年や去年と全く変わらずに関わることができていた。
しかし間違いなく去年よりお互いに大人になっていて、鬼ごっこをして駆け回るよりも、足だけ海に浸かったり、話をしたりすることが多くなった。
お互い唯一心を許せる。お互いの傷がわかり、痛みを知っている。〝友達〟という名前はしっくりこない。
どんな言葉ならこの関係を表せるのだろう。その答えは、響にもわからないかもしれない。
響の言う通り、残りの一週間はあっと言う間に過ぎ去っていった。その一週間と言ったら、いままでに感じた事のないほどに晴れやかな気持ち。
もう響に隠し事はない。本当に自分の全てを受け入れてくれている。響の全てを受け入れられる。
きっとこの世界にこれ以上の居場所はもう、みつからない。
こんなに幸せでいいのだろうかと思うくらい、この場所は温かい。
詠が東京に帰る日の前日、詠はお詫びとして商店街で買った大きなスイカを抱えて神社に行った。
響と二人で山の中に入り、川底の石で小さなダムを作って流水でスイカを冷やした。
川の水は思わず声が出るほど冷たい。
あの海の水とは大違いだ。
素手で魚を捕まえてみたり、岩の上を歩いたりしながら、スイカが冷えるのを待っていた。
響が見つけてきた太い木の棒でスイカ割りをした後、不格好に割れたスイカにかじりつく。夕方だというのにオレンジ色に染まる気がなさそうな空を、木々の隙間から眺めながら。
「もう、夏も終わるね」
「……今年はなんか、はやかったね」
「詠が意地張らなかったら、後一週間は一緒にいられたのにね」
「意地張ってたんじゃない。勇気が出なかっただけ」
わざとふてくされたように呟いた詠だったが、自分の耳に届いた自分の声は、思ったより悲しい音がした。
「詠」
「なに?」
空を見上げていると思っていた響は、いつの間にか食べ終わった手元のスイカの皮を見ていた。
「もしこれから先、喧嘩とかしてもさ」
「うん」
「夏が終わるまでにはせめて仲直りしよう。次の夏が来たらまた、一緒にいられるように」
この一年、響の事ばかりを考えていた。考えたってどうしようもない事をずっと、繰り返し考えていた。どうせ響の事を考えるなら、嫌な事よりも楽しい事の方がいいに決まっている。二人でした楽しい事を思い出したり、これから二人でしたい事を考えたり。
「うん。そうしよう」
詠がしっかり頷いた事を確認した響はまた優しい顔で笑って、仰向けに寝転がって空を見上げる。詠も同じように空を眺める。それから二人はしばらく、黙ったままでいた。
しかし、何を考えているのかはお互い手に取るようにわかる。どちらが先にその言葉を言うのかと、様子を伺っているという事も。
「そろそろ行くか」
「そうだね」
結局、先に口を開いたのは響だった。響は先に立ち上がると詠に手を差し出す。詠がその手を握ると、響は少し力を入れて詠を立ち上がらせた。
もう力で響に勝つことはできないだろう。
こうやって響は、知らない間に段々と大人になっていく。
「響、力持ちだね。将来はゴリラ顔負けのマッチョかな」
「川に突き落としてやりたい」
二人はそう言い合って笑うと、食べたスイカをビニール袋に突っ込んで歩き出した。
いつもと変わらない畦道を、いつもよりゆっくりと歩く。
でも何となく今日は、響よりも自分がしっかりしている気がした。
「来年はちゃんと、二週間遊びに来るから。不安なら、指切りくらいしてやってもいいよ」
詠はそう言うと響に小指を差し出した。一瞬きょとんとした響だったが、一昨年、別れを惜しむ詠に同じ言葉を言ったことを思い出したのか、詠の小指に自分の小指を絡めた。
「また来年」
「うん。また来年」
帰り道、浴衣を着た人たちが小学校に向かって歩いている。今日は、夏祭りの日。
詠は何度も振り返ったが、やはり響と視線が絡むことのないまま彼の背中は遠くなっていく。
今年はもう、夏が終わる。
いくつか季節が過ぎて、詠は中学二年生になった。
成績はちょうど真ん中くらいの位置を彷徨っている。とはいっても、高校までは一貫の学校に通っている詠に高校受験という選択肢はなく、いつも通りの日常を過ごしていた。
学校をメインに生活をして、仕事に行く。そんな生活。
最近変わった事と言えば、クラスの子に彼氏ができ始めた。
頑なに言わずに隠している人もいるが、雰囲気の違いでわかってしまう。そして〝あの子とあの子付き合っているらしいよ〟という噂話が日常茶飯事になった。
しかし詠は〝付き合う〟という行為が具体的にどういう状態を指すのか、いまひとつよくわかっていない。
「付き合ってほしいんだけど」
周りが盛り上がると、自分もその波に乗りたいと思うのは人間の性なのかもしれない。
詠は雑草一つ生えていない綺麗に整備された体育館裏で、少し恥ずかしそうに言う一つ上の先輩を正面から見る。
これが告白。
人は告白するとき、恥ずかしそうな顔をするのか。
どうしてだろう。堂々としておけばいいのに。
成功する可能性が高いと思っていたら、恥ずかしがる必要はないはずで。
だったら、失敗したときに備えて?
