「あ、浴衣…」

ロビーを横切っていると、さっきはなかった看板があるのに気づいて美怜は思わず呟いた。

どうやら浴衣の販売と着付けサービスを行っているらしい。

好きな柄の浴衣を選ぶとその場で着付けてもらえ、浴衣は草履や巾着、髪飾りと一緒にそのまま着て帰れると書かれてあった。

「美怜、着てみてくれる?」
「え、いいの?」
「ああ。浴衣で夕食と庭園の散策に行こう」
「本部長は?」
「俺はいいよ。車を運転するしね。美怜、どの浴衣がいい?」

成瀬は早速、ずらりと並んだ浴衣を選び始めた。

「これは?」

成瀬が手を止めたのは、白地に赤い花が鮮やかに描かれた浴衣だった。

「素敵。でも、似合うかな」
「似合うよ、美怜なら」
「じゃあ、これにします」

気恥ずかしくて仕方ない。
美怜はそそくさと浴衣を手にして、にこやかな和服姿のスタッフと一緒に奥の和室に向かった。

美怜の浴衣姿を楽しみに待つ間、成瀬はふと思い立ってフロントへ向かう。

「十二月二十日の部屋を予約できますか?一部屋二名での宿泊です」
「十二月二十日でございますね。お調べいたします。少々お待ちくださいませ」
「はい」

スタッフがカタカタと端末を操作する音を聞きながら、どうか空いていますようにと願う。

今日一日、美怜の楽しそうな顔、感激した様子を見ていて、今度はぜひ一緒に宿泊したいと成瀬は思った。

十二月二十日は美怜の誕生日。

(その時までには、美怜が俺を受け入れてくれますように)

またしても願いながらスタッフの返事を待つ。

「お待たせいたしました。その日は土曜日ですのであいにくスタンダードフロアは満室ですが、エグゼクティブフロアのガーデンスイートルームが一部屋ご用意できます。キングサイズベッドが一台、九十五平米のお部屋で一泊二十三万八千円でございます。いかがでしょうか?」
「ではそれでお願いします」
「かしこまりました」

もう少しランクが上の部屋が良かったが、空いていただけでもラッキーだ。
美怜は喜んでくれるだろうか?
いやその前に、美怜に頷いてもらわなければ。

今までこんなにも誰かを愛しいと思ったことなどなかった。
どんなに美人ともてはやされる女性とつき合っても、心が幸せで満たされたことはない。

そもそも誰かと一緒にいることで、こんなにも見るもの全てが輝き、何でもない毎日が尊いと感じられるとは知らなかった。

(美怜のあの笑顔を、必ず俺が守っていく。誰にも渡さない。人生でただ一人の愛する人を、ようやく見つけられたんだから)

強い想いを胸にフロントをあとにし、美怜のいる和室の前のソファに腰を下ろす。

もらった予約表を見返し、大切に財布にしまった時だった。

「本部長」

控えめな声で呼ばれて顔を上げ、驚いて目を見開く。

髪をアップでまとめて少しはにかんだ笑みを浮かべている美怜は、艶やかな浴衣がよく似合っていて美しかった。

「あの、変じゃないですか?」

広げた袖を見下ろしてちょっと不安そうに聞いてくる美怜に、成瀬は真顔で首を振る。

「可愛いよ、すごく似合ってる」
「ほんとに?」
「ああ。美怜って、和服美人だな」
「え?私、洋服は似合わない?それとも平安顔ってこと?」
「いや、和装が馴染んでるってこと。普段から着物を着なれてる感じがする。なんていうか、所作とか雰囲気が」

美怜は分かったような、よく分からないような、微妙な顔になった。

「とにかく、浴衣姿の美怜は想像以上に綺麗だよ。さ、食事に行こうか」
「はい」

二人は庭園に戻り、池のほとりに建つ数寄屋造りの料亭に入った。

国指定有形文化財の個室で、かすかな滝の音を聞きながら美味しい季節の和食を味わう。

成瀬は何度も顔を上げて、うつむき加減で美しく箸を使う美怜に見とれていた。