結局、伸也が用意してくれた社宅への引っ越しどころか、認知のことすら決められず、「会社の状況も把握している人に、客観的な意見を聞いてみて欲しい」とだけ伝えて、瑞希はとりあえず全てを先送りにしてしまった。決断することで、今までの生活ががらりと変わってしまう気がして、少し怖かった。
 そう言われて寂しそうにしていた伸也だったが、少し考えた後に「分かった」と頷いていた。彼自身も自分の置かれている立場についてはきちんと把握しているし、今の事情を話せる相手は限られるが、少なからず誰かには相談できるようだ。

 秘書の鴨井の運転する車で送って貰い、いつものこじんまりした年季の入ったアパートに戻ると、その狭さと古さが際立って見えた。一気に現実に引き戻された感がすごい。築浅のファミリー向けのマンションは、正直言ってとても魅力的だった。
 駅からの距離もあり、空き家の目立つ古い家ばかりが建つのこの地区は、静かだけれどそれだけだ。いろんな条件を妥協して、家賃だけを優先した結果のボロ物件。その日焼けした天井を見上げて、瑞希は大きく溜息を付いた。

 KAJIコーポレーションの子会社で一般社員として働いていた頃の伸也なら、何の迷いもなく一緒に居られただろう。まだ婚約すらしていなかったけれど、妊娠したと言えば焦りつつも喜んでくれただろうし、緊張しながら瑞希の家に挨拶に来てくれたかもしれない。
 両親だって、順番が逆だと言いつつも、初孫の誕生を楽しみにしてくれたかもしれないし、たくさんの人に祝福してもらえたのだろう。

 人生の歯車が狂うという言葉があるが、瑞希の場合は2年前に歯車の一つが目の前から消えてしまった。互いに円滑に回っていた物が、一つの歯車が消えたことでガタガタとズレた回り方をし始め、その挙句に動きを止めてしまった。
 その後もなんとか踏ん張っていると、小さな歯車が小さい回転をし始め、その動きを見守ることだけを心の支えに生きてきた。
 その小さな歯車と、消えていたはずの歯車の回転を、血の繋がりだけで安易に重ねていいものかどうかが分からない。

 帰宅してすぐにお風呂に入れ、まだ目の冴えている内に急いで夕ご飯にしたつもりだったが、よっぽど疲れたのか拓也は食べている最中にうつらうつらし始め、半分も食べずに眠ってしまった。

 予想以上に早く一人時間の確保に成功した瑞希は、いつもと同じように翌日の登園準備をし終えると、拓也用の衣装ケースを開けて秋冬物を選り分けていく。落ち着いて衣替えの作業が出来るこの時間は貴重だ。本当はもっと前にやっておきたかったが、拓也が起きているとなかなか時間が取れない。その一枚一枚のサイズを確認しながら、来秋には着れなくなりそうな物はゴミ袋にまとめる。

「拓也、大きくなったね……」

 子供布団で眠っている我が子の寝顔を見ながら、処分するつもりの洋服を着ていた時のことを思い浮かべる。これを着ていた時の拓也のことを、伸也は父親なのに知らないのだ。離れて過ごしていた時間は取り戻すことはできない。