何にしても表情に出るには理由があるはずで……。
職業病とわかりつつも、演技をする上で人間を観察するというのはとてもとても重要で。詠は感情の動きを読み取ろうとして、何度か廊下ですれ違った気がする先輩を正面からじーっと見つめた。
「あの……詠ちゃん……?」
沈黙が沈黙のままそこにあることに気が付いて、詠は我に返った。
「ごめんなさい」
希望を見せないようにはっきりとそう言って頭を下げる。
それ以上の言葉はない。しかし先輩は詠が顔を上げて真正面から見つめても、まだ詠の言葉を待っていた。
「……え、それだけ?」
「それだけです」
「付き合えない理由とか……」
「……付き合えない理由」
詠は先輩から言われた言葉を唱えて、それから考えた。
夏休みに響の所に行きたいし、響と気兼ねなく話がしたい。
つまり、〝縛られたくないから〟。
しかし、束縛とかしないよーと言われてしまえばこの話はおしまいになってしまう。
「好きな人がいるから」
一番手っ取り早くて、それっぽい言葉を選ぶ。
先輩は「それなら仕方ないか」とあっさり諦めてくれた。
きっと明日には〝咲村詠には好きな人がいる〟という噂が流れるだろう。そして特定が始まるのだと思う。
学校の中だけの噂なんてどうでもいい。どうせいい態度をとっても悪い態度をとっても、その人との相性が悪ければ悪いようにとらえられる。
家に帰りながら、もうすぐ会える響の事を考えて自然と笑顔がこぼれた。別に彼氏なんていらない。〝彼氏に束縛される〟なんて話を聞くが、響と会うことを制限されるなんて絶対に嫌だ。そんな事になるくらいなら、彼氏なんて一生できなくていい。
もう中学二年生になった。
響はこの一年でまた少し、大人になっているだろうか。
詠は家に帰りつくと、とっくに帰った小梢の作ったご飯をいつも通りレンジで温めた。
相変わらず家らしくない家で、アイランドキッチンのカウンターに座って一人でバランスの整った食事をとる。
リビングでテレビは見ない。
テレビに視線を移す度に視界に入る空間が好きではないから。
黒と灰色を基調にした家具。
暗くて、無機質。
一人でいると気が滅入る。食事の味をゆっくり楽しもうという気にもならない。もう少し緑を置くとか、木を基調にするとか、どうにか出来ないのだろうか。詠はそんなことを考えてもどうにもならないと思いながら、詠はいつも通りよく噛むことを心掛けてご飯を食べる。
母親はいつも詠が起きる頃には家にいない。最近は顔を合わせる事も億劫で、詠は自分のお金でテレビを買って部屋に置いた。だから落ち着かないリビングにいる時間は極端に減り、ご飯を食べて風呂に入った後はすぐに部屋に引きこもっていた。
母が帰ってくれば寝たふりをする。日々、その繰り返し。母はそれに対して何か言及することはない。
母と距離を取っている今でも、〝認められたい〟と思う感情が思い出したように息をするときがある。
そんな時はどうしても、響に会いたくなる。
しかし、響に会うためにまとめて休みを取る代わりに、詠は他の季節で仕事を調節していた。
会いたいと思ってすぐに会いに行ける距離ならいいのに。
彼氏とか、彼女とか。そんな関係性はよく知らない。
どうしてそんなものが必要なのかも、よくわからない。
お互いがお互いを必要としていれば、それでいいのではないのだろうか。
ただきっと〝会いたい〟という思いが重なれば、互いの同意を取ったうえで彼氏、彼女と名乗ることができるのだろう。
だったら響との関係も同意を取れば、彼氏、彼女になるのだろうか。
先ほどの先輩のように〝付き合ってほしい〟と言えば。
だが、〝会いたいときに会えない人〟はその彼氏、彼女に含めていいものなのか、詠にはさっぱりわからなかった。
しかし、今まで出会ったどんな人にも感じなかった〝また会いたい〟という気持ちを、響に強く感じる。
きっとみんな、この感情を確かめ合った先で、彼氏、彼女という立場を確立するのだろう。
それなら相手を見つけ出して、環境を考慮して、付き合うという選択を下せたすべての人たちは、本当に本当に、強運だと思う。
窮屈な東京から抜けだして、いつものように新幹線と電車を乗り継いで駅に下りる。いつも通りの、のどかな景色。迎えに来た祖母の車に乗って、いつもの話題を持ちかけられるより前に自分から大して知りもしない母の近状を伝えた。
