「何にも隠してないよ。気にしないで」

 この関係性を失うかもしれない賭けをするくらいなら、誰にも気づかれない事を祈っていた方が現実的な気がした。

 響は何か言いたげな様子を見せたが、開いた口を結ぶといつもの笑顔を浮かべた。

「……そっか、わかった」

 胸の奥が締め付けられて痛い。
 どうしようもなく、今の自分が嫌い。

「じゃ、早く行こう。わたあめが食べたい。毎年人気で、すぐに売り切れるから」

 詠は短く返事をして、先を歩く響について行った。

「あっ、そうだ詠。言い忘れてたけど」

 俯いていた詠が顔を上げると、響は笑っていた。

「俺も楽しみにしてたよ。詠と夏祭りに行くの」

 響はそれだけを言うと、詠の返事も聞かずにさっさと正門を過ぎて階段を上がった。胸に温かい何かが灯って、それから消えようとしていた。詠は小走りで響の隣に並んで、彼のペースに合わせて歩いた。

「私の浴衣姿が思っている以上に可愛かったから、嬉しいでしょ」
「似合ってる似合ってる。かわいいかわいい」

 響はまたあしらうように言って、それから笑った。詠も釣られて笑った。さっきの暗い雰囲気なんて、なかったことにして。

 階段を上り切ってすぐに見えた正面玄関に見向きもしない響は、右に曲がって校舎の外をなぞって歩く。

 詠は自分の通う私立の学校との違いに驚いていた。
 校門はこの学校ほど簡易的ではなく、背が高くて錆ひとつない。
 レンガを均等に並べて作られている外通路は、赤茶色のレンガの色を鮮明に残している。

 この学校の石畳の通路はとっくに色あせていて、元の色の判別さえ難しい。石畳の側には雑草が生い茂っていて、砂の道を隠していた。
 白かクリーム色の外壁は所々剥げていて、砂埃や汚れがそのまま放置されていた。

「あそこが、俺の教室」

 響は二人が歩く道と校舎の間にある飼育小屋を超えて、三階の一室の窓を指さした。

 いつも響は、あの教室にいる。しかし詠は、響の普段の生活を何一つ知らない。どんな態度で授業を聞くのか。昼休みは何をしているのか。今見上げている響が過ごしている教室がどんな部屋なのか。
 今まで何も気にしていなかったのに、今になってそれは悲しい事のような気がする。

「中、入れないの?」
「教室の中は入れないよ。大体、それ見て何が楽しいんだよ」

 楽しいとかそういう事じゃなくて、と言おうとした詠だったが、すぐに広いグラウンドが見えて口をつぐんだ。

 グラウンドに向かって歩きながら、詠は自分の胸に手を当ててみる。
 この気持ちは何だろう。悲しいような、焦りのような。

 しかしそれは響のいない季節に考えればいい事だと気持ちを切り替えて、詠は正面を見据えた。

 詠の知る夏祭りとは随分と違っている。
 運動会で見る真っ白なテントが横並びに並んでいて、手書きの文字で〝ラムネ〟〝りんご飴〟と書かれたパネルがテントからぶら下がっている。都会で開催される夏祭りと比べると、随分と迫力のない小さな祭りだった。

 響は目的のわたあめのテントの前に並んだ。釣られて響の隣に並んだはいいが、グラウンドはテントを照らす為の光で詠が思っていたよりも明るかった。
 当然、テントに近付くにつれてさらに明るくなっていく。

「あら詠ちゃんじゃない! 響くんとお友達だったのね」
「はい」

 〝わたあめ〟と書かれたパネルの下にいる、見るからに人が好さそうで上品なこの女性がいったい誰なのか詠は知らないが、今年挨拶をした誰か、もしくは去年押しかけた誰かだろう。
 目を合わせない詠を気にする様子もなく、女性は「楽しんで」というと響と詠に割り箸に刺したわたあめを差し出した。

「詠、鈴夏の母さんと知り合いなの?」
「うん、そうだね。……多分」
「多分ってなんだよ」

 詠は焦っていたが、そんな詠を大して気にする様子もなく響はわたあめを指先でつまんで口の中に放り込みながら、〝ラムネ〟と書かれたパネルのぶら下がったテントの前に並んだ。

