妊娠が分かった時、簡単におろせと言ってくる人がとても多く、一人で産むと決めたと同時にたくさんの人との縁を切った。否、瑞希の方が切られたことも多かった。誰も味方なんていないと思ったから、携帯番号を変更することに躊躇いはなかった。

 実の親なんて世間体を気にした挙句に、同じ姓を名乗って欲しくないと母方の祖父母との養子縁組を勧める始末。おかげで、相沢瑞希は田上瑞希になってしまった。

「瑞希の実家にも行ってみたけど、うちにはそんな娘はいませんとか言って追い出されたよ」
「勘当というか、縁を切られたからね」

 自分で言ってて、情けなくなってくる。拓也を身籠ったことで、それまでの周りとの関係の希薄さを思い知った。養子に入れてくれた祖父母でさえ、渋々という風で誰も助けてはくれなかった。唯一の救いは、実家暮らしの二十台後半ってことで、貯金がそれなりにあったことだけ。それまで地味に生きていた自分をめちゃくちゃ褒めてやりたい。

 産院で教えて貰ったシングルマザー向けの支援団体に助けを求め、一人で息子を出産し、部屋も仕事も保育園も必死で探した。特に部屋を探す時に、この世界が思っていた以上にシングルマザーには優しくないことを思い知らされた。ファミリー向けは家賃が高くて手を出せず、ワンルームだと夜泣きする可能性のあるからと乳幼児は断られてしまう。
 その間、消えてしまった伸也のことは風の噂すら聞かなかった。

「本当に、ごめん。瑞希には謝っても謝り切れない」

 ちゃんと話をする前に、無理矢理に渡米させられたと言う元彼の言葉を、「はい、そうですか」と受け入れられる器は瑞希には無い。素直に信じて、また傷付いたり悲しい思いをしたりするのは勘弁だ。

「ちゃんと説明したくて、いろいろ持って来たんだけど、家に入れて貰えるかな?」

 話しながら歩いている内に、瑞希の住むアパートの前に着いていた。いろいろ調べたというだけあって、伸也は彼女の家まで把握しているようだ。築年数が想像できないような年季の入った建物にも、特に驚いた素振りは見せていない。瑞希でさえ、不動産屋から初めて連れて来られた際は、その古さと廃墟感に言葉が出なかったくらいだったのに。

 チャイルドシートで眠る拓也をちらりと見ると、瑞希は諦めたように頷き返す。小さな子供をいつまでも外に連れ回している訳にはいかないし、このまま眠ったままなら、きちんと着替えさせてから布団に寝かせてあげたい。  

 駐輪場所に自転車を停めてから、102号室の鍵を開ける。たいした家具もない殺風景な部屋に、伸也はさすがに驚きを隠せなかったようだ。靴を数足並べただけで一杯になってしまうような、名ばかりの玄関で、目をぱちくりさせて立ち尽くしていた。
 テレビすらない1DKの部屋には小さなテーブルと、折り畳まれた布団。それでも、部屋の片隅に置かれた籠の中には子供の玩具が詰め込まれていて、唯一の収納家具とも言えるカラーボックスには絵本が並んでいる。部屋全体を見回すのに数秒も必要としない。

 瑞希に促され、フローリングの上に直に座りながら、伸也はネクタイを少しだけ緩めてから部屋の中を改めて見渡した。部屋を見るだけで、瑞希が拓也の為に頑張っていることが一目瞭然だった。
 壁に掛けられた女性物の洋服のほとんどに、伸也は見覚えがあった。2年前にも彼女は同じ物を着ていた。つまり、伸也が消息を絶っていた間、瑞希は拓也の為だけに生きていたのだ。自分自身のことは後回しにして。