響の家が見えてきた。それから、響の待っている神社も。
詠は運転する祖母越しに景色を見て、はやる気持ちを押し込んだ。本当のことを言えば、もう今ここで車から降ろしてほしいくらいだ。
それから車はどこに寄り道することもなく商店街を通って咲村旅館に到着して、部屋に荷物を置いた詠はさっさとご飯を食べて、食器を洗って駆け出した。
ここ一年、ランニングをサボったせいだろうか。神社までの道を走る身体が、去年よりも重たい気がする。
響はいつも通り、長い石段の中間地点に座っていた。
「響」
読んでいた本から詠に視線を移した響は、優しい顔で笑った。
「久しぶり」
「うん、久しぶり」
響の言葉に詠はそう言って、石段の一番下にへたり込んだ。
「どうした?」
「クラクラする。走って来たからかな」
一昨年の夏祭り、響から逃げるように旅館に戻った時より酷くはないが、似た感覚がする。運動をサボったツケが回ってきただけなのか、それとも夏は去年よりも暑くなってしまったのだろうか。
「水飲む?」
「うん、飲む」
響は詠の隣に座ると、ペットボトルの蓋を外して詠に差し出した。
口をつけると、水は唇と同じくらいの温度。
気分の悪さが少しだけ引く。
ペットボトルの冷たい水がぬるくなる程ここで待っていてくれていたのかと思うと、申し訳ないような、嬉しいような。
毎年夏休み中盤の昼過ぎに来る事なんて響はもう分かっているはずなのに。
「待っててくれた」
「いまさら」
〝待っててくれた〟たったその一言で、何が言いたいのかを明確に理解した上で響が返事をしてくれる。それが堪らなく嬉しくて。世界中のどこを探してもこんな人にはまず出会えないと思うのは、まだ世界の広さを知らない子どもだからだろうか。
響は詠から水の入ったペットボトルを受け取ると、何のためらいもなく口を近づけた。
つまりそれは、間接キスというやつで。
「あっ」
「あ」
その言葉が浮かんで一秒もしないうちに詠は思わず短く声に出すと、響も同じことを思ったのかほとんど同じタイミングでそう呟いて、水が唇に触れるより前にペットボトルを口から離した。
「詠、気にする? こういうの」
少し戸惑っている様子の響に、詠は首を大きく横に振った。
「いや、全然。響が気にするかなーと思っただけで……」
「俺も全然。っていうかもう手遅れか」
詠が飲んだ時点でもう間接キスなのだから、今更気にしたって手遅れ。
響は吹っ切れたようでいたって普通に水を飲む。
なんだか気恥ずかしい気持ちになるのは、最近クラスの子達がやたら〝間接キス〟に敏感だからだと思う。
詠は気持ちを切り替えるように溜息とは違う息を吐いた。
この夏を楽しみたい。だからいちいち学校のクラスで騒ぐ内容なんて思い出したくない。
それから二人は石段を上がって、神社の社殿に手を合わせた。
今年も、夏が始まった。
「いろいろ考えたんだけど、まとまらないんだよね。詠は何かしたい事ある?」
石段の一歩目を降りた時、響は詠に問いかけた。
「とりあえずは響のおばあちゃんと、お父さんとお母さんに挨拶」
「よし。じゃあ行こう」
石段を降り切って鳥居を潜り、響の家に行くために左に曲がったところで、詠は違和感を抱いて立ち止まった。
「響、身長高くなったよね」
「うん。なんかここ最近一気に伸びてる」
去年は確か同じくらいの身長だったはずだ。響は振り返って詠の目の前に立つ。
明らかに詠よりも響の身長が高い。
「詠ちっちゃ」
響は笑いながらそう言うと、踵を返して歩き出す。
ドラマのワンシーンみたい。
そんなことを考えて、詠は響の後を小走りで追いかけた。トクトクと規則的に鳴る心臓の音を聞きながら。
「響、彼女とかできた?」
「うわ、でた。詠の好きそうな話」
響は嫌がる様子も好意的な様子もなく、目の前に出された議題に対しての素直な感情を口に出す。
「だって気になるんだもん」
気になる。純粋に響の生活が気になる。それは去年までと何一つ変わらないのに、明らかに去年までの〝気になる〟とは違う何が混ざっていて。
言葉にすれば、それは焦りのような。〝気になる〟よりも〝知りたい〟という気持ち。
「彼女なんていないよ」
ほっと一息つきたいような気持ち。
ほら。ただ現状が気になるだけなら、こんな気持ちになるはずがない。この気持ちは、今までの〝気になる〟とは違う。
「あー。やっぱりいないんだ」