 横に長いテーブルの向こう側からお金を受け取った中年の女性は、詠を二度見した。

「あら! 詠ちゃんじゃない! 今年も来ていたのね」

 二人の中年の女性の内の一人が氷水で満たされたクーラーボックスに手を突っ込みながら振り向いた。

「本当だ、詠ちゃん。また会えて嬉しい。響くんも一緒なのね」 

 どう思われるかなど気にする余裕もなく、詠はこくりとうなずいてラムネを手に取った。

「詠、人気者だね」
「そりゃそうよ。だってこの前の、」
「あの!! ありがとうございます!」

 詠は大きな声で女性の言葉を遮ると、響の手を引いて走った。
 そしてグラウンドのすみに移動した。少し離れた所では、同じくらいの年齢の子が集まって、遊具で遊んでいた。

 たくさんの人に顔を見られてしまった。
 来年会うときにはもう、響は〝咲村詠〟を知っているかもしれない。

 自分で芸能人になることを選んだ。注目を浴びる事が嬉しいと思う事も少なくなかった。
 それなのに遊具で無邪気に遊ぶ同じくらいの年齢の子どもの方が、ずっとずっと輝いている。
 みんなきっと何も悪い事をしていないのにこそこそしなければいけない気持ちなんて知らない。

「詠。どうした?」
「響、私帰りたい」

 心配そうに問いかける響の手を握ったまま、詠は響の目を見た。

「帰ろう。別の場所で食べようよ」
「別の場所って……。ここでよくない?」
「でも、帰りたい」
「じゃあせめて、なんで帰りたいのか説明して。納得できないから」
「それは……言いたくない」
「そういうわがままは聞きたくない。納得できないって言ったよ。せめて理由くらいは話してよ」

 黙り込んだ詠に、響は「ねえ、詠」と優しい声で言う。
 いつもみたいに、いいよじゃあもう帰ろう。と言われるものだとばかり思っていた。
 しかし、響はどこまでも詠と向き合う気でいるらしい。

「ほら、やっぱり響じゃん」

 二人は声の方へ視線を移した。響に声をかけた男の子と、その隣には女の子が一人。
 響は詠が握っている手を軽く振りほどいた。

颯真(そうま)鈴夏(りんか)
「俺の親も鈴夏の親も出店の手伝いしててさ。だから俺と鈴夏、夕方からずーっとここにいるんだよ」
「颯真と二人で遊んでたんだけど、響を見つけたから」
「で、その子は?」

 鈴夏と呼ばれた女の子は知らない。いや、もしかしたら去年いた子どもの中にいたのかもしれない。しかし、颯真と呼ばれた男の子は知っている。去年、ファンだと言って目を輝かせていた男の子。本当に好きでいてくれているのだろうなと実感した彼の熱気は、よく覚えていた。

 見開かれた颯真と鈴夏の目から逃げるように、詠は思わず目を逸らした。

「え、詠ちゃんじゃん! 今年も来てたんだ! 響、なんで詠ちゃんと知り合いなんだよ!!」
「なんでって……神社の掃除当番で一緒になって。詠、颯真と知り合い?」

 響はそう問いかけるが、詠は目を逸らしたまま何も答えなかった。

「響、〝咲村詠〟知らないの!?」
「いや……知ってるけど。え? どういう事?」

 もう今すぐにここで消えてしまいたいと思った。
 目に涙が溜まっていく。せめてこれくらいは気付かれませんようにと思いながら詠は俯いて視線を逸らした。

「会えて嬉しい! 私、去年は会えなかったから」

 鈴夏と呼ばれた女の子は胸の前で手を合わせて嬉しそうにしている。

「有名人だよ! 芸能人!!」
「詠が、芸能人?」

 唖然として颯真から詠へと視線を移した響の視線に耐えきれず、詠は走った。
 正門を背に向けて階段を降りていると、痛みを感じて思わず立ち止まった。鼻緒の部分がズレて血が出ている。詠は迷わず下駄を脱いで手に持つと、再び走った。

 終わった。
 何もかも、終わった。
 せっかく見つけた、唯一自分らしくいられる居場所だったのに。

 走り続けて旅館の前で立ち止まると、身体中から汗が噴き出して頭がクラクラして立っていられなかった。身体は間違いなく暑いはずなのに、寒気がする。

 それから詠の帰りを待っていた祖父母に促されるままエントランスのソファに座り、楽しかったとありきたりな感想を告げながら寒気が過ぎ去るのを待った。
 それからさっさと風呂に入った後、祖母が裾の汚れた浴衣と下駄はクリーニングに出してくれると言ったので、直接響の家に行って返さなくていい事に安堵した。
 小学生が一人で出歩くには外が暗かった事がよかったのか、響は来なかった。

 次の日の早朝、逃げるように田舎を去った。