ゴツッという鈍い音とともに、私の拳──ではなく、そこに装着した鉄の武器が、男の顔面にめり込む。
 相手の鼻の骨が、そして前歯の折れる音が、拳の骨を伝って私の脳髄にまで響いた。
 ぞくぞくとした心地がして、心臓が激しく脈打つ。
 私は、自分の口角が上がっていくのを感じていた。
 ドターン! と男が仰向けに倒れ、そこにすかさずネズミ達が群がる。
 バリバリと齧られる音と断末魔の叫びが響く中……


「私……人を殴ったのって、初めて!」


 満面の笑みを浮かべ、私は夜空に向かって拳を突き上げた。

 私の拳を守ってくれた鉄の武器は、横並びに空いた四つの穴に指を通し、握り込んで使用する。
 ラインに叩かれ、頬を腫らして登校した十三歳のあの日、次はやられる前にやるんだよ、と言ってスピカがくれたものだ。
 あれから今日まで使う機会がなかったが、七年を経てようやく活躍の場を得た。
 スピカ曰く、アシェラのへなちょこパンチの威力を百倍にしてくれるよ、とのことだったが眉唾物ではなかったらしい。
 とにかく、爽快な気分だった。
 わーっと歓声を上げたのは、もしかしてあの野ネズミだろうか。
 人間達は呆気にとられて固まっていたから、きっとそうだろう。
 ヒンメルの野ネズミはしゃべるのだ。
 もうそれでいい。
 
「ア、アシェラ……!?」
「うれしそうな顔しやがって。あいつ、何かヤバいものに目覚めたんじゃないのか?」
「姐さん……すてき……」

 ぽかんとするロッツと、顔を引き攣らせるウル、そして何やらうっとりとしているケット。
 三者三様の男達ににっこりと微笑んで、私は馬車を発進させる。

「ロッツ、ウル、ケットちゃん──乗って!」
「「──ケットちゃん!?」」
「はいっ、姐さんっ!!」

 ぎょっとした貴人達を差し置いて、よいお返事をしたケットが真っ先に馬車に乗り込んだ。
 我に返ったロッツとウルも、それぞれ御者台と馬車に飛び乗る。
 手綱を握る私の手を、ロッツのそれが慌てて掴んだ。

「アシェラ? ねえ、君! 馬車の操作なんてできたっけ!?」
「私だってこの四年ただ遊んでいたわけじゃないのよ。──第三十一回ヒンメルばんえい競走で優勝しました」
「なにそれ、すごい! ますます好きになっちゃうぅうう!!」
「はいはい、口を閉じていないと舌を噛むわよ」

 はわ、かっこいい……しゅき……と、うっとりして見つめてくるロッツを無視し、私はひたすら馬車を走らせた。
 ネズミに齧られる盗賊達の間をすり抜け速度を上げた馬車は峠を越え──ついに、国境へと到着する。
 あの野ネズミの姿を見ることは、もうなかった。