「入江課長、本日はありがとうございました。勉強させていただきました」

成瀬が声をかけると、入江は穏やかな笑みで振り返る。

「いつもあんな感じで、ミーティングというよりは賑やかにおしゃべりしてるんだけど、参考になったかい?」
「はい、とても。よろしければまたお邪魔させていただけませんか?」
「もちろんだよ。またいつでも来てください」
「ありがとうございます」

今日のところはこれで失礼します、と挨拶してから、成瀬はミュージアムの裏口に向かった。

警備員に「お疲れ様です」と声をかけてIDカードをかざす。

すると後ろから「本部長!」と声がした。

振り返ると、まだ制服を着たままの美怜が駆け寄って来るのが見えた。

「お疲れ様。どうかしたか?」
「はい、あの。お詫びを申し上げたくて」

近くまで来ると美怜は立ち止まり、胸に手を当てて息を整える。

「お詫びって?」

一体何のことかと首を傾げていると、美怜は神妙な面持ちで頭を下げた。

「先日は大変失礼いたしました。本部長ともあろうお方に、無礼な態度で軽々しく口をきいてしまい…。本当に申し訳ありませんでした」

ん?と成瀬は首をひねる。

「先日って?いつの話?」
「はい。その、初めてお会いした日に、カフェで…」

言いにくそうにうつむいたまま呟く美怜に、ひょっとして下の名前で呼ばれたことかと思い当たる。

「ああ、まあ。確かに上司に対しての呼び方ではなかったな。私が上司だとは知らなかったのだろう?」
「申し訳ございません」

美怜はこれ以上ない程、深く頭を下げる。

「私以外の上司には気をつけるように。だが私は気分を害していないから大丈夫だ」
「本当に失礼をいたしました。申し訳ございませんでした」
「もう気にするな。この話は終わりだ」
「はい。二度とあのような無礼な態度を取らぬよう、肝に銘じます。それでは失礼させていただきます」
「ああ、お疲れ様」

もう一度深々とお辞儀をしてから去って行く美怜の後ろ姿を見て、成瀬は複雑な心境になる。

ランチの時の笑顔とは別人のように、今の美怜は心痛な面持ちだった。

(あんなふうに楽しそうに話してくれることはもうないのか)

思い返せばあの日はただ楽しかった。

社員と一緒に笑い合って雑談したのは、いつぶりだろう?

入社した当初は同期とも仲が良く、直属の上司も飲みに誘ってくれたが、営業成績が上がったり昇進する度に、皆はどんどん離れていった。

同期には妬まれ、いつの間にか追い抜いてしまった上司には嫌味を言われる。

今自分の周りには、気を許して話せる友人も仲間もいない。

(だが彼女には、何でも話せる職場の先輩、上司、そして彼氏もいる。毎日を笑顔で過ごすことができる)

それが心底うらやましくなると同時に、自分には壁を作られてしまったことが寂しかった。