「それ、素敵な歯ね。そんなに丈夫なら、なんでも食べられるでしょう」

 そう話しかけた私を、黒々としたつぶらな瞳が見上げてくる。
 三日前、大聖堂にいたあの野ネズミである。
 いつの間に馬車に乗り込んでいたのか、屋敷までついてきてしまったらしい。
 私がこの自室に閉じ込められたばかりで最高にプンプンしているところに、そいつはひょっこりと現れた。
 相変わらず薄汚れていたものだから、有無を言わさず洗面所でジャブジャブと丸洗い。
 やめろぉー、とか言っていたような気もするが、野ネズミがしゃべるわけがないのできっと気のせいだろう。
 しっかり汚れを落とせば、まるでよく実った小麦畑のような美しい黄金色の、ふかふかの毛並みになった。
 とはいえ、きっと母や乳母などがこれを見たら卒倒するだろう。
 父やジャックだって眉を顰め、追い出そうとするに違いない。
 姿だけ見れば愛らしいが、何しろネズミは病気を媒介する生き物だ。
 実際、ヒンメル王国は過去に何度も、ネズミによる疫病の蔓延で甚大な被害を出していた。
 王家の始祖との知恵比べに負けたという、野ネズミの悪魔の意趣返しかもしれない。
 私も彼らの恐ろしさを重々理解しているが、しかしどういうわけか、この目の前の野ネズミは邪険にしてはいけないような気がするのだ。
 分けてやった食事を頬張る姿は愛らしく、それを眺めているうちに何やら心も穏やかになった。

「そうだ、まずはアーレンに行こう。スピカに会って、それからしばらく彼女のもとで働いてみるのもいいわね」

 何かと野ネズミの神様とやらを引き合いに出していた隣国アーレン皇国の皇女スピカは、つい先日、七人の兄達を差し置いて皇位継承権第一位になった。
 彼女とは卒業後も頻繁に手紙のやり取りをしているが、ラインに婚約破棄されたことはまだ伝えていない。

「どうせなら直接会って伝えましょう。あの子もずっと、私のことを心配してくれていたもの」

 スピカの明るい笑顔を思い出し、一刻も早く彼女に会いたくなった私は、ついに結び終わったカーテンのロープをベランダの柵に括り付けた。
 あらかじめ用意していた簡素な衣服に着替え、少しの衣類と食べ物、手持ちのお金などを詰め込んだ袋を背負う。
 隣のジャックの部屋からは明かりが漏れていたが、カーテンが閉まっており、私の計画に気づいている様子はない。
 そのさらに二つ向こうの両親の部屋もまだ明るかったが、幸いベランダに人影はなかった。
 広い庭の向こうにある正門はすでに閉じられ、明かりも消えてしまっている。
 あれを超えるのは至難の業であろうから、裏に回ろう。確か昔、ジャックがふざけて壊したせいで、柵が一本外れやすくなっている場所があったはずだ。
 私はそんなことを考えながらベランダの柵を乗り越える。
 運動神経が特別優れているわけではないが、なにしろ負けず嫌いなものだから、そんじょそこらの令嬢よりは度胸があると自負している。
 そんなこんなで、カーテンのロープを支えにして早速二階付近まで壁を伝い降りたところ、ふと視線を感じて顔を上げた。
 ベランダの柵の隙間から件の野ネズミが顔を出し、こちらを見下ろしていたのだ。
 
「……ネズミ。あなたも一緒にくる?」

 ううむ、どうしようかのぅ。
 なんて声が聞こえたような気がしたが、野ネズミがしゃべるわけがないのでやはり気のせいだろう。
 しかし、逡巡するようにその場でくるくる回り始めたそいつに、焦れた私が片手を伸ばそうとした、その時だった。



「──アシェラぁああああ!?」



 聞き覚えのある、しかしここにいるはずのない者の声が響いた。