「やっぱりって何だよ。そういう詠は?」
「私もいない」
「へー、意外。もっとちゃらんぽらんしてるのかと思ってた」
「なにそれ。私に対してどんな印象持ってるの?」
「さー。どんな印象でしょう」
響の一歩後ろでむすっとした詠の様子は振り返らなくてもわかるのか、響は真っ直ぐに前を見ながら笑っていた。
響の家に着くと、響の祖母は今年も快く迎え入れてくれた。
「響のおばあちゃん。今年もお世話になります」
「待ってたよ、詠ちゃん。そうそう。雑誌の詠ちゃん。凄く素敵やったねー」
「ばーちゃんのお気に入りなんだよ。ファッション雑誌の表紙が詠のヤツ」
ファッション雑誌なんて響も響の祖母も普段は見ないだろう。きっと自分が写っているから、わざわざ買ってくれている。
母は自分の娘が雑誌の表紙を飾っている事さえ知らないだろうし、今後興味を示すこともないだろう。
「家に二冊もあるんよ」
「二冊も?」
「そうそう。見るようと取っとくようと」
祖母と話す詠をよそに、響は靴を脱いではしに避けた。
「偶然よねぇ。たまたま見つけて買ってきた日に響ちゃんも買ってきて、」
「ばーちゃん、いちいち言わなくていいから!」
響は焦った様子でそう言う。当然詠は嬉しい気持ちで「ありがとう」と二人に笑顔を向けたが、いつも知られたくない部分を暴露される響が少し可哀想に思えた。
去年、二人が見ていてくれるなら頑張って仕事をしなければと思ったおかげで、ここ一年詠は仕事を楽むことが出来ていた。二人が見ていてくれるだろうという思いがあったから。
「私も響ちゃんも、詠ちゃんのファンだからね」
〝ファンです〟と言われる事の本当の嬉しさを知る。
去年までの自分は少し、思い上がっていたのだと思った。仕事があるのが当たり前で、仕事が減ったところで親がいる立場なのだから、生活には困らなくて。
本当は仕事があるというのはありがたい事で、この立場になりたくてもなれない人が山ほどいる。
この気持ちが初心だと思って、芸能活動を頑張ろうと詠は気合を入れた。
「父さんと母さんに線香上げたいって」
「線香を上げに来てくれるお友達なんて、大人でもそうはいないよ。大切にしないとね」
「そうだね」
響の大切なものは、自分も同じくらい大切にしたい。その考えは間違えていないと二人はそう思わせてくれる。
まだ長く生きてもない人生。しかし、自分の考えが間違いじゃないと教えてくれる人に出会ったのは初めての事だ。
詠はサンダルを脱いで響と同じように端に寄せて並べた。
サンダルを脱いだ時にタイルに触れた足の裏が、ひやりと冷たい。
「お邪魔します」
「詠ちゃん、雑誌で見るよりもずーっと綺麗やね」
「嬉しい! 今年はいろいろ頑張ったんです」
雑談をする二人を他所にさっさと先を行く響の後を詠は急ぎ足で追った。
あの廊下は今年も、温かい光に溢れていた。この廊下に足を踏み入れる度に感じる。
真夏の最奥。一年で一番幸せな時間がこれからやってくるという、確信。
暖かい廊下を踏みしめて客間の隣にある響の祖母の部屋へと入ると、やはりそこには大きな仏壇以外には何もなかった。
詠は仏壇に線香を上げて手を合わせた。隣では響も同じように手を合わせている。二人がほとんど同じタイミングで目を開ける。
その途端、電話の音が鳴り響いた。
「びっくりした」
びくりと肩を浮かせる詠とは対照的に、響は平然とした様子で音が鳴った方向の襖に視線を向けていた。
「はい。藤野です」
襖の向こうから響の祖母の声が聞こえてくる。
祖母の声が聞こえると、響は襖から詠に視線を移した。
「いつもありがとう、詠」
急にそう言う響に視線を移すと、彼は優しい顔で笑っていた。
自分の父と母に線香をあげてくれてありがとう。という感謝である事は理解できたが、何と答えたらいいのかわからずに詠は照れ隠しでそっぽを向いた。
「別に。響の為じゃないし」
可愛気のない事を呟いた後、少し不安になった。しかし、それを聞いた響が笑ったという事は気持ちが伝わっている合図で。今度は心底安心する。
「響ちゃん。鈴夏ちゃんから電話よ」
安心したのも束の間、少し声を張ってそういう響の祖母の言葉の中に「鈴夏」という名前を聞いて、詠は一瞬例えようのない気持ちになった。
どんな用件で響に電話をするのだろう。
焦りのような、不安のような。
〝響、彼女とかできた?〟と聞いた時と、全く同じ気持ち。