「──どうぞ、ごゆっくり」


 ニヤニヤしながらそう言って、ウルが馬車の扉を外から閉めた。
 前には、黒毛の馬が二頭。
 ヴィンセント王子を祖国へと護送するための馬車なのに、肝心の彼は私とロッツを二人きりにするために御者台に座ると言う。
 
「ケット、酒」
「私は酒ではないですし、酒があったとしても殿下には一滴たりとも飲ませませんので」
「は? どういうつもりだ?」
「峠を越えたら、殿下に御者を代わってもらうつもりですけど? 飲酒運転、ダメ、ゼッタイ!」

 御者はケットという名の、すこぶる厳つい顔つきをした若い男だった。
 古くからヴィンセント王家に仕える軍人一家の出らしい。
 その、主人を主人とも思わぬ物言いといい、気合が入っているのは面構えだけではなかった。
 その後も、御者台の方からは彼とウルの軽妙な掛け合いが聞こえてくる。
 私はそれにくすりと笑ってから、向かいに座ったロッツを見た。

「ちょうど、ヴィンセントに戻るところだったのね」
「そうなんだ、陛下に……ウルの父上に呼び戻されてね。アシェラの婚約破棄のことは、途中でスピカが教えてくれたんだよ」

 スピカにはまだ婚約破棄の事実を連絡していなかったにもかかわらず、彼女は野ネズミの神様が知らせてきたと言ったらしい。
 まさか、大聖堂からついてきたあの野ネズミが、仲間に伝言でも頼んでくれたのだろうか。摩訶不思議なこともあるものだと思っていると、向かいから伸びてきたロッツの右手が、膝の上に置いていた私の両手の上にそっと重なった。
 
「アシェラには悪いけど、僕にとっては一世一代の好機だった。君に告白するなら、今しかないって──」

 随分と男らしい大きな手である。
 自分のものとはあまりにも違うそれを、私はしばし無言のまま見下ろしていた。
 そんな私を、ロッツもじっと見つめている気配がする。
 今宵このままロッツとともにヴィンセントに行くと宣言した私を、父は止めなかった。
 異国の公爵家同士の婚姻ともなれば、準備も体裁も十分に整える必要があるだろうに、ラインとのことを負い目に感じている父は私の意思を尊重してくれたのだ。
 嫁ぎ先であるフェルデン公爵家当主が、父自身の旧知であることも大きいだろう。
 そういうわけで、ロッツに抱かれたまま一人旅用の荷物だけ持って出発しようとしたところに、息を切らした乳母が駆け寄ってきて手製のケープを羽織らせてくれた。
 彼女は一度ぎゅっと強く私の手を握り締めてから、お嬢様をどうかお願いします、と深々とロッツに頭を下げたのだった。
 嘘偽りない愛情が編み込まれたケープが、今も私を包み込んで守ってくれている。
 それに勇気づけられるようにして、私はようやく顔を上げた。
 そうして、にっこりと微笑んで言う。

「ロッツは、大嘘つきね」
「……えっ?」

 とたんに固まった彼の下から右手を引き抜いて、私はその胸ぐらをつかみ上げた。
 綺麗な菫色の両目はぱちくりしているが、その奥は冷静にこちらの出方を観察している。
 私は、自分がそれに怖気付く前に、一気に核心を衝いた。
 

「すべては、あなたの計画通り。私もラインも、この十年、あなたの手のひらの上で踊らされていたのね──ロッツ・フェルデンさん?」